第二章 其れはやさしき心の憂鬱―4

「アリム?」

 その名を聞いて、壮齢の協会支部長グレナダ・エルレクはあごに手をやった。

 わずかに伸ばしたあごひげを撫で、ふうむとうなる。

「……あの子が街に出てきおったか。そうか」

 ここは精霊保護協会ゼーレ支部。ゼーレの街において、もっとも大きな建物の一室、支部長室。

 一日のほとんどをこの部屋で過ごす支部長、グレナダ・エルレクは、今日もその部屋の椅子に身を沈めていた。着ているのは、やはりいつもどおり協会規定のローブである。

 白地に精霊四属性を表す、茶、緑、青、橙の刺繍。

 そして襟元には“光”を表す金を。

 胸元に飾られた階級章は銅と銀を組み合わせたもの。管理職の証だった。

 支部長の仕事は支部の動きを決定すること。そして本部との連絡を取ること。特に二大精霊学大国ベルティストンとメガロセィアに挟まれた街であるここ、ゼーレの保護協会は、支部とは言えかなりの忙しさを誇る。  そんなゼーレの精霊保護協会に、街人から通報があった。

 中央道で、アリムという名前の子供が迷子になっている、と。

 正確に言えば少し違う。応対に出た協会員が最初に聞いたのは、子供が中央道にいて、様子がおかしいという話だった。そして協会がどうこうする前にもう一度報告が来た。その少年に、保護者が自ら現れたと。

 少年の名前は後のほうの報告についてきたものだ。

「アリムの保護者というと、レンのエウティスか。ふむ……」

 支部長室の椅子に座ったまま、エルレクは虚空を見やり考える。

 子供が迷子になっていた。協会の関係者らしいのでどうにかしろと協会に連絡が来た。しかし、何もする前に解決した。

 本来は、協会ゼーレ支部のトップであるエルレクにまで、わざわざ報告されるような話ではないはずだ。

 しかしこの話は即、彼の元にまで走った。今エルレクの前に静かにたたずんでいる伝令の協会員の青年は、彼自身協会内での身分が高い。つまりはそんな人間が動くような。

「それであの子は、ちゃんとエウティスについていったのだな?」

 伝令のヨギに視線を送る。

 ヨギは静かにうなずいた。

 エルレクは真顔になった。あごひげを撫でるのをやめ、机に両肘をついて指を組み合わせ、

「……何があった?」

 問う。

 かの少年が街に出てきたときは、必ず協会で把握しておくこと。これは元から決まりごとだった。ゆえに今、ヨギが即報告に来たこと自体はまったくおかしくないのだ。

 おかしいのは、ヨギの様子だった。

 ヨギ・エルディオス。エルレクと同じ協会のローブに、胸元の階級章は銅製。

 灰色の髪に灰色の瞳をした、大陸ではきわめて珍しい色素を持つ青年である。まだ若く、三十にもなっていない。だがその能力の高さを買い、エルレクは彼を側近として取り立てた。

 その際に誰からも反論が出なかったことも彼の能力を充分に表しているだろう。

 ヨギは感情に乏しい。

 否、その心の内を外に出すことが滅多にない。

 親しい人間、それも相当に見抜く力のある人間でなければ、決して分からないほどにささいな――彼の瞳の奥の危機感。

 それを見抜かれるのを待っていたかのように、ヨギは口を開いた。

「……念のため、通行人たちに聞き込みをいたしました。最初の報告では、彼の様子がおかしいという話でしたので」

「それで?」

「……まず、彼自身が『協会に連絡するな』と口にしたそうです」

「………」

 エルレクは視線を険しくする。ヨギは続けた。

「相当混乱に陥っていたとのことですが、そのさなかに、さらにこうも言っていたと――」

 ――アーク。

「“アークさん、どこにいるの”と」

 ヨギの口から出たその名を、エルレクは信じられない思いで受け取った。

「その直後に、エウティス・レンが彼に呼びかけたため正気に戻ったようですが。……支部長」

「分かっている」

 エルレクはうなるような声で応えた。組んでいた手をほどき、拳にして――

 机に叩きつける。呪うかのような言葉とともに。

「――あの若造……! とうとう手を出しおったか!」

「支部長。外に」

「構わん。あの若造が協会の敵であることは本部も知っている」

 いらいらとそう吐き捨て、エルレクはさらに言葉を続けた。

「アークめ。ヤツだけはあの子に近づけたくなかったものを!」

「………」

 ヨギは無言で上司を見つめている。

 彼の仕事は伝達。意見を言うことは許されていない。そもそもこの灰の瞳の青年が、自分の考えというものを持っているのかどうかエルレクは知らない。

 この青年は、ただ……与えられた命を遂行するのみ。

 エルレクは窓の外を見やった。

 中庭が見えた。担当の者が手入れを決しておこたらない庭園は、冬には冬しか花の咲かない植物が飾られている。その中央には水の精霊の彫像が、噴水として止まらない水を流していた。

 宙に吹き出される水を、揺らす風はない。

「……あの子は決してアークの手にはやれん」

 エルレクの低い声が、部屋に鈍く響く。

「だが、街中であの子を無理に連れてくるわけにもいくまい。様子を見る。この先必ずしもアークと関わるとも限らん」

「もしも接触するようであれば」

「――そのときは力ずくだ」

 エルレクは冷めた目で部下を見た。

 ――あの子さえ生きていればよい。

 ヨギは黙って、頭を下げた。

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