蛍雪の友

川辺都

蛍雪の友

 森田圭介から「会いたい」とメールが来たのは六月初めのことだった。

 大学時代に所属していた研究室の同期である。情報テクノロジー工学科は私たちの代が一期生で、四年生になって配属された研究室には私たち三人しかいなかった。

 そう、あの年の河原研究室は私、森田、そして、ぐっさんこと原口泰子の三人だけだったのだ。




「久しぶり。ニシケイ、元気だった?」

 森田は待ち合わせの時間通りやって来た。ニシケイは私、西嶋慶子のあだ名である。

 日曜の喫茶店は少々混んでいた。

 そういえば学校外で彼と二人きりで会うのは初めてだ。そんなことをふと思った。

「何年振りだっけ?」

「二年ぶりでしょ。同窓会の時会ったじゃない」

 ああそうかと森田は頷き、やって来たウエイトレスにコーヒーを注文する。

「仕事どう?」

「大きいヤマが終ったとこ。そっちは?」

「うちはまあボチボチ」

 私の仕事はSEで金融関係のシステムを手がけている。森田はゲーム会社のプログラマーだ。情報テクノロジー工学科の一期生は八割方コンピューター相手の仕事を選んだ。コンピューターが好きな連中が集まっていたこともあるが、実績作りに奔走した教師陣の御陰でもある。

「森田くんの名前全然聞かないよ。有名なソフト作ってテレビに出るんじゃなかったの?」

 からかうように卒業当時の夢を口にする。森田はにやっと笑った。

「それはまあ、おいおい」

 コーヒーが運ばれてきて私たちは一旦黙った。ミルクを入れてかき回す森田を見ながら、変わらないなと昔に思いを馳せる。




 大学には四年いたはずなのに今となって思い出すのは最後の年、研究室での出来事ばかりだ。

 三人しかいない河原研究室は仲が良かった。

 女子が一割の学科で、女二人に男一人の研究室は極めて異色だったが、偶然そうなったのだから仕方がない。

 森田は明るく喋り好きで、そして優しい男だった。女である私たちを侮ることもなく、いつでも対等に接してくれていたように思う。

 彼はフットサルのサークルに入っており、Jリーグの試合をよく見に行っていた。折りも折、あの年は日韓合同のW杯が開催されていた。だが、うちの研究室では時間ギリギリ、それも日本戦の日を選んで河原先生のありがたい講義があった。そんなわけで、研究室にテレビを持ち込んで三人で観戦することになった。ぐっさんもサッカー観戦が好きで地元のチームを贔屓にしていたぐらいだから二人の応援は熱い。どちらかといえば野球派の私もその熱気に押されて声をあげて応援した。何かある度に「俊輔がいれば!」と声をそろえる二人に多少辟易してはいたが。

 打ち上げと称して事あるごとに飲みに行った。各々、研究室の外に彼氏彼女がいたはずだが、女二人、男一人という構図が功を奏してか、当時の彼氏から特に何かをいわれた記憶はない。

 夏休みは卒論のために毎日のように学校へ通った。私と森田の就職活動は終わっていたが、教員志望のぐっさんはその頃が山場だった。その夏のある日、突然ぐっさんが「もう嫌だ!」とパソコンを蹴り飛ばし研究室を飛び出した。精神的に追い詰められているのを知っていた私と森田は慌てて彼女を探した。構内のあちこちを探してた私は、三十分後、二手に分かれていた森田からメールをもらった。指示通り食堂に行ってみると、ぐっさんと森田はパフェを食べ、向かい合って何やら話している。ぐっさんは笑っていた。パフェを買ってきた私もそれに加わり、取り留めのない話をしてその日一日は終わった。

 学園祭の日は豪華だった。森田がフットサルのサークルが作った焼きソバを、ぐっさんが彼女の所属していた天文部の作ったチャーハンをそれぞれ持ってきてくれた。バイトばかりでサークルに入っていなかった私は恐縮しながらそれを食べた。美味しかった。

 卒論の提出前夜は修羅場だった。深夜零時、プリンターが突然止まったのだ。提出は明日の朝。どうしようとおろおろする私と森田を尻目にぐっさんはプリンターを力強く叩いた。二度、三度。その甲斐あって動き出したプリンターで無事に卒論を印刷できた。今から考えても、理系らしからぬ解決法ではあった。

 卒業式の日に涙はなかった。袴姿の私とぐっさん、スーツ姿の森田で一緒に笑顔で写真を撮った。

 じゃあまた。いつものようにそう言って別れた。




 私たちはそう、研究室の友人だったのだ。




 テーブルの上に置いた携帯が音を立てる。メールが来た。ぐっさんからだ。

「タイムリー」

 呟いた言葉にコーヒーを一口飲んだ森田が「ん?」と聞き返す。

「ぐっさんからメール」

「メールするんだ。やっぱりいいなあ、女の子同士って」

 よく言う。

 ぐっさんも私も互いを友人だとは思っていたが、今までほとんどやり取りはなかった。メールを始めたのはここ最近、それも理由があってのことだ。

 彼女は今、高校で数学教師をしている。チャッチャと物事を片付けていきたい性分で、仕切るのが好きな子だ。故に研究室での決定権はぐっさんが握っていた。任せておけば大丈夫という安心感もそれに応えるだけの能力も彼女にはあったからだ。

 そんなぐっさんだが、『夏休みのエスケープ事件』が物語るように思いつめると何をするかわからない。大学時代、付き合っていた彼氏と別れる時は壮絶だったと記憶している。まあ、あれは、相手の浮気が原因だけれど。

「でさあ、今日呼び出したのは他でもないんだけど……」

 ゆったりと森田は口火を切った。そして、少し躊躇うようにコーヒーを飲む。彼の優しさ裏返しでもある少しの優柔不断さ。こんな悪い癖も昔から変わっていない。

 研究室での決定権はぐっさんの次に私が持っていた。女二人に遠慮しているのかと思いきや、単に即決できない性格なのだ。決める前にあれこれと考えてしまい、飛躍して堂々巡りを繰り返す彼に、当時のぐっさんはたまにキレていた。

 私もコーヒーを飲んだ。森田の顔からやや視線を外し次の言葉を待つ。

「ニシケイは聞いてるよな、その……」

「聞いてるわよ。そんなことも知らずに呼び出したの?」

 愛想笑いを浮かべる森田にため息をつく。

「いや、多分聞いてるだろうとは思ってたからさ。だとしたらやっぱり、ニシケイに相談するのが一番いいと思うし」

「そうね。でも、私はこれから何を相談されるのかわかってないんだけど」

「ああ、うん……あのさ」

 森田はまたコーヒーをかき回し始めた。

 私は携帯をちらりと見た。

 優しいが、少し優柔不断なこの男。大学生の頃は「ありえない」とキレていたのに。


 ぐっさんはよく彼と付き合っていられるものだ。


「結婚、考えてるんだ」

「ふうん、いいんじゃない」

「でも、ほら、ニシケイも知ってる通り泰子はああだから、よくわかんないんだよ実際」

 仕切りたがり屋の彼女がそれに関して何も言い出さないということは、まだ早いのではないか。それともそんな気はないのかもしれない。

 今日呼び出された理由であろう、そんな愚痴を聞き流しながら私は軽い衝撃を受けていた。

 原口泰子にぐっさんというあだ名をつけたのは実は森田である。一年中、ぐっさんぐっさんと呼んでいた。それが、今は泰子とそう呼んだ。

 この二人は本当に付き合ってるんだ。初めてそう実感した。

「ぐっさんは待ってると思うよ。そういうことは男の方からはっきりと言ってほしいんだと思うし」

「……そうかな」

「そうよ。森田くんだってわかってるんでしょ」

 コーヒーをかき混ぜながら森田は考える。

 私だってわかっている。彼は誰かに背中を押してもらいたいだけなのだと。

 携帯を開いた。

 受信箱にはぐっさんの名前が並ぶ。それらは全て『森田がはっきりしない』と訴えている。

 ただ、さっきのメールは違った。『森田と会うの何度目?』その一言。

 修羅場に巻き込まれるのは勘弁だな、と思いながら優柔不断男の決断を待つ。




 あの頃の森田は異性だということを感じさせない男だった。私自身、男性の多い環境で極力性差を意識しないようにしていたのだろうし、暗黙の了解で互いに異性を感じないようにもしていたと思う。

 決断力に多少欠けても、彼は優しくて掛け値なしのいい男である。私はそれに気づいていたし、ぐっさんもそう感じていたのだろう。

 卒業の後、何かがあれば私とぐっさんの立場は逆だったろうと思う。けれど、私と森田は何もなかった。そして、森田とぐっさんの間にはその何かがあったのだ。

 冷めてしまったコーヒーを飲み干す。森田は心を決めたらしく目が合うと笑った。

 三人の関係は少し変わってしまった。

 ただ、私にとって二人が、研究室の友人であることに変わりはない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蛍雪の友 川辺都 @rain-moon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ