第一章 その日、青い光が飛んだ。

Side:Ranarnya 01――《前》

 黄金の光をたたえていた月の中央に、暗黒の扉が開く。

 あらゆる狂気をはらんだ闇はあっという間に周囲の黄金を呑み込み、いつもならば夜の覇者である月が浸食されるように色せて行く。


 ――その様を、彼女は自室の窓辺から見ていた。


「《月闇つきやみの扉》が開いた……!」


 我知らず声が漏れる。絞り出すような引きつったそれは、自分の声であることにしばし気づかないほどにかすれている。

 だがそんな情けない声も、聞いているのは自分ひとりだ。


 ――深夜。城のひどく奥まった場所にあるこの小さな部屋には、この時間自分以外誰もいない。


 遅れてぶるっと震えが足許あしもとから駆け上ってくる。五年に一度の儀式セレモニーが始まった。そのことをようやく体も理解して、悪寒が全身を駆け巡る。


 恐怖、とは少し違った。

 おそれ。――否。

 もっと単純な……哀しみ、だろうか?


 五年に一度の大きな騒乱。また大陸は、逃れられぬ痛みを味わうのだ。

 そして人々はそれにあらがい、傷ついていく。


 窓辺から動かないまま視線を地上へと下ろすと、広い広い樹海が見えた。

 夜のとばりに立ち騒ぐ風に、怪しく揺れる音が聞こえる。まるで彼女の心の波のように。


 五年前――同じように天に暗黒の扉が開いた日。

 その数時間後には、この森は燃えていた。

 幸か不幸か、この方角には人里がない。城下町はこことは逆の方角にあるからだ。扉から現れる狂気の具現者は常に人間を求める。それゆえ、見張りの兵士以外人のいないこの森は本来、被害を受けない。


 それでも火の手が上がったのは、逃げ惑う国民がこちらにまで来たからだ。ざわめく木々の音をかき消すように、この世のものとも思えぬ絶叫が夜闇を引き裂いていたのを、彼女はよく――嫌というほどよく覚えている。


 なぜならその悲鳴の主たちを助けようと、彼女も森へ飛び込もうとしたから。


 だが、それを成すことはできなかった。

 当時十一歳。たったひとりの側近に止められ羽交はがめにされて、涙の代わりに唇を噛みしめて血を流したあの日。

 あの血の味が今、彼女の口の中にまざまざと蘇る。


 目を閉じる。城の見張り番は、とうに天の異変に気づいているだろう。

 少し遅れて城下の警鐘けいしょうが鳴り始めた。平素いつもは眠りにつくのが早いこの国だが、五年に一度のこの時期は別だ。冬が終わるころから、町はピリピリと張り詰める。毎晩天を見上げて眠れなかった者も多かっただろう。


 そして今、きっと町は完全に覚醒している。逃げる準備を始めている――

 いや、違う。

 を張り巡らせている。


 鼓動が波打つ。必死で落ち着かせようと何度も深く呼吸をする。思考を乱すな。今、自分が考えるべきことはひとつだけ。


「私の役目……だ」


 ふいに吹き込んできた風が、彼女の腰までの長い髪を乱暴に荒らした。

 彼女はまぶたを上げ、窓を閉めた。そしてそのままカーテンも閉めると、髪の毛を手ぐしで乱暴にいてから、同時にクローゼットまで歩き出す。

 これから行うことのために、衣装を取りに行かねばならない。そのためにはまず寝間着から着替えなければ。


 ――リンリン、と呼び鈴の音がした。

 扉には大きな鈴がついている。クローゼットの前からでは金色こんじきの呼び鈴自体は見えないが、一定のリズムを刻むその音に、彼女は誰が来たかをすぐに察した。

 だが分かっていても、鈴が鳴ったときに口にする言葉は決められている。自分には分不相応なことだと思いながらも、教わった通りに大きく声を張って。


「姫様。リーディナ参りました」


 返ってきた声に、ほっと安堵の息をつく。予想通りの相手だ――声をやわらげて、「入ってくれ」と続ける。


 王城の一室にしては質素な扉――元は物置だったそうだから、当たり前だ――を重々しい動作で開けて、ひとりの若い女性が姿を現した。扉に一歩踏み入ると、その場で静かに跪拝きはいする。何度やめてくれと頼んでも決してやめない、彼女の挨拶。


 リーディナ・ウォレスター。彼女のたったひとりの侍女である。


 首の後ろで結わえた長い髪は、爽やかな淡い金糸雀カナリヤ色をしている。光を浴びると美しく清楚に輝き、まるでほのかに発光するかのようだ。

 それはシレジアではかなり珍しい色の髪なのだが、しかし彼女を知ったばかりの人間の印象に残るのは髪ではないと言う。


 ――瞳の、色の美しさ。


 赤く燃える瞳は、シレジアにおいては女神に愛された証拠だった。体のどこかに“赤”に類する色彩を持つ者は、他人より秀でた魔力を持つ。

 根拠に乏しいと叫ぶ学者もいるが、現にリーディナの魔力は飛び抜けて高い。


 リーディナはすっと立ち上がると、彼女の主をまっすぐに見た。

 まだ二十歳と若い世話係ながら、リーディナは常に落ち着きをまとい、日常でもすぐに不安にかられる主を視線だけでなだめてしまう。この侍女が傍に来ただけで心が安定する。


 けれど、今夜は様子が違った。


 リーディナの目は真剣そのものだ。それはこの不安の夜に主が負けないよう、励ましに来た目ではなかった。


「……父上がお呼びなのか」

「その通りでございます。お着替えをお手伝いいたします。失礼してもよろしいでしょうか」


 着替えぐらいは自分でできる、と思う気持ちを呑み込んだ。そんなことはリーディナもよく知っているのだ。

 だがこの侍女は主がひとりで自分の身の回りのことをするのを決して許さない。

 リーディナの目を盗んで何かをすると、必ず叱られた。“ご自分のご身分をお考えください”と。

 この侍女が傍にはべってから、幾度注意されたか知れない。


 それでもなお、彼女は自分で自分の世話をすることを止めなかった。

 ――自分のをよく理解している。だから、止められない。


 とは言え、リーディナの手を借りること自体が嫌いなわけではないのだ。年上の侍女がいつだって満足げに自分の世話をしてくれるさまは、嬉しいことでもあったから。


「うん……頼む」

「それでは」


 リーディナはクローゼットからテキパキと衣装を選び出し、主の着替えに取りかかった。

 大人しくされるがままになる。……寝間着を脱ぎ、肌を拭い、粉をはたいてから下着を着せる。そこから、薄い衣を何枚も重ねる。この国での、女性の簡略な正装。

 ただし、本来はスカートをはかなくてはならないところを紳士用ズボンで済ませる。本当は完全な紳士着が良かったのだが、それをリーディナは許さなかった。

 その一方で、有能は侍女は主のわがままをほどよく叶えてくれた――この国の女性の正装らしい薄い布の重ね着を、ズボンに合うようデザインして。

 城に常駐する御用達ごようたし針子はりこたちの手になるものではない。リーディナが自ら仕立ててくれた特別な衣装だ。

 それを、何種類も用意する。そのためにこの侍女がどれだけの時間を費やしてくれたかを知っている。

 申し訳ないと思いながらも、感謝と安堵のほうが強いから、黙ってそれを受け入れてきた今まで。


 スカート自体は嫌いではない。

 例えばスカートをひるがして走ることを、周囲が許してくれるというのなら……それで構わなかったのだけれど。

 残念ながら、その視線たちはそれほど寛容ではないから。


 だから……リーディナは時間を費やしてくれる。彼女があるじと呼ぶ存在を、少しでも他人の視線から守るために。


 着替えを終えると、次は鏡台の前に座る。リーディナはいつの間にかブラシを手にし、長くなめらかな主の髪を隅から隅までいていく。

 リーディナの手が持ち上げる、柔らかな髪。

 それはとても鮮やかな色を持っていた。実をつけたばかりのチェリーのような、みずみずしい赤。それが太陽の光を浴びると不思議に見事な朱金色に輝くことを知っているのは、ごく限られた者だけだ。


 鏡の中に映る自分を見つめる。

 今夜はもう眠るところだったから、髪から黒の染粉そめこを落としてしまっていた。今から染め直している場合ではないだろう。そう思って少し憂鬱になる。


「……リーディナ」

「はい」

「いつもの通りすぐにでも出立し、神殿で祈りを捧げることになるのだろう?」

「ええ、それはもちろん。民を安心させて下さいませ」

「……神殿に渡り祈りを捧げることは、大切なお役目だ。それを行うこと自体はとても光栄なんだ。……でも」


 膝に置いた手を、ぎゅっと拳に握った。


「……私で、いいのだろうか」

「姫様」

「クローディアを行かせられないのは分かる。しかし私は、やっぱりクローディアが行うのが正当なのではないかと思うんだ」


 クローディア。それは彼女の実の妹の名だ。

 自分とはあまり似ていない、ややきつめながら整った目鼻立ちの妹を思い浮かべ、確信をこめてつぶやく。


「……オーディとのことさえどうにかできるなら。単純な精神力なら、クローディアが負けるはずはない。そうだろう? 何よりクローディアこそ、

「――」

「現にこの十年間、私が儀式をおこなっていたから、イリス様は願いを聞き届けては下さらなかったんじゃないのか? 《月闇の扉》の被害は……増える一方だ」


 音もなくブラシが滑る。リーディナの器用な手は、忙しく主の髪をまとめている。

 こちらの言い分を最後まで聞いたあと、リーディナは唇を動かした。冷静な中にもかすかな怒りを含んだ声で。


「気をしっかりお持ちくださいませ、姫様。あなた様は朱雀神すざくしんイリスの申し子なのです」

「申し子……」


 その言葉がとても違和感をもって心に響き、引きずられるように視線が下に落ちる。

 膝の上の拳が見える。日頃の武器の鍛錬のために、お世辞にもきれいではなくなった両手。

 ――とても、“王女”のものとは思えぬ手。


「しかし私は、力をいただけなかった……」


 開いた両手を見下ろし、たこが出来た痕を見つめ、


「“まよ”に対抗する力が欲しいと思って剣を取った。父上は、剣を持つことを許してくれた……あくまで自衛手段として。つまり、そうしなくては私には力がなかったからだ」

「きっかけがどうあれ、そうしてあなた様は努力なされた。立派に強くおなりです。現に、先日の“迷い子”討伐を堂々と完了なされたではありませんか」

「足りない。――足りないんだ」


 リーディナの励ましをにしたいわけではない。

 なのに、弱音は尽きることがない。父の許しを得て何度城の近場に現われた“迷い子”を滅しても、満足は彼女に訪れない。


 王女と言うにはあまりにも皮の厚くなった手。

 けれど、戦士と言うには――どうしても頼りない手。


 この国に生まれた者であれば、本来はもっとを、持っていたはずなのに。


「……私は強くなりたい。力をいただけなかったのが恨めしい」


 リーディナの手が止まった。


「神のご加護を戴くことばかりが力ではございません。……知識と経験は、何よりも“力”です」


 その言葉に、苦笑が漏れる。知識と経験。それがリーディナの口癖だ。

 この侍女は世話係であると同時に教育係でもあった。彼女は己の信義にもとづき、時間を尽くしてあらゆる“知識”を主に教え込もうとしている。


 ――学ぶことは好きだ。

 知識は自分の中の空洞を埋め、思考を巡らすことは自分の存在の意味を一時的にでも忘れさせてくれる。


 それでも……所詮しょせんものでしかなく。

 結局城の敷地内やその近辺にしか行動範囲のない自分が、本当の意味で“知って”いることなどほとんどない。


 リーディナの口癖に応えられない。――“経験”が、何より足りない。


「例えばここに――何年も国を渡り歩く傭兵か、護衛衆か、あるいは旅人そのものがいたら、私は平伏して教えをうよ」

「……」


 リーディナは無言でブラシを置き、後ろ髪をまとめると、手早く赤いリボンでくくった。髪の色に近いリボンは通常避けられるものだが、この国では赤は守護色だ。何よりも好まれる色――。


 身支度が終わると同時、彼女は立ち上がった。


「ありがとうリーディナ」

「さあ姫様。お急ぎ下さい」

「ああ」


 片手に燭台を持ったリーディナが部屋の扉を開け、彼女の主を廊下へと促す。

 ギッ、と倉庫であった古い扉はきしむ音を立て、ゆっくりと閉められた。

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