41 ほどけてゆく心

「信じられないでしょうが」


 シグリィは一歩一歩こちらに近づきながら、言を紡いだ。


「私たちは、ユキナさんに会ったんだ」

「――」


 ユドクリフは笑い出したい気分になった。


「馬鹿じゃないのかお前は! 姉さんならもうとっくに――」

「術で具現化したユキナさんです。あなたたちのご両親が、最後に遺した術でした。もうひとりの娘――リーディナさんを呼ぶ、しるべとするための」


 ユドクリフは息が止まりそうなほどに衝撃を受けた。

 そうだった。両親は、たしか死ぬ前に何か術を遺していたはずだ。シレジアにいるもう一人の娘を助けるためだとか何とか、そんなことを言っていた。

 そしてその術にはユキナが必要だと。それを聞いてユドクリフは強く反対した覚えがある。大切なユキナ姉さんの体を術になど使うなと。


 ――己自身、弱った親に術で望みを叶えてもらっておきながら。


 シグリィは、足を止めた。


「そのユキナさんから、あなたに伝言を預かってきました」

「な……」


 二人の距離は、もはや手の届くほどの位置まで来ていた。

 しかしシグリィはこちらに手を伸ばすでもない。ただ、まっすぐにユドクリフを見つめる。

 その、動かない黒水晶の瞳で。


「ユキナさんは言っていましたよ。“もう――”」


 もう、背伸びはしなくていい、ユード。


 その瞬間――

 ガラガラと何かが崩れていく音がした。

 それが己の中で起こっている音だと、ユドクリフは知っていた。


 術が、壊れた。

 親にかけてもらった術が。


「ユード!?」


 オルヴァが驚きの声を上げて駆け寄ってこようとする。それを、シグリィが片手で制しているのが見える。

 ユドクリフは地面に両膝をついた。ああ、見ないでくれ、見ないでくれ――


 自分の体が縮んでいくのが分かる。ただでさえの細身がいっそう小さく。

 髪が短くなったのか、いつも肩に感じていた感触が消えた。本来の長さに戻っていくのだろう。

 手が、足が、小さくなっていく。相応しい大きさに。

 ああ、と声を上げたのは誰だったのか。

 しかし肝心の言葉を口にしたのは、やはりシグリィだった。


「それが、あなたの本来の姿なんですね、ユードさん」


 ユドクリフ・ウォレスター。両親がシレジアから四歳だったユキナを連れて逃げ、南国に隠れ住んでいたときにできた子ども。

 つまりユキナとは年齢差がある。しかしそのことを、ユドクリフは認めたくなかった。

 姉の隣に立ちたかった。頼られたかった。姉を、護れる存在になりたかった。

 だから――優れた具現術士、つまり魔術師である親に頼んだ。


 自分を――成長させてくれ、と。


 それは夢の力。魔術とは、具現術とは夢を形にする力。

 その『夢』を見る役目を担ってくれたのは、姉だった。仕方ないねと笑いながら。

 それが姉らしくない笑みだと、そのときの自分はなぜ気づけなかったのか――


 ユドクリフ・ウォレスター。年齢十五歳。栄養不良のため、身長は低い。手足も細く、頼りない。

 おそらく実年齢以上に幼く見えたに違いない――

 当然だ。そんな自分が嫌で、自分は術をかけてもらったのだから。


「馬鹿な……子どもだと?」


 オルヴァが愕然とした声を上げる。

 それに応えるのはユドクリフではなくシグリィだ。


「そうです。朱雀の術で見せかけの成長をした……彼の本来の年齢は十五」

「十五……」

 オルヴァががしがしと頭をかく。「マザーヒルズじゃ未成年だ。くそ、色々手続きが変わってくる」


 ユドクリフはそんなオルヴァを噛みつくように見た。


「子どもの姿ではあんたたち大人は相手にしてくれなかった! だから僕は大人になったんだ!」


 両親が弱り始めてから、姉のユキナと二人で大陸にひっそり渡り、仕事を探そうとした。

 だが、子どもはろくに相手にされなかった。≪印≫がないことをバレないように立ち振る舞うのも楽なことじゃない。

 おまけに女であるユキナには、怪しい仕事しか回ってこなかった。それが嫌だったユドクリフは、ユキナに「姉さんは村を守ってくれ」と言った。

 金を稼ぐのは自分がする。姉は村をまとめる。それが一番だと。


 そして――


 金を稼ぐために一番必要だったのは、大陸の人間に、自分が一人前だと認めさせること。

 ……例え≪印≫がなかったとしても。


「オルヴァさん。お願いがあるのですが」


 シグリィは膝をつくユドクリフの前に立ったまま、オルヴァに声をかける。


「何だ?」

「――彼のしたことが公にならないよう取りはからっていただけませんか。このままでは≪印≫なき子どもたちすべてに災禍が下る」


 オルヴァは静かに微笑して、


「それは本国も考えている。言ったろう、エルヴァー島について今議論が交わされているんだと」


 それに――、改めて、小さくなったユドクリフを見つめ、


「……ひょっとしたら罪には問われんかもしれん。罪を科すより別の形で……例えば≪印≫なき子どもたちのことについて語ってもらう役割を」

「誰がそんなことをするもんか……っ」


 ユドクリフは奥歯の隙間から、うなるようにそう唱える。


「お前たちの助けなんかいらない。島に触れるな……っ」

「……手なづけるのに骨が折れそうな子どもなんだけどな」

「では提案があります」

「ん?」

「彼を一度、エルヴァー島に帰らせてやってください」


 シグリィはそう言った。

 うん? とオルヴァが訝しげな顔をする。


「彼の家族に会わせてやって――彼の状況を、彼の家族たちに教える猶予ゆうよを与えてやってください。それから、彼を本国に連れて行ったほうがいい」

「……しかし、それはエルヴァー島の子らにとって絶望となるのじゃないか」


 最悪の結果を生むのではないか。遠回しにオルヴァは言う。

 その通りだとユドクリフは思う。自分がしたことを島のみんなに伝える? そしてユドクリフがマザーヒルズに連れて行かれることを伝える……?


 そのときみんなが平静でいられるとはとても思えない。最悪の事態も考えられる。


 しかしシグリィは。


「大丈夫ですよ」


 微笑んで、そう言った。


「あの島の人たちに会いました。とても、とてもしなやかで強い人たちだった――ユドクリフさんの状況もきっと受け止めます。受け止めて、彼らなりの最善を見つけ出すでしょう」

「死、以外の“最善”だろうな?」

「もちろんです。何より彼らは


 そしてシグリィは、ユドクリフの前に片膝をついた。

 視線の高さを同じにすると、彼は同年代の少年らしく見えた。黒水晶の瞳に、初めて感情が見える。


「お願いですユドクリフさん。島のみんなに希望を与えるも絶望を与えるもあなたの心ひとつなんです。分かるでしょう――どうか、あなた自身が自暴自棄にならないで」


 ――女神イリスのようになりたい。


 姉の声が、耳の奧に聞こえる。


 ――みんなを包み込む。みんなを安心させる。そんな存在になりたい。


 ああ、姉さん。

 頬に熱い雫が流れ落ちるのを止められず、ユドクリフは幻想の中に姉の姿を見る。

 そうだった。姉は、英雄四神を敬愛していた。≪印≫がないことを厭うことさえせずに。

 それなのに自分はなぜそれを忘れて、地租四神などを信奉したのだろう?

 すべての原因は英雄四神だと、そう決めつけて。英雄四神などいなくなればいいと、そう願う一心でクルッカを護ろうとして――


 両手を見下ろす。色んなことに手を出すうちに、幾度も傷ついた手。消えない傷痕。罪の痕。

 僕にもできる? 姉さんのように、みんなの希望の標となることが。

 こんな、汚れきった僕にでも。


 両手で顔を覆った。肩に、シグリィの手が触れたのが分かった。

 なぜか不快と思わずに、ユドクリフは泣き続けた。

 この数年間で積もりに積もった汚れた心が流れ切ってしまうまで、泣き続けた――。

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