42 前兆

 明け方の空を、白い雲がゆったりと流れていく。

 今朝は少し空気が冷たい。そんな中を、ラナーニャはうんと背伸びした。


「今日で、アルメイアとはお別れか……」

「ガナシュに戻らないといけないからね」


 シグリィの後ろにいるカミルが、山ほど荷物を背負っている。そこにはアティスティポラから報酬としてもらった『霧のカーテン』が詰まっていた。アティスティポラは調査の代償に『霧のカーテンを分けてくれる』という約束を守ってくれたのだ。


 それをすべてカミルに持たせているのが何やら申し訳ないが、彼自身は平気な顔をしているので、たぶんいつもこんな感じなのだろう。ラナーニャはむやみに悩まないことにする。


「オルヴァさんたちは、エルヴァー島に着いたかな」

「もう着いてると思うよ」

「怪我人なのによく働くね、彼は」


 ユドクリフを連れて――

 約束通りオルヴァは、オルヴァ自身ともう一人の兵士だけを連れてエルヴァー島を目指し昨日出立した。

 話し合いがどうなるかは分からない。ダッドレイとチェッタあたりが、大騒ぎをするかもしれない。

 ただ。

 マーサは、静かに受け入れるだろう。彼女は島の人間の事情をすべて受けとめる覚悟でいたのだ。ユドクリフのことも……同様にそうするのだろう。

 マーサの柔軟さがうらやましいと思った。ラナーニャならば絶対に落ち着いて対応などできない。

 今でさえ色んなことで簡単に心を揺さぶられるのに。特に最近では……そう、あの奇跡。


「朱雀様は……どうして私のび声に応えてくださったのだろう」

「それ以前にあの朱雀神はどこからきた何者なのか、だよ。ラナ」


 言われてはっと気づく。

 そうだった。シグリィの語った伝説がたしかならば、英雄四神は地租四神を“のっとった”のだ。

 英雄四神とは別に存在するわけがない。

 シグリィは彼自身悩むように眉根を寄せて、


「……力の一部を英雄四神から脱出させたかな。それを長いときをかけてあそこまで育てたのかもしれない。となると……他の地租四神たちもこの世のどこかにいるのか」

「わあっ、それってわくわくしますね!」


 セレンが呑気にそんなことを言った。

 ラナーニャも何となく、地租四神が無事だったなら良かったとそう思ったのだが――

 シグリィの表情は晴れない。まるで気がかりだったことの原因の糸口を見つけたのに、それが悪いことだったかのように、重いため息をつく。

 どんなときであっても、彼のため息はこの一行にとっては非常に重要なものである。ラナーニャは狼狽ろうばいした。


「シ、シグリィ。地租四神が存在するのはそんなに悪いことなのか?」


 シグリィはラナーニャを見て苦笑した。


「この大陸の本当の神が戻ってきたんだ。悪いことであるはずがないだろう? ただ……」


 ひょっとすると。彼は重々しく言葉を成す。


「≪印≫なき子どもたちが生まれ始めたことに、影響しているかもしれない」

「―――!」

「ラナが朱雀神に愛されたように。エルヴァー島の子どもたちも、地租四神に愛されたのかも知れない」


 力が乱れている――

 彼はそういう言い方をした。今まで保たれていた英雄四神の力が、地租四神の力によって乱れているかもしれないと。


「――エルヴァー島のみんなが背負っているものは、思っていた以上に重い可能性がある」


 そして、君も。ラナーニャを見つめて、彼は言う。

 ラナーニャは唇を噛む。何の気なしに、ただ衝動のままに神に祈ったことが、こんな現実に結びつくなんて。

 うつむいて、その事実を噛み締めた。私はいつだって、考えなしに行動しては事を大きくしていく。


「エルヴァー島が≪福音の島≫か。名付けたのが誰かは分からないが……ある種の人間にとってはその通りなのかもしれない」


 シグリィは空を見上げた。そして、ゆっくりと前へと歩き出した。

 朝方の白い空気の中、彼らはガナシュに足を向ける。

 ラナーニャは無性にエルヴァー島のみんなに会いたくなった。今、ユドクリフたちと再会しているかもしれない彼ら――

 けれど、もうひとつ現実的な問題を、昨日カミルから聞いていた。


「マザーヒルズはあの島をどうするだろう。あの島に手を出すとグランウォルグがうるさいのだろう?」

「そうだな。最大の問題はグランウォルグだ」


 シグリィは歩きながら、思考を巡らせているようだ。


「あの島が宙ぶらりんになった元々の原因はグランウォルグで――そしてグランウォルグはマザーヒルズと戦争を始めようとしているとなると……」

「そんなタイミングでオルヴァさんが島に行ってしまって良かったのか?」


 すると返答は背後からあった。大きな荷物を背負ったままのカミルである。


「おそらくグランウォルグは今、エルヴァー島どころじゃありません。よほど敏腕な者が上の者に進言しない限り、気づきもしないと思います」

「そ、そうなのか?」

「それは戦の準備でという意味か? カミル」


 カミルが断言したのはシグリィにとっても意外だったらしい。シグリィが肩越しに振り返ってそう尋ねると、カミルは奥歯に物の挟まったような口調で「いえ……」と目をそらした。


「それ以前にグランウォルグは……本来戦のできる状態ではないはずです。もしも本気で戦をしようというのなら、それは臣下たちの独断でしょう。王は関係していない」

「それは、五年前に即位した現国王のことだな?」


 カミルはわずかにあごを動かして肯定する。

 言いたくなさそうな、けれど言わなくてはいけないと決心しているような、複雑な葛藤がその茶の瞳に垣間見えた気がした。

 シグリィはカミルに半身を向け、足を止めた。


「マザーヒルズの兵士がエルヴァー島に入ることで、私はグランウォルグにとって戦の口実ができるかもしれないと考えた。これは、間違っているか?」


 透き通るような、何もかも見抜くシグリィの黒水晶の瞳の前では、カミルもごまかすことはできない。

 否――彼はシグリィの“従者”だ。最初から、嘘をつく気などないだろう。


「口実にされることはないでしょう。エルヴァー島のことなど、国は忘れているでしょうから」


 『国』。

 カミルはたしかにそう言った。

 そのときのカミルの横顔を、ラナーニャはたしかに見ていた。

 少し伏せ気味だったその茶の瞳に、暗い影が落ちていた。愛すべき故郷の話をしている表情には、とても思えない――


「それにおそらく戦の口実は別にあるはずです。わざわざエルヴァー島のことを持ち出さなくても」

「……戦に、反対している貴族がいるんだそうだな?」

「はい。エルセレス公ラシェルト・アリューズナーが。戦が嫌だと動かないそうです」

「そのラシェルト・アリューズナーと言えば学者で……たしか国では王国郵便総裁だったか」

「そうです。その気になれば国の全機構を停止させられます」

「だが、そうはならない?」

「兄のデールヴェイク公ジークリュード・アリューズナーが弟を許さないでしょうから」


 次々と知らない名前が出てくる。シグリィとカミルの間でだけ成立している会話がもどかしくて、ラナーニャは二人を交互に見る。


「ちょっとちょっとー、誰のこと、意味が分からないわよー!」


 セレンも同じだったようで、こちらはラナーニャのように無言で抗議するのではなくはっきり声に出した。

 しかし、


「ああ、すまん。ちょっと考えさせてくれ」


 シグリィはそれを蹴った。あごに手を添え、考え込む姿勢になる。この状態になったときは話しかけても無意味だ。ラナーニャとセレンは大人しく彼が口を開くのを待った。

 やがて、


「――西へ、行ったほうがよさそうだな」

 シグリィはそう言った。「かの国の内情がどうにも不安定に思える。本当に戦が起こったらだ、様子をこの目で見たい。カミル、案内を頼めるか?」


 そのとき予想外のことが起こった。ラナーニャは――おそらくシグリィもセレンも――カミルが「もちろん」とうなずくと思っていたのだ。


 しかし。

 カミルは、首を横に振った。


「できません、シグリィ様」


 シグリィの眉がぴくりと動いた。

 何も言わなかったシグリィの代わりに、セレンが声を上げた。


「何言ってるのよ、あなたの故郷でしょ! あなたが案内しなくて誰がするのよ!」


 カミルは黙ってシグリィを見つめている。

 シグリィは女性陣ほどには驚かなかったのかもしれない。じっとカミルを見上げ、そして静かに口を開く。


「それはお前の名が本名ではないことと関係しているのか?」


 へ、とセレンが間の抜けた声を出した。

 ラナーニャは息を呑んだ。その通りだ。カミルがグランウォルグ人ならもっとも違和感のあった部分――彼の名前の短さ。

 カミルが目を閉じる。

 次に開いたときには、茶の瞳には揺らぎない決意の光があった。


「私は罪人です。ですからあの国に入ることは許されません。どうかお許しを、シグリィ様」


 冷たかった空気に妙に湿った風が吹く。嵐が間近だと、知らしめるような。

 シグリィはじっとカミルと見つめ合ったままだった。


 ――私は罪人です――


 ラナーニャは激しい動悸を感じた。国では罪人。父王の御霊みたまを送れなかった、自分と同じ。

 彼はその身に何を背負っているのか――


 我知らず西の方角を向いていた。

 太陽がいずれ眠りに向かうはずの西には、今どんよりとした雲がたれこめている、その下にある街に冷たい雨を降らせているに違いない。

 ――そこにカミルの故郷があるのだろうか。


 いや、益体もない夢想だ。ここからグランウォルグは遠すぎる。

 それなのに。

 背筋がぶるりと震えた。

 同時に、シグリィが口を開いた。


「だが、西には行くぞ。――行かなくては何も分からない」


 それはラナーニャに言いようもない不安をもたらした。墨をたっぷり含ませた綿が体中に絡みついたような重苦しさ。

 カミルと離れることになる――?

 島を出てからまだそう日付は経っていない。それでも四人一緒が当たり前だった今まで。そしてこれからもそうだと思っていた。ああ――

 私たちはいったいどうなってしまうのだろう?


 空で鳥が鳴いている。

 群れからはぐれた一羽が、仲間を呼ぶかのような哀切の声が、ラナーニャの耳にいつまでもこだました。



≪第二章/終≫

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