第二夜 二子の嵐

一話

 小鳥たちの涼やかなさえずりが響く、閑静な九条の屋敷。

 その大きな庭に面した濡れ縁で、午後の暖かな日差しを浴びながら、年若き陰陽師の少年浅葱あさぎは、つかの間の安らぎに身を委ねていた。

 ゆったりとした時間が流れる中、小さく寝息をたてて眠る浅葱に膝を占拠されている黒衣の青年、賽貴さいきは、瞳を伏せたままで微動だにしない。

 人と変わらぬように見える姿。だが、尖った耳や今は伏せられた瞳の金の色が、彼が『人』ではない何よりの証拠だ。

 浅葱が住まう人間界において、あやかしと呼ばれる存在。それが彼の正体であり、都一と謳われる少年に仕える式神だった。

 浅葱に仕える式神は、賽貴を含む計五体。

 そのうち三人はそれぞれの役目や所用のために席をはずし、残りの一人。

 薄茶色の髪に水色の瞳をした青年、朔羅さくらは、近くにある木の枝に腰掛け、無造作に引きちぎった青葉を何とはなしに指先で玩んでいた。


「――――」


 屋敷を包む静けさの中、ふいに賽貴が目を開き、木の上の朔羅が動きを止める。

 穏やかな空気の中に混じる微かな妖気。

 それを感じ取った浅葱も、ふ、と目を覚まし反射的に身構えの姿勢を見せかけた。

 その、直後。


「――賽貴さまから離れなさい! この無礼者ッ!!」


 目の前に浮かんだ空間の歪みから飛び出したあやかしが、起き上がる間もなく、浅葱を怒鳴りつけた。


「……、っ……?」

「ら、らん……! いきなり、失礼ですよ!」


 困惑の表情を見せる浅葱の眼前にもう一人の妖が姿を現し、先に現れた妖『らん』を制止する。一人は少女、もう一人は少年の姿をしていたが、二人はとてもよく似ていた。


「……藍、りん……?」


 二人の背後で歪みが収束していくのを見ながら、賽貴が当惑したようにそんな呟きをこぼした。どうやら顔見知りのようである。


(賽貴さんにしては、珍しい……)


 藍と琳と呼ばれた彼らからは死角になっている木の上で、その様子を眺めながら、朔羅が心のなかでそう零す。いつも冷静な態度を貫いている賽貴の、少しでも動揺した声を耳にするのが珍しかったようだ。


「……え、と……賽貴?」


「――ッ!!」


 未だに状況を理解できずにいるのは浅葱で、助けを求めるように賽貴に視線を送ると、それが癇に障ったのか再度らんという少女が激昂する。

 勝気そうな大きな金の瞳。鈴の付いた赤い組紐に括られた黒髪と、鮮やかな躑躅色つつじいろの丈の短い着物と、底の高い黒下駄が印象的であった。


「離れなさいって言ってるのよ陰陽師! 賽貴さまはアタシのなんだから!!」

「ら、藍~……」


 今にも飛び掛っていきそうな藍を何とか捕まえながら、心底困った顔でりんが情けない声を出している。

 こちらの少年のほうは、控えめな空色の狩衣を身にまとい、少女と同じ組紐を首の後ろにもつ静かな印象がある風貌であった。


「……ふ……」


 何から面白い展開になってきた、と、朔羅は静かに口元をほころばせる。

 藍の勢いに押された浅葱本人は、自然と賽貴の隣に正座をしていた。

 主のそんな反応を横目にしつつ、深いふかいため息を吐いたのは賽貴だ。


「――藍、下がりなさい」


 そして静かに藍に向かってそう告げると、彼女は一瞬金縛りにあったかのように言葉を失う。

 それを一瞥してから賽貴は「申し訳ありません。後ほど詳しくお話いたします」と、隣に座した困惑顔の浅葱へと小声で囁いた。


「も、申し訳ありません、賽貴さま……。藍が、どうしても、と……」

「…………」


 おどおどと前に出てくる琳に、朔羅が眉根を寄せた。

 藍の勢いばかりに目が行っていたがそこで初めて、彼の持つ僅かな異質さに気づいたのだ。

 特別何が、というわけではない。誰にでも感じ取れるものでもないが、琳は何かが『異質』だった。


「二人とも、説明しなさい。……浅葱さまに失礼だろう」

「っ! 賽貴さま、どうして……!?」


 ――そんな、人間ごときに。


「藍、下がりなさい。感情的に話せば、お互いに理解を得ることは出来ないですよ」


 浅葱を敬うように『様』と呼んだ事。それが信じられないと賽貴に詰め寄ろうとする藍をたしなめては見るものの、藍は琳の声に耳を貸そうとはしない。


「だって……!!」


 琳を振りほどいて、彼女は首を大きく振る。


「……藍っ!」

「!」


 その声は、賽貴のものであった。

 思いもかけない彼の怒声に、藍とそして浅葱までもがビクリと肩を震わせる。

 さほど大きくは無い。だが、普段声を荒げることなど無い賽貴が、少女を恫喝するために発したその声は周囲の空気を急速に冷やしていた。


「下がれと言ったのが、聞こえなかったか?」


 静かな、だが抗うことを許さない声に琳が片膝をついて頭を下げ、藍も慌てたように続く。


「……無礼なのは、お前たちのほうだ。それにここは人間界。みだりに出入りしてはならないと言ってあったはず。……琳も、忘れたわけではないだろう」

「も、申し訳ありません……!」


 賽貴の言葉に、いっそう深く頭を下げる琳。その顔は、誰にも見えない。

 だが。


「…………」


 ――あれは、僕と同類だ。


 冷めた視線で少年を見やりつつ、内心でそっと呟いたのは朔羅だ。

 琳の異質さに最初に気づいたのも彼であったが、その『正体』を最初に感じ取ったのも彼だった。

 トン、と木の枝を蹴る小さな音を立てて、朔羅が地面に降りる。


「!?」


 藍と琳は、そこで初めて彼の存在に気づいた。

 一瞬目を奪わたが賽貴の前だということを思い出し、慌てて視線を地に戻す。

 朔羅は無言のまま頭を下げている小さな存在を横目で見やって、浅葱の傍まで歩みを進めてその手を取り、「立って」と主に向かって短くそう告げた。


「朔羅……?」


 当の浅葱は朔羅を見上げ、小首をかしげている。


「取り込み中悪いんだけど、浅葱さんは退席させてもらうよ。僕たち、邪魔でしょ?」


 朔羅はそう言いながら賽貴を一瞥し、さらに浅葱に気づかれないようにして、琳へと視線を送る。その際、琳の視線が僅かにだがちらりと動いたのも彼は見逃してはいなかった。

 琳もまたそんな朔羅に何かを感じ取ったのか、頭を下げたままで口の端で小さく笑みを作り、すぐに元に戻すという行動を起こしていた。

 賽貴はただ黙り、眉根を寄せている。


「さぁ、浅葱さん。僕らは此処にいないほうがいい。空気が良くないからね」


 視線を戻してにこり、と笑みを作った朔羅は、半ば強引に浅葱の腕を引いて琳からその姿を隠すようにして肩を抱いたあと「……穢れる」とぼそりと繋げた。

 その小さな声は、浅葱の耳には届いてはいないようだ。


「……? う、うん……。あ、あの、ごゆっくり……」


 強引に連れ去られようとしながらも、客人を気遣うことを忘れない浅葱は、たどたどしくもそう言葉を掛けた。

 すると藍が、賽貴に咎められたことも忘れてまた吼える。


「――っ、認めないわよ、陰陽師!!」

「お子様の言うことだ。耳を貸す必要は無いよ、浅葱さん」


 背中にぶつけられた声に振り返ろうとした浅葱を制して、朔羅が囁く。


「…………」


 あまりの勘のよくない浅葱にも、そこでようやくと言った感じではあるが、なんとなく状況が読めてきた。

 自分を認めないと叫ぶ少女の真意。

 ああ、そうか。彼女は、賽貴のことを――。

 そんな思考が脳内を巡って、浅葱はため息を零した。

 肩を抱いたままの朔羅は、浅葱の心の内に気づいたのかその表情を僅かに崩していた。

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