一話(二)

 自分の室に戻ると、着替えの衣を手にした白雪しらゆきが実に『良い笑顔』で浅葱を出迎えた。

 そして小一時間ほど、氷の微笑と共に浅葱あさぎへの説教をとくと聞かせ、彼女は部屋を後にしていく。

 白雪がこのように微笑を浮かべる時は、用心しなくてはならないのだ。その後に待ち受ける『お叱り』には誰も逆らうことが出来ないのだから。

 あやかしの立場においても式神の立場においても白雪は一番の長寿なために、誰からも一目置かれる存在であった。

 彼女がどれ程の時を生きてきたかは、誰も知るよしもない。


「……うう、やっと開放された」


 かっくり、と頭を垂れながら浅葱は深い溜息を吐いた。

 未だに乾ききっていない髪の毛が、ひやりと首筋を撫でる。


「浅葱さま、僅かな時間だけでもお休みになりますか」

「うん……ちょっと、体が重いや……」


 常に浅葱の傍にいる賽貴さいきは、白雪の気配が完全に消えてから静かに膝を進め目の前で項垂れている主に声を掛けた。

 脇息にもたれたままで返事をする浅葱は、どことなく気力が落ちているように見て取れる。


「…………」

「浅葱さま?」


 ちらり、と賽貴に視線を移した浅葱が、そこで考え込むようにして眉根を寄せた。


「――ああ、そっか……今日はさくだっけ。だから重いんだ」


 独り言のようにそう言う浅葱。

 深い溜息と共に並べられら言葉に、賽貴は困ったように笑うのみだ。


「ついてないな……符も補給しなおししなくちゃいけないのに」


 毎月のこととは言え、浅葱にとっては苦痛極まりない、『朔』。あの『痛み』に慣れる日はいつ訪れるのだろうか。

 ――月が空に昇らない夜。

 要するには新月のことなのだが、浅葱にとってはその新月が物忌みと言ってしまっても過言ではない。

 賽貴が浅葱付きの女房に目配せで床の用意をするようにと合図すると、控えていた女房は深々と頭を下げて立ち上がる。

 その彼女と入れ替わりのように、姿を見せる者があった。


「ただいま戻りました」


 几帳の手前、浅葱がいる場より畳一枚分下がったところで、頭を下げる蔦色の髪を持つ女性。


「……ああ、おかえりなさい。どうだった? 京の様子は」


 手招きしながら、浅葱はその女性を傍にまで呼び、そして声をかける。

 都人らしからぬ真紅の露出の目立つ着物に、黒い帯。髪を首の後ろで一纏めにしたその女性は浅葱の五体いる最後の式神、紅炎こうえんだった。燃えるような赤い瞳がとても印象的である。


「玄武の方角の結界に、綻びが生じておりました。日を置かずに早期の強化が必要かと思われます」


 紅炎の静かな報告に耳を傾けながら、浅葱は視線を落とす。

 良くないことは重なるものだ、と思いつつ再び溜息を吐いた。


「そう……警戒しておかないと。結界の強化は賽貴に任せます」

「かしこまりました」


 浅葱の傍らで、賽貴は主の言葉に従うかのように頭を下げた。

 侭ならない自分の体。置かれている立場との隔たりに、浅葱は自嘲気味に笑う。

 都一、と謳われる陰陽師。

 賀茂家は代々、『そう』であり続けなくてはならない。

 幼い頃に家人が口にしたその台詞を、浅葱は未だに忘れ去ることが出来ない。

 常に高みに君臨し、崩れてはならない。

 その重圧に、何度押し潰されそうになったことか。


「……紅炎はお疲れ様。この後は自由に休んでね」

「浅葱どの」


 俯きがちにそう紡がれた言葉には、抑揚がない。どう見ても落ち込んでいる主に、紅炎は眉根を寄せて名を呼ぶ。


「大丈夫だよ」

「ですが……」


 力なく笑いながらそう言う浅葱に、紅炎が膝を進めようとしたその時、賽貴がそれを片手で制して首を振った。

 任せろ、という事なのだろう。

 紅炎はそれを察して、ゆっくりと体勢を戻し頭を下げた。


「それでは、御前失礼いたします」


 主の気持ちが解らないはずはない。だが今の状態の浅葱を支えられるのは、賽貴のみ。

 だから紅炎は、その身を引いたのだ。

 そして彼女は静かにその場を後にする。


「……浅葱さま」

「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えすぎただけ」


 紅炎の姿が見えなくなって、浅葱は起こしていた身を再び脇息へと戻した。その背に、賽貴の大きな手のひらが触れる。そしてそのまま、自分へと引き寄せるようにして賽貴は浅葱を腕の中に収めた。


「さ、賽貴……あの、もう少しで変わっちゃうから、その……」

「……黙って」


 賽貴の行動はいつも読むことが出来ない。

 幾度も彼の腕の中に身を落ち着けることがあるが、それでもこのような展開にはいまだに慣れる事が出来ずにいる。

 隠すこともせずにいる二人の関係は、陰陽師と式神という枠と、性別すら超えた先にある。

 他の式神たちにも周知の仲となっているために、誰も関係を反対するものはいない。……母の桜姫おうきを除いては。


「一人で抱え込んではなりません。何か思い悩むことがあれば、いつでもぶつけて下さって良いんですから」

「うん……ありがとう、賽貴」


 賽貴がそう言いながら、浅葱の額に口唇を落とす。

 頬を染めて素直にその行為を受け入れる浅葱。ままごとのような間柄だが、二人はそれでも幸せだった。

 もうすぐ日が落ちる。

 それまでの僅かな間、浅葱は賽貴の腕の中で浅い眠りについた。

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