11 知らない感情
狐目ことゴーシュ・ナロセイドはとても気まぐれな男だった。
少なくとも、彼――ユドクリフ・ウォレスターにはそう思えてならなかった。
ゴーシュは様々な場所にユドクリフを連れ回した。連れ回しながらも、どうしてそこへ連れてきたのかを口にしたことはなかった。深い思慮があったのか、はたまた何も考えていないのか、ユドクリフにはいまだに分からない。
いや――やっぱりすべて計算ずくだったのだろう。
ゴーシュによって目にしたものたち。それらがユドクリフに与えた影響ははかりしれなかったのだから。
ゴーシュの家に居候をするようになってから一年が経とうとしていたころ、ゴーシュはいつも通り狐目をにやにやさせながらこう言った。
『もう一度クルッカの森へ連れて行ってやる』
その名を聞いたとたん、ユドクリフの胸がざわついた。
それは一年前にユドクリフが迷い込み、死にかけた土地だった。ゴーシュに命を救われたのは、まさにその場所だったのだ。
何のために、とユドクリフは問うた。
『自分が死にかけた理由、たしかめておくのも悪くないだろうさ』
まあ――と狐目に愉快そうな笑みを浮かべて、ゴーシュは付け足した。
『運が悪けりゃ、今度こそ死ぬかもしれんがな』
そして二度目に訪れたその土地で、ユドクリフはその後の人生を変えるほどの衝撃を受けることになる。
*
『そこ』はとうに森ではなく、まばらな草と乾いた土石の広がる荒野だった。
「……見事になんにもないな」
オルヴァはなかば呆れた様子でつぶやく。「ここまできれいさっぱりとは思わなかった」
春の太陽は西に沈みかかり、赤い光が寒々しい大地を照らす。
ときおり吹く細い風が砂を散らし、荒涼とした土地をいっそう寂寞とさせる。
ただ、見渡す限り荒れ果てているわけではなかった。元々『森』であった場所だけがぽっかりと消え去ってしまったように――ちょうど円のような形の外側まで視線を向ければ、そこには居並ぶ木々がある。
その木々も、二百年前までは森の一部だったのかもしれない。林立するそれらは、失われた土地を囲んで護っているようにも、逆に突き放して眺めているようにも見える。
ここが『死の大地』と名付けられた場所。クルッカの森――
「瘴気はどこに行ったんですか?」
セレンがふしぎそうに口にする。
まさにそれが、今の彼らを悩ませている疑問だった。――今この場に、瘴気、毒気と思われる気配は一切ない。
かすかな魔術の気配すら。
「ラナ。何か感じるか?」
シグリィが問うと、ラナーニャは申し訳なさそうに首を振った。
「何も……」
念のためカミルやオルヴァに尋ねても同じ反応だ。
かく言うシグリィにも、感じ取れるものは何一つなかった。そこはまさしく『何もない』、死んだ土地なのだ。
「ふむ」
シグリィはしばしその景色を眺めたあと、うんとうなずいた。
「このままじゃらちが開かないな。もう少し踏み込んでみよう」
「全員でか? あまりおすすめできないな」
オルヴァが難色を示す。「そうですね」とシグリィは同意した。
「となると、一人――いや、二人だけ踏み込んでみましょうか。誰が適任かな」
「……十五年前の調査団の言葉を信じるなら、異常をきたしたのは主に白虎の傭兵だ」
オルヴァは低くそうつぶやく。
シグリィの後ろに控えていたカミルが、腰の剣に手をかけた。「では、一人目は私ですね」
「……それが妥当だな。もう一人は――」
迷ったのはほんの一瞬だった。「セレン。頼んだ」
「はーい」
「……」
オルヴァがどことなく居心地悪そうにするのを、シグリィは見ていた。本当なら自分が<囮>になりたいに違いない。
(……だが、この場合は無理だ。国に正しい情報を報告するのは、彼でなくてはならない――)
万が一にもオルヴァの身に何かあれば、情報は国には上がらない。仮にシグリィたちが真実のすべてをマザーヒルズの城に届けたところで、その情報の信頼性は一気に失われる。彼らはしょせん、どこの馬の骨とも知れない旅人なのだ。
そんなシグリィたちとともに来てしまった以上、オルヴァは観察者の側に回るしかない。
「……すまん。頼んだ」
やがてオルヴァがつぶやいた小さな言葉に、シグリィは微笑んだ。
「カミル、セレン。行けるな?」
「お任せください!」
カミルは静かにうなずき、セレンは手にした杖をくるくると回したあと、とん、と軽やかに地面を突いた。
「さてさて、行くわよーカミル。瘴気に捕まって一瞬でオチたりしたら踏んづけて砂かけるからねっ」
「……黙っててくれませんか。集中できない」
「何よー緊張をほぐそうとしてあげてるんでしょー!」
相変わらずの軽口を叩き合いながら、カミルとセレンが問題の土地へと足を踏み入れようとする――
刹那。
「――駄目だ!」
ぴり、と空気の中を走った一筋の振動。
誰よりも先に動いたのはラナーニャだった。叫んだ彼女の声を、別の声かき消した。耳を聾するほどの――金切声。
場に閃光が奔った。耳への衝撃に気を取られた彼らは目を防御するのを忘れた。光に焼かれ、何も見えなくなる――そして。
――気がついたときには、彼らは人数を減らしていた。
「え……カミル?」目の痛みに耐えながらセレンが辺りを見渡す。「それに、オルヴァさんも……?」
二人がいない。「今のは――」驚きとともに辺りを見渡そうとしたシグリィは、しかしすぐに言葉を切った。
「……ラナ? どうした?」
ラナーニャは己の体を抱いて震えていた。
真っ青になった顔に、ありありとした恐れが見える。カチカチと鳴る歯の根には、押し殺そうとしているのに溢れる弱気がにじむ。
目尻からはやがて一筋の涙が落ちた。
「ラナ?」
シグリィが手を伸ばすと、ラナーニャはせきを切ったように彼の腕の中へ飛び込んできた。
涙の止まらない少女を優しく抱き留めながらシグリィは考える。何がラナをそれほどに怯えさせるのか。二人がいなくなったことにだろうか。それとも、
――光に焼かれる直前に聞こえた、あの金切声のためにだろうか。
シグリィにも聴こえていたのだ。あの声は、言葉というよりたったひとつの感情を音にしたような声だった。
すなわち、『
*
――生まれながらにしてその感情を知る者など、きっといない。
生きるためにのみ――つまり本能として他の存在を屠る肉食動物さえ、その『感情』を知っているとは思えない。
――ならばなぜ、私は
「違う、私は――」
人は人にその感情を抱くことがあると、誰もが知っている。
けれどその感情が実際どのようなものであるかを知っている人間は……限られている。
限られているはずだ。
――どうして、分かってしまったのだろう?
「違う!」
あの瞬間、たしかに何かが共鳴した。
心の奥底で強く、何かが震えたのだ。
私の心にある何かに――何かが触れた。
「――、――」
誰かのささやきが聞こえる。
低くゆっくりと、まるでがんぜない幼子に言い聞かせるかのような声で。
――それが、お前の本性だろう?
許して、と音にならない声が漏れた。
それは誰に、何に対する懺悔だったのか――
体の内側に凝る過去の残滓が蠢く。その奥底にある何かが、動き出そうとしている。
――知っているはずだと、囁くまるで慈父のような声が、
*
太陽が、東の山脈の稜線にその姿を隠そうとしている。
その太陽を追うように、空にはどんよりとした雲が垂れ込め始めていた。辺りには湿気が漂い、特有の匂いがうっすらと忍び寄る。
雨の気配だ。
(今夜はどうするか――)
シグリィは腕の中の少女を見下ろした。
ラナーニャはいつの間にか眠ってしまったようだ。だがその体は固く強ばり、緊張に満ちている。
エルヴァー島に滞在していたときもそうだったが、彼女はどうやら感情の振れ幅が大きいようだった。特に沈み込む方向に著しい。
(彼女は感じやすいんだ)
その性質が、ラナーニャを強く疲労させる。
とにかく彼女を休ませなくてはならない。カミルとオルヴァの行方は気になるが、探す糸口もない今は――
セレンがシグリィたちに近づき、辺りを警戒してくれている。彼女の杖の先が、じっくりと周辺の地形をなぞって確認していく。
と――
二人ははっと緊張した。シグリィの背筋を弾くように、感覚が何かの接近を訴える。
(“迷い子”――?)
「破爆!」
セレンの鋭い詠唱が飛んだ。同時に、彼女の杖の先端が狙った場所――地面から突き出ていた岩が発破をかけられ砕け散った。
シグリィはラナーニャを刺激しないように気をつけながら、肩越しに振り返る。
そのは彼らの背後に当たる方向にあった。つまり、シグリィたちが来た町の方角だ。岩といっても誰かが隠れられるほどもない低い岩で、セレンは岩そのものというより、そこに現れた新しい気配を狙って、ほぼ威嚇のための術を放ったのだが――
もうもうと砂煙が上がる。白茶けたカーテンの向こうに浮かぶその姿を、シグリィは慎重に見る。
冷静さは失わずとも、胃に苦い思いが落ちた。思い出すのは――
(急に現れた――また、転移なのか?)
エルヴァー島で彼らを手こずらせた黒い鳥たち。
あれはラナーニャの追手だった。それなら今回は?
――しかし今回現れた煙の中の存在は、空を飛んではいなかった。それどころか爆破の衝撃を受けた様子もなく、二本の足で地面に立っている。
その姿が鮮明になるにつれ、セレンが肩を震わせるのが分かった。
「うそ……?」
百戦錬磨の彼女が動揺している。
その理由ははっきりしていた。今までかつて、彼らは間違えたことなどなかったのだ――そう、“迷い子”と
砂煙が晴れる。どんよりとした空の下、二本足で立つ“人間“が、重たそうにゆるゆると両手を挙げる。
まるで敵意がないことを示そうとしているかのように。
「……勘弁してくださいよ。ぼくは敵じゃありません」
発破をかけられたばかりだというのに、不気味なほど落ち着き払った声が聞こえた。いや、たしかに嫌そうな気配は滲んでいるのだが――
空を覆い始めた灰色の雲は、その人物の表情に陰を作った。褪せた金色のような色の髪が、湿った風に吹かれて揺れる。
旅装だった。体格はあまり良さそうではないのに、重ね着して膨れているのが妙にアンバランスだ。武器は腰に佩いた剣一本だろうか。量産型の、ごく普通の剣。
「あなたたちがオルヴァ隊長の知り合いでしょう? で、隊長はどこですか」
言いながら、彼は探すように視線を辺りに這わせる。
シグリィは思い出した。オルヴァが言っていたのだ――『友人が合流するかもしれない』と。
タイミングと言動からして、それは彼のことに間違いない。しかし。
それに思い至っても、少しも安心はできそうになかった。
(“迷い子”と間違えた。私もセレンも――。なぜだ?)
否、ひとつだけ原因ははっきりしている。この目の前の細身の青年には、人ならば必ず持っているはずのものがないのだ。
すなわち、
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