33 対立

 四人の子どもたちが消え――

 代わりに、一対の男女が現れる。シグリィとはさほど距離のないところにいるが、シグリィに気づいた様子はない。

 ――この世界では、自分のほうが幻影。シグリィはつと目を細めて彼らを見つめる。


「マリア」


 男がそう呼びかけると、娘がふわりと振り向いた。

 しなやかな動作。ひらめくスカートの裾の軽さは、まるで彼女に重みがないかのようだ。

「どうしたのですか、ワイズ」

 娘の口元にはかすかな笑みが浮かび、頬にはしゅが差している。シグリィより年上だろうことは間違いないが、その中に汚れなき初々しさが見え隠れしていた。

 男を見つめるその瞳はどこまでも優しげだ。

 娘のその様子に、男は気づいているのかいないのか。娘の前に立ち、何かを差し出した。

「これを君に」

「まあ……」

 きれい、と娘が顔をほころばせた。「これは……昨日見せてくれた“貝”ですね?」

「そうだ。君が気に入ったようだったから、紐を通した。ペンダントにでもしてくれ」

「嬉しいです」

 娘は満面に笑みを浮かべた。頬は薔薇色に染まり、彼女の可憐な美しさをいっそう際立たせる。

 貝――そう言えばこのクルッカの土地は内陸地だ。娘の出身地も内陸なら、珍しいものかもしれない。

 もらったペンダントを首にかけようとする娘。後ろに回ってそれを手伝う男。

 まだお互いに想い合い始めたばかりの恋人同士のようだとシグリィは思う。しかし――

 ふと何かを感じて視線をそらす。

 そして、そこに闇を見た。

 ――ひとつの小屋の窓。冷ややかな視線を幸せそうな二人に送る女がいる。

(魔女……)

 女はすべてを見ていた。大切な生き神が、大切な妹が、たった一人の男に籠絡ろうらくされるそのさまを見ていたのだ。


 ――急に、辺りの温度が上がった。

(炎が)

 気がつくと一面火の海だった。

 森はある。だが赤い炎に包まれている。家屋は焼け落ち、人はいない。

 ただ、ひとつだけ残った小屋があった。炎に包まれているのに、柱も壁もしっかりと保たれたまま。

 その小屋の扉が、ぎぃ、と開く。

 一人の女が現れる。三十歳そこそこの、緩やかに波打つ長い髪を持った女。

『……マリアの加護で、私たちの家だけは無事だった。だのに、その中にいたマリアは死んだ。……なぜだか分かりますか、少年よ』

 女が口を開く。魔女の声だ――『あの男のしわざでした。ワイズ・オストレム。私たちを裏切った男。あの男は事を始める前に、何より先にマリアを殺した』

 マリアが恐かったのです、と魔女は淡々と語る。

『あの男が己でそう言いました。マリアがいたままでは、計画が失敗すると。最後まで生きていた私の前で、そう言いました』

「……」

(ワイズ・オストレム……オルヴァさんの先祖、か)

 ごう、とくうが鳴る。

 魔女を中心にして、空気が歪む。どろどろとした混沌へと染まっていく。

『憎かった。マリアを、村を破滅させたあの男が憎かった。死にゆく意識の中で、私はただひたすら神に祈った。どうかこの男たちに罰を下す力を私に』

 そして願いは聞き入れられた。女は小屋の扉の前で、淡く微笑んだ。

(だがその力は)

 思ったことが顔に出たのだろう、シグリィをまっすぐ見つめて、女は。

 

『……この力は英雄四神のもの。分かっています。しかしもはやそれでも良かった。――そう、力が得られればどうでも良かったのです』


 魔女が胸元に手をかざす。

『生まれよ。荒ぶる神は大地を駆ける』

 女の眼前に巨大な火炎球が生まれた。女の一息を合図にして、真っ正面からシグリィを襲う。

 シグリィは結界でそれを防いだ。しかし弾かれた火炎球は火の粉となってシグリィに降り注ぐ。シグリィの視界を一時的に奪う。

 それを皮切りにして次々と魔女は魔術を展開した。火、風、氷、土――ありとあらゆる属性の術がシグリィ一人に叩きつけられる。

 焼け落ちた爆破で家屋を吹き飛ばし、燃え上がる樹を真空波がなぎ倒す。どれもこれも威力は超一流だ。

 命中精度がきわめて低いという欠点さえなければ、シグリィとて安穏あんのんとしてはいられない。

『満ちよ。宴は灯火ともしびとともに』

 数十個にも及ぶ光球が空に展開する。触れるとどうなるのか分からない光――

 シグリィは即座に青龍の力を用いて近場の植物を操り、伸びた大量の植物たちが光球をことごとく破壊した。

 打ち漏らしたいくつかがシグリィを狙って急降下する。飛び退き、地面を転がって回避しながらも、シグリィの意識は常に女にあった。

 たぶん、女は見た目ほど冷静ではない。村を滅ぼされた憎しみが第一だと認めたあの女が、そのことには一切関わっていないシグリィに対して、いったいどんな感情に突き動かされ戦うのか――

 燃え上がる森の中で、砂埃が舞う。息が苦しい。

 防戦一方のシグリィに、女がせせら笑う。

『先ほどの威勢はどうしたの。まさかこのまま終わりとは言わないでしょう?』

「……」

 シグリィは少し笑った。何となく、今の状況が面白く思えたのだ。

 四方が真っ赤に染まったこの場で、暗い闇を背負った女の術で吹き飛ばされながら、彼はたしかに楽しんでいた。

『……本当におかしな子』

 魔女は不愉快そうに口元を歪めた。『いったいどれが本物のお前の《印》なの。まさか全部使えるというの? お前はいったい何者なの』

「さて」

 かまいたちの連撃を何とかかわし、シグリィはぐいと切れた頬を拭う。

 女が一瞬、術を止める。それでも彼は攻撃に転じない。

『――ッ、貫け。北に眠る神は人をいとう』

 女が手を振り上げた。空中に生まれたいくつもの氷柱が、シグリィに向かって落下する。結界に当たって砕けるも、すさまじい重量がシグリィにのしかかった。白虎の《印》で強化していなければ耐えられなかったかもしれない。

『いい加減動きなさい……!』

 叫び、女は再び術の乱打を始めた。ちっぽけな敵をひたすら攻め立てようと、大小さまざまな術が繰り出される。

 数が増えると、威力は下がるのが常だ。ただでさえ高くなかった精度も著しく落ちていく。

 それでもいくつかの術はシグリィを捕らえ、何度も吹き飛ばされた。

 ――術をくらえばくらうほど、思考が冷たく清明になる。

(この女の詠唱は、英雄四神のそれだ)

 地租四神の術にも詠唱をつけることはできる。ただ詠唱内容を聞けば明らかだ――女は明らかに、地租四神ではなく

 ふしぎだった。どうしてわざわざ英雄神をうたうのか、その理由が分からない。だが――

 地租四神のために人生を捧げ、英雄四神を嫌いながら、それでも。

(英雄の力で戦うことを決めたんだな)

 憎しみ、とは、それほどの感情なのだ。利己的であろうとも、矛盾しようとも、譲れない。

 ――彼女に、同情しようと思えば簡単だった。

 できることなら憎しみから解放してやりたいと、そんな考えも頭をかすめなかったと言えば嘘になる。だが――

『風よ、唸れ神の嘆きのままに!』

 突風を結界で受け止めながら、シグリィは思う。

 地租四神信仰者が正しいと思うわけではない。ワイズ・オストレム――マザーヒルズの判断が正しいと思うわけでもない。

 それぞれに立場があって、それぞれに信じたものがあって。噛み合わなかったことを嘆く気もさらさらない。

 結局自分は部外者なのだ。

(だが、私は)

 それをっていたい――考えていたい。

 戦いを引き延ばしているのは、女の内面の変化を見ていたかったからだ。最初こそ憎しみに突き動かされていた彼女が、シグリィを相手にすることで、だんだんと変わってきている。

 シグリィという、四つの《印》を持つ存在を相手にすることで、いやおうなく四神のことを考え出している。

 そして、彼女自身が地租四神の信奉者であることを思い出している。だから――

 揺らぎが、生まれ始めていた。

慈母じぼ羽二重はぶたえ

 ようやく彼が紡いだ詠唱は白い布のような結界を生み出した。上空からシグリィを狙った岩石を、柔らかく包み込む。そうして――

 岩石が消えると同時、その白布を空へと放り投げた。

『!?』

 女がうろたえる。始めてのシグリィの行動だった。彼女は迷わず白布に意識を集中した。次の詠唱を、その白布に向けているのが気配で分かる。

 それが最大の隙だった。

 シグリィは地面を蹴った。女の目がはっと彼を見る。もう遅い、女に肉薄したシグリィはその胸に短剣を突き立て――

『ぐ……』

 女の唇から血の筋が落ちる。

 だが、致命傷にならない。女が呪いの言葉を吐き、それを詠唱としてシグリィの背中に拳のような一撃を叩きつける。

 シグリィはそれを、あえて受けた。背中の衝撃に耐えながら、女の体に刺した短剣をさらに奥へと押し込む。

 女が、激しく痙攣けいれんした。

(核がこの体になくとも、ダメージはある)

 そのまま女の体を地面に押し倒す。くしくも先刻ルナに行ったのと同じように――女の上へ馬乗りの姿勢になる。

「――」

 燃え落ちる森の音。どこかで、樹が倒れた。

 魔女はシグリィの下で、驚愕に目を見張っていた。

 シグリィは短剣で女を地面に縫い付けたまま、静かに口を開く。

「私も、ひとつ話をしましょう。英雄四神の話です」


 かつて――。

 四神の力を奪うことで大陸を救った英雄たち。

 だが、そもそも大陸にどんな危機が迫っていたのか、それを知る者たちは今はいない。


「たった四人を除いて」


 魔女が当惑に視線を揺らす。シグリィは口元を微笑ませる。

「――英雄たち。彼ら自身だけは、大陸の危機を知っている――」

 あなたは何だったと思いますか? 問いかけると、魔女は苦しそうに顔を歪ませた。

 まるでそれを知ると、多大な苦痛を伴うと分かっているかのようだ。

「……大陸は四神の力で支えられていた。それは太古の昔からのことわりです。しかし……理にも限界はある」

 何がきっかけだったのかは分からない。

 時間が経てばそうなるものなのか、四神が疲弊したからなのか。それとも別の理由なのか。

 だが、結果ははっきりしている。――四神の力のバランスは、もはや崩れ始めていた。

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