二話

 京の都に夜の帳が降りる頃。

 ゆるゆると訪れる変化に目を覚ました浅葱あさぎは、眉根を寄せながら身を起こした。


「……賽貴さいき、下がって」

「かしこまりました」


 賽貴の腕の中で眠っていた浅葱は、するりと彼の腕をすり抜け距離を取る。

 それはこれから起こり得る変化への対応でもあり、その変化を見られることを嫌う浅葱自身の拒絶の姿勢でもあった。

 退出を促された賽貴は、静かに頭を下げ浅葱の部屋を後にする。


「……、……」


 妻戸が閉まる音を確認した直後、正座をしていた浅葱の体が、ゆらりと傾いた。慌てて右手を床に付き体勢を整えようとするが、それは無意味に近い抵抗であった。


「いた……っ」


 ずしん、と全身に圧し掛かるかのような鈍痛。

 耳を澄ませば、自分の体の中がキシリと音を立てているのが良く解る。通常のヒトであれば、有り得ない状態だ。

 身体の構築が一度崩され、そしてまた組み替えられていく感覚。

 それが、浅葱に架せられた一つの儀式とも呼べる変化。月に一度の『障り』。

 痛みに耐えることが出来ずに、浅葱はその場で蹲った。

 高い位置で括られた闇色の髪が、はらりと床に付く――刹那。

 浅葱の体の中から放たれるようにして、空気が一変する。


「……始まったか」


 そう、小さく言葉を漏らしたのは自室で一人双六をしていた朔羅さくらだった。それに合わせるかのように、燈台の上の炎がゆらりと揺れる。

 他の式神たちも、主の変化に気が付きそれぞれに反応を返しているところだ。

 苦しんでいるであろう主の姿を脳裏に思い浮かべるも、自分たちにはどうにも出来ない。救いの手すら、差し伸べることが出来ない。

 生まれ持っての物であるが故に、他人の介入が不可能な刻。

 ただ彼らは、浅葱の変化を――変容を、静かに待つことしか出来ないのだ。


「は……、……」


 指先に、まだ痺れが残っている。

 浅葱は床に付いたままの自分の手のひらを見つめながら、静かに呼吸を整えていた。

 変化の開始と共に解けてしまった浅葱の髪は、先ほどとは全く別のもの――艶やかな黒から、光り輝く黄金色――になっている。

 良く見れば髪だけではない。

 浅葱自身が、変わっているのだ。瞳の色、そして体の作りさえも。

 月が夜空に昇らない夜。即ちそれは新月の間の約三日間。

 浅葱はあどけない少年から、可憐な少女へと変化する。そして――ヒトでは無くなる。

 ヒトの姿をした、ヒトではない存在――。

 浅葱自身も、その血を受け継ぐ者であった。彼……否、『彼女』の父親が、あやかしなのである。

 その妖の血が新月に障る為なのか、生まれ持った変化は止めることが許されないのだ。

 魔の血が濃くなるその三日間は、陰陽師としての術力が大幅に陰る。そんな、浅葱の分が悪い時に限って、難題な依頼が飛び込んでくることもしばしばだ。

 首筋に滲み出てきた汗に張り付いたままの金糸を細い指で払いつつ、浅葱はその場に寝転んだ。


「……はぁ……」


 天をぼんやりと見上げつつ、空に軽い印を引いてみるが反応が朧気だ。この分だと、今回も大きな術は使いこなせないだろう。

 女の身になれることには抵抗は無いが、術の力が激減するのは好ましくは無い。

 浅葱は軽い溜息を漏らしながら、持ち上げたままだった腕を己の目の上へと降ろした。


 ――玄武の方角の結界に、綻びが生じておりました。


 目を閉じると、昼間の紅炎の言葉が蘇ってくる。

 嫌な胸騒ぎを憶えて、浅葱はゆっくりと身体を起こした。

 言葉なく彼女は乱れた衣服を整え、髪を手櫛で梳き、予め用意してある染料で黒く染める。

 もしもの時の行動を取る時には、必ずと言っていいほど何かが起こる。狙ったかのように。


『浅葱さま、右大臣家からご使者さまが参っております』


 妻戸の向こうからの、控えめな女房の声がした。


「――解りました、私の室の前の廊へ案内を」


 その声に浅葱は一拍を置いた後、凛とした口調で返事をする。

 どうやら今回も、浅葱の胸騒ぎからくる不安は、現実のものになるようであった。




 右大臣家からの使者の話は、紛れもなく浅葱への依頼だった。

 御年五歳になる末の若君が昨夜から床に伏せ、時折奇妙な言葉を口走ったり、突然起き上がって泣き喚いたかと思えば、直後にまるで張り詰めた糸が切れたかのように倒れ込んだりといった『奇行』を繰り返しているのだという。

 状況から見ても物怪の所業としか思えないとして、浅葱を頼ってきたのだ。


「……御使者どのはそのままお帰りください。事は急を要します、私は別の手段でそちらにお伺いしますので」


 浅葱は静かな口調で使者にそう告げ、立ち上がる。後の対応は控えの女房に託し、身支度を整え始めた。

 使者の迎えの牛車では間に合うはずも無い。若君の状態を頭の中で想像するだけでも、一刻の猶予も許されない状態であると言うことは明確だった。


紅炎こうえん、貴女の足に任せるよ」

「御意」


 浅葱の元へと集った五体の式神たちの内三体を式神符に戻し、残りの二体――紅炎と賽貴は、主と共に屋敷を出る。

 本来の姿である炎狼になった紅炎は、主をその背に乗せ、夜の闇を駆け出す。同じ速度で隣を駆ける賽貴も人の速さではなく、道を歩く都人には疾風のような感覚しか捉えられなかった。

 僅か数回の瞬きの後程の速さで、浅葱たちは問題の右大臣邸へとたどり着く。


「……、この……威圧感……」


 紅炎の背から降り、彼女を符へと戻しながら、浅葱は右大臣家を取り巻く空気に眉根を寄せる。

 体に圧し掛かるかのような、重い空気が立ち込めていた。


(嫌な予感がする……用心しなくちゃ)


 心の中に広がる不安を消し去るように、内心で小さく呟く浅葱はその一歩をしっかりと進み出る。


「賽貴は、西の結界の強化を」

「はい」


 足元で控えていた寡黙な式神に、浅葱は短く命を下す。

 すると賽貴は軽い頷きと共に、闇の中へと姿を消した。

 浅葱は一人、東門を静かに潜る。それと同時に向けられるのは、濃い瘴気だ。


「…………」


 恐らく一般人には解らぬであろう、一画の室から漏れ出しているどす黒い色の空気。それを手にした符で祓いながら、浅葱は足早に若君の室へと歩みを進めた。

 進む度に濃くなっていく瘴気に、表情を歪める。


颯悦そうえつ白雪しらゆき


 一度足を止め、懐から二枚の符を取り出す。それは式神たちが身を納めている符だった。

 静かに名を呼ぶと、形を歪めた符がゆらゆらと人の形を作り上げていく。

 完全に式神の姿になっていくのと同時に、二体の式神は主に向かって膝を折り、こうべを垂れた。


「ごめん……今日の相手は、少し梃子摺るかもしれない」

「心得ております、浅葱さま。援護は我々にお任せください」

「ありがとう」


 頭を下げたままの颯悦が、静かに浅葱の言葉に答える。

 隣の白雪は、瘴気の流れを視線のみで読み、柳眉を僅かに歪ませていた。

 そんな二人を一瞥しつつ、浅葱は再び歩みを進め、屋へと繋がる階へと足をかける。

 直後、二体の式神は揃って声を張り上げた。


「――浅葱どの、気をつけよ!」

「――浅葱さま、離れてください!!」


 ほぼ同時に、投げかけられた言葉だった。

 それに合わせるかのように浅葱が目指していた屋は、彼女の目の前で爆音と共に吹き飛ばされた。

 屋敷の奥から、女房たちの悲鳴が響き渡る。


「…………っ!」


 白雪と颯悦の呼びかけのお陰で、身構える間を作る事は出来たものの、浅葱の体は爆風に巻き込まれ地面へと六尺ほど転がされる。

 それを追ったのは、颯悦だった。

 浅葱の体を静かに起こしてやりながら、土ぼこりが舞う屋へと視線をやる。

 見るも無残な姿となった妻戸の向こうに、小さな人影が見えた。


「若君……で、いらっしゃいますか?」


 颯悦に背を支えられながら、浅葱は姿を見せた人物――少年――へと語りかける。

 切りそろえられた肩までの髪をさらりと揺らし、少年は小さくクスクスと笑いながら、浅葱たちを横目に庭へと掛けていく。


「ま、待ってください……!」


 慌てて浅葱が振り向けば、通り過ぎたばかりの少年の姿は既に門を飛びこえ、視界から消えようとしているところだった。


「颯悦はお屋敷の守りを。白雪は怪我を負った方々の手当てを。――私は若君を追います!」


 半ば言い捨てる形で、浅葱は姿を消した少年を追うために駆け出す。

 白雪と颯悦は短い返事を主へとした後、今まさに門を潜ろうとしている浅葱の背中を見送った。


「……。妾に未来さき見えはせぬが、この仕事、主殿には辛いものとなるであろうな」

「…………」


 僅かに眉根を寄せそう呟いた白雪に対し、颯悦は何も言っては来ない。

 だが、心情は同じであるのか、その表情には僅かに蔭りを見せていた。

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