Side:Ranarnya 01――《後》

 呼び出し先は父の寝所であるらしかった。珍しいことだ。国の大事だいじともなれば、王は臣下を会議の間に呼ぶのが通例である。


 廊下を足早に進む。斜め後ろに控えるリーディナと共に、夜の城内を影のように。

 たったひとりの侍女の持つ燭台の炎が揺れ、二人の影を不安定に歪めていた。廊下に掲げられた燭台の炎たちも、今夜は不気味に暗く感じる。


「陛下は、お加減がすぐれないご様子です」

「お加減が……?」


 まさか《月闇の扉》が開いたせいか。

 それとも別の因子なのか。

 異様なまでに重く大きな影が、胸を覆っている。たやすく言葉になどできない、形のない“何か”。


 父に、この神の島の国シレジアの王に、何が起こっている?


 やがて大きな扉が見えてくる。荘厳な、王の寝所を不可侵の神聖なる場所だと示す扉。

 足を止めると、リーディナがすっと前に進み出て、呼び鈴の紐を引っ張った。

 重々しい、鐘の音に近い音が中で鳴った。扉の最上部には音を通すためのあながある。中と外で会話をするための。


 中にはおそらく重臣たちが集まっている。彼らの重みある声が誰何すいかしてくるのを、二人は待った。

 しかし、


「誰だ?」


 ――返ってきたのは、予想外に若い少年の声。

 リーディナは落ち着き払った声で、彼女の主の名を告げる。


「ラナーニャ様のおなりです、オーディ様」

「ああ、姉上。今扉を開けさせます」


 応える声はひどく優しい。こちらが戸惑うほどに、柔らかく。

 そしてその声の言う通り、重い扉は間もなく開いた。


「姉上。深夜に申し訳ありません。ご足労いただきありがとうございます」


 扉の向こうに立っていたのは弟だった。二つ年下の――この国唯一の王子。

 オーディ・ブラッドストーン。

 洗練された動きで優雅に頭を下げ、中へと促すように手を流しながらさりげなく脇へとどく。それは間違いなく礼にかなった所作だったが、同時に姉の動きを混乱で封じてしまうものでもあった。


 ……平素いつもはさほど交流のない弟。こうしてたまに顔を合わせるたび、優しく丁寧に接してくれる。

 そう、彼のこの態度は、別に今に始まったことではない。

 けれどそれは、この城に置いて異質すぎるのだ。


 この国の第一王女はすでにとされている。もちろんそれは正式に決められたことなどではなく、城内の空気がいつの間にか纏っていた暗黙の了解だったが、それでも確実に城を支配している意識だった。

 ゆえに、彼女は人目のある時間帯に廊下を歩くことを避ける。人目がなかろうと、堂々たる広さの廊下の真ん中を歩くことに抵抗がある。直系王族でありながら食事を他の王族と共にすることもなく、生活のほとんどを城の片隅の小さな自室で過ごす。外に出るとき、剣の訓練をするときは、裏庭でさえない――普段城内の人間が足を向けない、城の傍の森を使う。


 歴代罪を犯した王族がそうであったように、いっそ塔にある牢にでも封じてくれれば良かったのに――。

 出歩くことを禁止されているわけではない。ただ、人に会えば無数の視線という凶器と戦うことになるだけだ。直接向けられる視線はもちろん、あからさまに自分を見ないふりする視線とも。


 そんな中で――。


 あくまで自分を人として扱ってくれる人物もいる。

 リーディナはその筆頭だ。そしてその他にも数人。

 その中のひとりが、弟だった。

 けれど、その弟がこんなにも自分をまともに扱ってくれる理由が分からない。この国のたったひとりの王子であるオーディにとって、むしろこの厄介な姉は邪魔なはずなのだ。『第一王女あれさえいなければ、オーディ様は楽に過ごせるだろうに』――そんな陰口を聞いたこともある。

 そして自分自身「その通りだ」と思っているのから、何も言えないのに。


 原因の分からない優しさは恐かった。だから、『彼は次代の王たる人物なのだから』と無理やり納得した。上に立つ者の威厳であり、その寛大さでもって、自分のような外れ者にも礼を忘れぬだけだ。そう自分に言い聞かせ、弟が向けてくれる柔らかな微笑から逃げないよう前を向く。

 リーディナが少しこちらをうかがってから、後ろへ引っ込んだ。今度は自分自身で口を利く番だ。


「ち――父上は?」

「もちろん中に。姉上をお待ちですよ」

「……クローディアは……」

「まだ着いておりません。大方着替えに手間取っているのでしょう」


 そう答える弟の声は、そこだけ最初とうってかわって素っ気ない。末姫の話をするときはいつもこうだと、あまり会話をしない姉でさえ知っている。


「……そうか」


 それ以上続ける言葉もなく、ためらいの後、前に進み出た。

 一歩。踏み入った途端、部屋の空気が彼女に四方八方から突き刺さる。人が集まっていることを示すように、室内はどこかしら生暖かい。人がばらばらに呼吸をしていることを示すように、落ち着きがなくまとまりもない。

 彼女を攻め立てる視線も――温度は様々。

 無意識に顔がうつむいた。

 斜め後ろから「姫様」と控えめにさとす声が飛ぶ。はっとして、重たい首を持ち上げ直す。

 ようやく、部屋の中の景色が見えた。ひとりの人間の寝所としてはあまりに広すぎる部屋。そこに集まった人々の顔。一様に、暗い顔をしている。

 最初こそ自分に突き刺さった視線もすぐに霧消していた。どうやら今、彼らの意識はもっと重要なところに向かっているようだ。


 ――王の具合が悪い。これ以上に大切なことなど、この国にあるわけがない。


「父上」


 小さな声が口から漏れた。

 人前で堂々とそう呼ぶことははばかられる。そもそも『父』と呼んでいいのかどうかさえ悩んでいた時期もある。だが、その悩みは他ならぬ父自身が払拭してくれた。


『お前の父はこの私だ……ラナーニャ・ブルーパール。なぜためらうことがある?』


 父が。他ならぬ王が自分を受け入れてくれていなければ。

 きっとリーディナやオーディの優しい目は自分に向くことはなかっただろう。

 奥の間。たくさんの人の気配が、その意識が、一点に集中しているのを感じる。

 きっとその先に――父が居る。


 これ以上進み出ていいのかどうか分からなくなった姉に、弟が手を差し出した。


「どうぞこちらへ。姉上」


 ことさら強調するように『姉』と呼ぶ弟の腕は、歳の割に頼もしい。まだ少年である彼の行いを、咎めるものは誰もいない。さすが重臣たちとともに国政にも参加しているだけのことはある。

 素直に受け取らない自分がおかしいのだ――。

 誰にも悟られぬよう息を吸い、黙ってその腕に手を載せた。

 そこからは、弟の静かな歩みにならって進む。


 彼らのために――正しくは『彼』のために、だろうが――人の波が割れていく。

 絨毯は足音を極限まで吸収する。だからこの部屋には、絨毯が少なかった。それは昔からの伝統だと聞いている。この部屋を害意ある者がおとなうことなどないように。

 ――この国に、王を暗殺しようなどというだいそれた考えを持つ者が現れたことなど、歴史上ないのだけれど。


 数人の侍女たちがいる。侍女長もいる。

 彼女たちの表情の暗さに、胸の内の不安が膨らむのを感じながら、進む。

 さらにひとつ扉を抜けた先が王の寝台がある部屋だ。

 そこは王付きの侍女以外、侍女衆は基本的に入ることが許されない。だからリーディナが足をとめた。けれど、


「リーディナ、お前も来い」


 弟は当たり前のようにそう言った。さすがのリーディナも一瞬戸惑ったようだったが、無言で従った。

 この息も詰まるような空間も、リーディナがいてくれるだけで呼吸のできる場所になる。安堵の吐息は、弟やリーディナに聞こえていただろうか。


 弟に付き添われて奥寝所に入ると、真っ先に目が合った人物がいた。

 漆黒の黒髪に、同じ色の瞳をした、三十代ほどの男性だった。どんな重臣よりも、目指す寝台の近くに居る。

 咄嗟とっさに目をそらさずに済んだのは、彼もまたこの城では希有けうな人物だったからだ。厄介者の第一王女をことさら排除しようとしない変わり者のひとり――

 現王の、たったひとりの弟。


 王弟ヴァディシスはまず彼女を見て、それから弟王子を見て、軽くうなずいた。

 弟は足をとめた。シレジア人らしいよく通る声を、なぜか張るようにして。


「父上。姉上がお着きです」


 大きな寝台があった。

 天蓋に施された彫刻は、この国のシンボルたる朱雀神。かつてこの国の建国王が、こよなく愛した朱い鳥。

 その下、白いシーツの上に横たわる人物を見て、娘は呼吸の止まる思いをする。


 ――最近父に会ったのはいつだった?


 このところ父は忙しく、せわしなく出かけていたはずだ。元から忙しい人ではあったが、このところの忙しさはその比ではなかった。忙しさの中でもほんの少し時間が取れたなら、その時間を城の片隅にいる娘のために遣ってくれた父。けれど近ごろはそんな余裕もないほどに。

 そう、かれこれひと月はお会いしていなかったのだ。


 だからと言って、この変貌ぶりは何だろう?


「父上――」

「ラナーニャ」


 おいでと言うように、その片手が動いた。――やせ細った腕が。

 “迷い子”との戦いの先陣を切るほどに勇猛であり、それを許されるほどには強かったはずの手。だが今や、武器を持ったことがあるとさえ思えぬほどに。

 唇は乾いて割れ、顔色は青黒く、声は枯れていた。鮮やかな金色こんじきの髪も色が抜け、縮れた白い糸の集まりになっている。

 目は落ちくぼみ、凜々しかった朱い瞳も暗く濁った沼のように。

 ほんのひと月会わぬうちに、数十年分歳を取ったように見えた。ただ身にまとう衣装とその視線の優しさだけが、父だと分かる唯一のよすが。


 弟が腕を放して姉を前へと進ませる。

 震える足で、寝台に近づいた。


「父……上?」


 かすれた声で呼ぶと、目の前の枯れ細った人物が満足そうに目を細める。色の悪い唇がゆっくりと動く。


「情けない姿を見せてしまうな……ラナーニャ。王は強くあれと、あれほどお前に教えておきながら」

「―――」


 娘はふるふると首を振る。


「父上、父上、いったい何が」


 なぜ、こんなことに。賢王と名高いあの若々しく猛々しい父が、どうしてこんなことに。

 病身と一目で分かるのになぜか寛げるローブではなく、明らかなよそ行きの衣装を着たまま横になった父は、薄い吐息を漏らした。


「毒か、魔術か、はたまた呪いか……。さて、どれだろうな」


 どうでもいいと言いたげな軽い言葉だった。「父上!」と思わず引きつった声が出る。


「このような……っ、誰が、いったいこのような」

「――それはもういいのだ、ラナーニャ。それよりも」


 骨と皮だけの手が娘を制する。ただそれだけで、飛び出しかかっていた続く言葉たちは全て引っ込んでしまう。

 力などもやは残っていないような風情なのに、その威圧感は健在だった。横になったままだというのに、ふ、と息を吸い込んだ瞬間に、目の前の人は王となる。


「クローディアはまだか」

「はい、父上。まだ時間がかかるかと」

「まああの子はしょうがないでしょう」


 まず王子が、それから王弟が代わる代わる答える。ベッドのあるこの部屋まで入ることを許されているのは、他には本当に国政の中心にいる重臣のみだが、誰ひとり口を利くことはない。

 ベッドの上の王は、困ったように苦笑した。そんな表情をすると、以前と同じ顔になった。ああやはりこれは父なのだと痛感する一瞬。

 王は、肺に溜まった病を吐き出そうとするかのように重々しい息を吐く。


「残念ながらあの子を待つまでもつまい。――ここにいる者ども、我が最後の言葉を心して聞け」


 話すにつれ、弱い声にも徐々に威厳が立ち戻ってくる。

 しかしその内容は、とても受けれられなかった。例え王の命だと言われても。

 最後、だなんて――!

 心がそう叫ぶのに、言葉にならない。誰か、と思っても、誰も動かない。

 叔父も弟も重臣たちも、真剣な顔で寝台を見つめるのに、王を止めようとする者がいない。

 まるで皆、が来ることを受け容れてしまっているかのように。


 王はその場にいる者をたしかめるように、順繰じゅんぐりにその顔を見ていった。

 皆は無言で目礼した。まるでそれがひとつの儀式であるかのように。


 最後に、王は娘を見た。本来第一王女――第一子であるはずの子を。

 数奇な身の上のために、無き者とされている娘を。


 その目にいつも通りの優しさと、厳しさと、そして――ひどく申し訳なさそうな思いを見て取って、娘は混乱した。父は何を思ってこんな目をするのだろう?

 分からない。分からないまま見ているのが恐い。

 でも……目を逸らすことはできない。


 やがて王はその手をくうへと掲げた。

 その指に、ひとつだけ指環がはまっている。王の証たる紅い石。


「我が国シレジア……この地に御座おわす我らが神イリスよ、この意志を聞き届けよ。我が死の後、たがう者が決して現われぬよう」


 それは神への誓いの形を取った、明らかな臣下たちへの厳命。

 父は何を言おうとしている?

 息ができない。胸が押しつぶされそうなこの感覚は何だろう?

 天には黒い月の扉が開いている。地上が恐怖に震えているまさにこの時に、父は。


「我が後継者に、ラナーニャを据えよ。ラナーニャ・ブルーパール……そなたが、この国の王となれ」


 この世のものとも思えぬ言葉を、告げて。

 そして王は娘を――ラナーニャという名の娘を見る。目だけを動かすその所作は、もはやこの王に残された力が少ないことを如実に語っていた。

 その僅かな力を、娘への視線に変えて。


「ラナーニャ。強く、誇り高くあれ……心優しき我が娘よ。そなたにしかできぬことを成せ」


 ちち、うえ。

 唇が動かない。喉が、干上ひあがって。


 誰もがその言葉を聞いた。誰もがその言葉を拒絶しない。

 ならばどうして自分にそれが否定できよう?

 王の言葉は人々の耳を確実に縛り付けたまま、天へと向かっていく。――静かに、おごそかに。


 シレジア王は最後に、ゆっくりと目線を上空へと戻した。天蓋を透かし、天井を透かし、きっと無限なる空を見て。

 そこに御座おわす神を――て。


「これは神への誓いだ。たがえる者は、この国を殺すと心得よ。……皆、力を尽くしてこの国を、民を守るよう」


 細いその指が地に落ちる瞬間を、王女は見た。

 それは、彼女の世界何もかもが崩れ落ちた瞬間でもあった。



 開け放たれた窓の向こう。遠く、黒く染まった月。

 開いた扉から、狂乱は容赦なくやってくる。

 ……この国の事情などお構いもなく。


 ラナーニャ・ブルーパール・イリシア。

 ――十六歳まであと二週間と迫った、春の夜。

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