第三章 其れは見えない悲しみ―1
「“ゼルトザム・フェー”?」
エウティスはその置手紙を何度も読み返し、軽くうなった。
「ははあ……。さては街はずれにある、あの怪しい店のことか」
アリムは危うく、口に含んだ紅茶をふきだしかけた。
「あ、あやしい、みせ……?」
おそるおそる尋ねると、やや太り気味の伯母―アリムの記憶にはないが、父もこんな体格だったらしい――はこっくりとうなずく。
「この街でわざわざ協会の保護を受けずに精霊具専門店をやるあたりで、もう怪しいだろう?」
「協会の保護を……?」
アリムは今、エウティスの家の居間にいた。疲れた体に悪くないようにとぬるめにされた紅茶をちびちびと飲む。傍らでは、ぱちぱちと暖炉の火が燃えていた。部屋の中はほんのり暖かい。
居間とつながったところにあるキッチンで、親切な伯母は手紙を片手に、もう片方の手で砂糖を入れたミルクをかきまぜている。
「それにしてもねえ……おかしな話だ」
エウティスはしきりに首をかしげていた。
「何が?」
「だって……ごらんよこの手紙の最後を。“我が心、精霊とともに”――こんな文句を使うからにはメガロセィアの人間か保護協会の人間だと思うんだけどね」
それなのにあの店かい、と心底訝しげに。
アリムは言葉なく、ただ紅茶を一口飲んだ。
精霊保護協会。精霊学都市ベルティストンが生んだ、世界最大の精霊に関する協会のことだ。その名のとおり、協会は精霊を“保護する”ために存在する。その本部はベルティストンに、そして支部はほぼ世界中にあると言われている。
もちろんこのゼーレにも。
アリムは目を伏せる。
脳裏に否応なく思い浮かんだ。――あの、精霊の像で飾られた荘厳なる建物。いつもならば精霊学を学ぶために、喜んで足を運ぶ場所なのに。
紅茶のカップを、そっとテーブルに置いて口を開いた。
「……じゃあそのお店は、マギサ・エルガシアのお店なのかな」
「
その言葉を聞いて、エウティスはふと虚空を見る。
「そう言えば、そうとも聞いてないよ」
「違うの?」
「違うんじゃないかねえ。何しろそこの店主はずーっと西のほうの国から来て、メガロセィアにもベルティストンにも執着していないとかで。あくまで自分流を貫くとか言って―この店の名前も、祖国の言葉なんだってさ」
「祖国の言葉?……何か意味があるの?」
「“不思議な妖精”」
答えて、エウティスは大げさに息を吐く。
「――呆れたもんだろう? 精霊じゃなく、妖精って名づけてるんだよそこの店主は……!」
「………」
「それも含めて怪しいってことさ。アリム、この手紙は無視したほうがいいかもしれないねえ」
ミルクをかきまぜるのを止め、エウティスは手紙を台に置いた。それからパンを取り出してくると、「食べるかい?」とアリムにそれを差し出す。
アリムは少し迷ってから首を振った。
森を出てから何も食べていないとはいえ、今は疲れが先にたって食欲がない。
そこのところは理解してくれているのだろう、エウティスは気を悪くしたふうでもなくあっさりとキッチンに戻り、そのパンをミルクの器に浸した。
てきぱきとしたその動きを目で追いながら――アリムはぽつりと言った。
「……命の恩人……だから」
「そうとは言ってもね」
大体この人は――と婦人はキッチンにしまわれていた袋を取り出しながら、ちらっと台の上の手紙に目をやり、
「――何のためにあんたんとこの森にいたのかねえ?」
袋の中からは、木の実。それが小さな器に盛られていく。
「―――」
「あんたんとこの森は、精霊保護地域になってるはずだろ。へたに出入りはできないじゃないか」
「そう……なんだけど」
「協会の許可がなく森に入ったとしたら、それこそ怪しいね。――っと、来た来た」
とんとん
キッチンから外につながる裏口が、ふいにノックされた。
はいはい、とエウティスは気楽な様子で扉に手をかける。
その一瞬、アリムは緊張した。
きい、と古い扉がきしみながら開く。
「いらっしゃい、食事の用意はできてるよ――ああ、ありがとう」
エウティスが笑顔で言っているのが見える。
扉の向こうから――宙に浮いた薪の束が家へ入ってきて、どさりとキッチンの隅に置かれた。
「今日もたくさんあるねえ。助かるよ」
エウティスの柔らかい手が、彼女の腰のあたりの空中で動く。とてもやさしい手つき……
まるで誰かの頭をなでているかのように。
――いるんだ。
そう思うと同時に、深い落胆。
――やっぱり、見えない。
アリムの見つめる先で、伯母は用意していたパン入りミルクと木の実の器を誰かに渡す。
器が空中に浮いた。
――アリムにはそう見えた。
エウティスは何かに笑ってうなずく。
やがて空中の器はすうと移動し、家から出て行った。
きい。今度は扉が閉まる音。
「……アリム坊や?」
裏口を閉め、エウティスは不思議そうに名前を呼んでくる。
はっと我に返り、アリムは何とか笑顔を作った。
「あ――い、今の……いつも来るお客さんなの?」
「ここ三ヶ月くらいだけどね。よく薪割りをやってくれるのさ。あんた、地精(ヒューレ)は見えなかったんだっけ?」
「………」
「地精はいいよ。なんと言っても頭をなでてやれるからね」
エウティスはからからと笑った。――彼女は子供がいない。そのためにやたら子供の世話を焼きたがる。
アリムの世話を焼くのは、決して甥だからという理由だけではないのだ。
膝の上に置いた両手に、ぎゅっと力がこもる。
――急に、そこにいる女性が遠く感じた。
アリム? と再び呼ぶ声。
ぱちぱちと暖炉の火がはじける音……
「――やっぱり会いに行くよ」
アリムは呟いた。
「え?」
「その……手紙の人。だって……たぶん、ぼくの知らないこと知ってるから」
知りたいんだ。
そのために、森を出てきた。
その目的がなければ、きっと森の中で食料が尽きるのに任せていた。気分を悪くしてベッドに――母と同じベッドに横たわり、永遠に目が覚めなくてもきっと構わなかった。
ただ――何かを、あの人は教えてくれるかもしれないと、それだけが心に引っかかったから、自分は――
「……会いに行くよ」
小さく、しかし決然と呟く少年を、エウティスは心配そうに見つめる。
「……無理をおしでないよ? あんたはまだ子供なんだ……」
「もう十七歳だよ。子供には違いないけど……少しは自分でできるようにならないと、お母さんに怒られる」
アリムは少し笑って、顔を上げた。
そして思いがけない表情と出会った。
婦人の、何かにひどく驚いているかのような顔――
「―十七……?」
婦人の唇から言葉がもれる。
「伯母さん?」
「あ――いや――」
と、何かに慌てたように「そう言えば」とエウティスは唐突に言い出した。
「あんたは毎年、夏と冬に森から出てくるけどこの前の夏には出てこなかったろ? あのときは心配したもんさ。それで、前会ってからどれくらい経ったかな――」
アリムは首をかしげた。
「どれだけって、伯母さん。一年じゃないの?」
「そう――だね」
「……何か、変?」
「いいや」
エウティスは首を振った。それから、温和に微笑んだ。
「さあ、とにかく今日はゆっくりお休み。例の店に行くとしても明日だよ、明日!」
弾みをつけるかのように、ぽんと両手でエプロンを叩く。
「うん――」
紅茶と暖炉の暖かさがようやく全身にまわったか、だんだん眠くなってくる。もう寝るかい? と柔らかく尋ねる声に、アリムは素直にうなずいた。
「二階のいつもの部屋はもう使えるよ」
立ち上がった少年に、伯母は付き添おうとする。アリムはそれを制した。
「大丈夫、自分でできるから……」
そして言葉どおり、一人で二階への階段を上った。
気分の悪さに嘘はつけない。それでも少しはそれを包み込んでくれそうな柔らかいベッドの予感は、彼の心をわずかに軽くした。
心なしかふらついている少年の足元を、エウティスは不安そうに階段の下から見送る。
やがて少年の背中が消えたとき、婦人はぽつりと呟いた。
「……あんたは去年、自分は十三歳だと言っていたよ……。今のあんたのどこを見たら十七に見えるんだい……?」
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