第二話 ~記憶は水鏡に映して~

プロローグ

『ルクレシア・エルセンに関する報告書――

 年齢・十七歳 性別・女

 父・モーリ・エルセン【ゼーレ支部 教授】

 母・ナンナ・エルセン【ゼーレ支部 地の渡し人】

 弟・パンデット・エルセン【ゼーレ支部 十三歳】

 妹・クリスティーナ・エルセン【ゼーレ支部 十一歳】

 

 体質――

 水A 地A 風B 火B


 備考:成績は学年上位五名に名を連ね、入学当初より落ちたことなし。運動・良。

 過去に大きな問題なし。当案件における問題点なし――』


     *****


「森を死なせたそうですな」


 支部長室にやってきた男は、開口一番のんびりとそう言った。「ふた月ほど留守にしてみれば。いやはや驚きましたよ、支部長殿」


 わざとらしく頭を振り、遺憾の意を示す。


 薄くなった頭髪が申し訳程度に揺れる。二か月前に見たときよりも色が黒い気がする。どうやらベルティストンで腕のよい理容師にでもかかったらしい。


「驚かせてすまなかったな、ガンディーナ教授」


 グレナダ・エルレクは支部長机に両肘をつき、顔の前で両手を組んだ。


 ――厄介なやつが戻ってきた。その思いを隠すことなく、渋面で。


 ゼーレ支部において最も地位の高い男のあからさまな表情を、メデス・ガンディーナは片目を細めて見た。これはこの男の癖だ。不愉快を表すときの。


 睨みあいがしばし続いた。二人の間には確実に、目に見えぬ亀裂がある。


 やがてメデスは、ふんと傲岸に顎をそらした。


「驚くどころじゃすみませんな支部長。あの森がどれだけ重要だったか――まさか理解できてなかったわけではありますまい?」


「分かっているとも」


 エルレクは目線をメデスにやりながら、視界の端でもう一人この部屋にいる男を確認する。


 ヨギ・エルディオスはいつものように、まるで影のように壁際にいた。実際、本人も自分を影だと信じているかもしれない――直立不動でそこに佇んだまま無反応でいるさまは、時折存在感を曖昧なものにさせる。


 それでもエルレクは、片腕とも呼べるこの男の存在を無視したことなどない。

 だが、この支部内にはヨギの存在を厭う者も多かった。その筆頭が今目の前にいる教師長だ。


「何でもエルディオス君がミスをしたと伺ったが」


 メデスはことさらその名を強く発した。ヨギの方を一切見ることないまま。


 ヨギは動かない。エルレクは、ゆっくりと口を開いた。


「そうではない。全責任は私にある。〝常若の森〟は確かに≪終焉の刻≫を迎えた。アリム少年は森から離れ、現在このゼーレに住んでいる」


「それだけが不幸中の幸いですな。アリム君の存在はまだ惜しい。私の研究はまだ終わっとらんのです」


 ふん、と動作のたびに鳴る音はおそらく鼻息だろう。小太りのこの男がそれをやると、どうにも動物的な滑稽さがある。若い教師たちの中では、ひそかにヒュースをもじって「ヒューサー教師」と呼ばれていると聞いた。若い連中というのは、正直な分正しい。


 何年経っても協会のローブが似合わないこの男は、これでも第一線の教授――教師の最高位――なのだ。少なくともベルティストンにある本部から、わざわざ「教師長として置くように」遣わされただけの実績はある。エルレクも、メデスの研究の重要さは深く理解している。


 ただ、それでもメデスはあくまで「本部が任命した」教師長であり、エルレクがすすんで重用したわけではない。

 その事実は常に火種として彼らの間でくすぶっている。


 それからひとしきり、メデスは森についての嫌味を言い続けた。煩わしいことこの上なかったが、甚だ参ったことに批判の大半は事実だからエルレクも黙って聞くより他なかった。


 ゼーレの北東、〝常若の森〟が≪終焉の刻≫に入ってから、もうじきひと月が経とうとしている。


 より端的に言えば〝枯れ始めて〟から――だ。


 長く無理を通してきたあの森に襲ってきた反動は、一夜にして終了するものではなかった。アリム少年の前に精霊が姿を現したあの日から、ゆっくりと、だが通常の森の枯れ方よりは遥かに早く、終わりに近づいている。


 今ではもう森の三分の一の葉は落ち、そして裸になってしまった樹には復活するだけの活力が見られない。おそらく土壌自体も変化しているはずだ。そうなると、人工的に木々を蘇らせるのも難しいだろう。


 どのみち、あの森を存続させようと努力する理由がエルレクには――精霊保護協会にはなかった。

 協会が欲していたのはあくまで〝光を自ら生み続ける精霊たち〟が棲みついた森である。

 あの森はその意思を捨て去った。ならば協会にとっても用済みだ。


 もちろん、この件に関してはベルティストン本部から大層なお叱りを受けた。ゼーレという特別な街に支部を置くにあたって、エルレクほど都合のよい者はいないという事実がなければ、とっくに左遷されているはずである。エルレクはゼーレ出身であり、この地には血縁その他縁者が多かった。ゼーレは縁が何より重要な〝商都〟だ。ベルティストンとメガロセィアの二大大国の間に身を置く唯一の街。


 そこまで考えて、顔をしかめる。

 今の彼には森やメデス教授以外にも頭を悩ませる事案があることを思い出したのだ。


「――ですから、もうひとつの調査については決して失敗することはできんのです支部長殿」


 ふいにメデスが声のトーンを変えた。元々高めの声が、さらに高くなる。エルレクはうろんな視線を投げやった。


「……もうひとつの、か」


「そうです。『女神の左目』についての調査です」


 教師長は胸を前に突き出した。腹も出ているから、見た目には風船が膨らんだように見える。


 ヨギがひそかに、窓の外へと目をやっている。部下が何を確かめたのか、エルレクにも分かっていた。


 ここ数日は天気が悪い。冬の寒さが一段と厳しい時期に雨が続いている。今日もさらさらとした雨が降っていた――それがもうじき、雪に変わるだろうと街人は予想している。

 ゼーレでは雪はとても珍しい。そもそも、雨量もさほどない土地柄だ。寒さならば十分あるが、やや湿気に欠けるのである。近場に山脈がないからなのか、それとも風が強いからなのか、詳しいことはわかっていない。様々な事情で、この土地は風土学者が立ち入らない。


(思えば常若の森の件のころから、天気は悪くなっておったな)


 思い出すと苦い記憶が胃の底ににじみ出る。

 まるでそれに不愉快をかぶせるかのように、メデスが勢いづいた。


「今は『女神の左目』についての調査をするに絶好のタイミングですな。ただちに実行に移すことを提案いたします。私は独自にこのことについて人選をしました」


 ずっと背後に隠していた手を前に持ってくる。幾枚かの書類が握られていた。


「――五人ほど確認させて頂いたが、やはりこの娘が適任のようですな。ルクレシア・エルセン。エルセン教師ならば私もよく知っている。支部長殿はご存じですかな」


 名前なら知っている、と答えた。


「その妻の方なら話したこともある」


「ナンナ・エルセンは渡し人ですな。まあ、よい条件でしょう。教師と渡し人――これらを両親に持って、不自由な生活をした者を私は寡聞にして知りません」


 メデスは満足そうに、書類に落としていた目をエルレクに向けた。


「というわけで、支部長殿。ルクレシア・エルセンを『女神の左目』の調査員として推薦いたします。これは急を要する案件です。調査期間は長く見積もってもひと月。春の気配が見えてきてしまったら、『女神の左目』の意義は様変わりしてしまう」


 分かっている――

 うんざりした気分でエルレクは片手を挙げた。

 今ここで、あっさり「私も『左目』は興味深いと思っている。やれ」と言ってしまえないのが心の底から腹立たしかった。それもこれものせいだ――


 しかしエルレクが口を開く前に。


「……〝背く者〟の機嫌を伺うような真似は、よもやされませんでしょうな、支部長殿?」


 メデスはエルレクの言葉をさらった。


 教師長の目が――驚くほど淡い茶色をしていながら、驚くほど粘着質な瞳が――暗い光を灯してエルレクを見つめていた。


「これは意趣返しとも言えるでしょう。今回の案件のことが〝背く者〟の耳に入らなければそれはそれでよい。入ったならば――今度こそ、仕留めてしまえばよろしい。それを本部に送れば森の失態を十分取り戻せましょう」


 本部も腹に据えかねておるようです、とメデスは言った。

 エルレクは舌打ちした。


 同時に脳裏をよぎった声がある。それはあの森が枯れ始め、アリム少年を奪われてすぐのこと。

 突風と共に届いた謎の声――


『何度でも挑戦すればよい。手を貸してやる――』


(あの声のことも分からぬままだ)


 ヨギに調べさせても、あの声、あの腕が誰のどんな力だったのかが全く分からない。手がかりさえなかった。そんな声を宛てにするなど愚かすぎる。だが……


(あの声はアークと因縁があると言った。もしもそれが真実ならば……少なくとも我らの不利益になる可能性は低い)


 二度の失敗は許されぬ。エルレクはしばし沈黙する。


 だが――実のところ、選択肢はなかった。認めたくないが、メデスはつい先日本部から帰ってきたばかりなのである。

 メデスは森の終焉を本部にいる間に知った。そしてこのタイミングで帰ってきて、『女神の左目』の調査を口にする。ということは。


 ――これは本部命令と同じだ。


 それでも、即答するのはプライドが許さなかった。問題が多すぎることは事実なのだから。


「その前に、念のため言っておこう、ガンディーナ教師。我が街ゼーレは今、大変微妙な状況だ。ゼーレ独立運動が激化し、その推進派である副町長から連日うるさい書状が届くのだ」


「知っていますとも」


 メデスは待ち構えていたように即答した。「それもこれも、森の一件のせいですな。ええ。しかし今回の件は彼らに邪魔される筋合いはない。ゼーレにとって大切な財産である『女神の左目』を調査することは、保護することにも勿論繋がるのです」


 私は、あの地をつもりはありませんよ。

 ことさらゆっくりと、メデスは言った。


 苦々しい思いでエルレクはその姿を眺めた。アークを相手にしたときとはまた別種の忌々しさだ。

 何より忌々しいのは、この男が自分の部下でありながら、部下の範疇を超える権限を持っているという事実。


 込み上げてくるものを宥めすかすのに時間がかかった。


「……ルクレシア・エルセンについて、もう一度確認を取らせてもらおう。私の方法で」


 窓の外で、ゼーレの冬につきものの風が吹いた。

 窓がきしみ、室内の空気が一段階冷え込んだような錯覚が起きる。


 エルレクは腹の底を温めるかのような強い口調で、言葉を続けた。


「その上で許可する。ルクレシア・エルセンには私から通達を出す。それまで勝手なことはしないでくれたまえ、ガンディーナ教授」


 早めにお願いしますよとメデスは笑みと共に言った。完全にメデスに主導権を握られていることが、エルレクは心の底から腹立たしかった。


 *****


 雪になりそう、とルクレは思った。


「何年ぶりかしら……」


 自室の窓をほんの少しだけ開ける。滑りこんできた外の空気は、とても久々の気配を漂わせていた。――たっぷりとした水の気配。


 もっとも、改めて確認するまでもなく、ここ数日家族も協会員仲間もしばしばそのことを話題にしていた。珍しく雲の量が多い。雨も長く続く。冷え込みも十分だ。


(雪かきなんて久しぶりね。ああ、生徒の中には雪かきを知らない子もいるんだわ。気をつけて指導しなきゃ)


 そっと窓を閉め、ふうとため息をつく。


 この部屋には小さな暖房器具しかない。しかもルクレはつい先ほど仕事から戻ってきたばかりで、火を入れて間もなかった。彼女を包む空気はまだまだ冷たく、息は真っ白に染まる。


 ルクレは精霊保護協会において、教師補佐をしている。弱冠十七歳、まだ新米だ。補佐とは名ばかりで、実際には雑用ばかりしているのだが、それでも順調に行けば二十になる前にちょっとした講義をさせてもらえる予定だった。


 父は現役の精霊学教師。母は地属性の渡し人。友達も羨むほど絵に描いたような安定した家庭に育ち、熱心に勉学に励んだおかげで成績もトップクラスを保っている。おかげで協会の敷地内に、狭いながらも個人の部屋を貰っている。このまま何事もなければ教師になれるだろう。父や友達は教授にも辿りつけるに違いないと言うが、それは夢を見すぎだとルクレは思う。


 そこまでの出世は望まない。

 ただ、協会の役に立てればいい。


 閉め切った窓に両手を当てる。額をガラスにくっつけた。そのひんやりとした感触と、徐々にぬくもってくる背後の空気の狭間が、ふしぎと心地よい。


 少しばかり疲れているのは、先月の出来事があったからだろうか。


 〝常若の森〟が終焉を迎え、協会は騒然となった。誰もが貴重な場所を失ったことを嘆いたが、ルクレはそれとは別に悲しんだ。


 ――アリムさんが、協会に来なくなってしまった。


 あの事件の折、アリムという名の少年の世話をしたのはルクレだ。ルクレにとってそのお役目はとても心躍るものだった。〝常若の森〟はルクレのような一介の協会員にとっては聖地のような場所だ。アリムはそこに住んでいたのだ。


 なぜ森に住んでいたのかまでは、ルクレは知らない。だが少なくとも、アリムはあの精霊豊かな森に入ることができた。ならば精霊にとても愛されていたはずだ。それが、ルクレにとっては何よりも意味のあることで。


(もう協会にはいらっしゃらないのかしら)


 ルクレはアリムを好ましく思っていた。終始とても憂鬱そうにしていたけれど、素直さは隠しきれていなかった。こんな弟がいたらいいなと心から思った。ルクレの実弟はとても腕白で悪戯好きで、目上の人間の言うことなど滅多に利かない。もちろん、弟のその反抗的なパワフルさは、それはそれでやっぱり愛おしいのだけれど。


 吐息とともに、額を窓から離した。


 曇った窓ガラスの向こうにしとしとと降る雨。ルクレはふと思い出す。そう言えば、めずらしく雪の降る年には、何かがあると父から聞いたことがあるような――


 重いノックが唐突にルクレの耳を叩いた。


 ルクレはすぐに返事をした。補佐長だろうか、それとも友人の誰かだろうか?


 急いでドアを開け、ルクレは跳び上がりそうなほどに驚いた。


「失礼。ルクレシア・エルセン」


「ヨギ様……!?」


 特徴的な灰色の髪に細面。長身で、静かなたたずまい。低くひっそりと渡る声。


 途端に心臓が早鐘を打ち始める。ルクレは思わず両手で胸を押さえた。――先月の少年の世話役が楽しかった理由はもうひとつある。滅多に会えない、この人と直接話す機会に繋がったからだ。


 ヨギは部屋に滑り込み、後ろ手でドアを閉めてそこに立った。ルクレは戸惑いながらヨギを見上げた。


 灰色の目をした上司は無表情でしばらくルクレを見ていたが、やがて薄い唇を開いた。


「近く新しい調査が始まります。それにあたって、ルクレシア・エルセン、あなたに頼みたいことがある。今すぐ支部長室へ」


「新しい……調査、ですか?」


 困惑気味にそう呟いたルクレの脳裏に閃くものがあった。そうだ、父が少しだけ言っていたのはこれだ。雪が降る時期にしかできない調査があると――


 ルクレは花がほころぶような笑みを浮かべ、「今すぐ参ります」と答えた。


 大好きな協会の役に立てる。それは彼女にとって至上の喜びだ。「ローブに着替えます」と伝えると、青年は頷いて部屋の外へ出てくれた。


 ルクレはクローゼットに向かいながら、首をかしげた。――ヨギ・エルディオスは影のような人だ。影は単独では心を見せない。他人にそれをはかることなど不可能だ。だから。


 一瞬ヨギの表情に陰が差したように見えたのは、きっと気のせいだったに違いない――


 *****


 しとしとと降る雨を風がさらう。

 空にはどんよりとした雲が、いつになく嵩を主張しながらゆっくりと流れている。凍えるような冬の寒さ――


 雨の中で見るゼーレの街はまるで膜があるかのように、どこもかしこもぼんやりと滲んでいる。


「……雪が降る……?」


 アークは民家の屋根の上に座ったまま空を見上げた。


 耳を水気を帯びた風が撫でる。彼が親しんでいる風の囁きも、今日は口数が少ないようだ。


 ゼーレで雪は珍しい。事実、アークがこの街に始めてやってきた去年の冬には見られなかった。


 それが、降る。

 風たちは、何故かそのことを何度も繰り返す。


 雪がどうかしたのかと、アークは囁いた。前髪がわずかに水滴を零した。雨に濡れることを厭わない青年は、それが目や口に入らない限り、拭うことさえなかった。


 風の囁きが新たな単語を伝える。どことなく面白がっているようでいながら、一方でどことなく警告しているような響きもあった。


 アークはすっと目を細めた。風の言葉を確かめるように唇にのせて。


「『女神の左目』……『水鏡の洞窟』、か」


 森が終焉を迎え、ひと月。また何かが起こるのだろうか。


 胸騒ぎのままに彼は呟いた。


 ――今度は誰が泣くことになる?


 見上げる空は低く、はたはたと雫を落とし続ける。

 見通しの利かないその光景は、彼の上にも重々しくのしかかろうとしていた。

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