第二章 誰がための罪。
1 吟遊詩人
大陸南部の大半を治める国、マザーヒルズ。
その西の端、山脈を縫う道の途中にあるのが、グィネ関所である。
ここに駐在するのはマザーヒルズの国境警備隊だ。昔に比べて旅をする人間もごく限られるようになった現在、基本的には顔なじみの商人や傭兵と何度も何度も顔を合わせるくらいしか仕事のない兵士たちが、うんざりするほど忙しくなる時期というものがある。
それは五年に一度、天に異変が起こる春。
その日グィネ関所に顔を出した男は、兵士たちの歓声をもって迎えられた。
というのも、
「食料と物資が到着したぞ~!」
見張り番の関所の兵士は男というより、男が引き連れていた一隊を見て、そう声を張り上げる。
関所の各所から喜びの声が上がり、兵士たちが飛び出してきては、待ち焦がれていた物資輸送隊に駆け寄ってくる。
「物資輸送お疲れ様です、オルヴァさん!」
兵士の一人が、輸送隊の先頭に立つ男に敬礼をした。
ん、と男は軽く手を挙げて応じる。
「被害状況は?」
「ご報告した通りです。重傷者三十一名、死者七名であります」
「あれから増えなかったか。正直なところ、よく持ちこたえたな」
「はい。グランウォルグからも人が来ておりますので」
そうだったな、と男は鋭い目つきを細めた。
「西のお客人たちは、今どこにいる?」
「ちょうど食事時ですので、厨房にいらっしゃいます」
「厨房? 食堂じゃなくてか?」
「はい。丁度ユード様がいらっしゃいまして」
「………」
男は少し間を置いた。はきはきと返答する、敬礼姿勢のままの兵士を見つめる。
彼らの背後では、他の兵士たちと輸送隊が一致団結して次々と物資を関所に運び込んでいる。何しろこの関所に、本国からまともに物資が届くのはひと月ぶりだ――誰もが、顔を輝かせている。
「……ユードが来ているのか」
「はい。つい二日ほど前に到着されまして」
「そうか。確か冬の終わるころにも一度来たと思うが……あいつもマメだな」
「はあ。私共の労をねぎらいたいとおっしゃられて」
「ありがたい気遣いだ」
ええ、と兵士はことさら笑顔でうなずいた。
「ユード様の唄は本当に素晴らしゅうございます。我々一同、毎回聞き惚れております」
「まったくだ」
男は――オルヴァという名の彼は、目の前の若き兵士を微笑ましげに見る。
「俺も、やつの唄は気持ちがいいな。やつの生まれは知らんが、どことなく俺たち南部の匂いがする」
「そうですね!」
清々しいほど即答を返す兵士を、男は感慨深く眺めた。
――《月闇の扉》の影響で、春に入ってから関所周辺は戦場だ。数年に一度行われるこの儀式を、この関所の兵士は身命を賭す覚悟で迎え撃つ。西部で生まれた“迷い子”を南へ通さぬよう。南部で生まれた“迷い子”を西へ通さぬよう。
平素はさほど仲がいいわけではないマザーヒルズとグランウォルグの兵士が唯一協力する時期とも言える。しかしいかに屈強な戦士である西部者が助けにきて、死傷者が限りなく減っているところで、戦いに明け暮れる日々が愉快であるわけがない。
それなのに――この清々しい笑顔。
(……ユードの影響か)
男は胸中で独りごち、苦笑を浮かべる。
たった一人の吟遊詩人が、その場の空気そのものを変えてしまえるものなのだ。
俺も西の詩人殿に挨拶してくるかな、と兵士に言い残し、オルヴァは関所内へと踏み入った。
首の後ろを掻きながら、鷹揚な仕草で歩く。彼の姿を見つけた兵士たちが、次々と敬礼を投げかけてくる。それに適当に手を振って返しながら、前に進む。
目指したのは食堂の、さらに地下に当たる厨房だ――人工的に掘り拓いた地下は倉庫も兼任していて、さらに敵襲があった場合、戦えない人材はここで待機することになっている。勿論閉じ込められたのでは意味がないわけで、大声では言えないがこの厨房兼倉庫兼避難所には隠された通路がある。
石組みの階段を降りると、厨房の熱気がオルヴァを迎えた。
「ああ、オルヴァさん」
まっさきに気づいた青年が、オルヴァを見て微笑んだ。「もうラウル隊長には会われたんですか?」
もういい年齢なのにそばかすが消えないこの青年は、この厨房に務めて長い料理人だ。名をフリオという。職務上よくこの関所を通るオルヴァにとっては顔なじみの一人である。
そんなわけで、オルヴァは砕けた態度を正さないまま、フリオに応えた。
「うんにゃ。まだ行ってねえな」
「おやおや……いいんですか、報告しなくて」
「まあ後で行きゃあいいさ。ところで、ユードはいるか」
「ああ」
オルヴァの目的に納得したのか、フリオはにこりと笑ってうなずいた。「奥にいらっしゃいますよ。今料理長はラウル隊長のところに行っているんで、一人で若手料理人に指導してくれています」
「そっか。邪魔する」
「どうぞ」
フリオの横を通り過ぎて、厨房の奥へと向かう。
火を使っている気配。熱気と共に漂う、香ばしい肉料理の匂い。珍しいなとオルヴァは首をかしげる。彼ら南部人は大陸では比較的肉食を避ける傾向にあった。肉食の代名詞たる西国と、あらゆる資源に秀でる東部に挟まれて、独自の文化を築くことにやっきになった妙なプライドというやつだ。
しかし、疑問に思うまでもなかった。
「グランウォルグではこの肉を食べると一週間戦い続けられると言います。皆さんもどうぞこれで精力をつけてください」
伸びやかな声がオルヴァの耳を打った。
やや早口な、しかし一字一句漏らさず聞き取れる声。吟遊詩人はごく普通の会話でさえもその能力を発揮できる。オルヴァはその声を主を呼んだ。
「その肉はお前さんが持ち込んでくれたのか、ユード」
話しかけた相手は、振り向いてオルヴァの顔を見ると、微笑んだ。
「こんにちは、オルヴァさん。俺が持ち込んだものなんてほんのわずかですよ――あなたが持ってきてくれたものには遠く及ばない」
「俺っつーか輸送隊が持って来たんだけどな。元気そうで何よりだ」
「オルヴァさんこそ」
青年は――ユードはオルヴァに歩み寄り、握手を求めてきた。それに応えながら、オルヴァは目の前の青年の顔をしげしげと見た。
檸檬色の髪は長く伸び、首の後ろでひとつにくくっている。その髪の色の淡さに反比例して、瞳の色は鮮やかに濃い赤だ。赤と言っても炎や血とは少し違う。そう――夕焼けの色とでも言えばいいだろうか。
(俺たち南部人にとっちゃ、女神の色なんだがな)
身長はオルヴァよりは低い。顔立ちと肩幅が細いことを考えれば、体つきも相当細いと思われるのだが、一見そうは思えないのはやたらと着込んでいるからなのだろう。オルヴァは彼を見るたび、皮膚の薄さを厚着でカバーしようとでもしているのかと不思議に思う。
どことなく弱々しい顔立ちとは裏腹に、目の輝きだけはいつも強い。意志のある瞳だ。
オルヴァはその目を見て、しばし沈黙した。
しかしユードは、それを気にした様子もないまま話を続ける。
「丁度いいのでオルヴァさんもどうぞ、食べてください。たしか肉は食べられましたよね?」
「ああ、まあ嫌いじゃないが――ひとつ聞いていいか」
「なんですか?」
「その肉、誰からだ」
穏やかに、しかし低く尋ねる。
ユードはにっと唇の端を上げた。
「俺からです。――じゃ、駄目ですか。そりゃそうですね」
茶化すような口調で言い、愉快そうに含み笑うと、あっさりと言葉を続ける。
「西国の貴族、アリューズナー家からですよ。より正確に言えば、ラシィ・アリューズナー様です」
「はああ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
彼らの会話は一切気にせず、美味そうな料理にばかり注目していた周囲の兵士や料理人たちが、びくっと振り向く。しかし注目を浴びるはめになってもオルヴァは問うことを止められなかった。
「ちょっと待て、なんでラシィ・アリューズナーなんて大物が出てきた? こんな、グランウォルグからは忘れられたよーな関所に食料なんざ――」
「忘れていませんよ。グランウォルグはちゃんとここを重要視しています。だからこそ、ここにグランウォルグの兵士が来る頻度が上がっているんですから」
当然のことのように、ユードはのたまった。「現に今回の派遣兵士の人数は、今まででも最大規模です。まあ、おかげで食料と寝床に苦労しているようですが」
「城には報告が来てないぞ!」
「ええ、まあ。ラシィ様が『当然のことをしているだけだから挨拶はしない』と仰られたので」
「いや待て、待て待てそれはおかしいだろ!」
当然のことだろうがなんだろうが。
他国の領域に兵士と物資を派遣することを、相手方に報告しないのはいかがなものか。
言外にそう告げると、ユードは軽く肩をすくめた。
「ラシィ様の判断は正しいと思いますよ? だってそちらの国王陛下、今グランウォルグとやりとりしてられる状態じゃないでしょ」
「……まあな……」
ぐったりと力が抜けた。
オルヴァは片手で顔を覆い、ため息をついた。あからさまな態度に、ユードが目を細めるのが分かる。
「……シレジアはそんなに難題を突き付けてきてるんですか。俺は詳しいことは知らないんです」
「難題とかそういう話じゃあない」
オルヴァは片眉を跳ね上げ、ユードを見返した。
他の兵士連中が息を呑んで彼らに注目している。緊張に引き締まった兵士たちの顔の奥に、好奇心の光も見えている――まあ、こんな話題を気にするなという方が無理だ。
もっともオルヴァが思い浮かべた事柄は、彼ら一般兵士もよく知っている事実だった。世の中には、残念ながら今更隠す意味もない、公然の秘密というものがある。
顔を覆っていた手を下ろし、腰に当てた。付け足す言葉は、簡潔な。
「ただ、うちの陛下はシレジア王家が大の苦手だってだけさ」
食堂に兵士たちが詰めかける。無骨なテーブルに並ぶ、ユードの指導による少ない肉料理と保存食。材料はすべてユードが持ち込んだものだという。貴重な香辛料までふんだんに使っているようで、食欲は否応なしに高まった。
(正しく言うなら“ユードの雇い主が魔法陣経由で送ってきた”わけだが)
地下食堂に充満する芳ばしい匂いに、皮肉を感じながらオルヴァもテーブルについた。
この関所は二十代の若い兵士が多い。こんな匂いで周囲を満たされれば、いかに南部人といえども大喜びで肉にがっつかずにいられない。エネルギー不足な今ならなおさらだ。
(……ラシィ・アリューズナー……か。グランウォルグ筆頭貴族の一人……“天才変人学者”)
そのあまりの奇人ぶりに、大貴族である実兄は一度彼と縁を切ろうとしたとも言われる。軍事国家グランウォルグにおいては珍しいことに、軍事とは関係ない方面の学者として大陸に名を馳せ、オルヴァも一度その姿を見たことがあった。マザーヒルズで行われた公開討論会に、かの貴族は主賓として呼ばれたのだ。
学問の盛んな南部には親しみを感じているとか何とかで、彼は時折南へ来る。
とは言え、平素は政治には興味がないと公言してはばからない人物である。まして兵士派遣に関わるだなどと、到底考えられなかったのだが。
(参ったな)
苦笑が漏れた。まったく、
狭い食堂。芋を洗うようにぎゅうぎゅう詰めになりながら、若い兵士たちは勢いよく目の前の料理に取り込んでいる。肉を呑み込む彼らの、なんと幸福そうなことか。
そんな食堂の片隅では、料理人の一人と談笑する吟遊詩人の姿。オルヴァは目をすがめて、心の中で独白する。
(――本当に、絶妙なタイミングでユードを送り込んできやがったな――西の狂犬ども、一体何を考えてやがる?)
「オルヴァさん」
兵士たちにまぎれて肉料理を平らげようとしていたオルヴァの傍らに、フリオがやってきた。
ん、と肉をくわえたまま顔を上げたオルヴァに、フリオは声を落とす。
「ラウル隊長が、貴方の今後の予定を聞きたがっていますよ」
「予定なあ」
ごくりと喉を鳴らして呑み込み、オルヴァは言う。「――いつも通りの予定だな」
「アルメイア辺りに行かれますか?」
「サモラも経由したいところだ。ウェスカも気になる。――で、ラウルはなんだって?」
「オルヴァさんにお願いしたいことがあるんだそうです。早めに隊長室へ行ってください」
「分かった。……西の被害状況はどんなもんだろうな」
世間話の体で何気なくつぶやいた。
扉が開くたび受ける被害は、国によって偏るのが実情だ。“迷い子”避けの《印》である白虎の地・西部は、強力な結界能力がある北部に次いで、被害が少ないのが普通である。おかげで何かと“迷い子”に狙われる南部人の中には、西部人をやたら目の敵にする者さえいる。職務上各地を渡り歩くことが多いオルヴァとしては、もっと西部と仲良くできたなら南部もいっそう栄えるだろうと常々思うのだが――そううまくいかないものだ。
時々思う。どうして、生まれた地域が違うことでこうも分かたれなくてはいけないのかと。
四神の存在が憎いわけでは決してない。だが一方で、その力に振り回される己らがもどかしい。
――ふと、
視線を伏せたオルヴァの脳裏に、とある三人連れが思い浮かんだ。
オルヴァは顔を上げて、フリオを見た。
「そう言えばフリオ。以前この関所を通った旅人三人連れを覚えているか?」
フリオはきょとんと目をしばたいた。
「旅人――? ああ、あの妙な三人ですか。東から渡ってきたという」
「そうだ。あの連中はあれ以来ここには来ていないのか?」
来てないですよ、とフリオは首をかしげる。
「奴らが今どこで何をしているとかの噂は?」
「聞こえてこないです。そもそも《扉》が開いてこっち、伝わる情報は限られていますからね」
「それはそうだが……《扉》が開いたからこそ、奴らの噂が聞こえてくるかとも思ったんだが。あの三人は、相当強いぞ」
「ああ」
うなずくフリオに、オルヴァは苦笑をみせる。
「あいつらがこの辺りにまだいてくれたら、“迷い子”を大分始末してくれたかもしれんなと期待するだろ」
残念ながらそれは儚い望みだったようだ。
“迷い子”の数が増加し、娯楽で他国へ出ようとするものはが限られている今の時代。
それでもなお旅をするという彼らなら――生まれた地域でお互いに壁を作るような真似はしないに違いないと、そう思う。
「彼らは今、どこにいるのでしょうね」
フリオは思い返すような面持ちで、そう言った。
さあなあと軽く答えながら、オルヴァは立ち上がった。そろそろラウル隊長の元へ行くべきだ――
そのとき、食堂の空気が不意に変わった。
オルヴァは反射的に振り返る。空気の動きの出所、食堂の片隅を。
雑音だらけでうるさいほどだった食堂が、一瞬で静まり返る。兵士も料理人も雑用係も、皆が一点に集中する。
その注目の先で――
吟遊詩人が優雅な所作とともに礼をした。
やがて、ゆっくりと顔を上げた青年の唇が、朗々とした唄を紡ぎ出す――
マザーヒルズの
故郷を離れ国境を守る兵士たちの心を、確かな強さで震わせる。
誰もがその声のぬくもりに浸り、傷ついた精神を投げ出し、癒しを求めて白昼夢へと誘われていく。
……オルヴァはただ、唄う青年を見つめていた。
檸檬色の髪をした青年は、その夕焼け色の瞳を閉じて、彼自身夢の中にいるかのような面持ちで唄う。この唄が、この声が、オルヴァは好きだった。
けれど青年が唄うたび、一方で痛みを感じるのだ。
オルヴァは小さくため息をつき、吟遊詩人に背を向けた。地下を出るための階段へと、足早に向かう――
青年が紡ぐ幻想の世界を、振り払うように。
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