第一章 雫は波紋を起こす―1

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 ゼーレは現在街開発推進中である。


 街の発展に伴い、人々は住みよい家を求めて引っ越すようになった。そのため、一昔前は居住区だった地域が現在はうらぶれている。人々は変化を優先し、元の場所を再利用することにまで意識が回らなかったのだ。


 けれどそれも時間の問題だろうと、フロリデは考えている。


 去年就任したばかりの副町長に押され気味だが、穏健派の町長は細かいところに気が回る人物である。街の敷地を広げることで街人の気持ちをひとしきり高めた後、きっと捨てられた居住区の再開発にも乗り出してくる。


 つまり、ここらで好き勝手していられるのも今の内だ。


 元居住区の隅。ここはフロリデや一部のゼーレ住民にとって、都合のよい集合場所だった。


 人のいなくなった民家の軒先の下、色々な情報を交換するのが彼らの日課だ。今日の場合は、民家のひさしが丁度よい雨よけになる。


「最近町長派と独立推進派の仲が険悪になってるってさ」


「はあん。どーせ先月の森の一件のせいだろ? あの森はゼーレを独立させるための鍵のひとつだったしなァ……独立派が怒り狂っても驚かないぜ」


「そうそう。案の定保護協会にしつこく書状を送ってるみたいだよ。協会はまるで聞く耳を持っていないようだけどね」


「愉快だねぇ。エルレクの御大と副町長は犬猿の仲だろうよ。あいつらのケンカは傍から見てる分にゃいい暇つぶしだ」


「よしなよ、町長が心痛で倒れてしまうよ」


「はん。長のクセに人が好すぎんだろ。ところで」


 フロリデ姐さんよ――と、ゴードは緩慢な動作でフロリデを見た。


 まるで干からびた動物のごとく痩せ細った男だ。骨と皮だけ、という表現がとても似合う。もう三十は軽く過ぎているだろう――ひょっとしたら四十も越えているのかもしれない。薄いひげを撫でながら目を細める。


「ちょいと興味があるぜ。森が枯れたのはアークのせいなんだろが? どうしてそれが表沙汰になってねえんだ」


 男の隣でもう一人、こちらは十代半ばにもなっていない少年クルトが、つぶらな瞳でフロリデを見上げている。

 知らないよ、とフロリデは吐く息とともに言い、肩にかかった豊かな黒髪を後ろに跳ねやった。


「その森の一件とやらァ、アタシは全く噛んでないからね。どうせ協会側が処理をミスったんだろ」


「でも、大ポカすぎやしないかなフロリデ姐。あの一件、やろうと思えば全部アークのせいにして、犯罪人として精霊保護協会全体でアークを追うこともできたと思うんだ。むしろ大喜びでそれをやってもおかしくないよ」


 クルトが利発な目を瞬かせる。「確かにな」と、ゴードが笑う。


「まァね。でも、どうやら協会は異様にアークを警戒して近づきたがらない部分があるからねェ――」


 ま、助かるよとフロリデは細い腰に両手を宛ててにんまりと笑った。


「アタシのアークに手を出そうってンなら、アタシも黙っちゃいられないしね」


「そーいやヤツに結婚迫るのもうやめたんか?」


「やめるわけないだろ」


「……いかにフロリデ姐といえども、さくっと諦めた方がいいことが世の中にはあると思――」


「おや生意気なことを言うのはこの口かィ。フロリデ姐さん特製の精力活性剤(註:激辛)の実験台に丁度よさそうじゃナイか」


「嘘です僕が間違ってました許してください」


 全身を縮めて拝む少年。隣で骨男がヒッヒッと愉快そうに引きつり笑いをした。


 民家の屋根を伝った雨がはたはたと彼らの傍らに落ち、リズムを刻んでいる。

 ふいに冷たい風が吹き、フロリデはコートの襟をきつく寄せた。


「寒いねェ」


 吐く息が白く染まる。軽く空を見やって肩をすくめた彼女は、すぐに視線を骨男と少年に戻した。


「で、他に何かあったかィ?」


 拝むのをやめたクルトが、歳相応に拗ねたような顔で答えた。


「特別何も。……アラギのオッサンが相変わらず好き放題してるから、要注意かなってくらい」


「そらいつものこったろ。つーか、ヤツはまだおっさんって歳じゃねえぞ、言ってやるな」


「オッサンだよあんなきったない無精ひげ。いつも思うけど似合わないよねあのオッサン。ひげは男のステイタスとかサムいコト考えてそーだよね。ただでさえ怪しいんだからせめて身なりは人並みにしといてほしいよね、もう歩いてるだけで犯罪レベルだから警備隊に捕まってもいいと思うんだ」


「……よっぽど仕事の邪魔されてンのかィ」


「邪魔ってレベルじゃないよあのオッサン! いっつもいっつも僕の情報網を荒らしてくれて、しかも何を基準に動いてるのかさっぱり分かりやしない! おまけに神出鬼没とか、もう迷惑すぎるからそのうち精霊術マギス失敗させてどこか遠い世界へ飛んでっちまえあの腹の底まで真っ黒不審人物!」


 少年は両手を鉤爪の形にしてクワアッと目力を放つ。ゴードはこらえきれずに笑い出した。ひーひーと苦しそうな骨男の呼吸を聞きながら、フロリデはやれやれと腕を組んだ。


「ま、アラギのやつに要注意なんてのァ今に始まったこっちゃないサね。今日はとりあえずそんなトコか。独立派にしろ精霊保護協会にしろ不安定だから、刺激するようなことは避けた方がいい。みんなに徹底させておいで、二人とも」


 合点、と苦しそうな息の合間にゴードが応じた。

 むすっとしたままのクルトを苦笑して見たあと、フロリデは改めて空を見上げた。


 まだ昼間だと言うのに、雨雲に覆われた空はどんよりと暗い。ゼーレでは本当に珍しい空の模様だ。陽気で気まぐれなゼーレの住民たちにも大きく影響を与えるかもしれない――


「困ったもんだネェ」


 フロリデは深くため息をついた。


 ベルティストンからさらに西。〝その他〟と揶揄される国々からやってきた彼女らにとってゼーレが住みよい場所になる日は、まだまだ遠そうだ。


 だが諦めてこの街を出ていくつもりもない。「そろそろ帰ろうかね」とフロリデはコートを手で払って整えた。


「何かあったらいつでも連絡するンだよ。アタシらァ人数が少ない分、速さと密さだけが取り柄なンだ――ン――」


 何気なく周囲を見渡した彼女は、ふと人影を見つけて怪訝な顔をした。「何だィ、あの子」


 つられてゴードたちがフロリデの視線をなぞる。その先に――


 やや遠く、人気のない殺風景な元居住区の横道からふらりと現れたのは、若い娘だった。雨をまともにかぶりながら、おぼつかない足取りでこちらに向かっている。


 目をこらしてよく見たフロリデは、すぐに気づいて表情を険しくした。


 あれは精霊保護協会のローブだ。


 男たちも同時に息を呑む。そのローブを着る人間は、彼らにとって町中で気楽に会える相手ではない。場合によっては逃げなければいけない。だが、


「……あの子、危ない」


 クルトが呟いた。と同時。

 ふらりと――娘は体を揺らし、そのまま地面に倒れ込んだ。


「………!」


 フロリデは急いで駆け寄った。しとしとと降る雨はリズムを変えることなく娘の体に降り注ぎ、重くのしかかっている。このままでは体が冷える。即座にコートを脱いで娘の体を包みながら抱き起こした。くたりと力の抜けた体に反応はなかったが、体温も呼吸もある。まだ大丈夫だ――


「しっかりおし……! 二人とも、手伝ィな!」


 呼ばれて、ゴードたちも慌てて走ってくる。雨に濡れた元居住区の一画がにわかに慌ただしくなろうとしていた。

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