第一章 終幕2

 風が誰かを呼んでくる。

 ふと見下ろした自分の足元にある影が、周囲のぬくもりに淡く溶けそうで、「春だな」とそんなことを思う。




「―――」


 ラナーニャは顔を上げ、一面の水平線を見つめた。


 海は広大だ。時には空よりも広く、果てない世界に見える。陽光を映してきらめくさざ波は痛いほどにまぶしく、それでも目を背ける気にならないほど美しい。


 ここは天国のような穏やかさだ。

 けれど心はここに留まらず、まったく知らない世界ばかり思い描く。


「……大陸は、今どうなっているのだろう」


 心にうずまいていたものを言葉にする。

 隣から、静かな返事があった。


「そうですね、≪月闇の扉≫が開いてから半月ほどですから。平和ではないと思いますよ」


 カミルの声は淡々としていて抑揚がない。まさしく述べているだけだ。

 ラナーニャは目を伏せた。


「……私は、大陸を知らないんだ。国から出たことがなかったから……。まして≪扉≫が開いたあと、なんて。きっと私の想像を超える景色なんだろうな」


 どうでしょうねと青年は曖昧あいまいな反応をする。

 そのまま会話ごと閉じてしまうのかと思ったら、意外なことに続きがあった。


「――むやみに想像するよりも、実際に目にするほうがいい」


 それはただ独り言にも聞こえたけれど。

 確かに響いた。彼女の心に、じっくりとみ入るように。


 ラナーニャは心の中で、彼の言葉を繰り返した。目を閉じ、一文字一文字を噛みしめる。



 耳の奥に潮騒しおさいが聞こえ、遠くには鳥の鳴き声が聞こえる。春の海の匂い。様々な芽吹きを思わせる匂い。

 新しいことが、きっとここから始まる。



 始まるといえばもうひとつ。ふと思い出したらつい口をついて出た。


「そういえば、誕生日……だったんだ。数日前に」


 人にとってはどうでもいい話だと、言ってしまってから軽く後悔したが、ありがたいことにカミルは興味深そうに「いくつになったんです?」と話を繋げてくれた。


「じゅう……十六。四月の、八日で」

「でしたらシグリィ様と同じですね。シグリィ様も今年十六になられましたから」


 ラナーニャは思わずカミルを見上げ、本当に――と問いかけた。青年はうなずき、思案するように視線を空に投げやる。


「八日ということは、肝心の当日にはシグリィ様の看護で何もできなかったわけですね。それは申し訳ない――このあと用意しましょうか」

「えっ、いや、そんなつもりじゃ、」

「いいんですよ。そういった祝い事はシグリィ様もセレンも喜んでやりますから」


 何か思い出すことでもあるのか、彼は苦笑気味にそう言った。


 ――祝う。誕生日を、祝うこと。


 思うことは山ほどあった。十五歳の最後の数日間で、何もかもが変わってしまって。

 とても現実とは思えないほどの激しい変化に、戸惑うばかりで。


 喪失感とか、悲しいとか寂しいとか――今はまだ、そんな簡単な気持ちさえ、浮かんでこない。


 ……思い返せば胸が張り裂けそうなほどの痛みに負けて、逃げるように日常に没頭していた。どれほど自分を情けなく思っても――


 痛みを忘れることが恐いから。強くなど、いられない。


「ラナーニャ」


 呼ぶ声がした。

 自分でも不思議なほど、まったく驚かなかった。ラナーニャはゆっくりと振り向いた。


 そこに、セレンを伴った黒髪の少年がいた。


「シグリィ――」


 すうと胸に清々しい空気を吸い込んで、言葉を吐き出す準備をする。落ち着いて。言いたいことは何度も練習した。まず真っ先に――


「……怪我は、大丈夫?」

「ああ。君のおかげだ」


 シグリィは穏やかに笑みを返してくれる。


 思えば彼と知り合ってからの半月近く、自分は彼のこういう表情ばかりを見ていた。時々困ったような顔もするけれど、おおむね穏やかで優しく、大きく感情を動かさないように見える。

 ――すぐに心を揺らす自分とは違って。


 何だか遠い人のようだと、そう感じる。

 この一週間ずっと彼の看護をしていて、彼が血も汗も流す人間だと肌で知っている、それでもなお。

 違う場所に、いる人のように感じてしまう。


 その理由が、ラナーニャには分からない。彼は 《印》を複数持っている特異体質だという。だとしたら、《印》をひとつも持っていない自分とは相反する。だからだろうか。


 それとも、別の理由だろうか――。



 ラナーニャ、と横からカミルの声。はっと我に返った。いけない、とラナーニャは両手を拳に握って腹の奥に力をこめる。何のためにカミルに頼んで朝から海へ来たのか。


 その理由なら、後から海岸に来た二人もとっくに気づいているはずだ。


「わあ、ラナーニャ」


 セレンが嬉しそうに両手を組み合わせ、目を輝かせた。「かわいいわその髪型! 似合うじゃない!」


「あ、ありがとう」


 ラナーニャは片手で自分の髪に触れた。


 カミルに短く切り揃えてもらったばかりの髪。こんなに短くしたのは人生初めてで、何だか落ち着かない。


 国で髪を伸ばしていたのはシレジアの伝統だ。守護女神が美しい長い髪の持ち主でも有名だから、シレジアの女性も髪を滅多に切らない。クローディアもそれで伸ばしていたし、リーディナも同様に。とりわけラナーニャは女神譲りの髪をしていると言われていたから、リーディナが中々切らせようとはしなかった。


 女神と同じ容姿と言われるのは辛かった。

 それでも伸ばし続けていたのは、他ならぬリーディナがそう望んだから。


 ――けれどもう、あの人はいない。


 今目の前にいるのは、まだ出会ったばかりだけれど、リーディナと同じようにラナーニャの命と心を尊重してくれた人たちだ。なぜ縁もゆかりもない自分にそうしてくれるのか――今の彼女には分からないけれど。


「決心、したんだ。この一週間ずっと同じことを考えていた。この先どうしたらいいのかなんてさっぱり分からないけど……とにかくまず自分にできること、と思ったら、こうすることが思い浮かんで」


 クローディアに色を奪われたこの髪。髪を整えるのはカミルが得意だとセレンに聞いていたから彼にお願いした。

 わざわざこの海辺でそうしてもらったのも、何もかも全て、


 新しく立ち上がるため。


 気が付けばシグリィと目が合っていた。彼はじっとこちらを見つめたまま目を逸らさない。

 その深い輝きの瞳を真正面から見て、動悸どうきが激しくなった。星の輝きを内包ないほうする夜空の色に吸い込まれそうで。


「……その、シグリィたちは、大陸に戻るんだろう?」


 問う。

 シグリィは軽くうなずいた。


「そうだな。もう少しだけ私の怪我の様子を見て、海に出ることに耐えられそうだと思え次第戻るよ。ジオさんも新しく舟を造ってくれているようだし」


「その後はどうするんだ? 大陸で――」


「とりあえずユキナさんの弟さんを捜す。そこから先は特別決まっていない。ただし《印》なき子供たちについてもう少し大陸で調べられることもあるだろうから、そうすることになると思う」


 ユキナさんとの約束だから、と彼は言った。

 ユキナの弟――ユドクリフという名の人物に、伝言があると。


 ラナーニャは「そうか」とうなずく代わりに、ぐっと唾を呑み込んだ。そして、


「私も、旅に連れて行ってくれないか」


 ――時が止まって感じるほどの一瞬が、あった。


 絶えず聞こえていた潮騒しおさいが消えた。風までもぴたりと止まった。遠くで一声鳴く鳥の声だけが、ひどく物寂し気に響く数秒間。


 シグリィは驚いた様子も見せず、ただ静かに口を開いた。


「この村は君を受け入れてくれるだろう。ここで暮らすほうが、生涯平和かもしれない。いいのか?」


「いいんだ」


 たしかにこの村には離れがたい何かがある。ここにいれば、自分は女神と同じ容姿の王族でも、《印》なきみ子でもなく、ただの一人の人間として生きられるのかもしれない。マーサたちも村の人たちも親切で大好きだ。彼らをこのまま島に置いていくのも後ろ髪を引かれるのは間違いない。


 けれど、一方で分かっている。


 この島で暮らしたところで自分はシレジア王族に生まれた人間であり、《印》はないまま。永遠にその事実は変わらないのだ。


「……オーディとクローディアが。ヴァディシス叔父様が、この先私を完全に放っておいてくれるとは、思えないから……」


 呟く。


 それを思えば途方に暮れる。彼らが自分を忘れ去ってくれるならまだいいかもしれない。しかしクローディアの分体のあの執着心を見れば到底そうは思えなかった。


 きっと今後も続くのだろう、弟と妹と叔父、血の繋がった親族との穏やかならぬ応酬が。


 ただ、それを分かっていてシグリィたちの旅についていくのも卑怯な話だ。いやでも応でも彼らを巻き込むことになるのだから。


 その迷いをラナーニャが正直に口にしようとしたそのとき、シグリィが不意に言った。


「ヴァディシス・アンバークローズか?」


 え、とラナーニャは目をみはった。


 ずっと穏やかだったシグリィの視線が真剣みを帯びる。答えをかされている気がした。

 慌てて、ラナーニャは答えようと努めた――歯切れのいい返答はできなかったけれど。


「お、叔父上はヴァディシス・……のはず、だけど……」


 実の叔父のフルネームに自信がないのかと責められてもぐうの音も出ないが、実際曖昧あいまいなのだ。

 何しろヴァディシス叔父は一度、王族としての権利を放棄した。そのときから長い間、守護名ミドルネームを名乗っていないのだ。多分、ラナーニャが生まれる前から。


 しかしシグリィは「なるほど」と言った。

 ずっとラナーニャから外さなかった視線を虚空に投げ、思案深げに揺らす。


「ヴァディシス・アンバー……アンバーロット、アンバークローズ……か。となると君はシレジアの――」


 言いかけて、「いや」と彼は首を振った。


 視線がラナーニャの上へと戻ってくる。まっすぐな夜空の瞳が、ラナーニャを包むような優しい光を湛えて彼女を見つめる。


「……君が誰なのかは、君の口から聞かない限り我々も知らないままなんだ。だからラナーニャ、教えてくれないか――君の、本当の名前を」


 唐突に――


 止まっていたときが動き出した。

 潮騒しおさいが、爽やかな風とともに鼓膜をそっと叩いた。


 ラナ―ニャは考える。己は誰なのか。考えてみればそれを、誰かに説明などしたことはなかった。自分で説明せずとも接する人々は皆当然のごとく最初から知っていた。彼女の肩に乗っているはずの肩書きも、それにそぐわない彼女の育てられ方も。


 父王とリーディナが何度も言い聞かせてくれたそれ。あまりにも自分に似合わない空っぽなその羅列を、ここで言ってしまってもいいのだろうか。


 けれどうつむきかけた彼女の意識に、そっと手を差し伸べるような視線がある。


 シグリィが、カミルが、セレンが、それぞれにラナーニャを見つめている。彼女の願いを――受けれるために。


 そのための、たったひとつの条件を今、口にすることさえできれば。


 ラナーニャの体はごく自然に新しい空気を吸い込んだ。

 大丈夫――それを彼らに言うのは恐くない。

 だって自分の生まれなんて、旅人である彼らにとっては何の意味もないのだから。


「私はラナーニャ――ラナーニャ・ブルーパール・イリシア。シレジア国第七十四代国王サイラス・トランスヴァールの第一子……だ」




 豊かな風に吹かれて、短く切った少女の黒髪が悪戯に揺れる。


 見えない何かが、たしかに彼女を包んでいる。少なくとも……シグリィにはそれがえた。

 それは自然の優しさだったのか、あるいは彼女を想う誰かの心の欠片だったのか。


 連れて行ってほしい、と彼女はもう一度シグリィに告げた。真摯しんしな眼差しで。


 シグリィは微笑する。


「……ジオさんが舟を造り直しているのは、〝帰りは小さいだろうから〟だそうだ」


 え? とラナーニャは首をかしげた。彼が何を言い出したのか、にわかには理解できなかったのだろう――


「メリィはさっき、今朝見た夢を絵にして見せてくれた。……私たちが舟に乗って海に繰り出すところだったよ。私と、カミルと、セレンと、ジオさんと――君と。


 きっと夢じゃない。小さな女の子は胸を張ってそう言った。思い出すと胸の奥がくすぐられるかのような、こそばゆい気持ちが湧いてくる。


「みんなお見通しらしい。まったく、誰も彼も鋭いことだ」


 ――そして、自分も。こうなることは分かっていたのに違いない。


 彼女をこの島から連れ出すことの意味。彼女を旅に連れていくことの意味。

 それは問答無用で、彼女の人生に巻き込まれるということ。


 三人で旅をしてきたこれまでとは、きっと何もかも違う日々になる。


 この島に残るように説得することはきっと可能だろう。そのほうがいいのかもしれない。思えば彼女に対するときの選択肢はいつだってこうだ――〝こっちのほうが彼女は安全に平和にいられるはずだ〟と、そう思える片方がたしかにあるのに、彼女自身がそれを望まない。


 そしてシグリィも。彼女の望みを無視することは本意ほいではなかった。〝そんなことのために知り合ったわけじゃない〟。


「約束は覚えているかな、ラナーニャ。君は私に、死なないようにすると言った――あの約束を、まだ有効にしてほしい」


 少女は表情を硬くした。やはりその約束は、彼女にとって重い意味を持つに違いなかった。

 それでも彼女はうなずく。ぎこちなくとも――「約束する」ともう一度。


 迷いながら傷つきながら、震えながらそれでも生きるための道に自ら踏み出す。

 その彼女の覚悟に、返せるものがあるなら。


「ユキナさんに言われた。〝あんな約束をさせた責任を取らないとね〟と。――ラナーニャ、私は君がそう約束したことを後悔する日が来ないように、力を尽くそうと思う。君が、私たちを必要としなくなるまでずっと。これが、私から君への約束だ」


 ラナーニャが一瞬、何を言われたのかが分からないようなぽかんとした表情をした。


 その目にみるみる理解の色が広がり――やがて、少女は顔をほころばせた。


 ありがとう――とラナーニャは震える声を絞り出す。泣き出しそうな気配があった。

 濡れる目元を慌てて隠した彼女のその手を、シグリィはそっとどけた。何となく、隠してほしくないと思った。だから。


 代わりに、指ですっとその涙を拭った。


「隠さなくていい。泣く自分が恥ずかしいなら、私たちがそれを拭うよ、ラナ」

「―――」


 ラナーニャの輪郭が凍り付いたように硬直し――

 一拍置いてその頬がみるみる赤く染まる。熟れた果実よりずっと初々しくて、正直微笑ましい色だ。


「そんっ、な、なんっ」

「……シグリィ様ぁ」


 ずっと黙って見守っていたセレンが、激しく動揺しているらしいラナーニャを一瞥いちべつしてため息をついた。


「なんだ?」

「……まあなんていうか、ほどほどにお願いしますね。今後が心配なので」


 見ればカミルまで困った顔をして横を向いている。シグリィは首をひねった。真心を伝えたつもりなのだが、自分は何か間違っていただろうか。


 分からない。


 きっとこの先も、分からないことだらけなのだろう。それが少し楽しみだ――と、そう思う。おかしな話だと自分でも呆れるけれど。


 未知は恐いことではない。少なくとも、今彼の目の前にいる少女の形をした〝未知〟と話す時間が心地よい。

 その事実だけで十分だ。



「シグリィ様。彼女は八日が誕生日だったそうですよ」

「誕生日?」

「それは聞き捨てならないわ! 絶対祝わなきゃ今すぐにでも祝いましょ何をしたらいいかしらとりあえずカミル、めいっぱいご馳走ちそうお願いね!」

「……この島では限度がありますが、まあ善処ぜんしょします」

「無理するなカミル。何なら料理だけ大陸に戻ってからやり直してもいいんだから。――ラナ、いくつになったんだ?」

「じゅ、十六……」

「ああ、やっぱり同じ年だったんだな。そんな気はした」

「……私はとても、同い年には思えない。シグリィのほうがずっと大人だと……思う」

「私は子供だよ。環境が違っただけで、君と同じだ。まだまだ世界を知らないし、何も分かっちゃいない」


 そう、だから。

 シグリィは手を差し出した。


「丁度いい。これから一緒に学んでいこう――この世界と、人々のことを」


 かなりのためらいのあと、同じ歳の少女はおっかなびっくりその手を重ねてくれた。その手を柔らかく握り、シグリィは春風のようにそっと微笑んだ。


 ……流れ星は人の姿をとって、地上に降り立つ。


 あの夜、流れた青い星は――

 本当に人となって地上に降り立った。


 あの青い星の行く先に惹かれずにはいられなかったこと。その意味を知る日が、いつか来るのだろうか。


「ラナーニャ、ほら、ウミツバメだ――シレジアから来たのかもしれない」


 少女は空を仰ぐ。遠くを見つめるその目のうれいはまだ晴れない。


 広い空に群れ成す鳥たちは、まるで旅立つ彼らの予兆のように、大きく翼をはためかせて行き過ぎた。




(第一章 完)

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