四話(二)
「若君は妖に取り憑かれてました。おそらく昨夜から、もう……」
ひたすらに平伏したままで、
右大臣家に戻るや否や、『陰陽師浅葱』を出迎えた言葉は激励のそれではなく、数々の罵倒と悪口雑言であった。
決して理解される仕事ではない。
解りきっていることだが、それでもその現場に居合わせると辛さばかりが募る。
「力及ばず、申し訳ございませんでした」
それだけを言い切りもう一度深々と頭を下げて、浅葱は右大臣家を後にした。
その隣に支えるものは居ない。いつも傍に付き添う
主の切なる気持ちを、誰もが重く感じ取りながら。
東門を潜り、浅葱がゆっくりと顔を上げれば空が白んでいた。もう夜は明けている。
そして彼女は質素な牛車に乗り込み、自分の屋敷へと戻るのだった。
「そこをお退きなさい、颯悦」
浅葱が屋敷に戻るなり、彼女の室である西の対へと足を向けたのは、浅葱の母親である
その彼女を阻むのは、浅葱の室の入り口である妻戸の前で座する
主の母君である存在にすら、彼は凛とした自分の態度を変えることはない。そして僅かな間を作った後、無駄の無い所作で頭を下げて、口を開いた。
「申し訳ございませんが、お通しするわけには参りません。どうかお戻りを」
よく通る声音に、桜姫は柳眉を逆立てた。そして彼女が何かを訴えようと唇を開いた直後、背後から戒める声音がかかる。
「桜姫、やめなさい」
「
桜姫に制止の声をかけたその人物は、穏やかな容姿に金色の髪を持つ男性だ。それは、浅葱の父である
普段は容姿どおりの優しい彼であるが、今日は僅かに厳しい表情をしている。それは己の子の心情と、そして妻の心情を両方感じ得ているものがあるためなのだろう。
「今日は、そっとしておいてあげなさい。……あなたにも、同じような記憶があるだろう?」
蒼唯にそこまで言われて、桜姫は自分の気持ちを静める努力をした。
解らないわけではないのだ。浅葱が今抱えているその思いを。親であるからこその叱咤が必要だとここまで歩みを寄せたが、彼女は言葉無く踵を返した。
蒼唯はそんな彼女の後に続いたが、その際に颯悦へと片目をつぶって見せて、穏やかに笑みを残していく。
「……ご配慮、ありがとうございます」
彼女の後ろ姿、そして蒼唯に対して静かに改めての頭を下げるのは颯悦だった。
その扉の向こう、室の中では当の浅葱が
細く小さな手を取りつつ、白雪が僅かに目を細めている。
血は止まっているが、傷は深い。それが一つではなく体中に残されている現状に、彼女の表情は歪んでいた。
治癒能力が高い白雪は、普段からこうして浅葱の手当てをすることが多い。主の職業上、常に傷の耐えない日々だが、それでも嫌な顔一つせずに事ある毎に癒してくれる。
「ありがとう、白雪」
「相当量の血が流れておりますゆえ、しばしの安静が必要とお見受けいたします。傷は癒えても失せた血は戻りませぬ。せめて月が満ちるまではご自愛なさりませ、浅葱どの」
「うん、気をつけるよ」
自分の視界に写るだけの傷が消え去っていくのを不思議そうに見ながら、浅葱は白雪の言いつけに素直にこくりと頷きそう言った。
白雪はそんな主の姿を見やり多少は安堵したのか、優美な所作でゆっくりと立ち上がり、そのまま退出していく。
その後に浅葱に頭を下げたのは、同じく室に控えていた
「お役に立てず、申し訳ありませんでした」
「紅炎のせいじゃないよ。相手の力量を見誤って、貴女にも怪我をさせてしまった。……謝るのは、私のほうだ」
「私の怪我など、すぐに癒えます」
目の前で深々と頭を下げ、そう告げる紅炎に対して、浅葱は困ったように笑みを作りつつ頭を振った。
その笑みが痛々しいほど自分を責めているのだと思わせて、顔を上げた紅炎の瞳が曇る。
――あの
だが、それでも。
「どうか、ご自愛くださいませ」
今の紅炎には、浅葱の心を癒す言葉が見当たらない。そして、その立場にも無い。
だから彼女は、自分が言葉に出来るだけの声音を空気に乗せた。そうしてもう一度、頭を下げる。
浅葱はそれを受け入れて、こくりと頷いた。
「私は少し眠ります。紅炎もゆっくり休んでね」
それは、遠まわしに退出を促す言葉だった。
紅炎は一歩後ろへと身を下げた後、軽く頭を下げて静かに彼女の室を後にする。
「…………」
一人、静まり返る室の中、浅葱は脇息にもたれて深いため息を吐いた。
最悪な結果しか示せなかったが、それでも一件を片付けたことには変わりない。それなのに達成感は得られないまま、そこに残るのは自分の不甲斐なさと、悲しみだけだ。
「……、……」
ふわ、と空気が揺れた気がして、浅葱は言葉無く視線を動かす。
その先には賽貴の気配があり、彼女は再びのため息を漏らした。
「……一人にして」
いつもどんな時にでも、
今も理由は同じで、放っておけばどんどん思考が暗くなっていくばかりであろう主の傍を、決して離れようとはしないのだ。
浅葱自身がそれを望まなくとも、彼は彼女の傍にあり続ける。
「甘やかさないでよ、賽貴……」
吐き捨てるような言葉は、最後には震えたものになっていた。
精一杯の虚勢で、自分を否定する小さな背中。その震える肩を、賽貴は言葉無く自分へと引き寄せ、優しく抱きしめる。
すると浅葱は、一気に表情を緩めて嗚咽を漏らした。
ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙を、賽貴は己の手のひらで受け止めてやる。
「がんばりましたね、浅葱さま」
「……っ、……」
賽貴が小さくそう告げると、浅葱はそれには応えられずにいた。泣いているために声を作れないのだ。
声を上げて泣くことすら出来ないそんな主を、賽貴はただひたすら抱きしめてやることしか出来なかった。
二人は、その後しばらくその距離を保ったままでいるのであった。
第一夜・終
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