第16話 真実の彼女
病院から帰った日の夜、僕はいつものように自分の部屋でベッドに横たわりながら本を読んでいた。
静まり返った部屋の中でスマホの振動音が鈍く響いた。
僕はベッドの上から手を伸して画面を見る。
彼女のお母さんからだ。
僕はベッドから飛び起きた。
――こんな時間に何だろう?
時計を見ると時刻は八時をまわっている。
僕は嫌な予感がした。
夜に来る連絡なんて、いいことなんてあまりない。
メールを恐る恐る開く。
内容は、今から病院に来て欲しいというものだった。
こんな時間に・・・まさか彼女の身に何かあったのだろうか。
僕は着替えもろくにせずに、すぐに病院へと向かった。
病院に着くと、昼間は患者さんや見舞の人で賑わっているフロントロビーは照明が半分以上消えていて、暗く閑散としていた。
一般の面会時間はとうに終わっているようだったが、彼女のお母さんが受付に話を通してくれていたようで、彼女の名前を言うとすんなりと通してくれた。
僕はメールに指定された病室へ向かう。
前に来た時と部屋番号が違っていた。
どうも病室が変わったようだ。
夜の病院の廊下は薄暗かった。
長い廊下の向こうに入口から明かりが漏れる病室が見えた。
その奥の病室の前の椅子に彼女のお母さんが座っている。
暗くて見難かったが、泣いているようにも見えた。
いったい何があったのだろうか。
僕の心の中は不安な気持ちでいっぱいになっていた。
彼女のお母さんがこちらを向いた。
僕の姿に気づいたようだ。
「ごめんなさい、急に呼び出したりして。実はあの子、今日発作を起こしてね。あまり状態が良くないみたいで・・・手術することになったの」
嫌な予感は当たった。
「手術って、いつですか?」
「明日の・・・午後」
「あした!?」
僕は驚きのあまり思わず叫んだ。
まさか、そこまで悪い状態だなんて思いもしなかった。
あんなに元気だったのに・・・。
「それで、あの子急に不安になっちゃったみたいで・・・ちょっと精神的に不安定になって・・・」
「・・・・・」
「あの子、さっきまでずっと泣いていたの。大きな声で叫んだりもして。今までこんなこと一度も無かったのに・・・」
お母さんは目に涙が溜まり、言葉を詰まらせた。
嘘だ。あの太陽のように明るい彼女が・・・。
そんな彼女の姿なんて想像ができなかった。
「咲季に会ってあげてくれる? もしかして、あなただったらあの子も落ち着くんじゃないかと思って。こんな夜にご迷惑かとは思ったんだけど。ごめんない」
「いえ。僕は全然大丈夫です。だけど彼女、そんなに・・・・」
僕は静かに病室のドアを開けた。
まだ消灯時間になっていないのか、部屋の明かりは灯いていた。
ベッドで毛布を被っている彼女が見えた。
今度の病室は個室のようだ。
彼女の他には誰もいない。
ベッドがひとつしか置いていないその部屋はやたら大きく感じた。
「何? もう大丈夫だから帰ってよ!」
ドアの音で人が来たことに気づいたのだろう。
どうやら僕をお母さんと勘違いしているようだ。
でも、こんなに荒れた彼女の声は聞いたことがない。
「あの・・・こんばんは・・・」
僕は恐る恐る声を掛けた。
「え! 雄喜?」
彼女はびっくりした声で叫んだ。
「うん・・・」
「え? 嘘? なんで? ちょっと待ってよ」
彼女は毛布の中でごそごそし始め、隙間から少しだけ顔を覗かせた。
毛布の中の彼女と目が合う。
子猫のような、なんとも怯えた目だった。
彼女はすぐにまた毛布を被った。
「ごめーん。ちょっと準備するからさ、心と顔の・・・五分、いや三分だけ部屋の外で待っててくれる?」
「ああ、ごめんね。そうだよね。じゃあ外にいるね」
「ごめん。終わったら呼ぶから」
やっぱり急に女の子の病室に入るのは失礼だったよな。
そう思いながら僕は病室から出た。
薄暗い廊下でしばらく待った。
病室に入った時の彼女の最初の声。
まるで別人のようだった。
明らかに普通ではないことが分かる。
「おっけー。もういいよ」
中から僕を呼ぶ声が聞こえた。
僕はドアを開け再び中へ入った。
「待たせてごめんね。いやあ、びっくりさせないでよ。どうしたのこんな時間に」
「ああ。こっちこそごめんね、突然に」
よかった。そこにいたのはいつもの眩しい笑顔の彼女だった。
「あ、もしかして夜這い? 雄喜にしては度胸あるね。ちょっと見直したよ。病人なんだからやさしくしてよね」
「あの、僕、すごく心配して来たんだけど」
「フフッ、ごめんごめん。つい嬉しくてさ」
「でもよかったよ。咲季が元気そうで」
「私から元気取ったら何も無くなっちゃうよ。でも本当にどうしたの、こんな時間に?」
「あの・・・君のお母さんに呼ばれて来たんだ」
僕が正直にそう言うと、彼女の顔から笑顔がスッと消えた。
「どういうこと?・・・」
――え?
彼女は何か言いたげな顔になった。
そうだった。お母さんに頼まれてたというのは秘密だったんだ。
でも、僕はもうこれ以上嘘はつけなかった。
つきたくなかった。
すべてを正直に言うのは今しかない、そう思った。
僕は今までの彼女のお母さんとのやりとりを正直に話した。
お母さんから僕に『咲季に会ってやってほしい』と頼んできたことや、病気の本当のことは知らないふりをするように言われたこと、すべて話した。
彼女はそれを聞いたあと、しばらく下を向いて俯いていた。
「そうか・・・最初からお母さんが雄喜に頼んでくれてたんだ・・・ここに来るように」
「お母さん・・・すごく心配してたよ・・」
彼女は俯いたまま、しばらく黙り込んだ。
「さっきね、私、お母さんに酷いこと言っちゃった・・・」
「うん・・・」
「悪い事したな。お母さん、何も悪くないのにさ・・・」
「うん・・・」
僕はただ頷くだけだった。
それしかできなかった。
そんな自分が情けなかった。
「ねえ、何か言ってよ・・・」
「ごめんね・・・」
「あ、ごめん。君を責めてるわけじゃないからね」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。僕、何も言ってあげられなくて」
「雄喜、私の本当の病気のこと、知ってたんだ」
「ごめんね。黙ってて」
僕は謝ることしかできなかった。
「謝るのは私だよ。病気のこと嘘ついてたのは私だもん。雄喜にだけは本当のこと言おうと思ってたんだよ、何度も何度も。でもそれを言ったら雄喜との今の関係が壊れちゃう気がして、怖かったんだ」
「そんなこと・・・そんな壊れるなんてことあるわけないよ」
僕は慌てて否定した。
すると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。本当の病気のこと知ったら私のこと『可哀そうな病気の女の子』って目で見ちゃうでしょ」
「それは・・・」
僕はまた言葉に詰まった。
彼女もしばらく黙っていた。
「明日の手術のこと・・・聞いた?」
「うん。さっき咲季のお母さんから」
「そうなんだ。明日、手術になっちゃった。いきなりだよね・・・」
「それで、君のそばに居てくれって、お母さんが電話をもらった・・・」
「フフ、お母さんらしいな・・・」
彼女は俯いたまま静かに笑った。
「私ね、生まれた頃はせいぜい十歳か十一歳くらいまでしか生きられないって言われてたらしいの。だから、今まで生きてこられただけでもすごく感謝してるんだ」
彼女は笑っていた。
でも、こんな寂しい笑顔は初めてだった。
「お母さんにはとっても感謝してる。私に正直に病気の本当のこと教えてくれて。
私よりお母さんの方が辛いかもしれないのにね。昨日さ、“運命“の話したよね?」
「うん。起きた出来事というのは“運命”で必ず意味があるって話だよね」
「私思うんだ。私が病気になったのも運命だけど、雄喜と出逢えたのも、これも運命なんだよ。君さ、私と初めて喋った時のことって憶えてる?」
「うん、憶えてるよ。うるう日に学校の屋上で最初に話したんだよね」
「あーやっぱなあ! 憶えてないと思ってたんだ・・・」
彼女は子供のようにふて腐れた。
――あれ? 違った?
「三学期が始まったばかりのころだったかな、君の
「あ・・・あったかもしれない・・・」
僕は首を捻りながら言った。
「私のほうからぶつかったのに、君は『ごめんなさい、ごめんさない』って何度も何度も私に謝ってきたんだよね。『私が悪いから』って言ってるのに君はひたすら私に謝り続けてさ。まわりの人は、私が君のことを虐めてるように見えたと思うよ」
確かにそんなことあったような記憶はある。
何かすごく恥ずかしかったことだけは憶えていた。
「私は病気だったからきっと雄喜に出逢えたんだ。だから私は病気に感謝する。雄喜に逢わせてくれたから」
僕は彼女の言った言葉の意味がその時はよく分からなかった。
僕は横に首を振った。
「もし咲季が病気だったから僕に出逢えたって言う運命なら、僕に出逢わなければ咲季は病気にならずに済んだってこと? だったら、僕が咲季と出逢わなければ、出逢わないことで君が病気にならずに済むんだったら・・・」
僕は言葉が止まってしまった。
「・・・だったら?」
彼女は下に俯いたままで、僕を見てはいなかった。
「僕は・・・」
「どっちにしても、もう遅いよ。私は病気を持って生まれちゃたし、雄喜とも出逢っちゃったもんね」
彼女はやさしく微笑んだ。
「そうか・・・じゃあ雄喜が今まで来てくれてたのは私のお母さんから頼まれてたからなんだね」
いつもの彼女らしくない吐き捨てたような言い方だった。
僕はそんな態度の彼女に何か言いようのない怒りを感じた。
彼女はその僕の怒りを感じとったようだ。
「あれえ? 雄喜、怒ったの?」
「僕は・・僕は自分の意思でここに来てるんだ。君のお母さんに頼まれたからじゃないよ。僕が来たいから、僕が咲季に逢いたいからここに来てるんだ!」
自分でもびっくりするような大きな声だった。
「アハハ、君らしくなくカッコいいじゃん」
彼女はお茶らけて笑った。
「からかうなよ!」
僕は思わず怒鳴った。
彼女は驚いて笑うのを止めた。
そして、とても寂しい顔で僕を見つめた。
「ご、ごめんね。怒鳴るつもりなかった・・・」
僕は我に返って慌てて謝った。
でも彼女は黙って首を横に振った。
「ううん、私こそごめん。ありがとう。本当はすごく嬉しいんだ。素直じゃなくてごめんね」
僕は黙ったまま首を横に振った。
「私、今すごく自己嫌悪なんだ。お母さんにはとっても感謝してるのに酷いこと言っちゃったし、君にも素直になれないし。雄喜みたいにいつも正直に生きらればいいのにね」
「どうしたの? 今日の咲季は全然咲季らしくないよ・・・」
彼女は僕の顔をじっと見つめたあと、視線を逃がすように窓のほうに向けた。
「私らしく・・・か。私らしいって、何なのかな?」
「え?」
彼女は笑っていた。
でもそれはいつもの眩しい笑顔ではなかった。
不安そうな・・・とても寂しい笑顔だ。
「私ね、いろんな人と、みんなと仲良くしたかったんだ。生きている限りね。
中学の時はほとんど入院と病院通いで全然学校に行けなくてさ。それでいて引っ込み思案だったから、友達も全然できなくて・・・」
とても意外な彼女の言葉だった。
「だから高校入ってからは思い切って自分を変えようと思って、ずっとこんな風な明るく軽いキャラ続けてたんだ。ちょっとのことで大袈裟に笑ったり、わざと大きくはしゃいだり、それでいて嫌われないように調子よくみんなに合わせたりして。
お母さんたちにも心配かけたくなかったから、いつも笑顔を絶やさないようにしてね」
僕は自分が恥ずかしかった。
彼女のことを何も分かっていなかったんだということに。
「でも本当はね・・・正直言うとけっこう辛かったんだ。別の自分を演じるのって。本当の自分を騙しながら生きてきたのかもしれないね・・・」
――そんなことない。君は本当に魅力的な女の子だ。
そう言いたかった。でも声にならなかった。
「何かずっと突っ張って生きてきたから、素直さ忘れちゃったのかもしれない」
そうだ。彼女はずっと病気のことを隠しながら学校生活を続けてきたんだ。
お父さんやお母さん、友達にはいつも明るい笑顔を見せながら平気なフリをして。
いつ病気が再発して死ぬかも分からないという不安と恐怖と戦いながら。
どんなに不安だったろう・・・。
どんなに怖かっただろう・・・。
僕になんかにはとても想像がつかない。
彼女の眩しい笑顔はその不安と恐怖の裏返しだったんだ。
「そうやって君は・・・ずっと一人でがんばってきたんだね・・・」
彼女から笑顔がスッと消えた。
僕を横眼で見つめている。
僕の知らない、今まで見たことがない、寂しく、悲しい目だった。
彼女の瞳が震えながら潤んでいくのが分かった。
彼女の両手が僕の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
「雄喜、私ね、覚悟はできてたんだよ・・・」
「え?」
「お母さんから自分の病気のこと聞いた時から、覚悟はできてたんだよ・・・。
だけどさ、明日だなんていきなりすぎるよ・・・」
「何、弱気になってるんだよ。ダメって決めつけないでよ! 君らしくないよ!」
彼女は小さく首を横に振った。
「ううん、これが私だよ。本当の私。臆病で、弱虫で、泣き虫で・・・」
彼女の目からひとしずくの涙がこぼれ落ちた。
僕は何も言えなくなった。
「雄喜・・・わたし・・・怖い・・・」
とても小さな震えるような声だった。
「わたし・・・・死ぬの・・・怖いよ・・・」
震える手、震える声、活発で明るい彼女からは想像ができない、初めて見る彼女の弱々しい姿だった。
「発作が起きた時、このまま私死んじゃうのかなって・・・思っちゃうの。
夜、部屋の電気を消すと、深いに闇に吸い込まれそうで怖くて消せないの。
このまま眠って、ずっと目が覚めなかったらどうしようって思ったり・・・」
僕は大きな間違いをしていた。
大馬鹿だった。
僕は彼女は強い人間だと思い込んでいた。
死の恐怖へも立ち向かってきた強い人間だと。
彼女の眩しい笑顔は彼女の強さの象徴だと。
でもそれは違った。
彼女はいつ訪れるか分からない“死”という運命の恐怖から逃れるため、精一杯の笑顔を貫いて、ずっと、ずっと戦ってきたんだ。
たった一人で。
当たり前のことだ。
本当に当たり前なことだったんだ。
死ぬのが怖くない人間なんているはずがない。
それが十八歳の女の子ならなおさらのことだ。
僕は何でこんな当たり前のことをずっと分かってあげられなかったんだ。
でも、そんな彼女に僕は・・・今も、何もしてあげられない・・・。
「雄喜と・・・もう逢えなくなるのかな・・・」
彼女が寂しそうに呟いた。
――そんなこと・・・言わないで・・・。
声にならなかった。
僕は黙って大きく首を横に振った。
「死んだら・・・死んじゃったら、君と逢えない寂しさも・・・感じなくなっちゃうのかな・・・」
彼女は笑いながらそう言った。
涙をぽろぽろ流しながら。
僕はまた黙って大きく首を横に振った。
何も言えなかった。
彼女はただ震えていた。
彼女がとても愛おしかった。
こんなにも人を愛しく思えたことはなかった。
なのに、僕は何も言ってあげられなかった。
何もできなかった。
――なんで何も言えないんだ・・・
――なんで何もできないんだ・・・
僕はこれほど自分が無力で情けないと感じたことはなかった。
自分が一番大切にしたいと思う人が今、目の前でこんなに苦しく、辛く、悲しい思いをしているのに。
目に涙が潤んでくる。
悲しいからじゃない。
悔しい・・・。
悔しい・・・。
――僕はなんて無力なんだ!
ただ言葉ばかり偉そうな理屈を並べるだけで、何もできない。
悔しかった!
情けなかった!
彼女は小さな体をただ震わせるばかりだった。
涙が溢れそうになった。
僕はその時、自分の両腕で彼女を引き寄せた。何の意識もせず。
そしてその小さな体をそのまま強く包み込んだ。
何も考えてなかった。
真っ白だった・・・。
頭も心も・・・。
ただ彼女を包みこんだ。
優しく。そして強く。
それしか・・・できなかった。
初めて抱いた彼女の体は思っていたより華奢で、今にも壊れそうな感じがした。
彼女の柔らかい髪が僕の頬に絡んだ。
彼女の頬の温もりがゆっくりと僕の頬に伝わってくる。
彼女の香りが僕の心を包み込んでくる。
「雄喜・・・」
彼女の声が空間ではなく、直接肌を通して僕に伝わった。
僕は何も言わなかった。
いや何も言えなかった。
そう、僕にできることは、ただ彼女を抱きしめること、それだけだった。
そんな自分が情けなく、悔しかった。
――死なないで! お願いだ!
僕は思わず心の中で叫んだ。
でも声にはならなかった。
―――好きだ! 咲季、君が好きだ!
やはり声にはならなかった。
それでも心の中で叫び続けた。
――こんなにも伝えたいのに、なんで声が出ないんだ。
彼女の体を包み込む力が無意識に強くなっていく。
彼女に僕の気持ちが伝わったのだろうか。
彼女の腕が僕の体を強く抱きしめてくるのを感じた。
静寂な時が過ぎていった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
僕らはどちらからともなく、ゆっくりとお互いの体を離した。
僕は彼女の瞳を見つめた。
不思議だ。
人の目を見ることができなかった僕が彼女の目に吸い込まれていく。
彼女の目はとても・・・とても澄んだ瞳をしていた。
彼女のその茶色い大きな瞳に僕の顔が歪んで映っているのが見えた。
「ごめんね・・・」
僕はようやく声が出た。
「フフッ、また謝ってる」
「ごめんね・・・」
目の中に留まっていた涙がついに溢れ出した。
――ダメだ、僕が泣いちゃ・・・。
そう思えば思うほど涙が溢れ出てきた。
「雄喜・・・泣いてるの?」
「ごめんね・・・」
「雄喜から『ごめんね』を取ったら喋れなくなるね」
「ごめんね・・・」
これ以上何も言えない自分が悔しかった。
何もできない自分が悔しかった。
今度は彼女から僕の体を包み込んできた。
僕も彼女の体を包み込んだ。
「雄喜・・・ありがとう・・・」
彼女が耳元で囁いた。
涙を堪えた小さな声で・・・。
「ごめんね・・・僕は・・・僕は何もしてあげられない」
「いいよ・・・もう何も言わなくて・・・」
彼女の僕の体を掴む力がさらに強くなるのを感じた。
体は苦しくなかった。
でも心が苦しかった。
彼女が・・・とても愛おしい・・・。
――なんで咲季が、なんで咲季が・・・。
咲季を失いたくなかった。
このまま世界中の時が止まって欲しい、僕はそう願った。
その時、部屋にノック音が響いた。
僕はふと我に帰る。
まるで夢の中にいたような気分だった。
看護師さんの消灯の見回りだ。
その女性の看護師さんは、僕らに消灯時間のことを伝えると、次の病室へと向かった。
もう帰らなきゃいけない、そう思うと胸がぎゅっと締め付けられた。
「雄喜・・・」
「うん?」
「ありがとう」
彼女はぽつりと呟くように言った。
僕は、この言葉は今日、僕が病院に来たことへのお礼だと思った。
「ねえ、雄喜。ひとつ訊いてもいい?」
「何?」
「もしも、もしもだよ。私たちが将来結婚することができて、子供ができたとしたら、どんな子供だと思う?」
彼女は幼い子供のようなあどけない顔をしながら僕に尋ねてきた。
前だったらこんな唐突な質問に僕は戸惑って何も言えなくなっただろう。
だけど今なら自然に答えることができる。
「うん。君に似たとっても可愛い女の子だと思うな」
「あれえ? 雄喜も咄嗟にうまいこと言えるようになったじゃん。成長したね」
彼女はとても嬉しそうに照れ笑いをした。
「雄喜は、今のままの雄喜でいいからね。無理しないで。私は今の雄喜が・・・」
彼女の言葉が止まった。
「え?」
「今の雄喜が・・一番いいと思うから・・」
彼女の笑顔が戻っていた。
「ありがとう」
僕もお礼を言った。
「もう帰らないとね」
彼女はまたちょっと寂しい顔になった。
「うん・・・ごめんね。大丈夫?」
「ん、さっき元気いっぱいもらったから」
彼女は小さく頷きながらガッツポーズをとった。
「手術、明日の午後からだよね。学校が終わったら来るよ」
「うん。待ってる」
「・・・・・」
僕は今だと直感的に確信した。
今、言わなきゃいけない。
「あのさ・・・」
「なあに?」
――言うんだ、今!
「あのさ、僕・・・」
その時、再びノックの音が部屋に響いた。
――え?
「はい?」
彼女が返事をする。
扉が開かれると、看護師さんが申し訳なさそうに顔を出した。
「ごめんさない。もう消灯時間なのでいいですか?」
「あっ、すいません。今、行きます」
「もう行かないとね」
彼女は少し寂しい顔をして僕を見た。
行きたくなかった。でも行かないと。
「うん・・・じゃあ、また明日」
「うん・・・また明日。じゃあね」
いつも通りの普通の別れの挨拶をした。
彼女は寂しい顔からいつもの眩しい笑顔に戻っていた。
病室のすぐ外にお母さんが待っていた。
お母さんは僕に“ありがとう”と声にならない声で呟いた。
目にいっぱいの涙を溜めて。
僕はゆっくりと頭を下げて、病室をあとにした。
僕は虚ろな気持ちのまま、病院からのバス停までの道を歩いていた。
心の中はモヤモヤした気持ちでいっぱいだった。
それがモヤモヤの正体は分かっていた。
僕はまた自分の気持ちを伝えることができなかった。
自分が情けなかった。
何もできず、また何も言ってあげられなかった。
次に彼女に会う時は手術のあとになってしまう。
僕はその時、病室へ戻ろうかと一瞬立ち止まった。
でも、面会時間はとうに過ぎていた。
そうだ、手術は午後からだから、朝、手術前に彼女に会いに来よう。
学校なんてどうでもいい。明日こそ僕の本当の自分の気持ちを伝えに来よう。
そう決意して僕は再びバス停へ歩き始めた。
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