都会の錬金術師は愛を探している

ないに。

愛しのヒーロー

 



 ものが溶けて混じり逝く。

 そうして、愛する人は私を忘れたのだ。




一、


 緩慢な脳の働きで目覚めを認識したシゲは、窓から差し込む朝陽に目を眇めた。

 夜明けなんて永遠に来なければ良いと思うのに、陽の光を見ると安堵する。

 矛盾する思考回路にうんざりした気分になるのはいつものことで、シゲはそんな自分が嫌いだった。

 どうやら昨夜は座ったまま寝落ちしたものらしい。変な体勢で寝てしまったせいなのか、身体の節々が鈍い痛みを訴えていた。

 一度ぐいと大きく背伸びしてから、座り込んだ体勢のまま首を伸ばして、器用にガムテープを口でくわえる。

 歯茎を剥き出してがっちりと奥歯で固定するのがコツであり、もう何年も同じような生活を続けているシゲにとっては、こんなことはお手のものだった。

 両手を組んだその周りを顔を振り乱してガムテープで固定して、それが終わると顔を背けてガムテープを引きちぎった。最後にガムテープを口で振り投げて、寝起きの憂鬱な作業は終わりだ。

 背後でフローリングの上をガムテープが跳ねる音がして、ほっと息を吐いた。

 そこまでして、やっとシゲは食事をする気になれる。

 無駄なのに無駄ではないという、矛盾する行動の意義は、シゲの自己満足度が満たされたかどうかにかかっている。

 これは、いわば病魔からくる発作のようなものだった。

 普段は気にもとめていないのに、普通にそうしているはずであるのに、シゲは時おり手を使うことが極端に嫌になることがあった。

 その厭わしさは、一瞬の揺らぎに終わることもあったが、大抵の場合は数日も悩まされることが多かった。

 ――腹が、空いていた。

 もう三日ほども食べていない。

 この状態になったシゲは、手を使う行為の中でも特に食事をするのが億劫になる。そして、飢餓に限界を感じると、こうして手を縛り付けた上で無心に欲求を満たすことになるのだ。

 ひょろりと首を伸ばして、菓子パンの袋を食いちぎり、獣のようにパンを貪った。

 犬猫のように平皿の水を舌先で舐め掬い、水分を補給する。それでも飲み足りなくて、シゲはペットボトルを足を使って引き寄せた。

 少しだけ迷って、歯を使ってせっかく巻いて固定したばかりのガムテープの拘束を解く。

 現れたのは、少しだけ骨張った白い手だ。

 何処にでもあるただの人間の手にしか見えないのに、この手は多くの死招き、同時に生をも司った。

 見かけだけは何の変哲もないこの手を持つシゲを、悪魔だと云う人がいる。同じように、神だと云う人がいる。

 シゲはシゲで、それ以上にもそれ以下にもなれないのに、シゲを取り巻く人々は冷酷なほどにシゲを選別しようとするのだ。

 シゲは、自分が特別になりたいなどと思ったことは一度もない。

 なのに特別はシゲにつきまとい、こんなことになっている。

 のっそりと立ち上がり、奇妙な文様が刺繍された白い手袋を両手に装着してからペットボトルを掴み取り、もといたお気に入り定位置へと戻った。立ったままペットボトルに残っていた水を飲み干す。

 ふいに肌寒さを感じて、ふるりと身を震わせた。

 剥き出しのコンクリートが寒々しいほどにがらんとした物の乏しい広い部屋に、白い手袋だけを身につけた裸同然の痩せぎすな女が一人で立っている。

 自分の現状を想像しただけで、シゲの口からはほの寒い笑い声が漏れた。

 叫び出しそうだった。

 暴れて罵ってそうして、そして。

 そしてどうだというのだろう。

 逃した過去は遠く、手にした原罪だけが重くのしかかる。

 普通? 普通の人間とは何だろう。

 女子高生としてそこいらの街を出歩いていたのは、たぶん数年前のことだった。遠くはない過去のことであるはずなのに、もうぼんやりとしか思い出せなくなっている。

 つらつらと考え事をしていると、気付かぬうちに手に持ったペットボトルが傾いていたらしく、ミネラルウォーターの残りが零れ落ちてしまい顔をしかめた。

 空になったペットボトルの表面を指先でなぞり上げて、シゲはペットボトルからピンク色のシンプルなブラジャーとショーツを作った。

 シゲの手によって唐突に形作られたピンク色の布切れは、あからさまに透けている。

 布切れの生地が芸術的なまでに薄い理由は、おそらく等価材料が不足していたからなのだろう。大抵の女性が敬遠するだろう程度にはしっかりと透けていた。

 だが、シゲは気にしないことにする。淡々と下着を身につけて、次に床に放置していた濃紺のワンピースを拾い上げて袖を通した。

 仕上げにつま先でとんとんとリズムを刻むと、フローリングの床の一部が消え失せるかわりに素敵なサンダルを手に入れた。

 見た目だけは一人前の人間に見えるだろう何かができあがった瞬間である。

 これなら赦してくれるだろうか、少しは認めてもらえるだろうか。

 待ち合わせた時間は近い。

 少しだけ弾んだ自分の心臓に気が付かないふりをして、シゲは外の世界へと足を踏み出したのだ。




二、


「ねえ、待った?」

 少しだけ首を傾げて、そんなことを言ってみた。

 華奢な体格を強調して、上目遣いを意識する。やり過ぎるとただのキモイ女でしかないから、そこは経験と感覚から加減するしかないのだ。

 狼の大きな手は、過去にはシゲのものだったこともあった。

 けれどももうそれは過去の出来事でしかなくて、その証拠にシゲが一歩近付くと当の狼は一歩下がるという案配だ。

 縮まらない距離が、つらくて悲しい。

 でも、言えない。

 言えるわけがない。

 シゲの側にいる時の狼は、いつだって息をするのも憚られるほどに緊張していて、身体を強ばらせているのだから。

 それでもシゲは狼のことを嫌いになれないし、むしろ大好きだ。

 シゲの細胞の一つ一つが狼のことが好きだと騒ぎ立てて、狼に触りたくて仕方がなくなる。

 好きだ、どうしよう、やばい、大好き、格好いい、触りたい、やばい……。

 巡り巡って収拾の付かなくなっている思考は、別段珍しくもなんともない。狼が側にいるといつものことなのだった。

 狼から顔を背けて気付かれないように小さく息を吐いて、シゲは気を取り直す努力をする。

 そうして、狼の方へと向き直った時には、もういつものシゲに戻っている予定なのである。何も知らないような平気な顔をして、馬鹿で軽い言葉を楽しむただの愉快でかわいいシゲちゃんに。きっと、そうなっているはずだった。

 信じる者は救われるのだ、たぶん。

 思い込むことは大切だ。

 うっかり正気に戻ってしまうと、シゲはもうここにはいられない。

 勢いと図々しさとノリでもって、シゲは勇気を振り絞って狼の腕に自分の手を絡ませた。

 女である自分とは違う固い腕の形を感じ取って、満足する……より早く、シゲの手は振り払われてしまった。

「触るな……」

 しわがれた低い声だ。

 お世辞にも魅力的とは言い難く、おおよそしゃべり慣れていないかのような声音だった。

「ひどい言いぐさ」

 シゲは何でもなかったかのように軽い口調で言って、懲りずに狼の側へと歩み寄る。

「そうか」

 狼は、いつものようにシゲを嫌悪感も露わに見ていた。

 けれども、こんなことで挫けていては、シゲは狼の側にはいられないのだ。

「狼は私に冷たいよね」

「どうでもいいから、オレに近寄るな」

 永遠に縮まらない距離。

 それはまるで、稚拙で不毛な追いかけっこのようだった。

 いつまでこんなことが続くのだろうか。

 永遠に続いてくれたらいいと思うのは、きっとシゲの側だけの願望なのだろう。

「……聞いてる?」

「聞いていない」

「そう、私は貴方のことがとても好きなんだよ」

「――聞こえない」

 微妙な間の開いた答に疑問を覚えて顔を向けると、狼は露骨にしまったというような顔をしていた。

 シゲは何だか狼に勝ったような気分になって、くすりと笑った。

「貴方に会えるから、私はここに来たんだ。私は貴方に付いて行くだけだよ」

 囁くように独りごちて、シゲは笑う。

 女は、ただでは泣かない。

 今にも泣きそうな顔をしていも、得られるものがないならば笑ってやるのが女という生き物だ。

 そんなことをシゲに教え諭したのは、誰だったのか。

 狼が無言で方向を指し示して、シゲは顔に張り付けた笑顔をそのままに歩き始めた。




三、


 シゲは、狼の顔が好きだ。

 彼はいかにも頑固そうで、滑らかで、きちんとしている。

 優等生の雰囲気はそのままに、荒削りな野性味までもを身につけてしまった男は、シゲをただの色欲に狂った女のようにしてしまうのだ。

 近付きすぎると嫌がられるから、距離を置いて後ろを付いて行く。

 けれども時折我慢できなくなって、シゲは狼の前へと回り込んで進路を妨害することがあった。

 嫌がられるだけだから、今はしないと心に決めてみる。

 我慢した代わりにシゲはすんと鼻を鳴らして、風に攫われた好いた男の残り香を嗅いだ。

 悪戯な風が味方をしてくれることはないと知り、シゲは落胆する。

 そんなことをしていたものだから、狼が立ち止まっていたのにも気付けずにうっかり狼の背中にぶつかってしまった。

 不機嫌そうな狼に見下ろされて目が合う。

 誤魔化すように周囲を見ると、到着したのはどうやら歓楽街の一角であるらしかった。

 そして目的地はというと、外装が剥がれかけている古ぼけたビルであるとみて間違いないのだろう。狼はそこから動こうとせず、無言で古ぼけたビルを見上げていた。

 それにしても、こう言っては何だがいかにもきな臭い。

 同席する狼も同じようなことを感じ取っているらしく、シゲといるだけではあり得ない殺気のようなものを全身から漲らせていた。

 180センチを超える長身である狼がそんなことをしていると、いかにも似合い過ぎでシゲの胸はきゅんきゅんと嬉しげに軋みを上げた。

 仲介者で案内役の狼が先行して歩き、そこかしこに時代の流れが漂う入り口を通り抜ける。

 ビルの内装も外観と同じくおおよそ洗練という言葉とは無縁の有様であり、よってシゲの嫌な予感はますます確信を深めた。

 狼は、鼻を膨らませながら、迷いなくビル内を進んで行く。

 こういう時、狼の優れた五感は便利だった。シゲは今以上に持てあますような才能を欲しいとは思わないが、狼に惚れ直す要因にはなる。

 服を着ていても狼の逞しく隆起する肉体美は隠しきれるものではなく、シゲは狼が振り向かないのを良いことにうっとりと堪能した。

 シゲの意識はいつだって狼に向いているのだ。

 振り向かない背中を追いかけて、シゲは秘密めいた扉の前へとたどり着いた。

 二人の到着を知っていたかのように内側から扉が開かれて、見覚えはないが絶対にシゲの知り合いだと確信できる人物が現れる。

 三十代くらいに見えるしっとりと美しい一人の魔女がいた。

 さすがは魔女と言うべきか、前に見た時分とまたもや顔が変わっている。それでも魔女だとわかるのは、シゲに向けられた親しげな様子と圧倒的な存在感からだ。

 渋い色合いの着物を着ている。着付けが出来ると聞いたことがあるから、今日はそういう気分なのだろう。着道楽の傾向がある魔女は、服装に合わせて顔や体格も変えてしまうから、徹底している。

 魔女はシゲと狼共通の知り合いだ。

 魔女が微笑んで、狼が頷きを返した。

「二人とも、いらっしゃい。早かったのね」

「早い……じゃあ、もっとゆっくり来れば良かったね」

 ゆっくりした到着でも良かったのだと知り、シゲは口元を尖らせる。

「ふふ、錬金はまたそんな憎まれ口を叩いて。かわいいったらないわね。早いのは良いことよ」

「かわいいのは間違いないけど、良くはないよ」

「あら、そうなの? せっかく早く着いたのだから、歩きながら話しましょう。こっちよ」

 ころころと笑いながら対応する魔女は、何処ぞに夜の店を数十軒は所持していそうな風情だ。

 魔女に招き入れられた秘密めいた扉の向こう側は、やはり秘密クラブ的な用途で使用されているようだった。

 わかりやすく言い表すならば、裏社会の御用達っぽいとも言うべきか。やたらきらきらしく、適度に下品で高級そうでとりあえずシゲの趣味ではなかった。

 思っていたよりも広さのあるビルの内部を、魔女の案内で進んでいく。

「じゃあ、今回の受付は魔女なんだね」

「ええ、そうよ。ほら私ったら気が弱いでしょう? 懇意にしている会長さんに頼まれて断り切れなかったのよ」

 魔女は平然とのたまった。

 海千山千の強欲婆が気が弱いなんてことはあり得ない。

 少なくとも100年は生きているだろう生きる化石は、幾多の死と巨万の富の上に君臨する怪物だ。

「気が、弱いねぇ……」

 あまり言い過ぎては魔女を敵に回す。さすがのシゲであってもそれは避けたかった。のだが、言わずにはいられなかったあたりがシゲの若さなのだろう。

 ちなみにこの間、ひと言もしゃべらない狼も仲良く一緒に歩いている。狼は魔女が怖いようで、大きな身体を縮ませて泣きそうな顔でシゲと魔女を交互に見比べていた。

 かわいい。

「さあ、錬金。お仕事の時間よ。存分に働いてちょうだい」

 案の定、シゲは魔女に蹴り入れられるようにしてその部屋へ導かれたのだ。




四、


 背後で、ドアが閉まる音がした。

 目の前には、高く積まれた骨の山が在る。

「これ…………もしかして、全部人間の骨だったりする?」

「そうだ。素晴らしいだろう? 愚者は神の手によって生まれ変わるのだ!」

 ぎらぎらとした目付きの老人は、妄言を吐露して一人悦に入っている様子だった。

 シゲは応えることをせずに、ただ老人を見詰めた。

 魔女と同様に和装だった。紋付き袴とまでは言わないが、その類いの装いであるらしく、とりあえず生地が高そうだった。

 これが魔女の言う「会長さん」か。

 何の会長なのかは不明だが、いきなり人骨なんてものを山積みするようでは、シゲが知る必要はないだろう。骨の名前はおろか、入手経路すらも聞きたくはない。

 何が老人を促したのかをシゲは知らない。けれども、一つだけわかっていることがある。

 老人は他人を愚者呼ばわりできるような立派な人間ではないということだけは確かなのだ。

 少なくとも老人の本質は、人骨の山を前にしても何の感情も沸き起こらないシゲと同程度にはクズなのである。

「じゃあ、始めるね」

 シゲは宣言すると白い手袋を外して、折り畳んでワンピースのポケットへ突っ込む。

 そうして現れた骨張った白い手は、いつ見ても普通の人間の手でしかなく、シゲ自身に楽観的な錯覚を起こさせそうになる。

 だが、そんなことは残念ながらあり得ない。

 いくつものもしもが重なって、多くの選択の末に現在がある。

 かつては面倒くさいばかりの力を制御しきれなくて、自殺を考えた時期もあった。ある程度制御できるようになった今となっては、死ななくて良かったと思える。

 すうっと息を吸い込んでいざ両手を前へと突き出し、嫌がる内心を押し隠してポーカーフェイスを気取り、人骨の山に触れる。

 この行動の意味は、いわゆる決めポーズというやつである。

 シゲの錬金術に大仰な動作は必要ないが、シゲも一応は客商売を意識していて、今回のように観客がいる場合は両手を前に突き出してみたりなんかして、演出することもある次第だ。

 前へ突き出した両手を中心にして、世界がくにゃりと歪んだ。

 錬金の力が浸食し、変革し続ける世界をシゲは制御する。

 人骨の山は徐々に姿を変えていき、やがてその場には小さく整った透明な結晶がいくつも散らばった。

 床の上で無造作に輝くのは、地球の膨大なエネルギーが凝縮され、自然界の物質の中で最高の硬度を持った物質――ダイヤモンド。

 人々を引き付けて止まないその輝きは、簡単に作れてしまうために見慣れてしまったシゲであっても美しい感じるものだった。

 本来はもっと石っぽいというかゴミっぽいのだが、せっかくだからとこれも演出して結晶の形を整えてみたのだった。

 すると、どうやらシゲのサービス精神は「会長さん」の心に大いに突き刺さったものらしく、老人はよだれを垂らさんばかりに興奮して、床に這いつくばって散らばった結晶を掻き集めながら哄笑する。

 正直言って、見ている方はどん引きだ。お客様にご満足いただけたのは喜ばしい限りではあったが、早く帰りたい。

 シゲの両手は原料を選ばない。

 だから原料が人骨である必要はなく、ものでありさえすればいいのだ。言ってしまえば、蛇口を捻ったら流れ出るただの水道水でも何ら問題はない。

 そこをあえて人骨を原料としたのは、おそらく魔女の口添えによるものなのだろう。

 どうして魔女がそうしたのかは知らないし、これからもシゲが知ることはないのだろう。




五、


 秘密儀式めいた疲れるばかりの依頼仕事を終えて、シゲは一人帰路につく。

 愛しの狼は魔女から報酬を受け取るなりそそくさと姿を消してしまったし、魔女は魔女でそら恐ろしくも舌なめずりしそうな顔をして「会長さん」の腕に自らの腕を絡ませて去った。

 魔女がこれから何をするつもりなのかを聞かない方が良いのは、間違いないだろう。

 シゲを最初に「錬金術師」と定義づけたのは、何処からともなく絶妙なタイミングでシゲの前に現れた魔女だった。

 積み重ねた年の功は圧巻のひと言で、初めて世界を混ぜ合わせたばかりで呆然としているシゲを叱り飛ばし、生きるための道を示した。

 事も無げにシゲの手に触れるのは今でも魔女ただ一人だけで、時折シゲが加減を誤って魔女の手は極端に小さくなったり若返ったり千切れたりしているのに、魔女は楽しそうに笑うだけだ。

 シゲは、今でも初めて力が発現した時のことを夢に見ることがある。

 忘れようにも忘れられない過去の記憶は、ことあるごとに自己主張をしてはシゲを苦しめた。

 「逃げろ!」と叫んで、無垢でしかなかったシゲを庇ってくれた広い背中はもういない。

 在るのは、残り香のように面影だけを宿す別の獣じみた何かだ。

 なぜこうなってしまったのか、どうしてあのタイミングで起こらなければならなかったのか、どれだけ考えてみても答は見つからない。

 神と呼ばれはしても神たる自覚は微塵もないシゲだから、時折こうして過去を振り返っては思い出に浸り入る。

 溺れて、錯覚して、過去を忘れようとして、あの時、あの瞬間、骨張った手を当てた広い背中を思い出す。

 何事にも始まりが存在するのと同じで、シゲの錬金術の歴史は間違いなくあの瞬間から芽吹いたのだ。

 愛しくも憎らしい狼のことを想う。

 当たり前のことだが、狼が狼であるからには、同種である狼を相手に子供を作るのだ。

 狼は、シゲの錬金を仲介して稼いだ金を自らの家族のために使い、次代へと繋がる命を育む。

 不満がないわけではないが、シゲは仲介に応じるときだけ狼に会ってもらえるからそうしているだけだ。

 さすがに狼の五感は敏感だ。

 彼らが会う気にならなければ、音や匂いで気付かれて絶対に会えない。交わらない。

 だからこそ、後ろ暗い経歴を持つシゲのような人間の仲介者として、狼の需要が生まれるのである。簡単そうで簡単には成立しないその立ち位置は、多くの危険を孕むだけに勤まるものは少ない。

 シゲに金銭の類いは必要ない。その気になりさえすれば、シゲはいくらだって稼ぐことが出来る。

 そもそもが紙幣や硬貨を模造するなど造作もないことであり、ダイヤモンド、サファイヤにルビー……金銀プラチナから、得体の知れないよくわからない金属までもシゲに不可能は少ない。

 さらには新種の生き物などもシゲの領分に当たり、シゲの神とも悪魔とも云われる両手ははしたないまでに節操知らずだ。

 この世にある形あるものは全てシゲの支配下にあることは間違いなく、うっかりするとシゲ自身が時折自分の万能を信じてしまいそうになる始末だ。

 だが、幸いにもシゲは錯覚するだけで、信じることまではしない。

 ――狼。

 シゲにとっての全てであり、奇跡の手が及ばない感情の、その行き先。

 このつまらないだけの世界にはシゲの狼がいて、シゲは狼に会えるからこそ自分がただの人間でしかないのだと思い知ることができる。

 狼という存在だけが引き起こすことの出来る、シゲの中の密やかな軌跡。

 その複雑怪奇な化学反応は、とある錬金術師の魔の手からやがて世界を救うのだろう。




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