16 不吉という名の
「わ――私は、どうしたらいい?」
彼女はかすれた声で、そうシグリィに尋ねてきた。
「マ、マーサが責められているのは私のことでなんだろう。私は――あの場にいなくていいのか?」
「………」
すぐには答えず、シグリィは階下へと視線を移す。
この階段を下りれば、居間に出ることになる。今まさにマーサたちが来客と話しているその場所だ。
彼らの会話を最初から聞いていたわけではないが――
(……彼女のことだけではないだろうな)
マーサを非難する男性の声は、あからさまに険悪ではあっても苛立っているようには聞こえない。
おそらく、言葉以上に冷静だ。
マーサが何を言おうと考えを曲げそうにない程度には。
「一度部屋に戻ろう。私たちが出るとややこしくなる」
そう告げて、少女の腕を取った。
しかし彼女はまるで反射行動のように、逆にシグリィの腕にしがみついた。青ざめた顔に必死の色を浮かべて。
「それでいい、の――だろうか? 逃げていいのか? 当事者がこの場から離れて、それで、」
シグリィを責める口調ではない。純粋に疑問に思っているかのような声だ。しかし。
(
シグリィは内心眉をひそめる。
逃げる、という単語が出てくるのは予想外だった。彼は単純に、「この場は引いた方がマーサの邪魔にならない」と判断しただけだ。最優先すべきは世話になっている村の都合。シグリィは厄介になっている立場として、村に不都合な行動を極力取らない義務がある。
自分の都合もないとは言わないが、『下にいる来客と会いたくない』とは思っていない。必要があるなら直接対峙することくらい、大したことじゃない。
だが。
「その、あの人の言葉は――私が直接受けるべきではないのか? 攻撃されるべきなのは私であって、マーサたちじゃない――」
「それは違う」
シグリィは即答した。「彼らが今話し合っているのはあくまで『村の在り方について』だ。むしろ私たちは部外者だ」
「でも私が彼を納得させることができれば、あんな風に言われない……!」
彼女の声には、何か強い感情に押し潰されたかのような、悲痛な響きがあった。
語調は強いのに、遠くまでは聞こえない。そんな脆弱さとともに。
やがて少女はシグリィにしがみついていた手を離し、自分の頭を抱えた。
「――違う、私が悪いんだ――皆を納得させられない私が――だから人が責められて――私は陰に隠れて、いつも、逃げて、」
「落ちつけ!」
肩をつかんで揺さぶった。
少女は打たれたように顔を上げた。同時、
「そこにいるやつら」
階下から、刃のような声がした。
「さっきからぼそぼそと。聞こえてるんだよ“お客人”。こそこそしてないで下りてきたらどうだ」
ぎっ、と、椅子がきしむ音がする。
誰かが身じろぎした、ただそれだけのことが、緊張した空気の中でとげのように尖って聞こえる。
シグリィは半眼になって階下を一瞥した。――彼女だけを部屋に戻して自分だけ行くのがいいか。しかし今の彼女を一人にするのは不安だ。どうしたものか。
と、
「私は行く。シグリィ」
少女はそう言った。
シグリィは目の前の少女に視線を戻して、心から驚いた。
今までの混乱が嘘のように、彼女は落ちつきを取り戻していた。まるで「出てこい」と言われて安心したかのように――微笑みさえ浮かべて。
二人で下りていった先、居間にはマーサと向き合うようにして一人の人物がいた。灰褐色の髪を整え、眼鏡をかけた眼差し鋭い青年だ。その灰色の眼光が、下りてきた二人を値踏みするように眺める。
居間と玄関を繋ぐ辺りにはハヤナがいて、途方に暮れたように立ち尽くしている。
部屋の隅にはカミルとセレンが控えていた。そしてセレンの前には、なぜかチェッタがぐっと胸を張って立っている。幼いその目がこちらを見て不安そうに揺れていた。
「起きて大丈夫ですか?」
立ち上がったマーサは、シグリィが支える少女に駆け寄ろうとした。
少女はそれを微笑んで制した。
「大丈夫。……ありがとうございます」
シグリィが思うよりずっと、彼女の両足には力があった。だが――顔色の悪さは隠せない。
「………」
彼女の背中に当てた手を離す気になれないまま、シグリィはマーサが向き合っていた人物を見やる。
青年は眉間にしわを寄せたまま、
「……子供か」
とつぶやいた。
それがシグリィと少女、どちらについての言葉なのかは分からなかった。
「彼はダッドレイ。この村の一員です。……二人とも、騒がせてごめんなさいね」
マーサは青年を紹介し、丁寧に詫びてくる。
名のない少女は慌てたように何かを言おうとして、言葉を詰まらせた。言いたいことが多すぎたのかもしれない。
代わりにシグリィは、マーサに告げた。
「構いません。我々も“当事者”なんですから」
――当事者がこの場から離れていいのか?
狼狽した少女の言葉が、何かを訴えるように脳裏の隅で反響している。
よく聞く言葉のはずだ。なのにどうして今、こんなに響くのだろうか。
だがさしあたりは目の前のことだ――そう思ってマーサを見つめると、マーサは応えるように微笑み、それからダッドレイという名の青年に顔を向けた。
「レイ、こちらがシグリィさん。それからこちらが昨夜この島に到着した子です」
名前はまだだけれど。淡々としたマーサの紹介に、ダッドレイが文句をつけることはない。名無しくらいは特別珍しくはないのかもしれない。
「
と青年は言った。「ここに出てきたのは大したもんだな。賢いのか馬鹿なのかは知らないが」
俺は陰口を叩くのは趣味じゃない――そう言って、面白くもなさそうに表情を歪める。
「言いたいことは本人に言う主義だ。前置きは省く。俺はお前らがこの村にいることに反対だ。どんな理由があろうともだ」
清々しいほどにはっきりしている。シグリィは少し笑った。
気づいたダッドレイが、じろりとにらんでくる。
「何を笑ってる」
「いいえ。ですがダッドレイさん、我々はともかく――彼女まで弾き出すのは、いささか乱暴じゃないですか」
少女を支える手にかすかな震えが伝わってくる。
ぽんぽん、と軽く背中を叩いてやりながら、彼は続けた。
「彼女に《印》がないのは間違いない。だったらあなた方の仲間のはずだ」
「仲間?」
ダッドレイは鼻で笑った。
「仲間だなんてまだ認めていない。大陸の《印》なし全てが俺たちの仲間だなんて誰も決めていない――同じ病気を抱えていれば
――そんなことは、
「そんなことは基準にならない。重要なのは、この村を害する可能性のあるなしだ。従って《印》持ちが真っ先に除外される。そして俺は、その女もこの村の害になると思っている」
「根拠がない。天と地に異変があったとしても、彼女との間に因果関係はない」
『天に異変があるとき、地にも異変あり』。それが迷信だと言えないことはシグリィも知っている。自然界に異変があったとき、人間には見えないだけで、天も地も何かしらの原因を抱えているのだ。
だが、一方でそれは。
「『自然界には人智の及ばない何かがある』というのはつまり、人間に都合のいいように解釈もできるということです。天地の異変と彼女が関係あると言えるなら、同じくらい関係ないとも言える。例えば夜空に赤い流れ星でも流れたとして、その夜に大陸に生まれついた何十人何百人全員不吉だ、と言うくらい無意味だ」
「俺はそう言っているんだが」
ダッドレイは片目をすがめる。
シグリィは珍しく正直に眉をひそめた。
言い含めるように、相手はゆっくりとくり返す。
「
「―――」
「それが無意味? 可能性がゼロでない限り、起こりうる全ての事象を考えることの何が悪い。『そんなことはありえない』と決めつけて思考から除外することのほうが、俺には恐ろしい」
青年はそこで、ふっと息を吐き出した。
気を緩めたわけではない。次なる一言のための、充填とも言うべき一瞬。
椅子から緩慢に立ち上がりながら、彼は言った。
「俺は恐い。何しろ俺は無力の極みの《印》なしだ。神から見放されたんだ。そしてこの村は、そういうやつらしかいない。――力ある者が笑い飛ばせる小さな可能性に怯える、それがこの村だ。お前らには天地がひっくり返ったって理解できないだろうが」
「………」
シグリィは青年の言葉を、胸の中で反芻する。
ダッドレイの言い分に、言い返す言葉がないわけではない。例えばそもそも『天地の異変』自体、人間の意識やこじつけ次第でどうとでも言えるのだ。ダッドレイが生まれたその日の夜、実はひとつの星が見えていませんでした――だのなんだの、言い出せばキリがない。
だが――、
(……
大切なのは。
目の前の青年が言いたいのは。
ダッドレイが望んでいるのは、こんな屁理屈の応酬ではないはずだ。
青年が歩く足音がする。静まり返った室内に、不穏なリズムを刻む。
彼はやがて、シグリィの隣の少女の前で立ち止まった。
とっさに彼女をかばおうとして、シグリィはふと動きを止めた。――青年を見上げる少女の横顔は青白いまま、それでも怯えていない。
「……お前は言われっぱなしか?」
ダッドレイは低くそう言った。
名のない少女の唇が動いた。何度も何度も開きかけては閉じ、時おり噛みしめる仕種を見せる。時が経つだけ、ダッドレイの眼差しはいよいよ怜悧に研がれていく。
たっぷりとした間の後。
絞り出すように、彼女は言った。
「……私にだって力はない。私はあなたたちを害する気はないし、そうなる何かがあるとも思えない」
でも――。目を伏せて、少女はつぶやく。
「……居るだけで迷惑をかけるなら、ここから出ていくから……。だから、マーサたちを責めないでほしい」
「………」
あからさまなため息が返ってくる。
伸びた手が、少女のあごをとらえる。くいと持ち上げ、伏せられていた彼女の視線を自分のそれと合わせて。
「お前、肝心なところが見えてないな。それがマーサたちへの礼になるとでも?」
吐き捨てるようにそう言った。
とたんに、少女の体が凍りついたように固まった。
シグリィはダッドレイの手を払った。そして最初から彼女をかばっておかなかったことをひどく後悔した。
「レイ、もうやめて」
マーサが間に割りこみ、青年に向き直る。
「その呼び方はよせと言ってるだろう」
腹立たしげに言いながら退いたダッドレイは、「帰る」
と身を翻した。
「村の連中に言っとけ。俺に言いたいことがあるやつは直接来い。ほんの少しでも俺の言うことが分かるやつは、間違ってもこいつらが村にいることを許すな」
「レイ――」
言葉を失っていたチェッタが、魔法が解けたように顔を真っ赤にして「二度と来んな!」とわめき散らした。
呆然と立っていたハヤナを押しのけ、部屋を出ていく直前に、ダッドレイはわずかに振り向いた。「マーサ」と、村の長たる娘に向かって。
「ユキナの真似事は、お前には似合わない。自分の器を早く知るべきだな」
マーサはそれでもまっすぐに彼を見返した。
「私はこれが最善だと思っているもの。変えないわ」
ふん、と鼻を鳴らして青年は出て行った。
――嵐が過ぎ去り、あとに残されたのは濁ったようなしこりだけ。
「ああ緊張した!」
セレンがとても緊張していたようには思えない声でそう言って、うんと伸びをする。
彼女を振り返ったチェッタが、感極まったように抱きついた。
「あらあらどーしたのチェッタくん」
よしよしとチェッタをあやすセレン。黙ってそれを見ているカミルの表情からにもすでに緊張はない。
マーサはシグリィの隣で硬直している少女に向かい、「本当にごめんなさい」と謝った。
「村の意識を統一できないのは、私の責任だわ」
いいんだ、と少女はゆるゆると首を振った。
「……彼は私の言葉を聞いてくれたから。だから……いいんだ」
歩こうとして、ふらりと足元をふらつかせる。
抱きとめたシグリィに寄りかかり、彼女はつぶやいた。道標を失った迷子のような声で。
――
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