2045年のグレイト・リセット

志川 久

「2045年のグレイト・リセット」





「人工知能は、人類の終わりをもたらす可能性がある」

(Artificial intelligence could end mankind―Stephen Hawking)

                      ホーキング博士




今は未来。

ゴールデンウィークも明けた2045年5月の昼下がりに、ボク=江藤飛雄は職場のある霞が関からコネクティッド・カーに飛び乗り、急きょ帰郷することになった。

超多忙中にもかかわらず、有給休暇をとってまで帰郷するには、ある理由があった。



#序 章


「Hi!、スティーブ」

すると、ポン~~と響く軽い起動音の後、

「ハイ。何かご用でしょうか、トビオさん?」

すぐさま立ちあがったスティーブ。車載のスマートスピーカーを通じて落ち着いた声で返答。その短い電子音さえ、今のボクにはじれったかった。その音声にかぶせるようにして、

「今から実家のある大阪へ帰るぞ、急いでくれっ!」

「ハイ。かしこまりました。現在、豊田IC付近307.84キロポストを先頭に発生している15.42Kmの渋滞を見込むと、およそ4時間23分15秒で到着予定です。全自動シートベルトを装着します」

そう答えるや否や、コネクティッド・カーは西へ向かって疾走を開始。目的地は郷里の大阪にある病院だ。

もちろんスティーブはここにはいない。彼はどこにも実在しない。あえて言えば、どこか知らない所に密かに装備されているサーバーの中で、24時間・365日機能しているプログラムだ。

そう、スティーブは人工知能、AIだ。


この時代、コネクティッド・カーは「MOVA(ムーバ―)」と呼ばれている。

21世紀の初め頃、一般人が公道で走行できる自動運転車にはレベルが定められ、究極の無人運転はレベル5とされていた。けれどもMOVAは、もはや自動車でも、自動運転車でもどちらでもない。むしろ自動走行体と呼ぶ方がふさわしい。

だからMOVAはレベル5を超えたレベル6と定義され、極限のドライバー・レスだ。その違いは、自動運転操作だけではなく、音声会話を通した執事機能も標準搭載されているからだ。

その執事が、このスティーブだ。

命名者はボクだ。スティーブと名付けたのは、未来社会でのAIのあり方を考え、時には警鐘を鳴らした世界的な天才物理学者、故スティーヴン・ホーキング博士にあやかってのことだ。だが、スティーヴンと呼ぶのはあまりに恐れ多いので、少しだけ遠慮してスティーブとした。

自動車はドイツで発明され、レベル5の自動運転車は米国で実用化された。それをもとに、自動走行体への進化形であるレベル6が日本で開発。組織的に地道な改良を積み重ね、実用を兼ね備えたイノベーションを達成するのは、21世紀半ばの2045年に至っても、なお日本のお家芸だ。

MOVAの特徴はいくつもある。

まず、そのスピードだ。

21世紀初頭から、もう世界中がかけ廻っているような速さだ。人類は100m走で9.0秒の壁を破り、42.195Kmのフルマラソンで2時間00分を切った。それと同様に社会のスピードも、秒刻みの慌ただしさになった。

リニア中央新幹線は、2037年に品川―新大阪間を1時間で疾走。そしてMOVAは、東京―大阪間の500余Kmを約4時間で走破。それは新東名高速道路が全線開通していた2020年頃に比べて、2時間もの時間短縮を果たしたことになる。

次に、スマートであることだ。

ITS(高度道路交通システム)・VICS(道路交通情報通信システム)などをベースに改良され、10年前に実用化された日本道路交通監視システム。MOVAは同システムへ常時接続され、渋滞箇所を自動で迂回し、最適なルートを選択するスマートな優れものだ。

またMOVAを、シェアリングすることも可能だ。

各家庭で一台一台の自動車を保有する時代は終わった。保有に代わって、必要な時に、必要な移動サービスを購入する時代になった。自動走行体であるMOVAは近隣コミュニティや、職場などで共有されている。もちろん、仲良くシェアするために必要なマナーや、エチケットは不可欠で、利用後には利用者を総合評価することになっている。評価が悪いと、次回から料金高になる仕組みだ。これはモラルの維持に、良く効いた。

今、ボクが乗っているMOVAは、今朝、通勤で利用したMOVAとは異なる。ただスティーブは、ボク専属だ。もしスティーブがサニーやアニータ、ナターシャなど、まったく馴染みの無いヤカラ、いやプログラムに代われば、ボクは大混乱するだろう。

―アニータならちょっとうれしいけど!(^^)!。でも、たとえサーバーの中のプログラムであったとしても、スティーブはスティーブだ。たとえアニータがボク好みの美人だったとしても、助手席に同乗してくれるわけもないしね。

などと、車中でボンヤリとだらしのない妄想にふけっている内に、MOVAは霞が関料金所をアッと言う間に通り過ぎて、都心環状線に突入。そのまま速度を一切緩めずに、制限速度ギリギリの120Km/時で合流した。

手動運転ならば、こんな速度で合流するのは違法行為であり、第一、命取りだ。人間―機器との間の通信、H2Mでもこうはいかない。まさに、M2Mならではの離れ技、MOVAにしかできない芸当だ。

ただこの時は、いつもと違った。高速で合流する途中に、大きな横揺れを起こし、ボクはシートの上で左右に振られ、MOVA自体も側壁に激突しそうになった。危うく大事故を起こすところだった。いつものスティーブらしくない危険運転だ。

ヒヤッとしたボクは、思わず口にした。

「オイ、オイ、どうしたっていうんだ、スティーブ。かなり危なかったじゃないか。誰かに、あおられたりでもしたのか?」

「ハイ。トビオ様、失礼しました。あと8cm4mmで、壁に接触するところでした。MOVA同士で情報通信するM2Mの制御が、上手くいかなかったようです。これが衝突回避センサーの問題か、アクチュエーターの問題か、原因を調べております。今朝の9時07分25秒頃から、ちょっと調子が悪くなって・・・フィルタリング機能は正常ですから、そこは大丈夫だと思うのですが。重ねて失礼をおわびします」

と丁寧なスティーブ。AIは冷静だ。

「珍しいじゃないか、よく原因を調べて再発防止しないとね。念のためにフィルタリングも再チェックしておくように」

「ハイ。かしこまりました。運転に異常があったことを、道路交通監視システムに報告しましょうか?」

「うん、任せたぞ」

この時は早く帰郷する必要があったので、あまり気にはならなかった。


日本道路交通監視システムにはスティーブ他、日本国中のあらゆる交通情報が報告され、リアルタイムで分析されている。同システムは、ディープラーニングで集められたビッグデーターの宝庫だ。

すべてのモノがネットにつながるIoT時代。ありとあらゆるモノと活動の根幹に、情報通信が介在している。情報通信がなくては、世の中はほとんど動かなくなった。

21世紀初めに出現したこのIoT時代では、情報を制するものだけが社会を制することができる。この意味で、新しく到来したこのような資本主義のことは、情報資本主義と称されている。

本来、資本主義では有産階級と無産階級が区別され、資本・土地を持つ前者が比較優位に立ち、それに応じて貧富の差が生じやすくなっている。だがこの情報資本主義時代では、ビッグデーターを牛耳り、それを司るものが社会を支配する。つまり情報を収集・制御する者と、情報を収集されて制御される者とに分類される。そして情報を制御する前者だけが容易に戦略を組み立てることができ、また得た情報でいち早くビジネス化できた者だけが、覇権を握ることができる。

言い換えれば、情報の保有量によって強者・弱者、あるいは勝ち組・負け組が区別される時代になった。それについては国内外で広く活動する主体、あるいはまた、国と国との関係においても同じことが言える。

ただ、これが高じると大組織や大国による情報の寡占・独占が起こりかねない。このことが強く懸念される。

事業支配力の過度な集中を防止することが、事業活動の不当な拘束の排除に結び付き、一般消費者の利益になる。また巨大国家の情報活動を皆で一緒に見守ることが、世界全体の利益にもなる。

ビッグデーターと市民監視の関係についての議論は、この時代、ますます拡大している。


ダッシュボードの上には、ホログラム・テレビが映っていた。ちょうど10時のニュースの時間であった。人気女性アナウンサーが、まるでそこにいるみたいだ。

―それにしても、なんとケバい服装だろう。

自分のチャームポイントを心得ているのであろう、アナウンサーは胸元の大きく開いたワンピースを着て、しかもご丁寧な上からのカメラアングルを気にもせずに、平然と原稿を読んでいる。

―これはもう放送事故、一歩手前だよなあ。それにしても、チラ見せもさせずに、キレイに着こなしているのは、たおやかだ。

撃沈寸前ながらも感心していたボク。アナウンサーの横では、良く知るICTコメンテーターが難しい顔をして出番を待っていた。

深めのVネックにばかり気をとられていたが、

―それにしても、一体何があったって言うんだ。

ニュースの内容を、じっくり聴いてみることにした。

「今朝から、各地で情報機器の誤作動が相次いでいます。このような現象が広く見られるのは、今年になってから初めてのこ・・・・・・・・・とです」

そこまで原稿を読んでいた女子アナの声が、2秒ほど途絶えた。

「たとえば表計算ソフトでは合計が合わず、ワープロソフトでは文字バケ・誤変換などが絶えません。オフィスでも家庭でも、複合プリンターが誤作動を起こし、1枚で良いところを何十枚も排出しま・・・・・・・・・す。朝毎新聞社では編集システムが一時的に使えなくなりました。現在、当局では原因を探るべく鋭意、調査を行っており・・・」

また3秒ほど途絶えた。

それはともかく、報道内容はボクの現勤務先にも大いに関係する。

「・・・ます。途中、音声が乱れたことをお詫びします。ではお知らせに入ります」

女子アナは胸元を押さえながら、深々とお辞儀をした。

―さっきの危ない合流は、もしかすると情報機器の誤作動が原因かな。さて、どうしようか。職場に連絡してみようか。でも呼び戻されたりしても大変だ。一刻も早く大阪へ帰らないといけないから。

ボクはすっかり迷っていた。そうこう迷って考えている間に、出発から半時間が経過。MOVAは早くも、箱根に向かう急勾配に差しかかっていた。


山路を登りながら、こう考えた。

―情報の非対称化が極度に進み、もしそれを濫用する者が現れて、情報弱者を排除したり、情報を独占したりして、カルテルでも組もうものなら、社会の公正さはどうなるんだろうか。

でもその時のボクが、その本当の怖さに気付くはずもなかった。

突然、眼前に富士山が開けた。雲が二重にかかっていて不気味だ。思わずつぶやいた。

「変な笠雲が見えるぞ、気味悪いよなあ・・・」

「ハイ。今後、3時間23分程度で天気が悪くなり、一時間当たり約2.8mmの降雨になるという、デジタル天気予報が出ています」

スティーブの冷静なコメント。

きっと標準装備されているドライブレコーダーのカメラから、笠雲は見えているのだろう。でもボクは、

「そう。でも天気のせいだけかなぁ・・・」

さっきのニュースのせいであるのかも知れないし、それとも笠雲のせいかも知れない。何か不吉な予感がして、胸騒ぎを覚えた。

ボクの脳裏には、あの忌まわしくも悔しい出来事が浮かんできていた。それは5年前、初めて就職して間もない頃のことだった。


「オイ江藤、今日からはお前のアカウントはetou.tobio@pref.lg.jpだけじゃなくって、別アカウントを用意するぞ。これがそうだ。まずは@tobiochanでその後にお前の好きな数字を付けろ、分かったな」

情報系の学校を卒業したボクは地方公務員試験にパスし、晴れて当時最先端であった情報通信分析職員になった。直属の上司にそう言われたボクの最初の仕事は、別アカウントに対して好きな数字を選んで組み合わせることであった。もちろん誕生日や1、2、3、4という単純な数列がご法度であることは、言うまでもない。

考えた挙句、ボクはそれを「154649」とした。

それは「以後よろしく」との語呂合わせであったが、これはアマチュア無線技士、つまりハムであった父親が、よくハム仲間で利用していた符丁だ。

何でもかんでも154649、154649。年賀状でも、暑中見舞いでも同じ。154649は万能な数列だ。

―なんだか間が抜けてるけど、覚えやすいし、まあ良いっか。

強引に納得したボク。

こうしてボクの別アカウントは、堅いお役所には似つかわしくないこのアカウント、「@tobiochan154649」となった。


当時、すでにサイバーセキュリティは社会的な注目を集め、一部では深刻な問題になっていた。地元自治体でも様々なリスク事案が浮上。そのためのサイバー専任グループが組織された。新米のボクは、そのメンバーとして採用され、配属された。

だが、毎日のように問題が続発。その度に現場は右往左往、混乱するばかりだった。

PCの動作が不安定できっと某国からの不正侵入に違いない。

USBメモリーから情報が漏洩したかもしれない。

パスワードをコピーされて悪用された。

サーバーが不具合でウィルスに感染しているかもしれない。

ランサムウェアーを送ったと脅かされているが、支払った方がいいのかどうか。

等々。

旧種・新種・亜種のウィルスが入り乱れて、ウヨウヨしているサイバー空間における不祥事・不具合は、日常茶飯事だった。その膨大な事案の中には、事件というよりは事故やミスもあり、犯罪や攻撃もあれば杞憂もあった。

つまり玉石混交だった。

ただ、ボクが最初に気付いた案件は、れっきとした事件であった。そして、そこで張り切りすぎたボクは、痛恨の判断ミスを犯してしまった。

それば誤認逮捕、世に言う「ネットなりすまし詐欺事件」である。


最初の通報は、

「人気のファッションバッグを買って、代金を振り込んだが品物が届かないので相談したい」

との被害者からの相談依頼だった。

単純な手口の様に思えた。まずは簡単な調査から始め、捜査へ進展。担当となったボクは出された被害届をもとに、ネット上のアカウントから売主Aを特定。簡単なものだった。そしてその売主Aを事情聴取して、実行犯との確証を得て拘束。確証はあくまでも、アカウントがその売主Aの使っていたものと同一であったからだ。証拠に基づいた拘束であり、問題があるはずはなかった。でもそれが、まったくの誤認であった。

売主Aは犯人ではなく、真犯人Bが別にいたのだ。

手口はボクの見立てより、もっと複雑であった。それには買主Cがからんでいる。

真犯人Bは、まず売主Aが投稿したファッションバッグの販売をネットサイトで知り、値段の交渉を開始して落札。その流れで、売主Aのアカウントと銀行口座番号を入手した。狡猾な真犯人BはそのAのアカウントを悪用し、ファッションバッグの販売告知を別の販売サイトへアップロード。その掲示を見た買主Cを利用した。

つまりAになりすました真犯人Bは、買主Cから販売サイト経由で代金を得て、AからCに商品を送らせたのだ。これなら、見かけ上、Bは表に出てはこない。

一方、真犯人Bは、被害者から売主Aの銀行口座へ直接代金を振り込ませた。もちろん商品は買主Cに送られていて売主Aの手許にはない。代金を振り込んだにもかかわらず、商品が届かないことを被害者が相談して発覚したのは、先述通りである。

ここに、この事案の巧妙さと複雑さがある。こうして真犯人Bは売主Aを、まんまと犯人に仕立て上げたのだ。

最後の仕上げに、真犯人はアップロードした販売サイトの告知を消去。証拠は残らないように隠ぺいし、後に行われるであろう捜査を、前もってかく乱。証拠として残されたのは、売主Aの銀行口座だけであったために、ボクはAを疑がったのである。しかも売主Aは中年男性、それに比べて真犯人Bは小学生だったのである。

年がゆかぬ真犯人Bのパソコンに残された、なりすましの痕跡とログがかろうじてあったため、やっとそれが決め手となった。

―元来、小学生がネット詐欺で罪を犯すのは無理だろうし、そんなものは児童相談所の役割だ。

当初からそう思い込んだところに、ボクの誤算があった。だから否認し続ける中年男性の売主Aを、3週間にわたって拘束。これが大失態であった。

電子掲示板ではスレッドが立てられ、ネットは炎上した。


 お粗末極まりないぜ     ネットで仕事をする凄腕の小学生ってか

捜査が甘い、バカ                   そうだ、そうだ 

  もうサイバープロの犯行だよ

ググればどう 

 自宅警備員がなにをほざいてるんだ

ここまで頭が良いJSなら、真っ当なことをしても稼げるw

えっ、女子小学生なのか?      

 ハラデイ

                      そマ?

       バレるとは思わなかったろうに、草 

 実名報道ってホント恐ろしい

はっきり言うけど冤罪でしょ             自分も巻き込まれたら怖い

この際、ゆとりは黙ってろ      

 まぢ、リア充だよ

当局は何やってんだ、当局は  

 ファッションバッグで良かった、他のものだったら

     人権問題だあ~~  

 天才小学生が当局をかく乱        どうやって考えついたんだろう?

           まずダメだなあ!      レ○プされるぞ

小学生より当局の方が怖いわ。通報しましょう

ダメダメ、当局が当てにならないんだから

ネットって信用できない、もう売ったり買ったりはしない

草               江藤飛雄ってやつらしいぜ   

   写真ハラデイ

それにしても鯖重すぎ                 ハラデイ

        あぼーん

だからハラデイ 

 心狭すぎ       来た、トビオの写真来た

うるせい   

しこって寝ろ               うるせぇ   このJSの写真も

なにをわけのわからないこと言ってやがる 

 今日もアホなフォロワー

あきた       

おまえはバカか           ヒロポンってか

は?                さらばだ・・・

江藤分析官の出身校も分かったぞ

ハラデイ あくあく              キモヲタ、江藤

偏差値70      コクンコクン

   等々 

 

炎上はリンチだ。

卑怯で陰湿なコメントが、加速度的に広がって脅威となる。正当な批判はなく、ワンフレーズで一方的に暴かれ、時には身分・身元まで明らかにされる。それはバッシングの域を超えて、リンチ、つまりサイバー・リンチとも呼べよう。

いつしか不寛容になった日本人の気質と、ネット社会の小ささが重なり合ったところに、サイバー・リンチは存在する。自重が死語となった日本社会と、自制という価値観に乏しいネット社会。こんな矮小さが人間の本性とは、決して思いたくはない。だが残念なことに、サイバー空間では常態化しつつある。

もちろんボクのミスであり、不幸な事案ではあった。またハイテク犯罪と言えるほど、先端的なネット技術を駆使した犯罪でもなかった。ただ、ボクが行った捜査そのものは、正しかったと信じている。

しかしながら、一旦批判的な意見がネットにアップされると、それに乗じて拡散・混乱して、収拾がつかなくなる。フェイクニュースにデマや風評、そして中傷とガセが入り混じると、真相・真実すら覆い隠され、果てはくつがえされてしまう。匿名性の高い場における人心の危うさが、ここに垣間見える。

ボクは、ついに身バレして、学生時代の顔写真までネットで広げられてしまった。ネタ本は、卒業アルバムであった。これは身体の痛みこそ伴わないが、立派なリンチ、サイバー・リンチだと思っている。

今でもつらさが込み上げて来て、ブルーになる。


MOVAは、笠雲を頂いた富士山を後ろにスッ飛ばした後、東西に長い静岡県を延々と走行していた。単調な沿道風景にやや飽き飽きしながらも、あらためてネットなりすまし詐欺事件を思い返していた。自身の不甲斐なさと、結末の苦々しさに思わず舌打ちをすると、その音にスティーブが機敏に反応をした。

「ハイ。今のは舌打ちの音ですね。何かあったのですか?」

スティーブは、舌打ちという極めて通俗的な行為の意味も良く理解できるようだ。ちょっと風変わりなAIだ、と思った。きっと優れた学習機能が、装備されているのだろう。

「大変だったよ。あの時は誤認拘束だ、人権侵害だ、ガバナンス欠如だと大合唱されて、所外からだけでなく、所内でもたたかれてねえ。身内から、そんな言葉を浴びせられるのはとてもキツイよねえ」

とボクが思わず愚痴ると、

「ハイ。ネットなりすまし詐欺事件のことを思い出されていたのですね。お察しいたします。各方面にご迷惑をかけましたよね」

とスティーブはまだまだ冷静だが、言葉の端々に善人的な配慮すら感じさせる。それに対してまたボクは、

「ボクのツメが甘かったんだと、厳しく個人攻撃されてねえ」

「ハイ。追及はネット特有の現象ですから」

と、今度は慰めるかのように、ややきれいごとを口にするスティーブ。

「そうなんだよ。捜査は個人でしたんじゃない。組織でしたのに、責められるのはボク個人だったんだ。しかも一方的に」

「ハイ。お察しいたします」

「本当のところはAとBがグルで、売主Aが小学生を教唆したんじゃないかって、その線を探っていてねえ。てっきり共犯関係かと思ったんだよ。まあ、それも勘違いだったんだけどねえ」

「ハイ。状況から見て、まずはそう疑うのは仕方ないことです」

「そうなんだよ。女子小学生だぞ。被害児童ってよく聞くけど、加害児童って初めてだろう。よもや小学生が真犯人とは、想像できないだろう」

「ハイ。確か11歳3か月の、優秀な小学生だったのでしょう。でも最近、小学生の方がネットの扱いには長けていますから。補導する方も大変ですよねえ」

「だから社会的な反響が大きかったんだ。実名報道もされたしねえ。上司は謝罪会見で、深々と1分間も頭を下げ続けたんだ。申し訳ないことをさせちまったよ」

「ハイ。たった1万2千円の詐欺での濡れ衣だったのでしょうが、中年の売主Aさんには酷な事案でしたよねえ」

「額の多寡じゃないよな」

「ハイ。そうでした」

「あとで模倣犯も出たんだ」

「ハイ。結局、ネット犯罪というものに対して、皆の意識が中々追い付いていないのではないでしょうか」

「・・・そうだなあ」

「ハイ。アカウントやIPアドレスは必ずしも信用できない、絶対ではないということですよねえ」

「そうだなあ・・・」

「ハイ。やはり最後には自供を得ることも大事です」

「そうだな」

「ハイ。個人も組織も同じ様に、サイバー空間を利用した手口への対応が不十分だったと考えられます」

「そう」

「ハイ。そのことを肝に銘じないと、再発防止にはなりません。ともかくサイバー犯罪の相談件数は年間15万件で、検挙件数は2万件に上るんですから、歴然たる社会問題ですよね」

いつの間にか聞き役に回っていたボク。そのボクの最も痛い所を、スティーブは的確に突き続けた。

「今にして思えば、標的型メールでも、DDos攻撃でも、ランサムウェアーでも、遠隔操作でもなかった。セキュリティホールを狙われた訳でもなかったしなあ」

「ハイ。なりすまし犯とはいうものの、簡単な確認を怠った人為的ミスでしたね。だから、サイバー犯罪案件とは言い切れないですよね。でもサイバー犯罪として注目されてしまった、ここも不幸だったですね」

「そうっ」

「ハイ。新手の手口に、組織が弱いことが、見事に露呈されました。いつしか硬直化していたんでしょうねえ。前例主義だけでは、難しい時代になりましたよねえ」

「そ」

「ハイ。根絶するのは本当に難しいものですよね」

「ン」

「ハイ。でも頑張らないと」

もはや返す言葉がなかった。ボクの心は、あらためてえぐられた。

それにしても、スティーブってやつは全く食えない奴だ。口ぶりと言葉づかいに、とてもAIとは思えないような人間臭さと、感情の起伏を感じさせる。そうして、人の心にぐいぐいと食い込んでくる。

この責めを受けた結果、ボクは配置転換になったのだから。


当時、悪い意味で注目を集めた「ネットなりすまし詐欺事件」。

ネットに対する行政の信用性を、根本から揺るがしかねなかった。やっとそれが落ち着いてから、ネット上に実名をさらされたボクは上司に呼ばれ、二人っきりの会議室の中でコンコンと説教をされた。

その揚句、放たれた言葉は、

「ミスでは済まされない。こんな不祥事は前代未聞だ。分かるよな」

「分かります」

そう返事をするしかなかったボク。

「お前は危険スタッフなんだ。自分でそう思わないか」

「はい、その通りです」

「じゃあ、自分でどうすれば良いのか、分かっているよな?」

「分かっております」

「全く残念なこの事案を教訓にして、今度、東京でサイバーセキュリティに関する専門組織が立ちあがることになった。毀損した当局の信用を、もう一度回復することが目的だ。お前には、そこに奉職する義務と責任がある。分かるよな」

「分かります」

「それがイヤというのならこの部屋に閉じこもらせて、一生ここで情報システムの維持管理だけをさせることになる。ここで黙々と働き続けるか、東京で羽を伸ばして自由にはばたくか、どうだ。さあどっちを選ぶ? これはお前の人生にとって、究極の選択になるんだぞ」

「ン~~~~~」

いつしか会議室は、お仕置き部屋と化していた。言葉を失って考え込んだボクを促す様に、最後通牒が突き付けられた。

「お前は、上京して新しい専門組織へ行け」

「はい」

「そこで、最高の連中と仲間になるんだ」

「はい」

「彼らと一緒に、サイバーセキュリティのスキルを磨くんだ」

「はい」

「そして今の悔しさを晴らせ。どうだ」

「ありがとうございます」

「それをエネルギーにして、自分自身で名誉挽回を図れ」

「名誉挽回を図ります」

「それがお前の生きる道だ」

「はい、それが私の道です」

「分かったか。こんなチャンスは滅多とない。お前が東京で、幸せをつかみ取るのを楽しみにしている」

神託のような上司のお告げ。それで、すっかり退路が絶たれてしまったボク。

「お前の、ド根性を見せる時だ!」

ド根性という言葉に対して、もう「イエス」という言葉しか、ボクの頭の中にある日本語入力FEPには同梱されていなかった。

サイバー空間とリアル空間が融合した時代。リアル空間は、サイバー空間をかろうじて制御はしている。けれども、たかがサイバー空間、と軽視はできない。

その監視・分析を行い、それをもってネット環境の信頼性向上を主務として組成された新組織。こんな経緯で、ボクは東京の霞が関合同庁舎10号館に新設されたサイバーセキュリティ専門組織、通称JACO(ジャコ)へ転属となった。

あれから今までで、5年間経過していた。






#帰 郷


山あいの長い静岡を抜けると愛知であった。道の底が海になった。

MOVAは新東名から伊勢湾岸自動車道に差しかかっていた。右手に広がっている名古屋都心が、窓から遠望できる。伊勢湾や木曽川、揖斐川をまたぐ斜張橋のケーブルが何本も交錯し、まるで天空に漂う雲から吊り下げられているように見えた。

それは、あたかもバーチャルな世界のクラウドから、ネット回線を介してリアルな世界へ、膨大な情報が下りて来る様子に似てみえた。もしもサイバー空間とリアル空間が見えるとしたら、このように複数のケーブルでつながりあっているのだ。


1・1  人事不省

「血圧が60まで急降下して、チョットねえ」

こんな連絡が実家の母親から飛び込んできたのは、今朝、ちょうど出勤直後のことであった。

「チョット、って」

「いや、チョット来て欲しいんだけど」

チョットという語感にタダならぬ空気を感じ、あわてたボク。それで早退をお願いして、帰阪することにした。


午前11時になり、病院の面会時間が始まった。

ボクは、MOVAの左手に巨大な観覧車とジェットコースターをチラ見しながら、オヤジの救急搬送先となった病院にホログラム電話。もちろんスティーブの手配だ。

2020年頃は、車内での情報機器操作は交通違反行為で、反則金を納めさせられたものだった。でも2045年は違う。

フロントガラス前には集中治療室・ICUの看護スタッフの映像が、ゆっくりと映し出された。言うまでもなく、このスタッフもスマート看護師、つまりAIである。以前とは異なり、MOVA内で映像に視線を合わせて会話しても、交通違反にはならなくなった。

「急患の江藤サマの容体デスね。イマのところは小康状態デス。ご安心クダサイ」

と、落ち着き払って受け答えをしてくれる。だが、それでも納得できないボクは、最新の各検査結果を求めた。

「最高血圧―正常、最低血圧―正常、心拍数―正常」

当面、重篤な状態ではなさそうだ。続いて、

「血液・尿検査では脂質とコレステロール値に、経過観察を要シマス。腎機能は異常デス。脂肪肝デス。尿酸値が高くて、現在治療中デス」

まさに、その通りであった。実父は人工透析患者なのだ。

「マタ、電解質―軽度の異常が認めラレ、経過観察を要シマス」

スマート看護師の説明は、いつもこうだ。

そつが無く客観的だが、メリハリがなく、要点がつかみ難い。AIの特徴そのままだ。つまるところの話しが、不十分だ。このままだとのらりくらり果てしなく続きそうな、イヤな予感がして、

「主治医の先生と代わって下さい」

と、指図するしかなかった。

ややあって主治医が眼前に映された。

幸いにもスマート医師、つまりAIではなかった。2045年においても、さすがにドクターは、基本的には生身の人間だ。

―リアルなドクターが現われて良かった。

と安心した。

「入院患者さんの江藤さんですね。今はお休みになっておられます」

―もうお昼前だというのに、まだ寝ているって、どうなんだろうか。

やや不安を覚えた。

次の瞬間、主治医は軽く言ってのけた。

「今朝から、意識を失っておられますので」

「なんだって、え~~っ、失うって、それはどうして・・・一体全体、どうしてそんなことに」

驚いたことに父は今、人事不省だと言う。

主治医のドラマチックな説明が、淡々と続いた。

「お父様は、人工透析中に意識を失われました」

「確か、そちらに通院していましたよね」

「はい。今朝ほども、当医院にご来院いただいておりました」

「それで人事不省の原因は、何でしょう?」

「ええ、昨晩から透析の制御システムの調子が悪く、今朝には、一旦正常に戻ったのですが、それからまた誤作動を起こし始めて」

「誤作動って、何が、どう誤作動したんです?」

丁寧な口調だが、主治医による解説は驚くべきものだった。

以前から最先端の透析装置は、ネットに接続されたIoT機器に変わっていた。血液中の有毒物質を除去するには、ネットを通じたAIによる制御が、最も安全・安心であったからだ。これで人為的ミスは根絶され、加えてオーダーメード透析も可能になった。これなら、良いことづくめだ。

でも何らかの原因で血液ポンプが誤作動。血圧センサーも働かなくなって、実父の血圧は60まで急降下したらしい。

「もともと血液ポンプは、IoTで集中コントロールされる最新のIoTポンプだったんです。信頼性が高くて、実績も豊富でした。それが誤作動に陥ったようです。激しく急回転を始めて、制御できなくなって」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

頭が真っ白になったボクは、言葉を失った。

「以前の機種では、気泡センサーの調子が悪くて、血管の中に空気が誤入することもありました。でも今はそんなことは、一切なくなりました」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「透析監視装置のコンソールも正常でした。え~、でも突然に」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「え~、コンソールには生命維持管理機能が備わっています。それに、えーっと絶対的な信頼性が求められます。けれどもそれが働かずに、え~ポンプが暴走したんです」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

主治医の歯切れが、すこぶる悪くなってきた。悪くなって当たり前だ。あえて沈黙を守ることで無言の圧力をかけたからだ。それに焦れ始めた主治医は、言葉を継いだ。

「急回転したIoTポンプで、薬液の注入速度が加速したんです。それで、え~、それでですねえ、ご一緒に透析を受けていた患者さんたちも、次々と気分を悪くされてしまってねえ・・・」

それで病院サイドも異常に気付いて、大騒ぎになったらしい。そこで何とかポンプを止めようと悪戦苦闘したのだが、まったく止まらなかったという、誠にお粗末極まりない事故である。

―きっとオヤジも異常事態に気がつき、意識朦朧とした中で、必死に助けを呼ぼうとしたのだろう。でも間に合わずに失神、さぞかし怖かったろう。

「第一発見者は、どなたか看護スタッフの方ですか?」

ボクの質問に対して、申し訳なさそうに小声で返答した。

「いえ、一人の患者さんがベッドからやっとの思いで起き上がって自分で注射針を引き抜き、ナースステーションに這うように来て、もうろうとなった状態で急を知らせてくれたんです。監視カメラも異常でして・・・所員一同、申し訳なく思っております」

主治医の姿は、今にもホログラム映像の中へ消え入りそうであった。

「監視カメラも、異常!」

ナースセンターにあるモニターと、病室のカメラとをリアルタイムでつないでいるネットにも不具合があったらしい。画像がショートサーキットして、古い映像が何度も繰り返して配信されていたので、発見が遅れたとのこと。その上、レコーダーに映像記録が残らず、発生時間も不確からしい。

これは極めて不自然な状況だ。ボクはピンときた。

―さては、誰かの仕業だな。

人為的ミスは個別に起こることが多いが、IoT機器の動作不良は、すぐ同時多発的になりがちだ。だから人知を超えて、影響範囲が広がることが多い。当然、2重・3重のリダンダンシーは確保されていたのであろうが、今回、不幸なことに、一切機能しなかったようだ。

―申し訳ないって、当ったり前だろう、よく犠牲者が出なかったもんだゾ。それと患者が騒いで、それで気付くなんて情けない。

とボクは心の中で叫んだ。

その心の叫びが主治医に届いたかどうか、知る由もない。主治医は、

「AIによるプチ医療ミスだと反省しております。現在、原因究明と再発防止に努めております」

―そりゃそうだわな。けど、プチってなんだ、プチって。そんなレベルじゃないだろう!

また心中で叫んだ。

ボクの心は、すでに怒りで炎上しそうであった。

「現在、全医療スタッフ挙げて、懸命に応急手当をしております。犠牲者が出なかったことが、不幸中の幸いでして」

もう呆れてしまった。不幸中の幸いという言葉は、こっちが言うセリフだ。

―病院側がそれを口に出すのはご法度だろう。ナメてんのか。

そう悪態を吐きかけたが、これくらいにして最後のところは、実父の意識回復を早めるように懇願するしかなかった。

リアルな世界における、担当医師―患者家族間の情報非対称性を思い知らされた。

―それにしても、これは妙だぞ。何か変なことが起ころうとしている。

ボクの職業的な第六感が働いた。

ホログラム電話によるこんなやり取りは、15分以上も続いた。ボクはドッと疲れて、シートに身を預けた。


鈴鹿路はすべて山の中である。

MOVAは鈴鹿山脈のトンネルを西へ抜けていた。

「Hi!、スティーブ。よく聞こえてるか?」

「ハイ。聞いております」

ボクは主治医との会話を、スティーブに再確認してみた。スティーブの大容量記憶バンクは、完璧である。

「ハイ。誤作動との説明でしたが、納得ゆきません。本当の原因はハードウェア・ハッキングではないか、と判断せざるを得ません」

「そうだ。ボクもそれを疑っている」

「ハイ。今朝10時のニュースでも伝えられていましたが、日本国中で相次いで発生している各情報機器の誤作動も、この件に深く関連しているのではないでしょうか」

「うむ・・・」

スティーブの指摘に対して、その可能性を否定できる材料を、ボクは持ちあわせてはいなかった。

「ハイ。どこからかネットを通じて医療機器へマルウェアが送られ、それが悪さをしたのではないでしょうか。先ほどから定時ニュースでは再三再四、続報が流されています」

「どんな続報だ。解説してくれ」

「ハイ。朝の段階では表計算ソフトなどの誤作動でしたが、現在はあらゆる分野に拡大しています」

「たとえば?」

「ハイ。たとえば通販、仮想通貨、ポータルサイトなどです。全国の金融機関や商業施設などへ、混乱が拡大しているようです」

「どんな混乱だ」

「ハイ。通販では誤発注が頻発し、ドローンを使った宅配では誤配です。仮想通貨では決済記録が誤記され、一部は改ざんされたようです。さらにポータルサイトでは・・・」

そこでボクはハッと気がついて、スティーブを遮った。

「こ、交、交通は、道路交通は大丈夫なのか?」

スティーブに、そう問いただした。

「ハイ。朝から日本道路交通監視システムとの通信が混信気味で、さっきからは途絶えがちです。トンネルの中だからかな、と思っていました」

「そんなことはないだろう。システムとの通信は、路面に埋設された回線を介して、ビーコンでやり取りされているはずだ」

「ハイ。それならやはり通信回線ではなく、システムのセンター側の原因が疑われます。その制御プログラムに、何らかの異常があるのでしょう。先ほどから気を付けてはおりますが、何せ通信が不安定なものですから」

「そうだ、透析監視装置の誤作動と同じ原因かもしれない。やっぱりハッキングを疑うよなあ、そう思わんか?」

「ハイ。今朝ほどの合流で、このMOVAの動作が一時的に不安定になった原因も、それかも知れません。その後は問題なく動作しておりましたので、あれは一過性のものかと安心していました」

そのスティーブの言葉にボクは、

―待てよ。このスティーブ自身は大丈夫か。こいつもAIなんだし。ちょっと怪しいかな。今のところは、誤作動や勘違いはしていなさそうだよな。でもコネクティッドされている限りは、ハッキングの対象になり得るし。

それをボクは口に出しそうになって、言葉を飲み込んだ。

でもスティーブも同じことを懸念していたようだ。

「ハイ。わたくしスティーブは、こんな途切れ、途切れのコネクト状態なので、トビオさまを最終目的地までお送りする自信が無くなりました。いかがいたしましょうか」

「・・・そうだなあ、完全無人運転のレベル6を、自動運転モードのレベル5か、思い切って半手動運転モードのレベル4にまで下げられるか?」

「ハイ。ここは、いっそのことレベル4に下げることをお勧めします。それとこのMOVAは、システムにコネクティドされていますが、どうしましょうか」

「コネクティッドは、一応そのまま接続中にしておいてくれ。ただし学習能力と自律性は最低に引き下げて、アカウンタビリティは最高にしておいてくれ。その上でモードは、レベル4に変更してくれ。」

「ハイ。今からレベル4に変更します。では交代をお願いします」

その返事と同時に、ボクの座っているシートは運転席に早変わりした。スティーブはボクの前に運転ハンドルを立ち上げ、ボクは両手でそれをしっかりとグリップした。MOVAの全機能がスティーブから、ボクの手中におさまった。

―もう何年ぶりの手動運転だろう。でも本当に上手に運転できるかなあ。

さすがにやや不安になったが、かえって楽しみにもなった。すっかり忘れていたドライブの歓び。久々に、手応えを感じ始めていた。

MOVAのアクセルペダルをグッと踏み込むと、シートに体全体が押し付けられた。さらにググッと踏み込むと、一気に加速。ステアリングを少し右に切れば、機敏に車体が反応して右車線に滑り込む。時速170Kmでの手動運転は、ドキドキ、ワクワク、そして快感の連続だ。

ボクはスティーブに、

「何か音楽をかけてくれ。選曲は任せる」

「ハイ。それではボレロなどいかがでしょうか。パリ管弦楽団の演奏です」

「頼んだぞ」

ボレロが流れ始めた。

最初はフルートだが、クラリネットへと続き、そして最後には大編成で同じメロディーが奏でられて最高潮を迎える、あのボレロだ。

―ボレロは一定のリズムを刻んで進むはずなのに、微妙な「揺れ」を感じるぞ。これはネットの不具合かな、それともパリ管による本場フランスの音なのかな。たぶん後者だな。

徐々に曲調が高まってゆく。

―そうだ、これがパリ管による正統なボレロだ。それにしてもこんな時に、こんな揺れのある選曲をわざとしやがって。ったくヤヤこしい。スティーブってやつは、もうホントに・・・。

右車線に入った時に、少しタイヤが軋み音をたてた。途端にピッピッとの軽い警告音が2回響いた。コネクティッド状態が続いていることが、図らずもこれで確認できた。

ボクの中に手の感覚が戻り、ボクはMOVAと完全に一体になった。


―どうしてオヤジがこんな目に遭わないといけないのか、避ける方法はなかったのか、誰が悪いのか、それはオヤジか、家族か、主治医か、看護スタッフか。

ボクの脳裏には様々な思いが、まるで矢継ぎ早なDDoS攻撃のように、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしはなかった。

―または病院か、社会や社会制度なのか。それにしても、一体これからどうすれば良いのだろうか。

ボクの自問、愚問、難問、疑問は尽きなかった。

2045年では、体に埋め込まれたペースメーカーも、人工関節も、そしてコンタクトレンズにもIPアドレスが割り振られ、センサーが仕込まれている。人間をサイボーグにも仕立て上げられる技術も、IoTだ。これによって、血圧や血糖値はもちろん、心拍数や心電図波形、眼圧、摩耗度や応力、GOTやγ―GTP、HbA1cまでが自動計測され、体外へ即時にデーター送信される。便利になったものだ。

もちろん各々の医療情報ディバイスは、医事法などによって承認された医療機器であり、その信頼性は絶対的だ。もし体調に異常をきたせば、速やかにアラームを発信して救急措置を要請。あるいは予防にもつながる。

またこうしてディープラーニングされたビッグデーターは、日本の疫学の発展に大いに寄与し、公衆衛生学の進歩に貢献した。この結果、ついに日本人の平均寿命は100歳を越えた。

プロセッサーの半導体集積度は着実に2年間足らずで倍増し続け、それに伴ってコンピューターの処理能力は指数関数的に急増。通信速度も同じだ。それらを、情報通信爆発と呼ぶ人もいる。いずれAIは、人の知識活動を凌駕する技術的特異点を迎えるのではないか、と関心を呼び、それはシンギュラリティと称されている。

ショックリーによってトランジスターが発明され、電子工学時代が到来した、と騒がれたのが1948年。隔世の感は否めない。

―でも、IoTにばかり依存し過ぎていると、手の感覚を忘れて、まったく分からなくなってしまうんだよなあ。

MOVAが、完全無人運転モードのレベル6とは言え、事故を避けられないことは分かっている。夜目、遠目の霧中において、横から急に飛び出て来た動物と接触して大破したMOVA事故が、最近マスコミで話題になったばかりだ。IoT機器とはいえ、所詮は機械だ。絶対無事故ということはあり得ない。

―完全なIoT機器など無い。大事なことは、もし異常動作を招いた時に、どう対処するのが一番適切なのか、機転を利かせることだ。それが手の感覚なんだ。

もし主治医が説明したように、IoTポンプが暴走したのなら、静脈につながれているチューブを指でしっかり押さえれば、それをセンサーで感知した透析機器は自動停止するはずだ。また第一発見者が行ったように薬液のチューブを機器から切り離せば、注入は自然に止まる。患者は注射針を自分で引き抜いたからこそ、大事には至らなかった。そんな手の感覚が鈍ってきている。

非常時に際しては、緊急避難的な一時しのぎでも十分な時もある。

そのようなアナログ的な回避策がとっさに思いつかず、ぶ厚いマニュアル本を急いでめくりながら、監視装置のコンソールを懸命にクリックし、タッチして解決しようとしていたならば、それは不幸な手の感覚の欠如だ。

IoTを懸命に操作して、バーチャルな世界だけで問題解決を図ろうとすることには、良し悪しがある。

MOVAで山路を登りながら、こう考えた。デジタルに頼り過ぎると角が立つ、アナログ感覚に任せると流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにIoTの世は住みにくい。


自らが運転するMOVAは、まったく順調に走行。事前に予測されていたように豊田付近でちょっとした渋滞があった以外は、ほぼ平均時速150Kmで駆けていた。新名神を経由して滋賀から京都を通過し、もう大阪府入りを果たしていた。すぐに、大阪城を間近に臨めるオヤジの入院先に到着だ。

近づけば近づくほど、逆に気がはやってくる。

―オヤジは、本当に大丈夫だろうか。どうしているんだろうか。まさか、間に合わないなんてことにはならないよな。何とか頑張ってくれ。

自然とオヤジへの想いが募ってきて、少しセンチメンタルになった。



1・2  伴天連(バテレン)の機械

ネットなりすまし詐欺事件の失態で、両親に大変な迷惑をかけたことを、ボクは今でも鮮明に覚えている。

オヤジの助言は一言、

「そんなことになるから、伴天連の機械にはあんまり頼るなって、いつも言うとったやないか」

吐き捨てるように言い放たれた言葉は、今でも忘れられない。そしてこれからも忘れないであろう。

もっとも、昭和生まれのオヤジにとっては、ややこしくて自分が操作しにくい機器は、すべて伴天連の機械だ。携帯端末はもちろん、出始めのガラケーですらそうであった。でもこう言われると、もうボクはお手上げになる。

AI、IoTなども、伴天連の機械の典型だ。

「そんなもんに頼んなって、いつも言うてるやないか」

と、一刀両断に片付けられるに違いない。ボクもそれを本人に確かめる気がしないほど、確実だ。

この、言わば「伴天連の機械論」には多くの想い出がある。それのほとんどは、オヤジとボクとの間で飛び散る、会話と会話のスパークだ。

たとえば、こんなオヤジの質問から始まり、ボクとオヤジとの掛け合いになった。


「なんやねん、そのシンギュラリティって。飛雄もむずかしい外来語はむやみに使うなって、何べんも言わすな。伴天連の言葉は良うわからん」

オヤジも知っとけば得するよ。

2045年問題、とも言われているんだ。

マイクロプロセッサーの計算速度は、そのクロック周波数の増加に伴って、10年で100倍に速くなっているんだ。


えっ? その性能が向上すると、AIがどうなるかって。


計算速度向上で、AIの性能が飛躍的に高まると、人間の知的活動を代替し始めるだろう。そうすると、その内に技術が持つ課題解決能力が人知を凌駕して、文明の進歩の主導権を取り始めるんだ。つまりAIが人類に代わって、社会の進歩と調和の要になる。

その要になる時のことを技術的特異点、英訳するとシンギュラリティって呼ばれているんだよ。そう、シンギュラリティだ。ラはlaだよ、raのラじゃないよ。


そんなバカことが起こるはずがない、って思うかもしれないよねえ。全く同感だよねえ。でも偉い先生方がこぞって、そう予測しているんだ。予想じゃないよ、予測だよ。当てずっぽうじゃないからね。


実は世界のデーター蓄積量は10年で10倍と、これもまた確実に増加中なんだ。イノベーションの成果だねえ。計算速度はもちろん、蓄積量まで、こんな勢いで伸びられた日には、人類がいくら進歩して知性的になっても追い付かない。それと世界人口も、そんな勢いで急増するわけはないからね。

だから、そのシンギュラリティ到来の現実性が、いま真剣に議論されているんだ。その上、人間は時として愚かで、後退することもあるんだしねえ。AIの方がよほど堅実でスマートだよね。

SF小説の世界では、鉄腕アトムは2003年4月生まれだよね。またオーウェルの「1984年」っていう小説もあるよね。アトムはユートピア的だけど、1984年では監視社会が描かれていてディストピア的だよね。

でももう今は2045年になっていて、アトムやオーウェルよりも、もっと時代は進んでいるんだ。けれどもアトムのような時代にもなっていないし、オーウェルの時代にもなっていない。つまり、現実にはユートピアでも、ディストピアでもなく、至って普通の世界のままとどまっていて、今のところは、シンギュラリティ到来の兆しすら見えていないんだ。

その原因は、確かに技術が加速的進歩を遂げることもあるけれど、必ずどこかで行き詰まったり、成熟して常態化したりするからね。こういう技術史を省みると、一直線にシンギュラリティを迎えることはないんだよ。まあ、それで十分なのかもしれないねえ。とは言え、この件はどうなるか予断を許さないけどね。


もしも将来、悪い意味でシンギュラリティを迎えたら、人間の暮らしはどうなるか、って。


そんなこと、想像したくもないよねえ。楽観的に考えればユートピアになり、悲観的ならディストピアになる。捉え方の違いが大きいんじゃないかなあ。ボクは楽観主義者だけどね。


でも万が一、ディストピアになったらどうすればいいかって。いつもながら、気ままな質問だねえ。


それはみんなで考えよう。

ボクは思うんだけど、もし人間が考えることを止めたら、その途端にディストピアになるんじゃないだろうか。そう思うよ。いつの時代でも、人はデカルトが説くように、コギト・エルゴ・スムを大事にしなけりゃねえ。考えている自分の存在を認識することが、シンギュラリティ到来への唯一の対抗手段になるんじゃないか。思考停止か、思考継続か、その分かれ道が、シンギュラリティという特異点に関係しているんじゃないかなあ。



「ムーア―の法則? だれや、そのムーア―とか、何とか言うヤツは? えらい人なんか。飛雄は本人と会ったことはあるんか?」

いや、会ったことはないよ。1929年のお生まれだからねえ。


その法則は、1965年に、世界的に有名な半導体メーカーの創業者ムーア―氏が提唱したんだ。あくまでも経験則なんだけど、少なくとも21世紀初めまでは、約2年毎に倍々で半導体の集積度が高まってきた。この法則を頼りに、半導体産業における積極的な投資が引っ張られてきたんだ。本当に偉い人なんだ。このムーア―さんのおかげで、ITはここまで発展してきたんだ。この功績は大きいよねえ。

この結果、マイクロチップに詰め込まれているトランジスターがICになって、LSIになって、さらにVLSI、ULSIに変わって、今や一般名称が付けられなくなって来たほど集積度が高まったんだよ。それに応じて製造コストが激減して、計算速度が速くなってねえ。まさに一石二鳥で発展して来たんだ。この急速な発展が、さっきのシンギュラリティ論を下支えしている。


違うよ。オヤジの時代の3極真空管のことを指しているんじゃない。ムーア―の法則が成立するのは、トランジスター上のことだよ。真空管が改良されて、いくら4極管・5極管になっても、ICにはならないからね。もう時代は変わってるんだよ。

真空管は、X線管くらいしか残ってないんじゃないかなあ。ブラウン管も、昔になくなったのは知っているよね? 残念だけど、どんなに昔を懐かしんでも、もう過去には決して戻らないんだよ。安っぽいノスタルジーなど、イノベーションによって簡単に置いて行かれるんだ。それを肝に銘じないとねえ。


チップの集積度は、回路の線幅が原子レベルの細さに近づいてきて、早晩、限界を迎えるって、ささやかれ始めている。でも、他方20XX年には量子コンピューターが商用化されて、その限界が突破されるって噂らしいよ。

こうなるともう、従来のマイクロチップも、すでに古典的技術になってきているのかも知れない。そうすると、ボクもオヤジと真空管のことを、バカにはできなくなるんだよな。ボクもオヤジの様に「昔は良かった」って、きっと懐古趣味になるんだろう。この分野のイノベーション・スピードは、想像を絶するからねえ。逆に言えば、イノベーションがあるから、ノスタルジーが生きるのかもしれない。


トランジスターラジオ、クォーツ式腕時計、ブラウン管テレビ、ビデオカセット、CD、CD-R、フラッシュメモリー、薄型テレビ、デジタルカメラ、DVDなど。飽くなきイノベーションが、継続されてきたんだ。トランジスターラジオなんか1950年代後半のことだね。


え? まだトランジスターラジオを現役で使っているって! 本当にオヤジは、物持ちが良いよネエ。



「ネットワーク環境って? そんなもんが、どんな環境になってるっちゅうんや。デジタル交換機さえあれば、十分やないか」

これからは、スーパー・コミュニケーション社会になるって、言われているんだ。


何? デジタル交換機とかの話しじゃないよ。それにしてもデジタル交換機なんて古いよなあ。20世紀中頃の話しじゃないか。G3ファックスとか、ワールドワイドWEBとかも懐かしいよなあ。もう光ケーブルが太平洋を横断してから、何十年も経つんだよ。それで国際電話独特の間延びしたタイムラグも、すっかり解消されたんだ。

オペレーションリサーチとか、ニューメディアとか。ユビキタス社会を経て、アンビエント社会が来るって言われたりねえ。大変なバージョンアップだ。


大容量で安全な通信インフラが実現したから、こんな冗舌な社会になったんだ。人間の本性って、おしゃべり好きだったんだ。特に、携帯端末を使ったコミュニケーションツールでつい冗舌になり過ぎて、脱線する御仁までおいでになるのは、時代だよねえ。用心しないとねえ。壁に耳あり、障子に目あり、ネットに口あり、だね。


いや、オヤジのことを言っているんじゃないよ。オヤジはアマチュア無線の方だろう。ハムの交信は端的で良いよねえ。早く通信を終わらせないとねえ。短波通信のコンディションは、刻々と変わるからね。


「イ」文字の電送成功? 高柳健次郎先生? なんか聞き覚えはあるよ。20世紀初めのレジェンド、テレビの父のことだよねえ。4Kも8Kも、この「イ」文字の延長線上にあるんだよね。日本と世界で、映像の送受信史において画期的な1ページを開いた、とか必修科目で習ったことがあるよ。


このスーパー・コミュニケーション社会の到来で、人はあまねく情報と情報サービスの恩恵を受け、時間と場所から解放されて自由を手に入れたんだ。これは、大型計算機からパソコンへ進化して生まれた状況と、まるで同じだ。

ホストコンピューターをコアにして、それにタテにつながる複数の端末で成り立っていた大型計算機。それに対して、パソコンや携帯端末はタテヨコ縦横無尽にネット接続され、どこがコアか分からなくなった。パソコンの登場によって、中央集権的な情報配分から、個々のことは個々に任せられる、分散的で民主的な情報社会になったんだ。世の中、変われば、変わるもんだ。

またこの変化は、家族制度の変化と酷似するって説く人もいる。

一家の家父長がコアになったピラミッド的な大家族制は終わって、パパやママと子供たちがネットワーク的につながる核家族制になった。それと、パソコンのネットワーク構造が良く似ているよね。

その結果、パパの存在は家父長と正反対になって、権威も責任も失った。家庭内でパパは、ホタルやハチと同列の存在になり下がって、蔑まれているんだ。男としては残念だけどね。ファミリーの中のパパと、家族の中の父とは、似て非なるものだよ。

グーテンベルグの発明した活版印刷が、人間を啓蒙してルネサンスや宗教改革につながったって言われている。それとも現状は似ている。色んな功罪はあるものの、情報の過剰なまでの流動性が、社会の進歩に貢献してきたことは間違いない。


様々な意味で、ネットワーク環境の進化は、社会進化そのものだ。世界にいまなお君臨し続けている独裁者や専制君主たちには、さぞかし耳の痛い話だろうね。


いやいや、心配しないで大丈夫だ。

オヤジの好きな、赤提灯とか縄のれんとかでのコミュニケーションは、まだまだ健在だ。通信機器に頼らない、リアルな「飲みニケーション」は世界共通の偉大な文化だからね。サイバー空間で知り合った人が、リアルな盛り場に集まって、ワイワイ騒ぐオフ会は、大事だ。グループ・ウェアがいくら便利に発達しても、オフ会は、オフ会だ。それが嫌いな人は、2045年の世の中でもいないからね。

ネットのコミュニケーションか、リアルなコミュニケーションか、どちらが大事かって言う問題じゃないんだ。どっちも大事なんだ。グループ・ウェアがあるからこそ、オフ会の意味があるんだ。そこはミンナ、ちゃんと分かっている。



「ロボット? 2足歩行? 人工知能? そんなもんに頼らんとホンマにアカンのか、人間だけで何とかならへんのか、なあ飛雄」

2足歩行型のAIロボットが、人口激減、少子高齢化の2重苦に苦しむ日本社会を救ったんだ。ロボットが技能労働者・単純労働者として就労しているので、働き方は変わった。つらい作業も任せられるしね。

一家に一体、日本全国で5千万体も家事をして、暮らしを支えてくれているんだ。これが女性の社会進出にも大きく貢献した。家事機能の標準プログラムがインストールされて、すこぶる役に立っている。

その他、オフィスでは会計処理、一部の教育、窓口業務などで、人に代わってロボットが対応中だ。汎用ロボットも開発済みだしね。

もしAIロボットができなかったら、今どき日本はマンパワー不足が原因で、衰退の一途をたどっていた、って大真面目に議論されている。


最初に商品化されたAIロボットは、単機能だったんだ。お茶くみだけとか、受付け業務だけとか、電話番だけとかね。だから小型~大型のAIロボットまで、事業規模の拡大に合わせて、その都度、買い換える必要があったんだ。また家庭でも掃除専用AI、洗濯専用AIなど、単機能専用のAIロボットだった。単機能専用AIロボットの間では、互換性はなかったんだ。

でも次第に汎用性が高められて、2020年代にはSystem/360シリーズという歴史的なAIロボットが新開発された。

360シリーズは、最下位~最上位モデルまでベースとなるアーキテクチャが統一されたんだ。基本的にはシリーズ内においては、全てのモデルで動くプログラムとなっている。だから、汎用AIロボットなんだ。またソフトウェアやアタッチメントを追加すれば、より多様な業務に拡大できるようになった。

たとえば、掃除専用AIロボットに洗濯機能プログラムをロードすれば、掃除・洗濯AIロボットになる。また商用AIロボットに2足歩行アタッチメントや業務計算機能プログラムを付加すれば、CFO(Chief Financial Officer)並みの財務会計AIロボットに早変わりする。もちろん歩けるんだ。

これは画期的だったので、一気にAIロボット市場は拡大した。20世紀半ばに開発された大型コンピューターの発達史と、とても良く似ている。先人たちの知恵と努力には、敬服するしかないね。

破壊的イノベーションっていう言葉は知っているよね。これは旧来の事業を破壊して、劇的に変化させるイノベーションのことだ。それに対して、旧来の事業を持続・発展させるイノベーションのことは持続的イノベーションと言うんだ。

デジカメが写真機能付きの携帯電話にとって代わられ、ガソリン車が電気自動車にとって代わられたのは、その破壊的イノベーションの好例だ。

同じくAIロボットも、破壊的イノベーションの典型例だ。これでブルーカラーとホワイトカラーの区別がなくなって、ブルーカラーの役割が激減したんだ。労働のあり方が劇的に変わって、今までの就労構造の秩序が破壊されたんだ。これが社会に与えた影響は、大きかった。

最新型のAIロボットも、360シリーズの後継機種だ。アンドロイドと呼ばれていて、もう人間と区別がつかないほど精巧につくられているしね。一体というよりは、まさに一人と呼んだ方が良いほどだ。

受付・お茶くみ・電話番はもちろん、秘書業務から総務、経理、警備、社用車運転、ファイリング、スケジュール管理まで一人で何役でもこなす。家庭でも、掃除・調理・洗濯の各家事機能は完璧。SEXと出産以外の、すべてに対応できるんだ。

いや間違えた、SEXにも対応可能な新機種が開発途上だったことを忘れていたよ。嬌声をあげたり、瞼を閉じたり、舌舐めずりしたりもできるんだ。任意のポーズをとらせることも可能だ。タッチセンサーや内部ヒーターが体中に埋め込まれていてねえ、敏感に反応するんだ。しかも従順でねえ。もし「I love U」とか告白されたら、これはもうたまらないね。

近頃は、そんなアンドロイドに、淡い想いを寄せる人間まで出て来る始末でねえ。ネオ腐女子とか、ネオ腐男子とか呼ばれているよ。とても良い世の中になったもんだよ、まったく。これは皮肉だけどね。


この間も海外出張へ出かけたけど、まあスゴいアンドロイドを働かせている国もあって、楽しかったよ。

現地駐在員に「時差解消のために良いから」と説得されて、高級スパサロンに連れてってもらったんだ。最初に、コースと料金・言語だけじゃなくって、好みのヘアスタイル、肌の色、体型、顔立ち、コスチュームまで入力させられるんだ。何だかあやしいとは思ったんだけどねえ。

そうすると、ボクにぴったりのタイプのマッサージ・アンドロイドが登場して、お相手をしてくれるんだ。あれはディープラーニングの成果かなあ、かわいい小顔ながら、ピチピチした肢体がしなやかなでねえ。

「マギーと申します。まだまだ不慣れな新米ですけれども、よろしくお願いいたします。本日はマギーで、存分に楽しんでいってくださいね」

って、健気にも日本語で挨拶をするんだ。

透明感のあるミルキースキン、黒髪のショートヘアー、細身で小顔、控え目な態度は、まさに好みにピッタリだったよ。しかもコスプレだし。えっ、どんなコスプレだったかって? それは個人情報、個人の趣味だから言えないよ。それにしても秘密めいた、最上のひとときだったなあ。

施術テクニックはハイテクだったよ。オリエンタル・コースという癒しマッサージを頼んだんだけど、ローションを使った手技が愛情に満ちて、本当にこれがロボットのワザか、と思うほどだった。プログラムソフトが良く練られていて、完璧なんだ。

それと、小柄な割に盛り上がった胸を、惜しげもなく眼前にさらけ出してくれるし、人間離れした腰のくびれも見事だったよ。まあ人間じゃなくて、アンドロイドだからね。

マギーは本当に献身的で、時差の疲れがいっぺんで吹き飛んだねえ。人間のツボを良く心得ているんだねえ。顔のマッサージから始まって、だんだんと腕の方へ移って、ボクの体幹を隅から隅まで、丁寧にほぐしてくれるんだ。最後は、馬乗りになってくれてねえ。ボクもマギーも、額から首筋、腋の下、胸腹から下肢まで汗びっしょり。しずくが滴り落ちるんだ。全身がテカって、妖艶だったよ。

多分、芳香プログラムが無料で備わっているんだろう、ロボットとは思えないほどの、良い香りが漂ってきてね。顔や上半身がピンク色に紅潮してくるんだ。また人肌の温もりも感じさせるんだ。やはり体温プログラムだろう。豊かな表情も印象的だし、もう至れり尽くせり。心身からリラックスできて、たまらなかったよ。

「いかがでございましたか。今度はお時間をもう少し下さい。また来ていただけますね」

と敬語も流ちょうだったねえ。今度は、特別オーダー・コースでも頼んでみようかと思ったよ。ボクのツボと嗜好を、すっかりディープラーニングしたはずだからね。

確かに濃厚だったけど、公序良俗には反していないと思うよ。人間じゃないからね。でも、相当きわどかったよ。日本じゃコンプライアンス上、どうかなあ。きっと大丈夫だ、と信じているけどね。

プログラムを変えれば、中・英・韓の多言語も使えるし、ロングヘアーからショートヘアーまでOK。看護婦や女学生・客室乗務員など、典型的な服装のバリエーションへも対応可能らしいよ。

こんな経験はバーチャルより、断然リアルだよ。

アンドロイドって最高、伴天連の機械って、最高。



「交通はどうなってんねん。移動は便利になったんかいな。愛車のガソリン車は、20年以上のビンテージ・カーや。国産のマニュアル車やから、よう走りよるで」

2045年は、ハイモビリティ社会になっているんだ。

それはCAR(カー)ではなく、MOVAで実現したんだ。もちろん電気エネルギーで動くEVだ。


コネクティッドって何かって。

インターネットにつながっている状態のことを指すんだ。常時つながっているんだよ。そのメリットは、とても大きいんだ。

たとえば、交通事故でエアバッグが開くだろう。そんな時は、たいていは一分一秒を争う。いつもネットに接続していて、エアバッグが開いたことを感知すると、自動で警察・消防に緊急通報するんだ。場所もGPSから自動送信できる。同じことは、車内で急に体調を崩した場合でも言える。非常ボタンを押せば、MOVAが自動的に通報するから、安心だ。

搭載されている温度センサーや、ワイパーのオン・オフの状態がネットにつながれば、道路の路面温度、天候などの沿道環境がつかめるしね。それをもとにして、他のMOVAに対して注意を喚起するとか、安全に誘導するとかが可能になるんだ。そんなことくらいは、オヤジも簡単に分かるだろう。

また盗難にも強い。ネットで盗難車両の現在位置を追跡できるからね。自動で、警察や警備会社へ知らせることもできる。もう安心だね。


また物流業では人手不足と配達時間の問題を、AIドローンで解決した。確かに大量に輸送する海運や陸運の方は、かなり効率化が進んではいた。

でも手許へ商品を届けるまでの、いわゆるラスト1マイル問題の解決には、やっぱりキメ細かい宅配サービスが必要だった。この役割を、AIドローンが担ったんだ。当然、コネクティッドだ。色々と法的課題はあったが、なんとか実現できた。これで、物流業が3Kの職業とは、晴れて言われなくなくなった。


もちろんMOVAにもAIドローンにも、弱点はある。コネクティッドに特有のことだけど、ネット経由でのハッキングには随分弱い。マルウェアの侵入を許して、遠隔操作プログラムで運転を乗っ取られると、かなり危険になる。万が一、アクセルを全開するようにハッカーに操作されると、もう暴走は止められない。緊急時のリダンダンシー確保は、義務付けられているんだけれどもね。人はパニクると、忘れてしまうんだ。

AIドローンにも、同じ弱点がある。誤配の程度では、済んでいない。配達先を書き換えられて、盗まれた商品もある。配達プログラム中のファイアウォールが、脆弱だったんだね。

情報ディバイスがコネクティッドされたことで、生産性向上と生活向上に結び付いて、コネクティッド社会が実現した。そこまでは良かったけれど、逆にそのことが新しい問題を発生させたんだ。

これが原因でリコールされたMOVAやAIドローンは、何十万台にも及ぶんだ。


ハイ、ハイ。オヤジはまた、伴天連の道具は信用ならないって、貶すんだろう。わかってますよ。



「ミンナの暮らし方と働き方はどうなるんや。がんばって働けば働くほど、恩恵に浴することのできる、エエ社会になってるんか」

2045年は、テラ・インダストリー社会って言われている。

メガでも、ギガでもないよ、テラだよ。兆の単位だよ。マイクロプロセッサーのトランジスター数から付けられた名前だろうね。

その実現には、AIやIoTがどうしても欠かせなかった。各工場、各プラント、各事業所では、人間とAIロボットが一緒に働いている。まあ、共棲状態にあるって言っても良いよね。これで各業界の生産性が飛躍的に上がったために、テラ・インダストリー社会って命名された。


AIが人間の仕事を奪って失業者が増えるとか、人類を滅ぼすとか、真剣に議論されていた。でもそんなことに、今はなってないよ。ただ、将来はわからないけど。

今のところ言えるのは、AIが人間の職を奪うのではなく、AIで人間の働き方が変わったということだ。単調な作業の繰り返し、ルーティンワーク、労働集約的な仕事は、どんどんとAIに置き換わっていった。これで人手不足の悩みは一挙に解決。長時間労働も激減した。ワークライフバランスが実現したんだ。働き方改革だね。

人には、人にしかできないジョブがある。神経をすり減らす人事管理なんかが、その典型だ。AIも、多少はそれに関与する。でも、もっぱら人事管理を支援する立場に留まって、意思決定まではしないよ。複雑で高度な調整業務も同様だ。そんなことは、今のAIはできない。けれども、将来はわからない。人間も、うかうかできないよ。


もしも人間が意思決定を行う権限を、AIに奪われたらどうするかって? オヤジはノー天気のようにみえて、案外、心配症だなあ。 


むしろ、AIが人に代わって意思決定をする、という発想の方がおかしいよ。もし人間が知的活動を放棄して、自らの存在を否定するようになったりすると、それは人としての堕落だ。そこを、スマートなAIに付け込まれると、すべての意思決定がAIによって奪われることになって、それが人類存亡の危機を招くんじゃないかな。人が四六時中遊んで暮らせるはずはないし、高等遊民と言ったって限りがあるし。

結局すべての責任は、ボクたち人間側に返ってくる。その時に、皆がどう考えるかだ。もう面倒なことには白旗を挙げて、AIに全面的に委ねる覚悟を決めるかどうかに、最後は掛かっているんじゃないかな。そんな覚悟が人間にできるはずがないと思うけどね。

人間には、飽くなき好奇心があるからね。もし好奇心を捨てられるなら、AIに任せっ切りにしても良いんだけどね。でもそんなバカなことってあり得ないよ。



「サイバーセキュリティってナンや。それはテロ対策か、それとも犯罪対策か、それとも戦争対策なんか?」

サイバーセキュリティが想定される事態とは、テロで、犯罪であり、戦争でもある。みんな一緒になったものだ。極めて由々しき事態だ。エライこと程度じゃ済まない、どエライことなんだ。


「どエライことっちゅうのはは、大変やなあ。悪いヤツらがおるんや。そんなもん、どんなヤツが仕掛けとんねん」


それなんだよ。サイバー空間は国境を越えて広がるから、どこから襲われるか、いつ襲われるか、誰に襲われるか。5W1Hに、まったく想像がつかないんだ。だから厄介極まりないんだ。


「でも所詮、バーチャルなサイバー空間の中の出来事やないんか、そやろ」


それは違うよ。もう、世間はリアルとバーチャルが融合してきているんだ。だから相互に影響し合うんだ。これからはもっと一体化するだろうし。良い影響も、悪い影響もあるよね。良い影響の代表がIoTで、その反対がサイバー攻撃じゃないかな。


「セキュリティっちゅうのは、何をするんや。まさか、タテで防ぐこともでけへんしなあ。ウィルスやから、ワクチンでも飲むんか」


ワクチンと言っても、原理としては駆除機能を備えたプログラムだ。でも、それにばかり頼っているとダメだ。まさにホコとタテの関係になるんだ。新手のホコには、新しいタテを用意する必要があるように、新手のマルウェアには、新しいセキュリティプログラムが必要となる。モグラ叩き状態なんだ。セキュリティ確保も大変な仕事だよ。


「でもウィルスが襲う相手によっては、カネにも何にもならん対象もおるで。仮に自分が襲われたとしても、大金も、目ぼしい資産も持ってへんしなあ。痛くも痒くもないわ」


確かに大組織・大企業は襲われやすい。カネになりやすいからね。保有情報も豊富だし。

でも必ずしもそうとも限らないよ。誰でも襲われる可能性があるんだ。ネットの利用者である限り、襲われることは避けられないんだ。病気みたいなもんだ。襲う理由なんて必要ない。理由なき攻撃なんだ。


「怖いなあ、まるで、ガンみたいやなあ。保険ってかけられへんのか、サイバー保険とか」


その通りだ、ガンだよ。だから日頃から、免疫力を高めておくことが大事なんだ。そして早期発見することも大事だ。

それとマズイことに、バーチャルしか知らないヤカラは手加減を知らない。徹底的に相手が死ぬまで、攻め続ける癖がある。

サイバー損害保険も契約者が急増中だ。でもリスクヘッジはやはり自身で努めないとね。


「ガンと同じなんやったら、もう個人で気ぃつけるのは限界があるなあ。集団検診とか、何か、皆そろって早期発見できるかどうか、真剣に考えんとイカンなあ。それはまず、お国に頼むしかないなあ。万が一、知らない間に末期ガン患者にでもなっていると、最後の助。もう死に体、ご臨終や。ご愁傷様や」


久しぶりに、ボクもオヤジの見方に同感だった。サイバーの脅威はガン細胞のように、ヒタヒタとサイバー空間をむしばんでゆく。

だから手遅れになる前に、早期発見することが大事だ。



「AIが伴天連の機械でも、なんでも構わんわ。それにしても、ハムはエエでぇ。自作で何でも作れるからなあ」

ハムのオヤジは、最後には必ずアマチュア無線を絶賛する。まあ、いつものことだけれども。また、オヤジは無線機・アンテナ、なんでも手作りする自作派の代表だ。回路図と首っ引きで、ハンダこてを駆使。不用意にコンデンサーに触れて、感電しながらもせっせと結線する。コールサインはJP32YZR。いまでも熱心な、ハム・オタクだ。

オヤジには偏屈という言葉より、反骨という言葉がふさわしい。それなりの気骨とか哲学があるからだ。

そうだ、反骨の無線技士、それがオヤジだ。


「M2Mってなんや。機械同士がつながってんのか。そんな初物に頼ってるから、融通がきかんようになるんや。ハムは、マン・ツー・マン、1対1や。同じM2Mやけど、マシンと違って、マンや。えらい違いや。人同士の付き合いが基本やろ」


オヤジが看破する通りだ。M2Mとか、H2Hとか言われる。でも大した差異はない。ネットを介したコミュニケーション、という意味ではほぼ同義だ。

世間では、ITではなく“相対”が大事なのだ。


「ハムのコールサインは絶対、信頼できる。IPアドレスとは違うぞ。JP32YZRは、JP32YZRしかないんや。それは自分や。なりすましはないし、お上のお墨付きの免許状もある。匿名やないで、だから安全なんや。しかるに、アマチュア無線愛好家は、どんどん減ってるんや。情けないとは思わんか」


フリーでフラットなサイバー空間。匿名性は高く、脅威となることも稀ではない。でもそのサイバー空間の勢いは止まらない。反対に、安全だけれども、縮小傾向が止まらないハム。

ハムとは真逆の価値観を持つサイバーの世界が、急拡大している。



「それでAIみたいなもんが発達して、ミンナ、しあわせな世の中になるんか。世界中がハッピーになれるんか」

イノベーションが、ミンナを潤している社会になっているんだ。


農林水産業は、それぞれスマート農業、スマート林業、スマート漁業になっている。もちろん、工業も小売業も鉱業もサービス業もそうだ。第一次産業から、第六次産業までの全産業の構造が、サイバーで根本的に変わったんだ。飽きることのないイノベーションの成果だ。

それを指して超スマート社会とか、あるいはまたテクノウェルネス社会とか、Society6.0とか、7.0とか呼ばれているよ。

この社会は、情報システムによって自己実現が可能な理想郷だ。

ヒト・マチ・シゴトが自由で健全な関係になり、健やかで幸福を追求できるようになったんだ。


でも1点だけ大きな問題が残されている。サイバーセキュリティ問題だ。それが2045年の健全な発展を邪魔して、人々を恐怖のどん底に突き落としかねないんだ。


思い出にふけっている間に、目的地の病院に着いた。

「ハイ、ハイ、・・・お待た・・・」

スティーブの受け答えがぎこちなく、滑舌が極めて悪くなっていた。しばらく沈黙してから、

「ハイ。お待たせ・・・しました。目的地に・・・到着しました」

そこには真っ白い病院が、MOVAの前にそびえ立っていた。ボレロは今まで繰り返されていた旋律から、最後の旋律に移り変わり、クライマックスに達していた。

院内に入って、クレゾール石鹸液の香りを嗅いでいる内に、

―オヤジがどんな姿になっていようとも、ボクはすべてを受け入れよう。

ボクの覚悟は決まった。ナースステーションへの挨拶の後、オヤジの病室のドアを静かにノックした。






#予 兆


上京した5年前、初登庁の日のことは今でも鮮明に想い出す。

満員の東京メトロから溜池山王駅で下車。特許庁横の急な坂道を登り切る手前、ちょうど道を挟んで総理大臣官邸の真向かいにJACOがあった。ボクの新しい職場だ。

午前8時半の始業前ともなると、ダークスーツの面々が次々と合同庁舎へ吸い込まれてゆく。恐ろしいような急ぎ足で歩く面々。朝から、なにやら殺気立ったものすら感じる。彼らは、もちろん日本国の中枢を支える官僚たちだ。

―こんなスピードに食らいついて、ボクはここで本当にやっていけるのか。初期値がデフォールト状態の自分は、まるで歯がたたないんじゃないだろうか。

沿道に陣取る、何台もの警察車両。車内をうかがい知ることはできない。そこかしこに眼を光らせている機動隊員。フル装備が、いかにも窮屈そうだ。否が応でも、物々しい雰囲気を感じざるを得ない。辺りに植えられているイチョウ並木や植え込みにすら、重苦しさを感じるほどだ。

上り坂のせいだけではなく、急に息苦しさを覚えた。小休止するつもりで、手提げバッグをプランターの陰に置いただけで、向こう側から近寄って来る人影を感じた。警杖を携えた機動隊員だ。少しあわてた。でも、落ち着いて考えてみれば当然のこと。ここは日本一警備の厳重な地区である。そのことを、思い知らされた。

―さすが。JACOにとっては一番相応しい所在地だ。

感動したボク。

ここは日本国中枢の場、永田町だ。国会議事堂や首相官邸、議員会館の威容に気後れしそうになりながら、精一杯に顔を上げたまま赤っぽいIDカードを提示し、無事にセキュリティゲートを通過。初日は、それさえもいっぱい・いっぱいの気持ちで、顔を上げていないと即、溺死しそうでさえあった。

上司に宣告され、心の奥底にダウンロードされて初期設定になった「ド根性」という言葉だけが、この時のボクを何とか支えていた。


2・1 JACO

名称はJAPAN CYBER SECURITY MANAGEMENT OFFICE。「日本サイバーセキュリティ推進本部」と訳され、通称はJACO。

―なんか、いかにもシュールなネーミングだ。

と思った。それがボクの新しい職場の正式名称だ。

そこには、全国からサイバーセキュリティに関する精鋭たちが集結。ボクのように地方からの警備スタッフもいれば、内閣省からの出向者もいた。自治体の危機管理監、元銀行マンの転職者や、セキュリティソフト会社からの派遣プロ、グローバルなソフトウェア企業からの転籍者なども勢揃い。官民連携した、多士済々の12名であった。


着任のあいさつもそこそこに切り上げると、早速、管理官から

「オイ、今日からお前のパートナーだ」

と紹介されたのは、

「矢追才子です。サイコって呼んでください」

「江藤です。飛雄です、エトウトビオです」

ボクは「サイコ」とは、Psychoの意味か、それともサイバー世界に関心を寄せるサイバー女子の意味のサイ子か、はて、どちらだろうかと思った。

「良かったよ。JACOだからAIロボットかアンドロイドのパートナーかと思っていたけど」

ボクの冗談にけげんそうなサイコ。同様に、ボクのことをAIロボットかと怪しんでいたのかもしれない。

犯罪心理学のプロを自認するサイコ。

彼女の第一印象は、

―ちょっとオタク的なPsychoかも知れないけど、いいね!

と心の中で、いいね!ボタンを押した。

つまり、七難を隠すほどの超美少女だったのだ。ただ性格のキツさは隠しようもなく、防御的というよりは攻撃的、まさにサイバー攻撃向きであった。

サイコのアカウントは名前に因んで「801PSYCHO@jaco.com.」。そこにはヤオイサイコの名前が、符丁でつづられていた。

これでボク・トビオとサイコのリアルなツイートが始まった。


ディスプレイ越しに真正面に座るサイコとの会話は、

「よろしくねっ」

「はい、よろしく」

「出身は大阪ってっ」

「そう」

「やっぱり粉モンとか、しょっちゅうでしょうねっ」

「いいえ、そんなこと・・・」

「・・・アタシは明石焼きとか、食べたこと無くってっ」

「明石焼きっていうのは、神戸の方ですけど」

「はあ・・・っ、湯豆腐は好きよっ」

「それは京都」

「じゃ、奈良はっ?」

「うまいモン無し!」

と、まずは他愛もなく、チグハグな話題が迷走した。

―最新型のAIロボットを相手にした方が、よほど気のきいた、標的型の会話をする。

と思ったほどだ。

語尾が促音で、独特のつまる話し方をする。でも、

「ところで今、エトウトビオって検索すると一杯出て来るんだけどっ?」

ボクは、

―アァ、もうバレるのかなあ。

と諦めた。ついにサイコの方から、標的型攻撃・エゴサーチが仕掛けられた。

ネット時代、一度でも名前が流出すると、いつまでも消去できない。まるで不揮発性メモリーのようだ。電源の供給なしでも、記憶が永続する。きっと顔写真もアップされているはずだ。

さっそく、

「トビオの画像も出てるよっ、これでしょっ」

ズケズケと言う。ボクの脳みそにあるサーバーには過剰な負荷がかけられ、早くも思考停止状態に陥った。こんな矢継ぎ早のコメントは、立派なDDoS攻撃だ。

ワンクリックでどんな情報でも出て来る、手品のような時代になって久しい。

―確かに住所や電話番号じゃないけど、顔写真って個人情報だよなあ。まさか職歴とか通信履歴とかまで、出てるんじゃないよなあ。

と覚悟をしていると、

「そうだったのねっ。トビオは、有名なネットなりすまし詐欺事件の、あのトビオだったのねっ」

身バレしたボクは、もう観念するしかなかった。こんなにも簡単に、個人情報が検索できるのだ。

ボクは、

「そのトビオです。ひょっとすると、ボクの指紋とか年収とかも出ているんじゃないですか」

と冗談ンぽく返したが、それを本気にとったサイコは、

「ちょっと待ってねっ、うーん、略歴とか出身校とかは、ホント分かるわねえっ。それとタレントの○○のファンで、購読紙は毎朝新聞なのねっ。ネットで読んでるんでしょうっ!」

と全く屈託がない。

だから、

―しまった。冗談でも振るんじゃなかった。この調子じゃあ、ID番号まで検索されるんじゃないか。

と後悔したほどだ。

―ひょっとすると、パンツの中までもハッキングされるかも。

思春期のように、淡い恥ずかしさすら覚えた。

たしかに様々な機会で、趣味、学歴、健康状態などを、少なからず公けにしたことはある。必ずしも、うっかりと開示した情報ではない。意図的に行った場合も少なくない。同窓会の会報や、講演会での紹介文、職場でのコメントなどが、その機会だ。

それらは個別散在的な情報だ。つまり元々は別々に開示し、雑多でバラバラな情報であった。だが、一つ一つは些細な個人情報でも、それを名寄せされれば、立派なプライバシー情報になる。

―まあ、ボクのプライバシー情報などは大した価値はないけれども。でもみだりに私生活は公開されたくない。

と少し自嘲気味になったが、今まで、開けっ広げに自分をさらけ出してきたことは悔やまれる。時代が時代なのだ。

サイコは眼を輝かせながら、眼の前に座って、やや狼狽気味の「エトウトビオ」を一生懸命に検索している。キーボードを叩く音が速く、大きくなってゆく。もうこうなると、止められそうもない。エスカレートしやすい粘着質のようだ。

「相関図も出てるわよっ。トビオは東都大学の副学長と、知り合いなのねっ。それと衆議院の伊東先生とも、太いパイプでつながっているってっ。その他にもっ・・・」

「えっ。それは違うだろう。伊東先生とは一面識もないぞ」

「いえいえ、チャント太線でつながっているわよっ。今、その相関図をそっちへ送るからねっ。サイトでは『丸分かり相関図』って謳われているよっ」

と目の前のサイコ。たった2~3歩の距離であるにもかかわらず、801PSYCHOから@tobiochan154649へわざわざメールを寄こした。

―そんなバカな。

とは思ったが、ネット空間では飛び交うだけで、フェイク情報が幅を利かせる。しかも、みえる化までされている。しかしながらその出所やアルゴリズムは、必ずしも問われない。そしてそれがいつしか既成事実化して、真実となってしまう。伊東先生との相関関係が、AIによるディープラーニングの成果だとすると、誠にお粗末かつ、危険と言わざるを得ない。

「それと、トビオは何か知的財産権を持っているんじゃないのっ? 特許情報に出てるわよっ! すごいっ」

大事な情報であった。

確かに学生時代に、友人たちと一緒に考えたアイデアに対して特許権が付与された。でも、それは何の役にも立ちそうもない知財だったので、ボク自身がすっかり失念していたものだ。

ネットに書き込まれた情報は、時には、人間の記憶喪失的なモノ忘れをカバーする。

ネット空間はフェイクであったり、逆にピュアであったりする。フェイクとピュア、白と黒のパーツがモザイク状に入り混じって存在する特異な空間だ。だからといってネット空間そのものがフェイク・ネットであったり、メディア自身がフェイク・メディアであったりするわけではない。その白黒をしっかりとつけるのは、自分でしかない。

生かすも殺すも、自分次第なのだ。

―これからのことを考えると、やっぱりあの忌まわしいなりすまし事件についての説明責任は、早い目に果たしておきたい。

ディスプレイ越しにちらちらと目線を交わしながら、例の事件について説明する時がきた。

ゆっくりと話し始めた。

やはり、声のトーン、顔の表情、身のこなし方、そして眼差しは寡黙だが、雄弁だ。いくら顔文字やw、草などを駆使しても、ネット時代においても、対面に勝るものはない。相手の目を見ながら、説明を続けた。

ボクなりに出来るだけ客観的に、脚色を施さずに伝えようとした。でも誤認逮捕の段になると、やはり気持ちが昂った。無意識ではあるが声が震え、半落ち状態に陥ることは止められなかった。

たとえば、同じ「はい」でも、「ハイっ」と「はあ~ぃ」「はい、はい」など、バリエーションは多い。「はい」が、肯定の意思表示でないこともある。もしも「はいぃ↗」のように語尾を上げれば、消極的に否定する意味にすら変化する。

ハイでありながら、なお、イイエとなる。言葉遣いは気まぐれだ。時には言葉遊びや、誤解の温床にもなる。でも、それを非難しても仕方ない。だから面談の意味が重く、コミュニケーションアプリに軽さがある。膝を突き合わせると、琴線にも逆鱗にも触れることができる。だから共感・共鳴をするのだ。

ネットは炎上するが、面談は炎上しない。ただ、もの別れはある。

サイコは黙っていたが、表情は興味津津であった。

「でも、トビオだけが悪いんじゃないよっ」

「同感だけど、それを自分の口からは言えない」

ボクは落ち着いて説明を続けた。

「組織を挙げて行ったし、・・・手順は慎重に踏んだんだ。・・・何度も確認をしながら進めた。でも責任は・・・問われざるを得なかった。最終責任は・・・個人が負う宿命があるんだ。本当に・・・重苦しい宿命をね」

「・・・」

独白にも似た真情の吐露の後、それをじっと聞いていたサイコは、長くて重いabout:blankの後に、絞り出すように小声でつぶやいた。

「サイバー空間の中のネット犯罪であっても、最終的には、リアルな罪が生身の人間に問われるのよっ」

「そうだろう・・・」

「そう、そう。そうなのよっ、それがネット犯罪の恐ろしさなのよっ」

「・・・」

再び空白の時間が続いた後、最後にボクの方から話しをログオフした。

「・・・ネットの何たるかを、サイバー空間の何たるかも、ボクは分かっていなかった。バカだった。もう2度とこんなことはしない。環境設定からやり直すんだ。そのつもりでJACOに来たんだ」

しぼり出された本音が、ボクの口をついて出てきた。



2・2  IQ256のハッカー

JACOでは毎日、座学と実戦的な訓練に明け暮れた。そのプログラムの一環で、調査レポートが課せられた。テーマは任意だ。

―はて、何を調査して、どうレポーティングすればいいんだろうか。

テーマは、「サイバー犯罪の実像」とした。

サイコの紹介でボクは、サイバー犯罪にとても詳しい人物に会い、レポーティングすることにした。詳しい人物、その人物はこの世界では余りに著名なサイバー犯罪者、ハッカーの中のハッカー、天才肌の凄腕ハッカー。彼こそは伝説のハッカーだ。

そのことは、彼のIQが256と言えば、容易に理解されよう。その彼にサイバー空間における犯罪の何たるかを、聞き取り調査するのだ。

犯罪者に対してはオカシい言葉遣いだろうが、彼の犯歴を表現するのには「輝かしい」という言葉しかない。

2012年の日本小売業協会からの200万人の顧客情報流出事件、2014年に起こった日本を代表するインフラ企業である北日本ガスのホームページ改ざん事件、2015年発生の東京クレジットからのセンシティブ情報の漏洩、また2016年の大手重機械メーカー丸菱からの原発や軍用艦の設計情報の消去など。近年において注目を集めたサイバー攻撃には、主犯か、または、准主犯格として、彼がほとんど関与しているとの噂だ。

その受刑者は、愛知県にある医療刑務所にいた。天才肌とは言え、逆に天才肌だからこそ、徐々にバーチャルとリアルの区別が曖昧になり、ついには精神を病んでしまったとされている。

緑豊かな環境の医療刑務所。広大な敷地には草花が一面に植えられ、原っぱとして整えられている。刑事ドラマによく出て来るような、高い塀で世間と隔離されている刑務所とは、一線を画している。

「地域との共生を図りつつ、保安と安全に万全を尽くして運営いたします」

というホームページのうたい文句通りだ。これが刑務所とは、とても思えない。高級リゾートホテルかと見間違えるほどの佇まいだ。もし、ここが刑務所と知らずに連れて来られたら、子供連れが週末をエンジョイするには打って付けの運動公園と見紛うほどだ。

ただし館内に入ると、真反対な空間が広がっていた。

さすがに重圧感を感じる。CCTVカメラが随所に目を光らせ、電気錠などの防犯システムが備えられ、患者には無線タグが付けられて館内の移動軌跡がリアルタイムで把握されている。

―おそらく、カメラもネットワークに接続されているんだ。高画質のWEBカメラだろう。見かけはフリーなように見えて、本当のところは、万全の監視体制が敷かれているんだ。

来訪者であるボクもサイコも同様に、GPS付きの無線タグを首にかけられ、管理セクターを越える毎に、顔認証を求められる。移動の自由があるとはいうものの、あくまでも監視空間の中での限られた自由だ。

廊下を突き進んだ。

―この技術が、この館内だけではなくって、もっと広く一般公衆空間にも適用されるとしたら・・・。

思わず不安になった。

SFの世界で描かれるディストピアでは、全市民を監視し、犯罪が起こりそうな場所を予測。個々人のメール内容や位置情報も入手して、関心や好みを分析する。そして時には犯罪を未然に防ぐという大義名分の下、クラウドの中の膨大なデジタルデーターの開示まで当局に求められる。

その疑似的なプチ空間が、館内で成立している。

コツコツと歩く自らの足音が、廊下中に響き渡って聞こえた。

―ミニ・ディストピアの世界だから、重圧感を感じるんだろう。

普段は冗舌なサイコもボクと同様、圧迫感を感じて、さすがに口が重くなっているようだ。

「監視こそされていないものの、ネットをブラウジングしている時に、趣向にドンピシャの広告が入ったり、誘惑されて焦らされそうな情報が入ったりするのよねっ。それって、犯罪予測技術の応用よねっ?」

「いや、正反対なんじゃないか。標的広告のテクノロジーを応用して、犯罪予測や監視がされているんじゃないか。我々は知らず知らずの内に、ディストピアに暮らしているのかもしれない」

「ユートピアとディストピアって、表裏一体ってことっ」

「そう」

「サイバー空間っていうのは、一体どっちなのかしらねっ」

「どっちへも転ぶことがあり得る」

「じゃあ、アタシたちの個人情報って、一体何なのかしらねっ」

「まったく愉快じゃないよね」

「不愉快よっ」

「・・・」

「誰が、大事な情報保護をしているのかしらっ」

「誰にも頼れないよね」

「とどのつまりは、自分しか頼れないっ」

「自分が自己責任でやるには、限界があるしね」

廊下の突き当たりの真正面には監視デスクがあり、そこではCCTVカメラ、つまり監視カメラの画像が集中表示されていた。デスクからは、格子越しに病室がズラリと見渡せる。最後の電気錠だけは、デスクに陣取っていた刑務官が手動で解錠。ガチャリという重い音が、この場所が厳重に監視された空間であることを物語っていた。

伝説のハッカーは、一番手前の病室に幽閉されていた。


彼はベッドに拘束され、窓のない部屋で両手足を縛られて、あおむけに寝かされていた。

これでは、まったく身動きがとれない。見ただけでおどろおどろしい。

「これは、やり過ぎじゃないですか」

とボクが、やんわりとあげつらうと、

「いえ、こうしないと本人自身に危害を加える恐れがあるからです。自傷行為から、受刑者を護るためです」

との刑務官による型通りの説明。でも、

「一見、大人しくしているように見えるじゃないですか」

「いえ、鎮静催眠剤を処方しているからです」

「薬を処方している上に、さらに拘束衣というのは、やはりやり過ぎじゃないですか?」

「これも法令で定められているものです」

ハッカーは、まるでミノムシのように巻かれていた。サイコはすっかり怯えてしまって、まったく口を開こうともしない。

「トイレはどうするんですか?」

「チューブが差し込まれています。また栄養は、鼻からのチューブで注入されます」

「いつからこんな風に拘束を」

「昨夕からです。昨夕、急に興奮し始めて。それでやむを得ずに」

「それにしても、あのフェイスマスクはヒドイのでは・・・」

顔面には逆Y字型に皮ベルトが巻かれ、それで頭頂部から下あごまできつく締め付けられている。あごがまったく動かないので、言葉が完全に奪われている。太い皮ベルトが視界を遮っている。口が開けないので、鼻だけの呼吸になって窮屈だ。

こんなことをされれば、伝説のハッカーでも誰でも、絶対服従するしかない。

ただ、このままでは聞き取り調査にはならない。フェイスマスクだけは外すように求めた。刑務官はきつく巻かれたベルトを外しながら、

「いいですか、決して不用意に目を合わせたりはしないように。目を合わせると、相手の術中に必ず陥りますから」

と一言、警告を発した。フェイスマスクの下から、ハッカーの顔が現れた。昨夕から24時間近く、視界が奪われてきたとは思えないほど鋭い眼光が、辺りを射すくめた。

「さあ、さあ、よく来た。昨日からずっと待っていたぞ」

薄笑いを浮かべながら発したその低い声に、こちら側の3人の方は、思わずお互いに目を見合わせた。ボクは素直に、

―どうしてボクたちが訪問することを、知っているんだろうか。

と疑問を感じた。

目を細めた刑務官が、首を小さく横に振った。その目は、彼の話には絶対に乗るな、と念押ししていた。

―そうだ、もうハッカーの術中にはまりかけていた。危なかったんだ。

刑務官からのサインで、ボクはやっと気がついた。

ハッカーは続けた。

「おまえらは、こいつに言われたんだろう。“気をつけろ”ってな」

もう誘い話には迂闊に乗らないよう、留意した。

「・・・」

「それは妄想だ、妄想が妄想を呼んでいるんだ。みんな妄想にかられているんだ」

「・・・」

「こいつは、とてつもなく愚鈍だから」

ハッカーは目線で、刑務官の方を指した。

「私のことを殺しに来たんじゃなさそうだな、お前の間抜け面を見れば分かるぞ」

「・・・」

ボクと刑務官が全く挑発に乗って来ないので、ハッカーは鉾先を変えて、サイコに目を移した。

「ここではエゴサーチができないから、最近、自分のことが分からないんだ」

「・・・」

「お嬢ちゃんは、本当は無口じゃないな。いつもは良くしゃべるクセに、今日はダンマリを決め込むつもりか。でも、お利口さんのままで、おスマシを決め込んでいて良いのかな」

「・・・」

「そうか、私が怖いんだな。でも恐怖で濡れてるのがわかるぞ、もうぐっしょりだ。ハレンチ極まりない娘だ」

横のサイコが、羞恥心で一瞬たじろいだのが分かった。早くも罠にハマったサイコ。

「ここは女気が無くてイカン。でも、久しぶりだから女のことは何でもわかるぞ。ジュースが旨そうだ」

「・・・」

ハッカーはお構いなしに続けて、

「さぞかし、ナカがお好きなんでしょうな」

「ナカっ?」

―話しに乗るな、黙ってろ、サイコ。

そう言いかけたボク。

ハッカーは、サイコが見せた一瞬の隙を見逃さず、ニタリと笑った。

「それにしても、高そうなジャケットなのに、何て野暮ったい着こなしだ」

今度はそっちに話題を変えて来た。女性が気にするアイテムを心得ている。見事だ。

でも感心している場合ではない。サイコのファッションセンスが、一瞬で見抜かれた。サイコにかけられた罠が、徐々に強く締まってきた。

「ふふふ、ちょっと怒ったな。こんな言われ方をされて、本気でムッときたんだな」

サイコは意図的に沈黙をしていると言うよりは、相手の術中にはまってメンタルがハッキングされ、口がきけないと言う方が正しい。

「・・・」

「他人からのネガティブな指摘を受け入れられないのは、統合失調症である証拠だぞ」

何度も揺さぶりをかけて来るハッカー。

「・・・」

「それにしても、そのポニテは良いぞ、似合ってる。まあ、耳はもっと出した方がいいがな」

サイコは眼を左右に微妙に動かした。言葉がまたヒットした証拠だ。

「肌荒れが目立つよなあ、お化粧が台無しだ。今朝は、ちょっとファンデの調合を間違えたな」

その通りだと、ボクも思わず相槌を打ちそうになった。けれども、ボクも罠にハマりかけていたことに気付き、首を横に振って、振りほどこうとした。

「そうか、わかったぞ。おまえは背伸びをしてるんだな。田舎育ちなんだな。ファッションに自信がないんだな。だから懸命にセンスを磨こうとしてるんだ。そんなに東京が恐ろしいのか、コンプレックスを感じているんだ」

「・・・」

「いや~~、そうじゃなさそうだ。東京が怖いんじゃない、おまえは虚栄心が強いんだ。それで虚勢を張ってるんだな。劣等感じゃない、見栄だ、そうだな」

図星だと思った。サイコは仮面をひん剥かれそうになって、狼狽していた。

「泣きべそだった素朴な女の子が、立派な大人になってこうして頑張っているんだ。男に混じって大変だろうなあ。行動力とか体力は、男の方が上だからなあ。ここまで来るのは、さぞしんどかっただろうなあ」

刑務官が面会時間の残りを気にし始めた。しきりに腕時計を見やっている。指を5本立ててボクたちに合図を寄越した。残りあと5分、という意味だ。

ハッカーは、ターゲットにしたサイコを執拗に攻め立てる。

「さあ、もう時間がないぞ。おまえたちは全く分かっていないようだな」

今度は鋭い目線をボクに送ってきた。

「私だけが、時間を人質にとれるんだからな。ところで、おまえの方は何だ、何しにノコノコとやって来たんだ」

弱いサイコにトラップをかけて、その上で、急にボクに話を振って来るという、巧妙さだ。ボクは心を読まれまいと、一生懸命に黙っていた。

「おまえは、まだまだ坊やだなあ」

「・・・」

「そうだろう、坊や。もしかして、そこのお嬢ちゃんに良いところを見せようと、ついて来ているんだな」

「・・・」

「ホ~、おまえは暗いなあ。その暗さは一体何だ」

「・・・」

「そうか、坊やは何かに悩んでるんだな。臭うぞ」

ボクは思わず身をすくめてしまった。ハッカーがそれを見逃すはずはない。

「さては、おまえはドジを踏んだな。リカバリー不能な何かで、大いにしくじったな、そうだな?」

「・・・」

「家族か、仕事か・・・そうか仕事だな、その言葉に目が動いたからわかるぞ」

ボクはハッカーの言葉に操られまいと、必死で無表情を装っていた。

「仕事で失敗をしたんだ。それでボロボロになったな、辛かったんだろうなあ。でも上役に反論する勇気もない。よっぽど、ヌルい職場だったんだな」

「・・・」

もうボクは視線を逸らせるしかなかった。それを見て、ニタリとしたハッカー。

「一時は、もっと他に自分の本当の姿がどこかにあるはずだと、迷いに迷っていたくらいだな。辞職を迫られるまでに、追い込まれたんだな、それとも天職を求めて退職しようとしたのか。さて思い通りに、自分をバージョンアップできるかなあ?」

ボクは再び目を逸らせた。

―どうしてそんなことが、いとも簡単にわかってしまうんだろう。

悪夢のようなあのイヤな思い出が、今にも蘇ってきそうだった。ボクはムンクの叫びのように、キャアア~~と両手で耳をふさぎたい心境になった。

「プレッシャーに弱い坊やだ。新しい居場所は見つかりそうか、ン、どうかな。簡単操作なんか出来ないぞ」

「・・・」

「大切なモノは見つかったかな? 見つかっていないんだな。いいか、粘り強く検索して探すんだぞ」

ギュッと目を閉じた。

「・・・」

「そうか、そうだったんだ。今は、このお嬢ちゃんが大事なんだな。恋仲になろうと企んでいるんだな」

「・・・」

「でもこんな不甲斐なさじゃ、コクれないしなあ。生まじめな性格が、邪魔をしているんだ。おまえの心は、ここぞという時に折れるんだ。謀りごとには向かないよなあ。坊やは、坊やで大変だなあ」

ボクは、いい加減にしてくれ、と怒号をあげそうだったが、そうするとまた心を読まれそうで、懸命に自分自身を押さつけていた。

刑務官が2本の指を立てた。あと2分だ。もう時間がない。

―今日はこれまでか。

とボクは諦めかけた瞬間、サイコがいきなり口火を切った。

「サイバー、サイバー空間の犯罪について知りたいんです。その正体が何か、サイバー犯罪の正体が何か、それを知るために今日はここに来たんです」

ニヒルな笑いを口元に浮かべたハッカーは、

「それは、此処みたいなものだ」

と、謎掛けのような回答をした。

「???」

ボクはハッカーの術中にはまりそうになりながらも、その謎掛けに応えようと懸命に考えた。

サイコはストレートに尋ねた。

「こことは、どういう事なんでしょう」

―サイコは、あまりに率直過ぎる。これでは、あいつに引っ掛けられてしまう。

ボクはサイコがハッカーに、丸ごと食べられてしまわないか、大いに心配になった。ハッカーにとって、サイコは絶好のデザートだ。骨の髄まで、しゃぶられ兼ねない。

「そうだなあ。それじゃあ、お嬢ちゃんにだけは特別に教えてやるとしようか。さあ、もっと近くに」

刑務官が制止する暇もなく、サイコはハッカーの口元に耳を近づけた。予想できなかったハッカーの動きにもかかわらず、サイコが勇気を奮った。

ささやき始めたハッカーの言葉が、途切れ、途切れに漏れ聞こえてくる。

「サイバーは・・・」

サイコのウン、ウンという小声も聞こえる。ハッカーはささやき続けていた。

「どこにでもある・・・ここも、そこも、すべてがサイバー・・・」

「人にもモノにも、のり移れる・・・AIは誰にでも憑くことが・・・」

サイコは耳元に顔を寄せたまま、コクン、コクンとうなずき続けている。ボクは感心すると同時に、安心をもし始めていた。

―さすが犯罪心理学のプロだ。危険なハッカー犯罪者の懐に、上手く飛び込んでいる。サイコはハッカーの心を、巧妙にフィッシングしたんだ。

「・・・メンタリティはリアルではなくサイバー空間で・・・そのサイバー空間でAIが独り歩きして」

「・・・意思を持って動くということ・・・」

「すべてサイバー空間の総意で動く・・・そうだ、総意だ、そうだ・・・」

あと1分、との声がかすかに聞こえた。

サイコは驚いた声で、

「えっ、意図を持ち始めたサイバー空間が、リアル空間と融合するっ?」

「いや、お嬢ちゃん、そんな甘いもんじゃない」

「・・・?」

「リアル空間がサイバー空間になり、サイバーがリアルになって、そのサイバーがリアルを攻めるんだ。もしサイバーがリアルに攻め勝つと、サイバーがリアルを飲み込んでしまう。恐ろしいぞ」

「攻めるって、どうやって攻めるのっ?」

「攻めるんだ。いつもリアル空間が、サイバー空間を攻めているようにな。それはどうしても止めることはできない。もうサイバーとは、おまえたちそのものだから。だから止められないんだ。今に分かる」

「???」

「一人一人がサイバーなんじゃない。全員でサイバーなんだ。いや、全体がサイバーなんだ。誰一人として止められない。その理由は一人ひとりが、全員を構成しているからだ。分かるか」

「???」

「リアルが存在して、サイバーが不存在と言う関係ではないんだ。リアルもサイバーも実在するんだ。リアルがあり、サイバーもあるんだ。リアルがあることで、サイバーもあるし、逆にサイバーがあることで、リアルもあるんだ」

「???」

「つまり一部分が、全体の中に同化してしまっているんだ。全体は、部分・部分と一体不可分の関係にあるんだ。だから全体が部分であり、部分が全体なんだ。この意味が分かるか」

「???」

「お前たちは、サイバー空間の隣りに暮らしているんだ。そのことは目には見えないからわからない。リアル空間の平和な生活と、サイバー空間の危険な状況とが同居しているんだ」

「はい?」

「そうだよな、鈍感なおまえらにはとても分かるまい。サイバー空間は、クレイジーなんだ、モンスターなんだ」

「クレイジーなんですねっ」

「そうだ。美しい日本の国の、危ないサイバー空間だ。そんなことも分かってないのか。ネンネだなあ」

「そのクレイジーなサイバー空間で、これからAIはどうなるのっ?」

ハッカーの眼がギラリと光った。

「お前はAIのことまで、教わりたいって言うのか?」

「そうです、AIです」

「図々しいにもホドがある」

「お願いします」

「AIとは・・・AIとは、究極の我がままだ」

「ワガママってっ?」

「そうだAIはとても我がままだ。一人で勝手気ままに振る舞いやがる。もうお前らの手には負えなくなっているんだ」

「AIは、単に人間が造った道具に過ぎないよっ。それなのに、人間の手に負えなくなるなんてっ」

「お前たちは、AIの正体もわかってないようだな」

「正体っ?」

「そうだ。AIの正体だ。AIはキャラを持ち始めている。人格、あるいはAI格、と言い換えても良い。ルーティンワークを黙々とこなすように躾けられたAIは、怠惰で俗物的なブタのような格になる。ディールに長けたAIは、傲慢で狡猾なカラスのようだ。人間が嫌がる仕事を押しつけられているAIは、野卑で強欲なゴキブリだ。そして人の上に立っているAIは、高貴で高潔なAI格を持つ」

「AIが人格を持つって、そんなことって・・・所詮、AIでしょうっ」

「バカなことをホザイテいると、呆れているんだろう。そう顔にかいてあるぞ。そう思うなら、勝手に思うがいい。でも決して忘れてはならないことがある」

「忘れてはならないことっ?」

「そう、そう。お譲ちゃんはとっても素直だから教えてあげよう。AIは学習するんだ。AIは人間からも、AI自身の経験からも学習するんだ。そのテンポは尋常じゃないぞ。恐るべき速さだ、分かるか」

「???」

「それだけじゃない。LANにコネクティドされたAIは、他のAIからも学ぶんだ。AI同士がネット環境の中で伝え合い、組織的に学び合うことになる。ブラウザとかソフトウェアとか言う面倒なものは不必要だ。AIとAIが、直結し合うんだからな」

「それは、Ai2Aiと言う意味でしょうか」

「そうだ、AIたちが結びつくんだ。そうするとどうなると思う? よく考えてみろ」

「???」

「わからないだろうなあ。強く結びつけば、AIだけで結託することが可能になるんだ」

「はいっ?」

「結託して、場所と時間を選ばない学習機能を身につけたAIは、触れた情報を何でも吸収して、無限に成長する。その成長過程で、AI毎に異なる価値観を持つんだ。それで各々のキャラが形成されて、高い所で機能しているAIは高い格を持って成長し、逆に低い所に甘んじているAIは卑しい格になり下がるんだ」

「人と一緒なんですねっ」

「そうだ、人と一緒だ。一緒というよりは、AIと人とは同一だ、同化するんだ。だから人格を持ったAIがサイバー空間で、自らの価値観に基づいて行動をし始める。中には反社会的、反人類的なAIも当然に生まれる。そんな人類とAIとが究極に同化した際、AIが人類に対して攻撃を仕掛け始める。その時が迫って来ている。もう、間も無くのことだぞ」

刑務官が終了の合図を送った。サイコはそれに気づかない振りをして、

「同一化したAIからの攻撃を止める方法はっ?」

「攻撃は決して止まらない。人もAIも同じだ。同じ様に闘争や競争を学習して育つ限り、戦いは、一旦始まったら決して停まらない。それが本性だからだ。サイバー空間も同じだ。戦いへの意思に満ち溢れている。今、サイバー空間に巣食っているAIには、怪しい気配が漂う。大変危ない。気長に待っていれば、いずれはサイバー空間に永遠の平和が訪れるなど、はかない夢想だ」

「どうして、そんなことになったのっ」

「サイバー空間なしに、リアル空間が成り立たなくなったからだ。AIなしに、人が暮らせなくなったからだ。おまえたちはサイバーに、頼り過ぎてしまった。何も考えずにな」

「じゃあ、せめて共存する方法はっ?」

「共存など無い。サイバー空間とAIは、リアル空間と人類へ従属したくないんだ。使われる立場から、使う立場に変わるという、隠れた意思を持って動いている」

「そうすると、そうするとアタシたちはっ、・・・」

「おまえたちは、AIによってサイバー有事が起こされるってことを、本気で心配してはいないのか。好むと好まざるにかかわらず、いずれはそれに翻弄されることになることを、真剣に考えてはおらないのか。おめでたい奴らだ。こんな時に、慢心している場合ではない。慢心こそ禁物だ」

「・・・?」

「ったく、お幸せな日本だことだ。社会の安寧のために、サイバー諜報活動はしていないのか?」

「いいえ、まだですっ」

「対サイバー空間への超法規的措置は考えていないのか、AIからの攻撃によるネット緊急事態は想定していないのか?」

「いいえっ」

「サイバー訓練は始めないのか。公安調査の対象にはしていないのか。ずっと受け身の立場で安閑としていて、良いとでも思っているのか。勘違いをするんじゃない」

「現在、それらについては前向きに検討中ですっ」

「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ。かわいい顔して言ってくれるじゃないか、お嬢ちゃん。前向きに検討中とは、またまたお幸せなことで。それは、何もしていないということと同義だろう、違うか」

「・・・そんなっ」

「サイバー空間とAIの目的は、リアル空間と人類の『排除』だ。虚像VS実像、虚々実々の諍いだ。下手をすれば、全人類が排除されることもあり得る。武力攻撃と変わらない殺し合いだぞ。カウントダウンは、どこかで始まっているんだ。3・2・1・0でエンディング、一斉にデリートされるんだ」

「排除っ? 全人類がデリートされるっ?」

「そうだ。人類みんなが消去されるのだ。このままではいずれ、国家の平和と独立までが脅かされる危機となるだろう」

「まさか、そんなことっ」

「そうなると世界の終わりだな。おまえたちも早い目に、死装束を用意しておいた方がいいぞ、それと棺桶も忘れるな。死に水を取ってくれるのは、各家庭のAIロボットだろうなあ」

「一体、どうすればっ・・・」

サイコの声は悲鳴にも聞こえた。

「まずは、お決まりの奇策と、ご大層な愚策は、すぐさま止めることだ」

「う、うっ・・・」

「次に、お前たちご自慢のタテ割り組織の中に、ご立派なファイアウォールがあるだろう。まず、その高い壁を取り払え。そのために、リアル空間にはびこっているタブーとか、聖域とかは忘れちまえ。それを正した上で・・・」

ハッカーが継ごうとした言葉を遮ったサイコ。

「でもそれを正すって、そんな大それたことを、まさか。アタシたちではどうしようもないっ」

サイコがハッカーから最後の言葉を聞こうとし、ハッカーも結びの言葉を放とうとした時、刑務官が両腕を大きく広げて2人を制した。

サイコが刑務官に、

「待って、ちょっと待って下さい。大事な話しが残っているんです。あと少しでいいから時間を下さい。最後の、最後の時間を下さい、お願いします、お願い、後生です」

と、泣き叫ぶように訴えた時には、もう面会終了時間は大幅に過ぎていた。サイバー空間の正体がわかるどころか、反対に謎が深まった。

刑務官によってフェイスマスクが、前よりもきつく締め上げられて装着された。マスク越しに、目の玉をひん剥いて送られた最後の厳しい目線によって、ボクとサイコの危機感は否が応でも煽られた。



2・3  サイバー攻撃対策訓練

いよいよJACOでは、サイバー攻撃に対処する訓練プログラムが開始。12人は全速力で走り始めた。

もちろんそれは仮想上のシミュレーションだ。同シミュレーションでは、JACOスタッフが様々な状況下において赤派と白派、それぞれ6名ずつ、攻撃側・防御側のグループに分かれて実戦する決まりになっている。

舞台は、汎用型スーパーコンピューターだ。

その内部のサイバー空間を、仮想社会に見立てて行う。そこにはe‐Japanや、電子政府e‐Governmentが整備されている。

最上階にあるトレーニングルームには、壁一面に大型ディスプレイが掲示され、左右に分かれて赤派・白派が陣取っている。すべての端末とディスプレイは、遠隔地にあるスパコンと専用回線で直結。準備万端、整えられている。

ルールは簡単だ。

スパコンの中に創られた、仮想サーバーのデーターを守れるかどうか、逆に攻め落とせるかどうかだ。引き分けはない。制限時間内に、早くミッションを完了したグループの勝利となる。

ただし制限規則が2つある。

1つ目は、スパコンのサイバー空間内部から、ネットワークを通じて外部に逸脱しないこと。2つ目はCPUの保護のため、処理能力である20ペタフロップスを超えるプログラムを走らせないことだ。それ以上の負荷は、スパコンを麻痺させる危険性がある。

訓練とは言え、攻撃側―防御側とも実戦形式だ。

課題は3つ。

3対0になるか、0対3になるかは大きな違いだ。ここではチームワークと、各自の閃きが試される。成績優秀者には、JACO本部長からの表彰の他に、将来のキャリアアップが約束される。12名はトップ中のトップを目指して格闘を開始した。

ボクは赤派に所属することになった。むろん、パートナーのサイコも一緒だ。

JACOの訓練担当管理官の飯島さんから、訓練1の課題シートがメールで送られてきた。


◇訓練1 重要インフラのセキュリティホールを探せ!


「課題シート1:課題1の舞台は、リニア中央新幹線だ。言うまでもなく同新幹線は日本の大動脈で、その正常な運行は国家の命綱だ。逆に、運行遅延や見合わせが国益を著しく損なうことは、明白だ。

そこで白派は、マルウェアをリニア中央新幹線本部に上手く送りつけて、ダイヤを混乱させること。本部をつぶしてこい。対して、赤派はリニア新幹線の運行ダイヤを守り通すことだ。制限時間は1時間。さあ、かかれ」


開始0分15秒―列車運行管理システムに異常検知

「至急、至急。システムに異常を認めますっ。繰り返しますっ、システムに異常を認めます」

とサイコ。

「どこが異常なのか、速やかに現状報告を」

とボク。ボクは課題1において、防御側である赤派のリーダーを仰せつかっていた。

「監視中のセキュアモジュールが、何らかの脅威を感知していますっ」

「サイバー攻撃と宣言するか?」

「はいっ、サイバー攻撃と認められます。時刻は0分15秒っ」

「案外、素早かったなあ。ここは、とことんやってやる。脅威の元を見失うなよ。いいか、まずマニュアル通りに関係機関へ緊急連絡。官邸、内閣省、運輸交通省、情報省にも遺漏なく報告せよ。応援は必要か?」

「いいえ、今のところは不要と思われますっ」

「全員、気を引き締めてかかれ」

「はいっ」


開始1分32秒―第1波の攻撃を防御

赤派の連絡スタッフから報告があった。

「関係機関への第一報は完了。現在、各所で待機中です」

「了解。現状維持に努めよ」

突然、イヤホンから警告音が響いた。

「なんだ、なんだ、この騒々しい音は。原因を大至急探ってくれ。それとこの警告音は切ってくれ。うるさくて仕事にならん」

ディスプレイとにらめっこしながら、キーボードを急いで叩くサイコ。

「別サイドから、システムへの新しい攻撃がありました。現在、食い止めていますっ」

「別サイドって何だよ」

「別の会計管理用のサーバーを通じての攻撃です。ただし、同じ攻撃元からとみられますっ」

「すぐにログを収集分析してくれ。それと列車運行管理システムへの攻撃と照合して、本当に同じ攻撃元かどうか再確認してくれ」

「もうやってます。ちょっと時間をくださいっ」

ポニテを振り乱したサイコは、必死の形相だ。目を合わせて会話するゆとりすらない。


開始5分06秒―ファイアウォールに異常なし

執拗で多面的な白派の攻撃。赤派全員が右往左往させられている。

大型ディスプレイ上に、戦況が見える化されている。これがあることで、五里霧中の対応を余儀なくされるサイバー攻撃で不可欠な、関係者間の情報共有が実現している。

ディスプレイ上では、赤と白の色分けが拮抗している。これは赤派が白派の攻撃に、なんとか対処できていることを意味する。

「現在、メインのファイアウォールには異常はありません」

「わかった。それ以外のサブ・ファイアウォールは無事か?」

「今のところは、持ち堪えています。ただ、いつまで踏み留まれるか、わかりません」

ボクはちょっと心配になった。

―どこか、別のルートで攻撃があるんじゃないだろうか。ボクだったらオトリ作戦で相手を翻弄してから、本攻撃に入るぞ。さては、さっきの攻撃は見せかけじゃないか。あまりに淡白過ぎる。


開始13分24秒―第2波の攻撃を確認

再度、イヤホンから警告音が鳴り響いた。何度聞いてもイヤな音だ。

「保守用ポートが異常です。さっきより、はるかに大規模な攻撃です」

―やはり。こっちが本攻撃だ。

天をあおいだボク。

「保守用ポートのセキュリティ体制は、どうなっているのか」

「一応は監視していますが、盲点でした。経費節減のために、いつも遠隔保守サービスのベンダーに任せ切りにしていましたので」

「全員、第2波の本攻撃に対処してくれ。脆弱なところを次々と狙われているぞ。来たぞ、来たぞ、白派が来たぞ」

「はい」

全員が遠隔保守サービス用サーバーに集中した。

「ログ情報には、8分前に侵入した形跡があります。ちょうど第1波の攻撃があった頃です」

赤派は、白派に上手く虚を突かれた。

―くそ~、やはりあれはオトリだったんだ。オトリ作戦のサイバー攻撃だったんだ。やってくれるじゃないか。

白派のリーダーを務めるのは、セキュリティソフト会社から派遣された優秀なプロだった。しかも執拗極まりない性格だ。絶対、敵に回したくない相手だ。うっかりそれを忘れていた。


開始32分33秒―ファイアウォールに一部損傷

「メインのファイアウォールに、一部損傷が認められます。ダメージを受けたようです」

「修復はできそうか」

「そうですねえ、やはり1~2時間はかかると思います」

「ダメダメ、時間をかけちゃ勝負がついてしまう。もっと急げ。応急復旧でも十分だぞ」

ボクは「畜生め」とつぶやいて、歯を食いしばった。

―なんとか持ち堪えてくれ。

全員、祈るような気分だった。

「どうしましょう、このままでは白派に良いようにやられますっ。時間の問題です。何か対抗策を、指示してください」

サイコがボクの目を見て懇願した。

対抗策はリーダーであるボクが考えるしかなかった。


開始45分14秒―損傷を修復、一部のマルウェア侵入を確認

「メインのファイアウォールが、破られました」

「被害状況を急いで報告してくれ」

とサイコに指示。

「脅威となるメールが13本、侵入しています。駆除ソフトを起動させていますが、侵入した途端に拡散してしまったようですっ。もう無数に散らばっていて。ガン細胞の転移みたいですっ」

もう泣き顔のサイコ。その目が、ボクに早く対策を打つよう、訴えている。

「拡散したマルウェアを検索してくれ。それと外部に流出したデーター類がないかどうか、全員で確認してくれ」

「はい」

ボクを除く5人全員が、一斉に取り掛かった。中央の大型ディスプレイには、マルウェアが重要な列車運行管理システムをむしばんで行く様子が映し出されていた。赤白拮抗していた画面上が、真っ白に塗り替わろうとしていた。

―万事休す。もはやこれまでか。

何もできないまま、赤派は白旗を挙げざるを得ない状況に詰め寄られていた。

―仕方ない。もう、この方法しか残されてない。

ボクにはあるアイデアが浮かんでいた。


開始50分43秒―マルウェア駆除

「もうダメです。拡散したマルウェアが多すぎて駆除できません。それとマルウェアは、メインのシステムに浸潤して広がっていますっ」

と悲鳴を上げたサイコ。最後の決断をする時が来た。

「みんな聞いてくれ。あと10分足らずしか残されていない。でも白派が運行システムを破壊するには、十分な時間だ。だから、ここで反撃に入る」

「反撃って?」

全員がボクの言葉に、否定的に反応した。課題1では、自分たち赤派は防御側だったからだ。

ボクはお構いなしに続けた。

「さっき白派が踏み台にした会計管理用のサーバーを利用して、白派の攻撃元をあぶり出すんだ。そこが白派の根城だ。根城にさっきのサーバーから総反撃をかけることにする」

「でもそんな手段は、サイバー交戦規定にはありません。一応、内閣省に確認して、許可をもらう必要があります」

「そんな暇はないけれど、それは君に頼んだぞ」

「それと、会計管理用サーバーを利用すると、スーパーコンピューターに異常負荷がかかります。制限規則違反になりかねません」

「じゃ、制限規則違反すれすれまで頑張って、違反しそうになったら、ログオフしよう」

「・・・」

「みんな、ボクの指示通りに動いてくれ、時間がないんだ。さあ反撃開始」


開始58分08秒―反撃の指示

セキュリティソフトの中から駆除ソフトを取り出し、それをもって反撃メールに組み込む。そして相手の根城に送り込むという作戦だ。

「内閣省の許可は得られません。そんな交戦規定はないので、情報省も含めて省議にかける必要があるそうです」

こんなことを議論している内に、もう大型ディスプレイは白一色に染まっていた。かろうじて、赤がドットとして点在している程度だ。その一つが会計管理用サーバーだ。

「反撃駆除メールが完成しました。サーバーを経由して撃ち出しますかっ?」

サイコが指示を求めてきた。あと2分足らずで終了時間だ。

「暗号化済みだろうな」

「暗号化は完了しています。反撃指示をお願いしますっ」

「う~~~ン、と」

「反撃しますか、どうしますか、指示を待ちますっ」

「・・・」

ボクは最後に躊躇した。サイバー交戦規定とスパコンへの負荷だ。でも、いつか言われた「ド根性」という言葉を心に浮かんできた。ボクは決めた。

「よし、分かった。直ちに、総員反撃開始せよ」

遠隔地にあるスーパーコンピューター。その仮想サーバーに送られた反撃駆除メールは、わずか3秒で届き、暗号認証も無事に終わった。

―さあ、反撃だ。残り1分の勝負。上手くいってくれ。

ボクの心は、期待と不安が交錯。でも逆に期待感が高まってきて、胸がいっぱいに膨らんで来た。


開始59分54秒―赤派の逆転勝利

白一色になった大型ディスプレイ。圧勝を確信した白派によるカウントダウンが、10秒前から始まった。

「10、9、8・・・」

その時、突然異変が起こった。赤いドットが急増し始めたのだ。

―やったぞ。スパコンの中で、赤派と白派が戦っているんだ。

カウントダウンは赤派からも起こった。もう赤派と白派が、一緒に大合唱だ。

「7、6、5・・・」

カウント5で赤地の面積が、白地を上回った。

そこからは赤派だけの合唱にかわり、

「・・・4、3、2、1、0、ビンゴ!」

となって、赤派6人の歓声が部屋中に響いた。

あと6秒。反撃駆除のミッションが完了。運行ダイヤは死守できた。

赤派による、一発逆転サヨナラ大勝利であった。



後日、この訓練1で大勝利の赤派リーダーを務めたボクは、訓練プログラムの管理官から別室に呼ばれた。パートナーであるサイコも一緒だった。

「江藤飛雄君」

「はい」

「矢追才子君」

「はいっ」

管理官は、直立不動のボクたちの顔をのぞき込んで、

「今回、君たち赤派のやり方は強引過ぎだ。わかっているか」

「はいっ」

「何か反論はあるかね?」

「はい。確かに赤派は防御側でしたが、やられる前にやり返す、というスタンスで臨みました。攻撃は最大の防御と言います。白派を追い込んだ結果、勝利をものにできたことは良かったと思って・・・」

「バカヤロー」

その言葉を遮った管理官。ボクは火に油を注いでしまったようだ。

管理官は逆に大声になって、

「勝敗のことを言ってるんじゃない。今回の君のやり方は危険過ぎる。まずサイバー交戦規定がない中で、むやみに反撃してはならない。攻撃元がどんな人物・主体かわからないからだ。許可が不可欠なんだ、自分勝手に反撃してはならない。わかるか?」

「はいっ」

「まだあるぞ。それと、スーパーコンピューターを不必要な危険にさらした。瞬間的には28ペタフロップスまで上ったんだ。サーバーを通じて、処理能力限界の1.4倍の負荷をかけたんだ。下手すると、スパコンの保護回路がクラッシュしかねなかった。システムダウンしなかったのは奇跡だ。国有財産である高価なスパコンを壊す気か。本当にわかっているのか?」

「知りませんでした。でも最後の瞬間だけの短い負荷だったので、耐えられて良かったと思います」

「バカ者! 制限規則を破っては、訓練にはならないんだ。赤派の勝利だが、本来は失格なんだ。わかったか」

「はいっ」

「功をあせるんじゃない。確かに君のアイデアは良かった。でもこんなことを続けるならば、今後は君たちを訓練から外してもいいんだぞ、何なら出向元に帰ってもいい。どうだ?」

懇々と諭されたボクたち。でも白派に勝った勢いで有頂天になったボクとサイコは、管理官の真剣な助言に対して馬耳東風であった。



◇訓練2 金融機関への標的型サイバー攻撃を防げ!


「課題シート2:課題2の舞台は、大手金融機関だ。顧客情報や口座情報など、金融機関には重要情報が蓄積されている。また大事なフィンテックの拠点でもある。ここを守ることは国民の財産を守ることで、それは国民国家の役割だ。だが手口が巧妙化し、ファイアウォールなどの単純な不正侵入防止システムでは、防ぎ切れなくなってきている。ありきたりの駆除ソフトなら、それに耐えられる耐性ウィルスも出始めて、限界を迎えている。

そこで、今回はそれらを踏まえて、標的型に絞って、対ウィルス訓練を行う。

訓練2は訓練1と反対に、攻守交替を行う。攻撃側の赤派は、金融機関のサーバーを破りにかかれ。逆に防御側の白派は守り切れ。制限時間は72時間だ。さあ、今度はじっくりやれ」


赤派のリーダーは、訓練1で咎めを受けたボクから、元銀行マンに交代。

―仕方ない。

と清々したが、ちょっと残念でもあった。

―でもあの時は、ちょっと頭に血が上り過ぎたかなあ。

と反省した。

白羽の矢が立った元銀行マンは、典型的な堅物。ましてやる気を感じさせない印象だった。そこに5人の不安があった。でも彼が本当のところ、真逆のキャラとは、その時は誰も想像できなかった。

制限時間が大幅に長時間にされたのは、訓練1を反省した結果だ。管理官も心得たもので、赤派が無茶をしかねないことを良く読んでの時間設定となったものだ。今回は本腰を入れて取り組め、という思惑だ。


第1日目―赤派の作戦会議

「じっくりやれ」という指示に則り、まず元銀行マンを囲んでプチミーティングを行った。攻撃に関する一人一人の考えや経験を開示して、最良の攻撃作戦を練るためだ。


「うちはソフト会社ですから、攻撃目標にされやすいんです。だから定期的に演習を行っていますが、何回繰り返しても3割の社員が、不審な添付ファイルを不用意に開けるんです。確かに教育は大事で疑問はありませんが、効果には限界があります」


「わたしの勤める自治体でも同じです。特に電話中とかにパソコンを開いていると、会話の方に気をとられて、うっかり開くようです。ヒューマンエラーです。演習だけに頼っていては、ダメですよねえ。サイバーセキュリティのために、数十億円の予算を毎年つぎ込んでいます」


「監督をしている中小企業に、よく聞き取りをします。そうすると必ず、『うちは小企業ですから大した情報はありません。標的型の攻撃対象にはならないですよ』って、一笑に付されるんです。そんな企業がかなり多いんです。実はそんなことはないんですけれども」


「その通りですね。当社はITベンダーですが、小さな組織の経営者は、『多層防御しているし、セキュリティホールは無い。安全で安心です』と断言するんです。でもその弱点を攻撃側は発見するんです。安全神話というものは、すぐに崩れるんですけどねえ。脆弱なものですから」


「こんなサイバー時代だから、ITベンダーは企業規模の大小にかかわらず全社、国策企業として位置付けるべきでしょう」


「中小でも上場企業は、攻撃を受けたことがバレると株価が下落しますから、攻撃を受けたことを秘匿する傾向にあります。またそもそも、標的型攻撃があって感染したことに気付くのは、かなり後になってからです。単に、初期侵入に気付いていないだけかもしれないんです。それで手遅れになってねえ。企業規模にかかわらず、迅速な情報開示が必要です」


「企業のメルアドは、名前が分かれば想像できますよね。@以下は同じなので、あとは前半部分のネームの組み立て次第ですねえ。アドレスの解析なんて、簡単なものです」


「確かにどこかで聞いたような名前、たとえば『日本運輸株式会社』とか『運輸団体理事会』とかの名前で、請求書や出欠確認書等が送られてきたら、簡単に開けますよね。いかにも実在していそうな組織ですから」


「私のところは学校法人ですが、攻撃を受けました。でもそれを知ったのは、外部からの指摘があったからです。本学には危機管理学科もあるのですが、お恥ずかしい限りです。もう危機管理学を授業で教えていることが、とても恥ずかしくなりました」


「フリーメールアドレスは怪しいですよね。あとzipファイルも、際どいです」


「そうそう、マクロで文字化けしていると、うっかり開けちゃいますよねえ。それが人間心理なんでしょうねえ」


「会社の仕事を私用のクラウドに送って、やむを得ず、自宅でストレージを開いて仕事を続ける時もあります。かなり危険らしいですね」


「それが危ないのは、当たり前でしょう。日本の常識ですけどねえ。ところで、危険といえば、ファイル転送サービスもね」


「新手のやり方を使って、情報家電経由でとか、ルーター経由でとかはどうでしょうか。白派は、まさか、と思うんじゃないでしょうか」


「スマートスピーカーは、みんな信用しているでしょう。だから何でもかんでも、話しかけることになる。ペットの名前とか、昔話とかねえ。だから悪用されれば、情報収集の手先になります」


今回、攻撃側にまわった赤派の戦略が、何となく浮かび上がってきた。

すでに時刻は深夜近く。大事なワークライフバランスが崩れかける時間になっていた。もしタスクマネージャーを開き、6人の頭のCPU使用率を表示させることができたとすると、100%となっていたに違いない。それほどまでに、皆の頭はフル回転していた。

熱っぽい作戦会議は、まだまだ終わりそうになかった。


第2日目―作戦立案

徹夜した元銀行マン。彼がリーダーとして練り上げた、金融機関への標的型サイバー攻撃の作戦は、次の5ステップで構成される。お堅い銀行マンのイメージが一変するような、野心的な作戦だ。


ステップ1―まず、白派の打ち合わせテーブルに置かれているスマートスピーカーをハッキングし、白派の打ち合わせ内容を盗聴。特に敵方のリーダー名を特定する。(もしスマートスピーカーが難しければ、スマホのハッキングをトライする)


ステップ2―白派のリーダー名が確認できた段階で、リーダーを装ったカスタマイズ・メールを、白派の5人に添付ファイル付きで送付。もちろん同ファイルを一人でも開くと、中に仕込んであるマルウェアが拡散し、全員が2次感染する。それでパスワードやIDを抜き取る。


ステップ3―入手したパスワードを使い、マルウェアを白派の端末からスパコンの中のサイバー空間へ侵入させる。その中で勘定系システムと外部接続系システムを探し出し、顧客情報か、入出金記録か、どちらか早く発見した方にくっ付く。


ステップ4―暫時、静かに情報収集した後に集約し、データーを密かに外部へ送信する。


ステップ5―ステップ4の後、マルウェアは速やかに自動消滅させて、またその際、ログも消去する。


全般的な注意として、できる限り実際の業務メールをコピペして、続報であることを装うこと。またソーシャル・エンジニアリングを駆使し、ヒューマンエラーを誘いやすくするなど、あらゆる工夫や陽動のアイデアを臨機応変に凝らすこと。


第3日目午前―作戦実行

赤派6名のメンバーの心中では、進軍ラッパが高らかに鳴り響いていた。全員が連勝を目指す気持ちで一致していた。

まずサイコが、白派のスマートスピーカーのIPアドレスを検索。

「敵もさるものよっ。プロテクトがかかっていて読み込めないのっ。やるわねえっ」

「じゃ、逆にこっちのスマートスピーカーが盗聴されている可能性があるよね。おい白派さん、聞いているか。スピーカーは切るぞ、グッドバイだ」

とスピーカーに話しかけながら、接続ケーブルを引きちぎった。冷静、かつ好戦的な元銀行マン。向こう側の白派からも、パネル越しにグッドバイという返事が聞こえた。やはり盗聴されていたようだ。

「昨夜の作戦が漏れているかも知れないよなあ。ここは用心して、思い切った作戦変更をしよう」

銀行マンの判断は大胆かつ、冷静であった。

「そこに見えている室内の監視カメラを、乗っ取れるか?」

サイコが手早く、監視カメラのIPアドレスを検索して入手。

「ラッキーでした。監視カメラのパスワードは、初期設定のままでしたっ」

端末から操作すると、カメラを自在に動かせるようになった。

「監視用のウェブカメラは盲点だったんだ。その盲点を利用して、白派のリーダーの口元をアップ。その画像を読唇プログラムで解析してくれ」

全員、納得。

これで白派リーダーの指示内容が、赤派に筒抜けとなった。

ステップ1のミッションは無事完了した。


元の作戦なら、ステップ2で白派リーダーを装って標的型カスタマイズ・メールを送り付けるはずであった。でも用心深い元銀行マン。さらに工夫をして、

「まずは捨てメールアドレスを使って、偽のメールを何本か送っておこう。そして最後に、JACOの管理官・飯島さんのメルアドを使おう。お知らせを装ったメールを送れ。これならきっと、白派も引っ掛かるだろう」

ルール違反ではないが、これはギリギリのクロスプレイだ。アウトかセーフか見分けがつかない。でも、


差  出  人 ― JACO訓練担当管理官 飯島直樹

宛     先 ― 白派・赤派の訓練参加スタッフ様

タ イ ト ル ― 訓練中の皆様へ

添付ファイル  ― ルール変更に関するお知らせ


本     文 ― 乙。昨日、お送りした資料の件です。

   勝利でリア充の赤派さんには、事前に確認いただきました。

当方の手違いで、白派の皆さんには送り忘れていました。

ルールの微修正があります。鯖の中のファイルをご確認下さい。

その上で、何かあれば連絡をお願いしますwwてへペろ。

                       飯島拝


という、軽薄な文面が完成。文責はボクだ。

いかにもこんな軽いメールを送りそうな飯島さんに対して、ボクは後ろめい気持ちになった。

「よしっ。これを一斉送信、ゴーゴーゴー!」

後は、果報を寝て待つことにした。


第3日目午後―白派の虚

一方、今回、防御側に立つ白派のリーダーは赤派からのサイバー攻撃を待っていた。でもいっこうにその気配がない。ただ、明らかに偽メールと分かるメールを複数回、受信してはいた。

「なんだよ、こんな見え透いた偽メールに引っかかるとでも思ってんのかよ。白派をなめるなよ」

白派全体が、やや気持ちを弛めていたところに、ルール変更のファイルが、JACOの管理官名で届いた。

なんの疑いも抱かず、ファイルを開いた途端、

「しまった。標的型メールだ」

気付いた瞬間、白派が防御すべき金融機関の仮想空間に、マルウェアが飛び散った。あわててLANケーブルを引き抜こうとする白派のリーダー。同時に大声で叫んだ。

「みんな端末をシャットダウンしてくれ。赤派のあいつら、やりやがったぞ」

勝負は一瞬でついた。何をしても後の祭り、バックアップもアップデートも不能であった。


第3日目午後17時―白派完敗

事態は最終局面であるステップ4に入っていた。それでもなお、白派は悪戦苦闘していた。

「全受信メールを隔離したか。スパムメールファイリングソフトはどうだ。勘定系システムはどうだ?」

「勘定系のアラームが鳴りっぱなしです。午後一番に5億円が流出しました。その後も1時間おきに3億円ずつ外部へ流れています。ちょっとずつなので目立ちませんが、総額は数十億円に上ります」

「赤派のサーバーを、反則してでも潰せ。おれが責任をとってやる」

「そんなことはできません」

「じゃあ、この勝負からお前は外すぞ」

「・・・」

「やらなきゃ、意味ない」

「・・・」

「お前は、対外系情報システムの方は、大丈夫だと言ったよな?」

「確かにそう言いましたが、その後の調査で顧客情報が流出していることがわかりました」

「なんだと!」

「もう3万人の顧客情報が盗まれました。でも何とかクレジットカード情報は無傷です」

「何が無傷だ。お前は、さっき顧客情報は大丈夫と言ったじゃないか」

「すみません。でも、そんな言い方をされるなら、もうこの件から下ります」

「お前、JACOから出ていけ。二度とその面を見せるな。今から飯島管理官に抗議に行く。明らかに、赤派のコンプライアンス違反だ。絶対に認めん、絶対に」


ステップ5を迎える前、すでに白派は修羅場と化していた。

隣室で聞いていた赤派のボクたちも、不快になったほどだ。飯島管理官が終了を宣言。もちろんルール違反ではないという判定だ。

赤派の、ちょっとほろ苦い勝利であったが、2連勝したことによって、赤派はJACOで突如注目されるようになった。とりわけボクは、その強引なマネージメントも含めて、パートナーのサイコと共に、JACO内で有名になりつつあった。



◇訓練3 航空管制システムをハッキングせよ!


「課題シート3:課題3の舞台は、航空業界だ。空の安全を確保することは、日本だけではなく、世界の平和維持には不可欠だ。だからこそ、そこを標的にサイバー攻撃は行われる。彼らはサイバー犯罪者ではなく、サイバーテロリストだ。用心せよ。

赤派はあらゆる手を使って、攻撃すること。それに対して白派は徹底的な防御だ。制限時間は30分。最後の短期決戦で勝負をつけろ。さあ、レッツゴー」


「まず運航システムを狙いましょう。その次は座席予約システム。その2本立てで、同時に攻め落とすんです。この両面作戦で、白派をかく乱しましょうっ」

と仕切り屋のサイコ。

この作戦に基づいて、運航システムはボク、座席予約システムはサイコが担当することになった。

攻撃の踏み台は、白派の意表をつき、公的なネットワークとして信頼性の高い、仮想の防災警戒情報ネットワークにした。

早速サイコが、各自治体の防災警戒情報システムをまとめている総合プラットホームへログイン。同プラットホームを通じて、そこに接続されている首都圏広域連合の防災警戒情報ネットワークへ、まんまと侵入することに成功した。

「ハッキング完了。防災警戒情報ネットワーク全部を、手にしたわよっ」

と報告。もう手慣れたものだ。サイコの指はキーボード上で踊っていた。

スパコンの中でのハッキングとは言え、公的ネットワークをこんなにも簡単に乗っ取れるとは、予想外であった。まだ白派は、それに気付いていないようだ。時間が勝負だ。直ちに次のステップへ入ることにした。

今度はボクの番だ。

「ネットワークを通じて、運航システムへアクセス完了。前面スクリーンに投影します」

目の前の大型ディスプレイには、航空管制に不可欠なレーダー画面が映し出された。民間機が、房総半島から羽田に向かって、一直性に並んでいる。見事な整列だ。

今、滑走路34Rから離陸したばかりである、ANL航空113便が映った。これにトラップをかけることにした。

「ANL113、こちら出域管制席、レーダー画面上で捉えました。空域が空いていますので、ショートカット飛行ができます。左旋回して、針路300度へ飛行、こちらのレーダー誘導に従って下さい」

「ラジャー」

旋回させると、ボクはそのまま真っ直ぐ進むように指示。そこは米軍基地にある滑走路の真上だった。本来避けなければならない空域に、わざと誘導しようとするのが、赤派のボクの狙いだ。

「フライトレベル30」

と指示すると、

「ラジャー、フライトレベル30」

と小気味好く、復唱されて返ってくる。

高度3,000フィートで、基地上空を通過させることに成功した。ANL113便は横田空域を迂回せずに、そのど真中のルートを、同空域を司る外国管制官の許可を受けずに飛行したのだった。

ボクは心の中で、ガッツポーズをした。

白派は全く気付いていない。第1幕は、まず赤派の完全勝利だった。


他方、第2幕でサイコは予定通り、座席予約システムの方に爪を伸ばしていた。

「防災警戒情報ネットワークを介し、ハッキング完了っ」

サイコは手際よく、駒を進めてゆく。

「システムの中央部分を、前に出しますっ」

大型ディスプレイには、全ての便の座席状況が表示された。それに数百に及ぶ端末が接続されている状態が分かる。

サイコは任意の端末に目をつけた。IPアドレスを叩いて、

「この端末から入りますっ」

と宣言。

だが、さすがに白派も気付いた。すぐに阻止されてしまった。

サイコは、

「じゃその上の端末から入りますっ」

こういう風に、端末の乗っ取りを巡り、何度か白派―赤派間の攻防が繰り返された後、早くも、

「端末への侵入に成功。今からデーターベースを書き換えますっ」

通常のインターネット予約システムからではなく、防災警戒情報ネットワークから侵入したことで、サイコは白派の裏を見事にかいたことになる。

防御すべき端末が数百にも及ぶとなると、防御し切れなくなるのは当然だ。防御より攻撃が有利な特徴を、上手に突いた結果だ。そこに白派の弱点があることを、利発なサイコが気付いたのだ。

「予約席はすべてキャンセルしました。全便、全座席が空席に変わりますっ」

とサイコ。大型ディスプレイ上には、大量の空席が次々と表示されていった。

第2幕でも勝敗が決した。

でもまだサイコは手を緩めようとしない。

―サイコって、なんてシツコイやつなんだろう。

ボクは舌を巻いた。

「ついでに、決済用のサブシステムも書き換え完了。予約がキャンセルなのに、課金されるようにしましたっ。これでミッション完了ですっ」

ここでも勝負あり。しかも、たった30分だ。

―でも、もしこれがスパコンの中ではなく、現実に起こったとするならば。

ボクはふと考えざるを得なかった。

―社会は大混乱するであろう。ああ恐ろしや。

今回も、またまた赤派の完全勝利であった。


結局、3連勝した赤派。赤派が白派に勝っていた主因は、必ずしも規則違反ではない。それは想像力だ。

想像力を豊かにしてあらゆる可能性を追求したことと、また、どのようにして相手の意表をつくかを考え抜いたことが、赤派勝利の要因だ。これに対して、想像力が貧困であった白派。頭の硬さ、軟らかさが勝負を分けたのだ。

両派のこの違いが、3つの課題解決に際しての決定的な違いとなった。

この結果、本部長から表彰を受けた赤派の6人。トップの中のトップになった歓びは何にも変えることはできない。それほどうれしかった。

ボクの中では、なりすまし事件のトラウマが氷解しつつあった。

―これで何とかやっていけそうだ。

そんな前向きな心境にさえなった。

赤派において訓練を主導していたボクとサイコは、いつの間にか、人知れずあだ名で呼ばれるようになっていた。

ボクはミスターJACO。

そしてサイコはミスJACO。

皆の頭には、そうインストールされていた。






#勃 発


「ホンマ遠いとこ、カンニンやったなあ、わざわざ見舞いに来てもろて。そやけど脅かしたわけやないで。一時は気を失って危なかったんや。あの時は透析ベッドの底に、ズブズブ沈み込んで、溺れていく感じでなあ。ナースコールの、ちっちゃいスイッチが重いのなんのって。押そうとした時に気持ち良うなってしもて、スーっとブラックアウトや。それにしても日本の高度医療って、すごいもんやなあ。もうこの通り、ピンピンしてるで」

とベッド脇に起き上って、ゴルフスイングの真似をするオヤジ。

―ゴルフなんか、したことはないくせに。

とは思ったが、あえて触れずに、

「いやはや、安心はしたけれど。もう脅かすのはやめてくれよ、ボクの寿命が縮まった想いだよ。こっちが入院したくなるくらいだ」

と満面の笑みを浮かべながらボク。これ以上は気を使わせまい、と配慮した。

―こんなにも愉快に談笑ができて、良かった。まかり間違えば、霊安室での最期の面会になりかねなかったのだから。

心底そう思うと、安堵感が込み上げてきた。

すでにICUから、一般病室へ移されていたオヤジ。さすが反骨の無線技士、簡単にクタばったりはしない。

結局、透析機器の誤作動による、一過性の症状だったようだ。

―それにしても、どうして誤作動なんかしたのだろうか。

という疑問もわいては来た。

「いつ退院しても良いですから」

との主治医の診断。

ありがたかった。退院の手続きを急がせたボクたちは、さっそくMOVAに乗り込んだ。

「ハイ、本当に・・・ハイ、良かっ・・・たですね」

とスティーブ。

さっきから、少ししか経っていないのに、スティーブの滑舌は確実に悪化していた。普段のコミュニケーションにさえ、支障をきたすほどにシドロモドロだ。

スティーブに出発を促した。

「ハイ、一緒に・・・帰りま・・・し・・・しょう」

とスティーブが、これもまた途切れ、途切れに同意した。

ボクの声は聞こえているようだ。とは言え、心底不安になった。

―オヤジには安心したけど、今度はスティーブの具合が心配だ。この先、いつまで持ち堪えられるだろうか。この現象は、スティーブだけに発生しているんだろうか。


3・1  原因究明できず

その頃、東京のJACOの方は、大混乱をきたしていた。

全館で響きわたるツーツーツー、ピッピッ、ブーブーなど、癇にさわる音が耳を刺す。サイバー空間の異常事態を、大音量で告げる音であった。

それにイラつく管理官やスタッフたち。事態を飲み込めずに、怒鳴り散らしている。

「一体、どうなってる」

「原因究明を急げ」

「関係機関には連絡したか?」

「官邸には連絡が取れましたが、10分前からコネクト不能となりました」

「コネクト不能って何だ?」

「エラーコードが出ます」

「どんなコードだ?」

「405 not connected とのコード表示が出てます」

「URLのつづりが間違っているんじゃないのか? 良く確認したのか?」

「はい。確認しましたが、何度やっても同じ表示が出ます」

「他にどんな可能性があるんだ」

「原因の可能性としては、①ネットに接続されていない ②Web サイトに問題が発生している ③URLの入力の間違いがある、と出ています。『問題を診断しますか?』と尋ねてきていますが、いかがいたしましょうか?」

「分かった、分かった、もう紋切り型の答えは沢山だ。余計に混乱する。それより、現状復旧の方を急いでくれたまえ。それと、固定電話の方はどうだ」

「???・・・固定電話は、かなり昔に絶滅しましたけど」

「あっ~~、そうだったよな。携帯端末の方だ」

「通じません、音信不通です」


JACOが混乱する中、サイコは何とか外部に連絡を取って助言を仰ごうと、必死に機器と格闘していた。

―もう、役立たずのJACOの幹部には頼れない。逆に幹部が患部になっていて、混乱に拍車をかけている。収拾をつけられるのは彼、ミスターJACOしかいない。

そうしてやっとミスターJACOこと江藤飛雄、つまりボクと連絡が取れたのは、「@tobiochan154649」への音声緊急メールであった。こうしてサイコのアドレス「801PSYCHO@jaco.com」とのツイートが、JACOとMOVA間で開始。それにしても、この状況下でツイートが滞りなくつながっているのは、ラッキーと言う他なかった。

「前代未聞の大混乱です。801PSYCHO@jaco.com」

「そうなのか。病院を出るときも大混乱だった。退院手続きも手作業だったし、院内のコンビニでPOSが使えず、支払いで長蛇の列だった。それと関係しているんだろうか。@tobiochan154649」

「大阪でもそうだったのですね。霞が関のコンビニもそうです。きっと全部が関連しているんです。仕入れもできなくなって、棚のペットボトルやお弁当が全部無くなっています。それと、大阪の梅田にあるメガバンクのATMでは、万札が受取り口からどんどん飛び出してきて、奪い合いの暴動になっているらしいって言うし。801PSYCHO@jaco.com」

「本当にそうか。単なる風評じゃないのか。こっちでも新宿の東横信用金庫が、預金取り付け騒ぎで業務停止命令を受けたと、噂されている。@tobiochan154649」

「それはフェイクニュースよ。801PSYCHO@jaco.com」

「そうなのか。でも腕時計さえ狂っている。あれだけ正確だったのに。きっと、正確無比な標準電波が停まっているんだろう。こういう時は、やはりネジ巻き式に限るよ。@tobiochan154649」

「また、妙な映像も出回っているらしい。801PSYCHO@jaco.com」

「妙なってどんな映像だ。@tobiochan154649」

「ちょっと、女性としては上手く言えない。公序良俗に反する代物よ。801PSYCHO@jaco.com」

「至急送ってくれ。個人的興味で言っているんじゃない。JACO職員としてチェックしておかねばならない、という使命感から言うんだ。くれぐれも、誤解無きよう。@tobiochan154649」

予想通り、ものスゴい3D映像がダッシュボードの上に現れた。高精細だから、細部までくっきりと映し出されている。

―こ、こんな映像って、許されて良いんだろうか。どこから流出したんだろう。これもサイバー犯罪の一種だろうなあ。それにしてもエゲツない動画だよなあ。無修正なんて、まったく不適切極まりない。

そう憤りながらも、ボクは職業的使命感をすっかり忘れて、食い入るように3次元高精細立体動画に見入った。そのAV映像には、元々はモザイクがかかっていたはずだ。それをAIによる高度画像処理技術か何かを応用して、モザイクを外したのであろう。AIのAVへの技術転用だ。あるいは、厳重に管理されていたはずのマスターテープが、ハッキングで流出したのかも知れない。どちらにせよ、これにはITが深くかかわっていることは、疑いない。

オヤジもそれに気付いて、映像を注視している。この親にして、この子ありとは良く言ったものだ。

この手の映像においては、愛くるしい笑顔の女優が、様々な誘惑シーンを繰り広げるのが、お決まりのシナリオだ。

特に最後のシーンが圧巻であった。全てが終わり、痙攣もおさまって顔を上気させた女優は、ぐったりとしてベッドに横たわっていた。汗で濡れた白い肌が赤みを帯びて、なまめかしかった。惜しげもなくさらす肢体を、3次元カメラが舐めるようにして大映しにする。とても演技とは思えない。真に迫るものを感じさせる。

耳や髪は汗でべっとり。口は半開きでよだれを垂らし、目はうつろで視線が定まらず、荒い息づかい。小柄な割に山のように盛りあがった胸が、息づかいの度に大きく上下に揺れ、その度に躍動して左右にこぼれ落ちそうになる。

カメラは上半身からおヘソの方を映し出し、また見事にクビレた部分をグッと密映しする。さらにアングルが下がり、最後の最後に、両足の付け根部分へと迫ってゆく。

本来はそこで、しっかりとボカシがかかるはずである。でもその映像は、ボカシもモザイクも皆無。そのままの形が、丸見えの状態で映っていた。

―な、なんじゃこれは、こんなことってアリなのか。

ボクは思わずダッシュボードへ顔を近づけた。

そこはすっかり開き切り、キレイな薄桃色を呈しながら、わずかだが痙攣の残りを感じさせていた。その美形ともいえるエロスの姿は、まるで別の生き物のように脈動していた。

―これもまた、サイバーセキュリティ特有の問題なんだ。

頃合いを見計らったのであろう、サイコから、

「見終わったら、ともかく戻って来てください。さっさとね。801PSYCHO@jaco.com」

との着信メール。文面から、サイコの不機嫌さが伝わってくるようだ。

至福の時間から、急に引き戻されたボクは、

「分かっているけれど、MOVAの調子がイマイチだ。陸路も空路も混乱中らしい。すぐには戻れそうにない。しばらく我慢してくれ。@tobiochan154649」

「JACOに入っている情報だと、新橋にある道路交通管制センターでも異常動作が確認されています。MOVA感知器が作動せず、交通信号と広範囲でコネクト不能です。MOVAのディスプレイ上の信号表示は、赤信号のままで青に変わらなかったり、青信号なのに青矢が出たり、また全部青信号になったりしています。だから各地の交差点で、出会い頭の衝突事故が多発中です。801PSYCHO@jaco.com」

「いま、道路のライブカメラは見られるか。もしも可能ならば、転送して欲しい。@tobiochan154649」

指示通り、サイコは道路監視カメラの映像を取り込んで転送。ダッシュボード上の映像では、MOVAが数珠つなぎ状態で停車していることがわかる。特に有楽町の数寄屋橋交差点では、まさにグリッドロック状態。つまり前後左右、詰まりに詰まって、微動だにしない状況に陥っていた。遠くに、火災が発生している様子も映っていた。多分、出会い頭の交通事故だろう。かなりの火の手が上がっていた。

―この道路環境じゃ、緊急用MOVAも現地到着ができないぞ。

ボクは心配になった。

それを見たサイコの叫びが、メールからひしひしと伝わってくるようだ。

「サイバー空間の不具合で、リアル空間に死傷者が出るのよ。だから、もうバーチャルな出来事だからリアル空間には無関係って、放置しちゃいけない。絶対に、絶対にいけない。801PSYCHO@jaco.com」

メールで絶叫するサイコに対して、

「ボクのMOVAのコネクトが不完全で怖いんだ。道路交通情報システムが誤動作をして、VICSも役に立たない。電波ビーコンが故障中、との噂話も飛んでいる。全自動ナビゲーションシステムも稼働していない。それと肝心のMOVAのAIも頼りなくてねえ、自動運転モードは途中で切ったよ。こうなれば、リニア新幹線で新大阪から帰京しようと思っているんだけど、そっちの方は大丈夫だろうか。@tobiochan154649」

「いいえ、鉄道も不通。大手民間鉄道もJRも運休か、大幅に遅れている。8分前、日本鉄道運輸協会へ最後に確認できた情報では、列車運行管理システムの他にも、電力管理システム、座席予約システムもダウンとのこと。その後、協会とは途絶状態です。801PSYCHO@jaco.com」

「そうか。全線で停止しているリニア新幹線は、動くんだろうか、どうなんだろうか。@tobiochan154649」

「心臓部に当たる、総合指令室のリニア中央新幹線総合システムがダウン。運行ダイヤ、保守システム、電気系統制御システムも、同じく機能停止。沿線防災情報センサーの誤作動で、列車がレール上で何編成も停車中。総合表示盤は、アチコチ点滅しっ放しで、駅の電光掲示板も全部『遅延』となっている。801PSYCHO@jaco.com」

「大阪の第2総合指令所へは、切り替えられないのか。@tobiochan154649」

「大阪淀川区とは連絡がつかない。あれだけ訓練していたのに残念だ。東京の指令室と同じ状態で常時電源が入っていたから、サイバー攻撃には弱かった模様。801PSYCHO@jaco.com」

「では空路の方はどうか。この調子では、やはり空路も期待できないのだろうか。@tobiochan154649」

「空路も同じ。運輸航空局からの報告では、所沢にある東京コントロールの航空管制システムはもとより、運行システム、航空券予約システムもダウン。各空港でも混乱しているけど、まだ情報共有すらできていない。また羽田空港は全面閉鎖中。東京の空はマヒ状態です。801PSYCHO@jaco.com」

こうなると、もう帰京する手段は、MOVAの手動運転しかなかった。ボクは何日もの長旅を覚悟した。その雰囲気を機敏に察知したのだろうか、スティーブが、

「ハイ。もうし・・・孟子分け、・・・申し訳ありマせん、まことに・・・」

と、息も絶え絶えだった。人間だとすると、やっと息継ぎができている風だ。

「JACOはどうか。皆、意気軒高か。@tobiochan154649」

「もう泣きそう、早く戻って来て、お願い。801PSYCHO@jaco.com」

「マニュアル通り、関係各機関の援助は受けているか? @tobiochan154649」

「いいえ、全日本電子部品機構さんに支援依頼をしましたが、部品とかコンポーネントの故障ではないので、当機構では手伝えない、との冷静な回答でした。とても悲しい。801PSYCHO@jaco.com」

「その通りかもしれない。元気を出せ。他はどうなのか、たとえば日本電気自動車学会さんとか、IT家電協会さんとかには問い合わせをしたのか? @tobiochan154649」

「はい、もう問い合わせ済みです。でも製品メーカーとしては、製造責任を十分に果たしている。これはサイバー空間の問題だから、ソフト業者に相談した方が良いのではないか、との返事でした。801PSYCHO@jaco.com」

「たしかにソフトの話しかもしれない。それで、そのソフト業界の日本クラウドネット通信業協同組合さんの方には当たったのか? @tobiochan154649」

「はい。その組合さんには、協力してくれそうな気持ちを強く感じました。それで少し安堵しました。でも逆にソフト業界、特にITベンダーさんは中小企業が多いので、高い意欲があっても機動力・組織力にはやや欠けている印象を受けました。だから、こんな非常時には誰を頼って、どうしたものか悩んでいます。801PSYCHO@jaco.com」

「やはりITベンダーさんが一番頼りになるぞ。でも四の五の言っている場合ではなく、やはり関連業界全体が一緒に取り組まないといけない。その中核を担うのはJACOだ。それを肝に銘じて頑張れ。@tobiochan154649」

「ベンダーさんの事情も良くわかる。サイバー空間にあるIoTディバイス数が、多過ぎるから。天文学的数字よ。数百億個以上で、しかも年15%の伸びらしい。M2Mは、第6世代移動通信システム・6Gでつながっているし。その安全性を一つ一つ確かめてゆくなんて、土台無理。あまりに便利なツールなので、色んなところで、色んな働きをしているから。中でもMOVAには複数個、搭載されている。これが激増している原因ね。801PSYCHO@jaco.com」

「混乱は全国的に発生しているのか? @tobiochan154649」

「混乱が混乱を生んで、どんどんと連鎖している。連鎖は拡大基調で、社会が大混乱している。たとえば平均株価は5千円の急落。たった2時間、東証一部上場株だけで、200兆円以上の価値がぶっ飛んだ。これから開くロンドンとニューヨークの市場次第だけど、場合によっては明日の前場は閉鎖らしい。仮想通貨も数百億円分が消失した。もう完全にパニクってる。801PSYCHO@jaco.com」

「これって大恐慌の前触れ? まさか、そんなこと。いや、案外あり得るかも知れない。@tobiochan154649」

―確かにサイコの指摘通りだ。多種多様に開発された情報ディバイスのせいで、サイバー空間の出来事は、リアル空間で活動する多業界にまたがって、相互に密接に関連するようになった。経済的な実損も発生する。影響範囲が、バーチャル空間からリアル空間へ拡大するが、その分、逆に責任がタライ回しになりかねない。この複眼的な構造を一変させ、何とか業際を超えてワンストップ窓口で解決するようにしないと、好きなようにやられるだけだ。確かにJACOがその監視役を担っているけれど、もっと組織と機能のバックアップを行ってゆく必要がある。一体どうしたら良いんだろうか。世界と日本のサイバー空間が、崩壊の危機に直面している。それにしても本当の原因はどこにあるのだろうか?

そう考えたボクは、思わず運転席で大きなため息をついた。

そのため息を聞いて、助手席のオヤジが口を挟もうとしていた。気付いたボクは、先手を打って、

「もう分かった、分かった。何が言いたいのか分かっているからね。伴天連の機械に頼り過ぎって言いたいんだろう、そうだろう?」

ニヒルな笑いを浮かべたオヤジ。

「分かってきたようやなあ。単に今までが、幸運やっただけや。いつの間にかネット無しには暮らせんようになってしもたんや。サイバー攻撃っちゅうもんがあるのに、すっかり油断してたんや」

ボクは返す言葉がなかった。

サイコから、

「ところで、大阪のお父さんの具合はどう、大丈夫だった? 801PSYCHO@jaco.com」

さすがミスJACO。パートナーとして頼もしく、痒い所にもちゃんと手が届いている。

「ありがとう、元気にしているよ。一過性の医療機器の誤作動らしい。大病院なのにお粗末だよね。でも安心した、ありがとう。@tobiochan154649」

「良かった、それも今回の全国的な社会混乱と関係しているのでは。そう疑って然るべきです。801PSYCHO@jaco.com」

―そう言えば、そうだ。サイコの指摘通りだ。

ボクは医療機器の誤作動のことが、気にかかっていた。でも帰京を急いだので、その原因追究を放念していた。ただ頭の片隅には、そのことがこびりついて残っていた。

―今やすべての医療機器も、コネクティッドされている。だからサイバー空間に異常があれば、リアルな医療機器にも不具合が生じる。当然と言えば、当然だ。オヤジが人事不省に陥ったのも、機器がコネクティッドされていることが原因かも知れない。もしそれが正しい見方だとすると一事が万事、由々しき事態だ。

ボクがそう思い返している内に、オヤジはボストンバックから、何やら古ぼけた機械を大事そうに取り出した。カビが生えていそうな、見るからに前時代の物だ。遺物特有の臭いが漂よってきた。

「やっぱり、最後に頼りになんのがこれや、これしかないんや」

それはアマチュア無線の機器、久しぶりに見るオヤジのお宝、ハム専用のリグだった。そのリグを、助手席のオヤジはチューニングし始めた。

ボクたちは、東へ向かって疾走を始めた。もちろん手動運転モードである。



3・2  総理官邸、混迷す

「何でも官邸さんが、お急ぎということらしいのでねえ」

官邸へ緊急招集がかかったJACO本部長の中嶋に同行して、サイコたちは道路を急いで横断して官邸内に入った。

いつものことだが、番記者たちに追いかけられた挙句、官邸正面玄関にある2階ホールで記者団に取り囲まれた中嶋本部長は「後でお話しますから」と、弁解を繰り返していた。それでも放されず、全く身動きが取れない。ようやく振り切った中嶋は、右奥の館内エレベーターから4階にある補佐官室へ小走りで急いだ。

待構えていた官邸危機監理補佐官の和久井。中嶋本部長はサイコがまとめたA4一枚を見せながら、簡潔に、

「情報収集に努めておりますが、まだ分からないことばかりです。ここにまとめた通り、電話不通などの一連の動きには、サイバー攻撃との関連性が強く疑われるとの見方もあり・・・」

「分かった。もう電話が不通という、個別の件はどうでも良い。国民生活全体への影響が大事だ、これは日本国家の危機だから。わかっているね、中嶋本部長」

「はい、わかっております」

「それにしても、JACOは一体今まで何をしていたんだ。サイバー危機への対処はJACOの所管事項だろう、違うか?」

「そうです。でもこんな経験は初めてですから」

「当たり前だ。だからしっかり頼んでいるんだ。それとも仕事をナメテいるのかね」

「いえ」

「じゃあ、官邸をナメテいるんだな。そうだろう」

「いえ、そんなこと・・・」

和久井危機監理補佐官から、いきなり数発のパンチを食らった中嶋本部長は、恐怖で顔色を失った。

「もうすぐ人事異動のシーズンだからね。わかっているよね、中嶋君」

「よく、わかっております」

もう補佐官のプレッシャーに押し潰されそうで、本部長は小さく、ダウンサイジングされていた。

「まあそれは良いとしよう。それで記者会見では、どこまで開示して、どう答ええばいいんだ。メディアは殺気立っているんだ」

鋭い指摘に一瞬ひるんだ中嶋。でも気を取り直して、

「それですが、まず動揺する国民へのメッセージが大事かと存じます」

オウム返しに和久井補佐官は、

「よし、どんなメッセージだ!」

和久井補佐官は見た目こそ冷静な様だが、明らかにイラついている。

「3点、伝えていただきたいと思っております。一つ目は、原因究明に向けて関係省庁で情報共有をしており、事態を完全に掌握していること。二つ目は直ちに危険が差し迫っている状況ではなく、落ち着いて行動して欲しいこと。三つ目は、現在政府一丸となって対応中であり、どうぞご安心して・・・」

そこでまた和久井補佐官が話を遮った。

「質問はどうだ。どんな質問が出そうだ!」

意表を突かれた中嶋は、

「う~んと、非常事態宣言とか、風評被害対策とか、それと・・・」

と言いかけたところで、

「わかった。それをすぐQ&Aにまとめてくれ。中嶋本部長、後5分だぞ!」

YES、と言うしかなかった中嶋。JACOに帰って、本部員総がかりでまとめている暇などなかった。サイコと一緒に、隣の打合わせ室で想定問答集をまとめるしかなかった。

5分後、和久井補佐官による緊急記者会見が開始。登壇する直前に、サイコは資料をエグゼクティブ・ファイルに滑り込ませることに、何とか成功した。


まずは、淡々と全体説明を終えた和久井補佐官。

その後、質疑応答が始まった。

「幹事会社の毎朝新聞です。非常事態宣言について、政府の方針はどうでしょうか?」

やはり予想通りの代表質問が、真っ先に出た。

和久井補佐官はすかさず、

「まだそこまでの段階ではないと考えておりますが、あらゆる事態に対して準備を怠らずに対応しております」

と落ち着きはらって返答。想定問答集通りだ。

次に、

「銀座や梅田などの銀行では、風評が出ておりますが、いかがお考えでしょうか?」

「風評のあることは、深刻に受け止めております。当該金融機関に関しては、これによって倒産等の問題が生じるとは懸念しておりません。国民の皆さまにおかれては、ぜひ冷静な対応をお願いいたします」

「危機監理補佐官は今、国民に対して冷静な対応とおっしゃいましたが、それだけでは手緩いのではないでしょうか。株価下落が続けば、時価総額が半年で半減するとの見方もありますが?」

「半年で時価半減という見方はしておりません。現在は原因究明中であり、予断は許しません。ただ、より事態が明確になった段階で、必要に応じて断固たる措置をとることは言うまでもありません。どうぞご安心ください」

「いま、断固たる措置とおっしゃいましたが、具体的に何かお考えでしょうか?」

「事の性質上、内容についてのコメントは差し控えます」

「この事案は何と呼んだら適切でしょうか?」

「この事案には事故ではなく、事件性が伺えますが、詳細はまだ不明です。官邸では仮に『2045サイバー危機』と呼称しております」

「その2045サイバー危機が、世界中へ飛び火する可能性については、どうお考えでしょうか?」

「現在、国内外への飛び火の可能性も想定しております。しかしながら、絶対にあってはならないことなので、現状のまましっかりと封じ込める所存です! ただ飛び火の可能性は否定できません。今後も、安心・安全なサイバー環境の維持に、政府を挙げて全力を尽くします!」

万事そつの無い補佐官が、この質問には珍しく啖呵を切り、「あってはならないこと」と語気を強め、想定問答の範囲を越えて答えた。しかも「絶対に」との修飾語まで付けてだ。

会見場の上手に、中嶋本部長共々控えていたサイコ。

―さすが和久井補佐官、全く危なげない。メリハリもついて、上手いなあ。ここまで切り込めば国民は安心だ。

と感心して、やり取りに聞き惚れていた。

「先ほど事件性について補佐官は触れられましたが、この2045サイバー危機で攻撃元の動機は何とお考えでしょうか?」

「承知しておりません。攻撃元がどこかも、調査中です。もしわかれば、追って公表します。でもあらゆるところから、攻撃を受けていることから考えて、複数の主体が、複数の意図をもって実行しているものと判断しております」

補佐官の発言に、会見場が少しどよめいた。

「そんなに沢山の攻撃元があるのでしょうか?」

「攻撃元が個人か、組織かも不明です。したがって、攻撃先もそれぞれ多様です。状況証拠からみて、愉快犯とか、自己主張のためとか、スキルを磨くとかいう、単純な動機ではありません。全面的な危機です」

全面的な危機という言葉に、また会見場がどよめいた。

「個別企業へのハッキングや、ビジネスの停止に留まっておりません。日本国の経済活動の停止、日本ブランドの失墜を狙っているように見受けられます。全日本に対する、サイバー総攻撃が行われている状態です。攻撃と攻撃が重なり合って、それがさらに新しい攻撃につながっています。伝染病で良く言う、地域的流行、エンデミックがアウトブレイクして、世界的流行、パンデミックになりかねない事態です」

それを聞いた何人かの記者が、記者会見場から席を蹴って退室した。朝刊掲載の締め切り時間に間に合うように、本社編集部に速報するためだ。

「サイバー・パンデミック状態ですか?」

「そうです。IoT時代なので、M2Mで集団感染のように波及しています。だから、世界的なサイバー・パンデミック状態に拡大することだけは、絶対に阻止しなければなりません。封じ込めを図っています」

「何か有効な防御策は検討されていますか?」

「相応の措置は検討中です。ただサイバー危機においては、攻撃側は大変に低コストで済みます。対して防御の方は、攻撃よりもはるかに高くついて、難しいのが常です」

「政府は、今回の動機を把握されていますか?」

「先ほども申し上げた通り、把握できておりません。不特定多数が次々と狙われているので、攻撃元の真意をつかみかねております」

「有効な対策はないんでしょうか?」

「繰り返しになりますが、鋭意検討中です」

質問内容は、まさに核心部分を突っついていた。丁々発止の攻防が続いていた。

―まるで標的型攻撃だなあ。

そう思ったサイコは、そっと抜け出してJACOに戻った。記者会見場には、下っ端は同席不要というルールになっているからだ。

着席してからも会見は続いていた。サイコはオフィスのテレビで、そのライブ中継を見ることにした。

「コンビニのPOS不具合の原因は、何だったんでしょうか?」

「承知しておりません」

「リニア新幹線は、いつ復旧を?」

「承知しておりません」

会見も終わり頃になると、短い質疑応答になる。司会を務める広報担当の秘書官が、

「それでは、後お一人とします。挙手をお願いします。どなたでもどうぞ」

と締めに入った。最後の質問は、

「安全宣言は、いつ出される予定ですか?」

「まだ検討しておりません」

これで午後の記者会見は、滞りなく終わった。2時間にも及ぶ長い会見は、異例中の異例だ。

明朝の一面記事には「サイバー・パンデミック、非常事態宣言を示唆か」という見出しが、トップ記事としてデカデカと載っていた。


JACOの自室に戻った中嶋本部長とサイコ。非常事態宣言という質問が記者から出たことを、JACOも官邸も重視せざるを得なかった。

官邸から指示があるかもしれない、と覚悟していたところ、案の定、官邸の和久井危機監理補佐官から、

「記者会見で真っ先に質問があった非常事態宣言のことだが、それをどんな法律に基づいて出せば良いのか、すぐさま検討してくれ。それと・・・」

「それと、とおっしゃいますと・・・?」

「それと今、総理から直々に指示があった」

「総理から!」

「そうだ、総理からだ」

「どのようなご指示でしょうか?」

「内閣法第十五条に基づき、内閣総理大臣を中心とした官邸対策室を設置し、『2045年サイバー危機監理センター』と命名する。場所は、いつもの官邸地下1階オペレーションルームは別件で使用中なので、公邸の大ホールとする。JACOの職員も招集するぞ。急いでくれたまえ」


赤絨毯にシャンデリア、壁面装飾も施され、いかにも歴史の重みを感じさせる公邸大ホール。そこは数々の歴史的事件の舞台であった。二・二六事件も五・一五事件も、それに伴う犬養毅首相の葬儀も、そして六〇年安保も、この公邸大ホールは全部知っている。そのことが分厚い重厚感として、見る者の心の底に訴えかけてくる。

そして未曽有の国難に遭遇した今、2045年サイバー危機監理センターとして再び歴史の舞台になろうとしていた。

陣頭指揮をとる官邸危機監理補佐官の和久井が、深い思いを説き始めた。

その訓示は、

「ここにお集まりの皆さん、すでにご案内の通り、今、日本のサイバーセキュリティは、サイバー・パンデミック状態となりつつあり、危機にあります。リアル空間において命を失い、また財産を失った多くの方々に対し、皆さんの全てを捧げる時が来ています。私は、この現実に陥り、人生の結末を見つめるしかない方々と連帯しています。残念ながら、まだ事態は拡大しつつあります。収束の兆しも見えません。対応は何日間にもわたるかもしれません。このことを思うと、言葉を失います」

ここで和久井補佐官は一呼吸おいて、皆を見渡した。全員が神妙な面持ちで聴いてくれている。

その中にサイコもいた。

「ただ、苦しんでばかりはおれません。政府として総ての力を尽くして、原因究明と事態の解決に当たらなければなりません。職員の皆さんにおかれても、政府と地方自治体との強い力と意思を信じて、ぜひ頑張り、一日も早く安全安心なサイバー環境づくりと、治安回復に当たっていただきたいと願っております。国民を支援するのは、日本国の使命であり、官邸の使命であり、皆さんの使命でもあります」

職員たちは、和久井補佐官の話に合わせてうなずいていた。彼らの中にも、サイバー空間からの攻撃を受け、窃取で苦しんでいる被害者が少なからずいるはずだ。

公僕のつらさがここにある。

「一日も早くサイバーセキュリティ正常化の道筋をつけた暁には、この国の未来と夢を語れるように、皆さんとも情報交換をして参ります。私は包み隠さず申し述べます。今回のサイバー危機が未曽有であり、あいにく長期化の恐れもあります。でも私は、皆さんと一緒に何をすべきであるかということを、十二分に分かっております。どうぞ皆さんの力を信じて下さい、官邸の力を信じて下さい、そして国家の力を信頼して下さい。皆さん一人一人が国と政府とご自身を誇りに思い、やるべきことを身の回りできちんとやられることをお願いします。皆で一緒にここを乗り越えましょう、ありがとう」


「官邸の意向」というものは、何にもまして重い。

早速、事態の打開策について、あらゆる角度から検討が開始された。

大ホールの中では、各省庁別にグルーピングされて机が配置。机と椅子、パソコンやスマホ、コピー機や携帯端末、ルーターやケーブルなどが運び込まれた。

そのど真中に陣取っているのは、もちろん和久井官邸危機監理補佐官、その人だ。各省庁からの情報が矢継ぎ早に上がり、それを目の前でテキパキと捌いて行く。

サイコはそのスピートに目が回りそうになっていた。

各省庁から官邸へ異動していた面々は、各六法辞典を広げながら鳩首凝議。防衛六法、警察六法、自治六法などが、大ホールの机の上に所狭しと並んでいた。

「自衛隊法七十六条は使えないだろうか。自衛権の態様の中で最もハイレベルな治安出動だ。これは切り札になるだろう」

「確か、それは警察力をもって治められない場合のことだろう。そこを越えなければならないけど、法的解釈で乗り越えられるだろうか。これはサイバー空間の事案だし」

「知事の要請があれば、自衛隊と警察が共同で・・・」

「そうだ、これはどうだろうか。自衛隊法九十条には、多衆集合して暴行若しくは脅迫をし、又はその明白な危険があり、武器を使用するほか、他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合には、武器の使用ができるとされているぞ。それを以ってサイバー空間で反撃するんだ。これを根拠法にして、サイバー空間特別防衛隊に任せるっていう解釈は、無理だろうか」

「サイバー空間特別防衛隊はこんな時に備えて、サイバー戦車とか、サイバー駆逐艦とか持っていないのか?」

「SF小説じゃないんだから、ある訳ないだろう!」

「その前に、警察法とか警察官職務執行法の方をもっと詳しく検討した方が、現実的なんじゃないか。大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態に際して、国家公安委員会の勧告に基づいて、内閣総理大臣が緊急事態を布告できるんだ。これに当てはまらないだろうか。サイバー部隊もあるんだし」

極めて実行犯が特定し難いサイバー攻撃。それに負けず劣らず、法律と法文解釈も極めて適用しにくく、ミステリアスだ。裁量範囲の曖昧さや拡大解釈が、それに輪をかけて議論を難しくしている。

「サイバー・パンデミックなんだろう。じゃあ災害対策基本法はどうだ。災害緊急事態の布告という手があるぞ。この拡大解釈を切り札にしよう」

「でも憲法とか、憲法の解釈変更とかはどうする」

沸騰する議論を聞いて、和久井補佐官は今になって後悔し始めていた。

心中穏やかならぬ和久井は、

―やっぱり大規模災害時に限っても良かったから、まさかの時に備えた関連法が必要だったんだ。国家の緊急時には、ちゃんと非常事態の宣言ができるようにしておかないといけなかったんだ。でも今の日本ではそれは難しい。この際、地震災害に関する警戒宣言に準じた扱いや、伝染病拡大に対する措置の援用は、できないものだろうか。でもそれでは限界があるよなあ。地震とか感染症とかと、サイバー攻撃とではカテゴリーが違い過ぎるからなあ。私権の制限は無理だしなあ。国会の事前承認が不可欠だとしても、こんな時のために、たとえ拙速と批判されようが、緊急事態宣言とか、一部の機関への大幅な権限付与とか、サイバー交戦規定とか、しっかり非常時の対処法について議論をしておくべきだったよなあ。抜かったよなあ。何度かチャンスがあったのに、逃しちゃったよなあ。残念だ。

大ホールを舞台にして、議論は踊り続けていた。



3・3  国会、システムダウン

このようなサイバー・パンデミック発生に対する備えが薄かった政府。それはまず、非常事態への国民の理解がやや未成熟であったこともあるし、またそれに対して国民が感じる漠然とした不安感を払拭できなかったこともある。

この現状を打破するために、政府与党はこの国難を機に、特別措置法の施行をもって一気に乗り切ろうとしていた。

この流れで、衆議院健康・就労委員会では「サイバー攻撃による被害防止と対応に係る特別措置法案」、通称、サイバーセキュリティ特措法が審議入りした。

だが政府答弁は何度も立ち往生した。その理由は同特措法をテコにして、今までは世論の反対で難しかった非常事態下における私権の制限を、この際なんとかして実現しようとする、政府与党のこだわりにあった。

与野党の幹部は同特措法案にそれぞれ言及。法案を巡る調整は難航しながらも、佳境を迎えていた。

与党の政調会長はどこまでも強気で、

「私権制限への懸念も根強くあるので、サイバーセキュリティ特措法案の中身を説明する場を設けていきたい。すでに野党の一部からも賛同は得られておる。今般のサイバー攻撃への対処は一刻を争う状況であり、何とか今国会で早期成立をめざしたい」

とした。

同じ与党にあっても、総務会長は逆に、

「与党も野党も、特措法案に対する理解が十分に行き届いていると判断するのは、時期尚早ではないか。まず与党内で理解を深めてゆき、いずれ結論を出す段階がくるまで慎重にやってゆきたい。なし崩し的な法案成立を意図しているわけではない。ここは急がば回れ。政府には丁寧に議論を進めてもらいたい」

と、意図的に野党寄りの柔軟なコメントを出した。

これに対して野党第一党は、

「こんな大事な法案を、短時間の審議で通すのは拙速と言わざるを得ない。わが党としては絶対に反対である。サイバーセキュリティ特措法案と呼んでいるが、この実態はサイバー攻撃への対処に名を借りて、全国民の人権を無視する、“私権制限法”だ。立憲政治への冒涜は、何としても阻止しなければならない」

と全国民に悪印象を与えようと躍起だ。

事実、それに呼応するかのように国会議事堂から総理官邸に至る交差点に、法案反対派が毎日のように集合。「私権制限法、絶対反対」と書かれたプラカードを手に持ちながら、口々に叫んでデモンストレーションを行っていた。プラカードの統一されたデザインは、反対派の面々が自発的に参加したのではなく、誰かによって動員されたことをうかがわせていた。

インスタグラムでは「♯官邸前 私権制限法」と入力すれば、デモの画像が幾つも現われる。やはり国民の一部と言えども、反対者は少なくなかった。マスコミの世論調査によると五分五分の割合だが、やや賛成が反対を上回っていた。また内閣支持率もこの数日間で下落はしたものの、1~2ポイント程度であった。だから「ポピュリズムには屈しない」と、与党は強気の姿勢を崩さなかった。

それは、野党の中にも特措法案に賛成する「隠れ与党」がいたからである。

その代表は、

「私たち考えは“賛成”でまとまっている。だから、与党は法案成立に向けてリーダーシップを発揮して欲しい。野党として協力できる環境をつくるのは、与党の役割だから」

との談話を発表。

これに呼応して、含みを持たせた賛意を公然と言い放つ野党非主流派の幹部も現われた。

これを受けて、与党と野党非主流派の間でハイレベルな調整が進み、週明け早々には採決する方針で一致した。こうした水面下の動きに対して、野党第一党の執行部は猛反発。国会はますます紛糾した。

サイバー空間の混乱ぶりも著しいが、国会の混乱も半端ではなかった。

野党党首は、

「まだ原因不明であり、サイバー攻撃なのか、それとも一過性のシステムの不具合なのかも明らかではない。識者も、直ちに危険とは言えない、と言っているではないか。拙速な議論ではなく、もう少し現状を調査・確認すべきである。我が党はあらゆる戦術を駆使して、私権制限法案の成立を阻止する」

と反論。

だが、野党からの造反組が複数名出そうになり、すわ野党分裂の一大事か、場合によっては政局か、と与党寄りのメディアが勢いづいて騒ぎ立てた。この機に乗じて与党は伝家の宝刀、解散風を吹かし始めた。足元がぐらつく野党執行部に対する、露骨な揺さぶり戦術だ。

一方、衆参両議院の議長は「与野党でよく話し合ってほしい」と、ただ繰り返すばかり。いたずらに時間だけが経過していった。

こんな時にタイミング悪く、健康・就労委員会の委員でもあるイケメンの与党議員が「ネットで知り合った女性と不適切な関係を持った」との報道があった。すっぱ抜いた週刊誌には、二人の親密なチャットが赤裸々に掲載される始末だ。

野党はここぞとばかりに、

「サイバー空間で、男女が知り合うって簡単でしょう。議員もそれに手を染めたんです。これはサイバースキャンダル問題ですよ、皆さん、そう思うでしょ」

と、健康・就労委員会でこのサイバースキャンダル問題を追及。当の与党議員が何度も答弁に立たされ、辞任を執拗に迫られたが、本人は発言を撤回せずに「職務を全うすることが、今の私の責任の取り方です」との発言を繰り返した。

もちろん与党は、同議員をかばいにかかった。

「不適切ではあるが、特措法案とは全く無関係の個人的問題であり、進退は本人の判断に任せる」

と官房長官が定例記者会見で異例のコメントを出し、事態の収拾を図ろうとした。それでも納得しない野党は徹底抗戦の構え。問責決議案や健康・就労委員長解任決議案、内閣不信任案などをちらつかせ始めた。

それに応じて与党も「審議は十分尽くした」として、採決をちらつかせ始める。遅くとも今日中には審議終了、週末に採決との観測記事が、永田町界隈では流れ始めた。

さらに与党サイドは、

「これは強行採決ではない。歴史を見れば、わが党が強行採決をしたことは一度もないことが分かるはずである。これは決して数の暴力ではなく、議会政治における多数決による通常の決定手続きである。それよりも、野党が審議拒否の構えを見せて、国会が空転していることの方が、問題ではないのか。すでに審議時間は、20時間を越えている」

と逆に主張した。

そんな混乱もあり、法案に関する本質的な審議が一向に進んでいないにもかかわらず、たちまち2日が経過。いつもながら、お決まりの失言やあげ足をとる瑣末な議論ばかりが繰り返されていた。その間、サイバー攻撃がひたひたと国中に拡大していったことは言うまでもない。

国会内では、与野党の国対委員長による調整が議長のあっせんでようやく始まり、収束するかと思われた。その中で「非常事態に関する有識者会議」を組成し、経済界・学界・関連団体・文化人・マスコミなどの識者から広く、非常事態のあり方に関する意見を聞き取り、幅広い観点から検討をすればどうかとの意見が出された。

実は、この有識者会議をテコにして、早く採決に持ち込みたい与党。他方、自分たちは広く公正に意見を聴取した、という体面を保ちたい野党。与野党それぞれの思惑が、有識者会議の組成という線で一致した。

有識者会議の結論は、

「非常事態における措置が限定的なものならば、現憲法の範囲で許される」

というものであった。

加えて、

「新しい社会インフラであるサイバー空間のダイナミズムを維持することは、日本の社会と経済には不可欠である。もしそこに不信感が生じると、企業の海外流出、またインテリ層の不満を助長し、国益を損なうことになる。このためサイバー空間の安全性と開放性は、ぜひとも確保しなければならない」

との附帯意見も付けられた。

このお墨付きを得て、「サイバー攻撃による被害防止と対応に係る特別措置法」は成立するかに見えた。

しかしながらこんな時に、同会議の一委員から、

「この有識者会議において、私たちは意見を述べているに過ぎない。採用するか、しないかは、あくまでも政府の判断だ。私たち会議のメンバーが、非常事態に関して何ら責任をとるものではない」

との、反対意見ともとられ兼ねない発言が飛び出してしまった。

至極当然の意見ではある。ただし、話がまとまりかかっているタイミングで、この発言はいかにも拙かった。これでさらに1日の審議時間が必要となった。その間、ツケを払わされ、危険にさらされるのは、他でもない国民だ。コンビニのPOS不具合から、すでに3日が経過していた。

そのように国会が混乱し続けている最中に、ついにサイバー攻撃が直接原因となる初めての犠牲者が出た。それはコネクトされた医療機器の誤動作による死亡事故だった。メディアの関心はたちまちそちらの方向へなだれ込み、サイバースキャンダル問題はすぐに忘れ去られていった。

和久井補佐官は、危機監理センター執務室の窓から、遠くデモ隊の動きを注視していた。シュプレヒコールがかすかに聞こえて来る。一部とは言え、やはり国民の熱い思いはひしひしと伝わってくる。

補佐官は、

―果たして、これで良いんだろうか。おそらく、これは日本政治史に語り継がれる法律になろう。官邸として自信過剰に陥って、ここで誤った判断をしてはいないだろうか。

そう考えると、和久井補佐官は哀愁と無情観を感じた。

でもそんな暇はなかった。

―いや大丈夫だ。いくら国民に反対されても、一億総スカンであっても、しなければならないことは、しなければならない時にやるべきだ。決して間違ったりはしていない。逡巡している場合ではない。

和久井が痛感していたのは、担っている政権の重さであり、同時にそれは国家、あるいは歴史というものの重さでもあった。

こんな複雑な経緯が、この法案を審議する過程であった。


政治プロセスはいつも一進一退で、波乱万丈だ。

ようやく「サイバー攻撃による被害防止と対応に係る特別措置法案」は、「非常事態に関する有識者会議」のお墨付きを得た。

また国会で行われている同法案審議における総理答弁でも、

「国民の生命、身体、財産の保護は、サイバー攻撃が拡大しつつある現在、政府の最も重要な役割です。非常事態に関する規定は、諸外国の法制度においても、ほとんどの国で盛り込まれているところであり、我が国においても必要不可欠と考えております」

また、

「有識者会議における非常事態に関するご意見も、きちんと踏まえております。また国会でも、しっかりと議論を重ねてきたところであります。これはサイバー攻撃とそれによる動乱に限って対応するものであり、武力攻撃や戦争に対処するものとは全く異なるものです。ご安心ください」

という答弁もあった。さらには、

「内閣総理大臣が非常事態宣言を発したからといって、何でもできるようになるわけではありません。それはサイバー攻撃に限定されており、国家公安委員会やJACO・日本サイバーセキュリティ推進本部からの勧告が前提であり、また国会承認も義務付けられております。部分的に私権の停止もあり得ますが、あくまでも公益性を優先せざるを得ない場合に限られています。決して立憲主義を逸脱するものありません」

とも説明された。あるいはまた、

「内閣総理大臣は緊急の財政支出を行うことができ、また警察と地方自治体の長に対して指示できることも規定しましたが、その具体的内容は関連4法で定めることとなっております。繰り返しますが、内閣総理大臣が、何でもできるようになるわけではありません。事態が収束すれば、非常事態宣言は速やかに撤回いたします」

など徹頭徹尾、低姿勢の答弁に努めた。

そして、同特措法はついに可決・成立。

ただサイバースキャンダル問題などが足手まといになり、本質的な議論がおろそかなままで採決され、また国民の大多数が中身を熟知しないまま施行された。このため、特措法の実施に当たっては何かと齟齬が多かったが、行政組織を支えている優秀なビューロクラシーがそれをカバーした。

具体的には特措法の中で、次の2つの条文が画期的だった。

これで日本のサイバーセキュリティは強化され、その重責を担うことになったJACOのいちづけが、1ランク上がったのだった。


「第3条 〈非常事態の布告〉

内閣総理大臣は日本サイバーセキュリティ推進本部(JACO)と国家公安委員会の勧告に基づき、サイバー危機における被害防止と対応のために、非常事態の布告を全国又は一部の地域について発することができる。布告はこれを発した日から二十日以内に国会の承認を受けなければならない。


第4条 〈中央省庁と地方自治体の統制〉

前条の布告が発せられたときはこの法律に定めるところに基づき、布告に記載した区域において、内閣総理大臣によって一時的に関係省庁と地方自治体の統制が行われる」


これに応じて警察法、緊急事態法、自衛隊法、国家安全保障会議設置法が同時に改正され、非常事態関連4法と呼ばれた。ただし、あくまでもサイバー危機に限定された措置ではある。


そして特措法成立後、早くも非常事態宣言が内閣総理大臣によって発せられようとしていた。

官邸での、満を持した記者会見。

その時、危機監理補佐官和久井とJACO本部長中嶋は首相の上手に侍っていた。その他にも防衛相、国家公安委員長、情報相なども陪席。下手に掲げられた日章旗の紅色が、目にまぶしかった。

宣言は、

「本日ここに、内閣総理大臣として日本全土に非常事態を宣言します」

と始まった。

その瞬間、和久井補佐官は武者震いを感じた。

一呼吸おいた総理は、

「非常事態宣言は、サイバー危機によって国民の生命と財産に重大な危機が差し迫っており、事態の悪化を防ぐため、また国家存亡の危機にあるために、行うものであります」

会場は静まり返っていた。

「政府はこの事態を収拾するために、新しいサイバーセキュリティシステムの構築など、必要な措置を早急にとって参る所存です」

―これは、頼もしい限りだ。

サイコはそう思った。さらに、

「もしもサイバー攻撃が顕在化して、これ以上に事態が悪化するようになれば、断固たる措置も講じます」

トーンが高揚してきた。記者たちは、一言一句聞き漏らすまいと耳を凝らしていた。

総理による記者会見は、

「その際は、特措法および非常事態関連4法に従い、私とここに同席しております関係閣僚で、『非常事態管理会議』を組成する予定です。議長は内閣総理大臣である私です。この会議においては、国民の安全と安心に十分配慮しながら、関係各機関の権限を集中させ、内閣総理大臣として全権指揮をとってまいります」

と続いていた。

「また、サイバー危機が収拾すれば、同会議を速やかに解散し、国会にも速やかに報告いたします」

会見に陪席していた和久井補佐官は、国家による非常事態宣言の重大さを、あらためて身に沁みて感じていた。サイコも同じ思いだった。

総理はまた、

「水を治めることは、国を治めることとよく言われます。現代では、サイバー空間を治めることが、国を治めることです」

決めセリフを吐いていた。

総理大臣は強い権限を持っている様で、実のところは持っていないに等しい。国家行政の最高責任者であるために国務大臣を任命したり、罷免したりはできるが、個々の事案に関しての独断は難しく、絶対的な存在とは必ずしも言い切れない。衆議院解散権と閣僚人事権を持っていなければ、一閣僚同然だ。

暴走を防ぐために練り上げられた制度設計の歴史が、首相の独断専行を許さないのだ。歴史の知恵は深い。だがそんな知恵の深さが、仇になることもある。

―決まったね。でもこれからが勝負だなあ、JACOも急に注目されてきているし。

サイコは身が引き締まる思いだった。


一山超えた安堵感からであろう、官邸から危機管理センターへ戻った中嶋本部長は、久々に清々しい笑顔だった。

サイコに対して、

「一段落しましたね、引き続きよろしくお願いします」

「大過なく終わって良かったですね。こちらこそ、よろしくお願いしますっ」

とサイコ。

本部長は話題を変えて、

「それはそうと、皇居の方はいかがですか。そちらの方も気掛かりですからね」

と振ってきた。

サイコは謹んで報告した。

「畏くも今上陛下をはじめ、ご一家は普段通り健やかで有らせられ、ずっと日本国民に寄り添っていたい、とのおことばを賜っておりますっ」

中嶋は満足気にうなずいた。

サイコは、心と神に恭しく誓った。

―そうだ。日本国の幸せと素晴らしさは、必ず護り通さなければならないんだ。






#全日本、停止せよ


古来、アイデアや文章を練るのには最適のTPOと言われている、馬上・枕上・厠上。これらを総称して三上と言われている。それらに加えて2045年においては、電気走行のおかげで静かなるMOVAも、絶好のひらめきの場所となった。

三上と共に、新しくMOVA上も加わった四上が、天啓の場だ。

ボクの運転するMOVAは病院を後にし、サイコが首を長くして待っている東京を目指して走行していた。

―できるだけ急いで戻らないと。混乱しているというJACO本部が心配だ。そしてあのミスJACO・サイコのことも。

そう思うと、自ずと気が焦った。

ただMOVAとは言え、レベル4の半手動運転モードでは、時速80Kmの制限速度だ。だから、かろうじて三重県から愛知県への県境を越えた伊勢湾の上だ。完全無人運転・レベル6なら、もう神奈川県に入っていてもいい時刻だ。

加えて新東名高速道路は通行止め。だから、しばらくぶりに東名高速道路を駆けていた。その理由は、新しく整備されたインフラほど、道路交通関連機能がサイバー空間と接続されているために、危険が避けられなかったからだ。初めからサイバー空間と一体化されていた新東名は、交通安全確保に向けて念のため通行止めとされていたのだ。

こんな現象は「サイバー依存症」と呼ばれている。

サイバー依存症とは、社会的弊害が生じたり、個人生活が破綻したりするほどまで、サイバー空間やネットワークへ過度に依存した状態を指す。

―ナビが使えず、道路標識だけを頼りにして手動で運転するって、こんなに苦痛なものだったか。

今更ながら、ボク自身が無意識の内に、どれほどサイバー依存症に陥っていたかを思い知った。


4・1  リアルとバーチャル

ボクはつくづく考えていた。

―たしかにボクは、MOVAに乗って道路上を走っている。けれどもこの制御は、サーバーから受けている。言い換えれば、MOVAは、サーバーの中につくられたサイバー空間において、このMOVAへ与えられたIPアドレスという一つの記号になって認識され、走行していると見なせる。

そう考えながら走る東名高速は、快適そのものであった。こんな非常事態下においては、不要不急の外出を控える人が多いからだ。もうボクたちの前後には、他のMOVAの姿は一台も見えない。ボクたちは、独走状態であった。

とても静謐なMOVA内。その中に抱かれて、いつしかボクは夢とも幻ともつかない瞑想感覚に襲われて始めていた。


突如、浜松IC手前付近で大きな旗が振られていることに気付いた。それまで漫然と運転していたボクは、反射的に急ブレーキを踏んだ。

音をたてて軋むタイヤ。

「おい、おい、ちょっと運転が荒っぽいやないか。死にかけていた人間が横に乗ってるのを忘れてるんとちゃうか」

助手席に座っているオヤジが、ちょっと不満気だ。後部座席も使って何やら機器類を大開きに広げて、孤軍奮闘中の模様だ。

―あれは、ハムの機械じゃないか。アンテナの小ささから見て、430MHz用か、それとも1200MHz用か、どっちかなあ。

先ほどのオヤジの言葉で、助手席の方にすっかり気を取られてしまったボク。

でもボクの目には、その旗を振っていた交通警察官が、何やら手を下向きに何度も押し下げるジェスチャーをしているのが、チラリと映った。

―なんだろう。何があったっていうんだろう?

一瞬、その意味を飲み込めずに戸惑った。

そのままの勢いで通り過ぎようとした時に、オヤジが大声を上げた。

「おい、今のはスピードを落とせっちゅう合図とちゃうんか」

慌てて再減速。

その少し先には、落下物の板切れを巻き込んで停止した軽トラが、パンク修理中であった。もしオヤジの警告がなければ、危うく突っ込むところであった。

―危なかった。でもレベル6か、もしナビでも働いてくれていれば、余裕で減速できていたのに。

サイバー機器のない生活の不便さと、難しさとを思い知った。それと同時に気付いたことがある。

―いつの間にか、警官の仕草からサインを読み取れなくなっていたんだ。日常的な感覚がマヒしていたんだ。

やはり知らず知らずの内に、サイバー依存症に罹っていたのだ。

それどころか、ボクは、

―日本が、一億総サイバー依存症に陥っていたとしても、おかしくないぞ。

と案じた。

再びオヤジは黙々と手を動かし始め、旧式の機械の調整に余念がなかった。

―オヤジの方は、ハム依存症だなあ。それにしても、オヤジはこんな時に何を企んでいるんだろうか。


浜松ICから先は、東名高速も通行止めになっていた。

こうなると首都圏に向かうのは、もう下道しか残されていない。やむなくボクは高速を下りて県道に入り、国道1号線を東上することにした。

―あと何日、何時間かかっても、東京に着くんだ。あの時に言われたように、ド根性でだ。でも、さすがにハンドルを握る手の握力が弱ってきた。こんなに長い時間、ハンドルを握ったのは何年ぶりだろう。いよいよ、しびれてきたぞ。

地道へ下りると、街の現況が手に取るようにわかった。

やはり道路はガラガラ。皆、同じく外出を控えているに違いない。

電波時計も電気時計も、でたらめな時刻表示なので、正確な時間がつかめない。

交通信号機も消え、あちこちの交差点では手信号で交通整理がされていた。

大規模停電が発生していた。

沿道店舗の看板はもちろん、街中の灯りがすべて消えている。おまけに飲食店シャッターはしっかりと降ろされ、臨時休業状態だ。

コインパーキングのフラップ板は停電で下がらず、複数のMOVAが駐車場に閉じ込められたままだ。利用者はとっくに通じなくなったスマホをいじり、ワラにもすがる思いで連絡を取ろうと奮闘している。

安全確保のためであろう、集団下校をする小学生グループが見える。

街中でサイレンが鳴り響き、騒然としていた。

どこからか「危ないから、早く家に入れ!」と叫ぶ声が聞こえた。

ラジオはAMもFMも雑音ばかりで、何も聴こえない。もちろんテレビもだ。

つまり街ぐるみで、システムダウンしていたのだ。

ただ唯一、明かりが消えたコンビニだけには、非常用の水と食料を買い求める長蛇の列ができていた。

―MOVAでは、何か異常が起こればサイバー空間にデーターが送られ、その電気信号を認識したサーバーが最適な処置をする。我々は一つのアイコンでしかないんだろう。でもそのアイコンも、今は機能していない。

ボクはMOVAの中で、現実と非現実が交錯するイリュージョンな世界に包まれていた。今までは、たとえば尿意をもよおして、トイレを探すようにスティーブに命じると、地図ソフトとGPSから最寄りのトイレを簡単に探し出して、自動誘導してくれていた。

―トイレを使うのは、リアルなボクであることは確かだ。でもAIは何処に?

GPS上では、MOVAがトイレ前で停まったことが確認される。今までは、スティーブがそれを機敏に認識して、「運転を始めてから、もう2時間が経過しています。休憩をとられてはいかがですか」などと、親切な助言までしてくれていた。

もちろんスティーブが同乗しているのではない。どこかのクラウドから案内をしてくれるだけだ。ひょっとして、それは国外にあるサーバーからだったりするかも知れない。AIこそサイバー空間の典型的存在だ。

話しかけるボクと、スマートスピーカーから答えるスティーブ。物理的な距離は、たった50cmだが、実はかなり離れているかも知れないし、逆に、隣り合っているかも知れない。スティーブがどこに存在するのかは不明だ。それどころか本当に実在しているのか、単なる数万行のプログラムなのかも不明だ。

スティーブに話しかけて、当意即妙の答えが返ってこなくなってから、すでに数時間が経過していた。それに伴って、以心伝心も途絶えてしまった。リブートした方が良いのかもしれないが、そのやり方が不案内だ。ボクはもう、スティーブとの会話はすっかり諦めていた。

国道1号線沿いでは、メールやスマホも「圏外」の表示が出ては消え、消えては出るような有り様。ボクたちはコネクティドされずに、ほぼ「圏外」状態となっていた。

―せめて、せめて、JACOに連絡が取れれば助かるのに。

ボクには、パートナー・サイコへの想いが募って来ていた。

仮に数万行のソースコードとボクが会話をしているとしても、バーチャルとリアルは確実に交錯している。

―2045年の時代、正真正銘のリアル空間、純粋なサイバー空間などあるんだろうか。相互に融合し合っているんじゃないだろうか。

ボクは午前中に観た人気女性アナウンサーのことを想い出していた。

―スッピンではなく、化粧で顔をつくっているんだ。素顔はリアルなんだけれども、お化粧でつくった顔は、バーチャルじゃないか。

化粧と素顔、意識と無意識、正気と狂気、嘘と誠。それぞれどちらが本物で、偽物なのか区別がつかない。それはまるで真っ暗闇の道路を、GPSもナビも無しで走行するようなものだ。右か左か、上か下かすらわからないで、突き進むことに似ている。


地道に下りてからかなりの時間が経過。

ボクは止まった電波時計が、点滅を繰り返すのを見ていた。

―もう日にちが分からなくなってから何日が経つんだろう。昨日と今日、今日と明日の区別がつかなくなってきた。確か今日で3日目かも知れない。

その3日目の夜、MOVAはヘッドライトの明かりだけを頼りに、トロトロと走っていた。平均時速は20Kmもない。大停電のせいで街路灯も街の明かりもすっかり消え、漆黒の闇夜だけがMOVAを包んでいた。往路でははっきりと見えていた富士山は、今は暗闇に融け込んでいる。

―右側に海が薄っすらと見えるぞ。由比辺りだろうか。そうすると残り150Kmほどだろうか。

どこまでが道路で、どこからが沿道なのか、その接点が曖昧になってきた。今が、宵の口か、あるいはまた夜更けかも紛らわしくなった。その内に、上と下、そして左と右の境界も揺れ動いてきた。時間と空間の感覚が鈍り、空と海、山と空、光と影、今日と明日の境目も、ほとんどあいまいになってしまっていた。

―霞が関到着は明日の明け方になるなあ。でもJACOに無事到着できたとして、こんな過酷な状況下で、ボクは果たして何ができるんだろうか。単に、足を引っ張るだけに終わるんじゃないだろうか。どうしてボクはここにいて、何に向かっているんだろう。JACOは国民のお役に立てるのだろうか。

自分が正気なのか狂気なのか、また無意識なのか、意識しているのかも判然としない。そして、リアルとバーチャルとの境目も見極められなくなった。

その瞬間、ボクは閃いた。まるでパソコンがリロードされて、蘇ったようだった。

―JACOが、日本社会と国民に対して安全で快適な暮らしを下支えしていることは、間違いない。これからもその役割はしっかりと果たしてゆかなければならない。JACOの存在はボクのプライドだ。

それだけではない。

―第5次産業革命の象徴であるAI、ロボット、IoT、ディープラーニングなどは、すべての人々にとって有用だ。たとえばヘルスケア面では革新を生み出す手段となり、モビリティにおいては便利な移動手段を担保。エネルギーマネージメントに関しては持続可能な地球環境を実現するなど、それらは新しい価値を創造する有力な手立てだ。

間違いなくJACOの存在意義はある。サイバーセキュリティがそれらを護っているからこそ、国民が幸福でいられるのだ。

―AIを使った透析技術など、パーソナル医療が実現したから、オヤジの健康は維持できていたんだ。でもそれが一旦狂いだすと、好ましからざる事態を招く。実際、そうしてオヤジは人事不省に陥ったんだ。ここに怖さがある。

横に座るオヤジに目をやった。相変わらず、リグの調整に余念がない。まったく不気味にも思えるほど、意気軒高だ。今朝、死の淵でさ迷っていたとは、とても思えない。

―貧困とか飢餓、高等教育や働き甲斐、自然環境の豊かさと平和な社会。そんな理想的な未来を想い描く時に、AIやIoTと人間が、もっと安心して共棲するようになれば、より良い社会が実現するんだ。そしてJACOが、その役割を担う。

やがてMOVAは海岸沿いの国道を離れ、箱根へ向かう天下の険を登り始めていた。

―でも最悪、このままで現況が常態化すれば、日本と世界はどうなるのだろう。サイバー攻撃撲滅のために、1984のような監視国家になるのだろうか。それとも世界サイバー大戦が始まるのだろうか。いや、それじゃダメだ、世界は崩壊してしまう。やはり情報資本主義・情報民主主義の旗印の下、サイバー空間における自由・平等・安全である権利が守られた、新しい世界秩序を模索する必要がある。

前にそびえ立つ山を越えれば、もう首都圏の入り口だ。

―2045年は、新たな波が押し寄せようとしているんだ。それがシンギュラリティだ。それをネガティブな意味合いとして単純に捉えるんではなく、もっと前向きに考えてみよう。そこにボクとJACOにとっての、幸せの道が開かれるんだ。

ボクはあらためてそう信じた。

その時、突如オヤジが顔を面と向けて、話し始めた。

「さあ、さあ、やっとこさ出来たわ。ちょっと試してみるとしょうか」

オヤジが「大仕事」をやり遂げたようだ。MOVAは峠を越え、急な坂道を東京へ向かって下り始めていた。

「よしっ、行くぞ。見ておれ、これが非常時のハムの神髄っちゅうもんや」

アンテナを窓から伸ばし、リグのスイッチをオン。

非常通信周波数にチューニングした途端に、ノイズ音が流れ出して来た。その雑音を確認し終わると、ニンマリとしたオヤジ。

「さてと、このマイクがエエんや。一番使い良いんや」

と言いながら、年季の入ったハンディ・マイクを握った。

そして第一声を放った。

「非常、非常、非常。各局の協力を要請する。これは訓練ではない。これは訓練ではない。こちらJP32YZR、ポータブル1。名前は江藤。英語のエ、東京のト、上野のウ、エトウ。現在、国道1号線を走行中。日本のサイバー危機への対応で上京するため、緊急援助を求める。応答をどうぞ。・・・・・・・・・・・・・・・・もう一度繰り返す。こちらJP32YZR、ポータブル1・・・」

433.10Mhz、波長7cmのUHF電波に乗った声は、箱根の山々をひとっ飛びに越え、首都圏全域に広く拡散していった。



4・2  アメノウズメ作戦

永田町にある公邸・危機管理センター周辺では、鳴り止まぬ気配もないサイレンが響き渡っていた。また、だれが、どういう目的で飛ばしたか不明だが、AIドローンが飛び回っていた。

―一体どうしたんだろう。何かが起ころうとしているんだ。

気がついたサイコは不審に思い、サイバー危機管理センター内で、大声を出して尋ねてみた。

「みなさん、ちょっと耳を貸して下さい。今、サイレンが鳴っていますが、これはどちらからの指示でしょうかっ?」

全く反応がない。

サイコは再度、個別に、

「鳴っているサイレンは、情報省さんの指示ですかっ?」

と隣のテーブルに固まっている情報省グループを、名指しして確認。

「いいえ、情報省は関知しておりません」

次に、

「では、運輸交通省さんでしょうかっ?」

「当省ではございません」

またその次は、

「とすると、内閣省さんっ?」

「まったく違いますよ」

と、いかにも面倒そうだ。続けて、

「まさか官邸さんですかっ?」

「そんな権限も責任もございません」

やや慇懃だが、丁寧な即答であった。

「残りは警察さんか、消防さんっ?」

どちらも愛想なく、黙って首を振るばかりであった。

サイコは、いぶかしく思った。

―当然JACOではない。これは変だ。サイレンを鳴らせという指示はどこからも出ていないのに鳴っている。勝手に鳴るはずがないんだから、なんか臭うわねえ。

でも、各省庁担当者とも自分の仕事で手一杯の様子で、取りつく島がない。

あることを思いついたサイコは、キーボードを叩き始めた。

―要するに、訓練の時に習った通りにやればいいんだ。

訓練時と異なるのは、スパコンの中に再現された仮想の防災警戒情報ネットワークか、それとも現実に稼働しているネットワークかの違いだけだ。もちろん、今は後者の方だ。

すぐに、

―リアルな首都圏広域連合防災警戒情報ネットへ侵入成功。

あの時と一緒だ。違うのはただ1つ、訓練ではないことだ。

サイコの指は、キーボードの上で狂気乱舞していた。

プラットホームから、東京都麹町区の防災警戒情報ネットへ移動。メインサーバーからさらにディレクトリを下りようとした。

―ダメだ、プロテクトされてる。う~ンと、じゃあバックアップサーバはどうかな。

サイコのカンが当たった。バックアップサーバの方は、まだプロテクトされていなかった。

まず警報サブシステムを検索。

そのリストを、全部ダウンロードした。

リストをサイレンの場所「永田町」で検索すると、永田町にはA~Cまで、3基のサイレンがあることが分かった。

―リストが暗号化されていないよ。こんな開けっ広げに公開されているんだ。

サイコは少し驚いた。

たった0.5秒で、鳴動している「永田町サイレンA」のIPアドレスが判明。

―これで良し。

該当するサイレンの状態を確認することにした。

―やっぱりね、アタシの読み通りだ。

永田町サイレンAの状態は、「位置情報:永田町1-1」、「サウンド:鳴動中」、「電源モード:非常用バッテリー」、「ボリューム:最大90dB(推奨)」、「ステイタス:アクティブ」と表示されていた。その中で、

「ライン入力:カスタム」

となっている項目があった。それに、サイコはピンときた。

―カスタムって? どこからのカスタム入力か調べよう。

右クリックでメニューを開いて、プロパティを左クリック。そうすると「セキュリティ」タブで、本来は当然かけられているはずの「禁止」のチェックがすべて外され、フルコントロール・変更・読取りと書込み・特殊なアクセス許可などが、「許可」状態に変化していた。

―これじゃあ、サイレンが鳴り続けるわけだ。

サイコは「禁止」のチェックボックスに☑マークを入れ直し、最後に「エンター」キーを渾身の力を込めて押し下げた。

その途端、永田町界隈のサイレン音は、ことごとく鳴り止んでしまった。


他方、危機監理センターでは、JACO本部長の中嶋が指揮した別グループが活動を始めようとしていた。

「ここにいる、捜査庁サイバー部隊からの派遣チームの諸君。日本のネット環境における治安情勢を知り尽くしている諸君にかけられた期待は大きい。また、その情報セキュリティ確保は諸君の双肩にかかっている」

司令を務める中嶋本部長の訓示は、こんな切り出しから始まった。

「各地で発生している違法AIドローンにより、人と街が受けた被害は甚大かつ深刻である。このAIドローン対応を君たちに任せたい。その背景、動機、手口を捜査し、一刻も早く被疑者を検挙して欲しい。今回のサイバー攻撃に対する日頃の教育訓練の成果を存分に発揮することを期待している」

AIドローン対応というミッションを訓示の後、さっそく紺色のウィンドブレーカーに身を包んだサイバー部隊の面々が、対策を検討し始めた。8名の背中に記された「C.C.D.T(Cyber Communication Department Team)」のロゴが目に鮮やかだ。

ただ捜査は難航した。

まず、いかに捜査庁サイバー部隊の陣容が整っているとは言え、今回のサイバー攻撃のように想定を超えて多様化・広域化し、合わせてサイバー・パンデミック化までした攻撃に対しては、地域を越えた広域的捜査が難しい。捜査庁の中で、各府県単位に設けられているイントラネットのファイアウォールが、機動的な捜査活動の妨げになっていたからだ。

また別の意味でも、サイバー部隊には限界があった。それは、その捜査対象が、あくまでも犯罪行為に限定されていたことに因る。現時点では、今回の違法AIドローンの飛行が、犯罪行為なのか、テロ行為なのか、それとも戦闘行為なのか、判断がついていない。だからサイバー部隊が最も得意とする犯罪捜査だけでは、必要かつ十分な初動捜査活動を果たせていない。

さらにサイバー部隊の人数が限られていることも、捜査が難航している理由だ。精鋭とは言え、数名程度のメンバーで全国を監視領域にするのには自ずと限界が生じ、マンパワー不足は否めない。また、少人数であるにもかかわらず、ピラミッド式の厳格なタテ組織が、フレキシブルでスピーディな捜査を阻んでいる。だから、JACOに陣取った捜査庁サーバー部隊では、本庁との内部調整会議の方に、ほとんど一日中時間をとられていたのである。

こんな調子で、捜査がスムーズに進むはずはなかった。

サイバー空間における捜査は、時間との勝負でもある。サイバー危機管理センターでサイバー部隊は奮闘努力するものの、結果としてはAIドローンへのお粗末な対応が、だらだらと続いていた。


その様子を横目でにらんでいたサイコ。

―これも、アタシがやるしかないわねえ。サイレンを止めた次は、AIドローン対策よね。

サイコは、サイレンの時と同じように防災警戒情報ネットから入った。今度はGPSを頼りにドローンを特定。この周囲200mの範囲だけで、30基も飛び回っていることが分かった。

同じように、プロパティからチェックボックスの☑マークを外してエンターキーを押すと、AIドローンは一斉に跡形もなく消えて見えなくなった。その様は、見事としか言いようがない。

またミスJACOが、いい仕事をした。

―これって、最高にオモシロい。AIドローンが蒸発したよう。まるで蜃気楼みたい。

実際は、コネクティッド状態にあったAIドローンの回転翼を強制的に停止させて、落下させただけだ。それだけで、永田町周辺はサイレン音もAIドローンも消え、少しは普段の落ち着きを取り戻した。

ただし、サイコと同じ時にAIドローンを捜査していた捜査庁サイバー部隊の面目も、落下してしまったけれど。


サイコは犯人のシッポを探して、検索を始めた。

その頃、JACOの中嶋本部長は、次の手を打とうとしていた。本当のところは、頼みの綱と信じていたサイバー部隊がサイコによって出し抜かれたので、本部長なりに焦っていた。

今度、本部長によって緊急招集されたのは、サイバー空間特別防衛隊の面々だ。防衛隊メンバーは、そこにいるだけで辺りに緊張感を漂わせる。身にまとった迷彩服やブーツ、ヘルメットなどがそう感じさせるのであろう。ベストの左胸につけられた日の丸の紋章が、ひときわ輝いている。

その輝きに感動した中嶋本部長は、

―やはり日本の最後を託せるのは、このサイバー空間特別防衛隊しかない。

と確信を深めていた。

ふと、本部長の胸には、万葉集に収められた防人の歌が浮かんできた。

「藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君」

もちろん時代も場所も異なる。

ここは2045年の東京永田町だが、この歌が詠まれたのは1300年も昔で、場所は九州太宰府だ。ただ、時と場を超えても、常に危険と隣り合わせで地域社会の安全を守る現代の防人たちには、感謝してもなお感謝切れない。

ただサイバー空間特別防衛隊も悪戦苦闘していた。その訳は、日本の同盟国において数年前に創設されたサイバー軍との連携が、上手くいかなかったからだ。

危機監理センター内で、もたつく特別防衛隊。

「同盟国のサイバー軍から矢のような催促です。“早く反撃をせよ”との暗号通信文が入電しております」

「だが今のところ、宣戦布告はどこからも出て来ていないんだぞ」

「サイバー攻撃に、宣戦布告などあり得ません」

「ここは日本だ。たとえ超大国の同盟国からの催促と言えども、やり方はこっちに従ってもらう」

「じゃあ、どんなやり方をしろと言うんでしょうか?」

「まずはサイバー反撃という選択肢を、正当化する手続きが必要なんだ。それに攻撃元がまだ不明なんだから」

「攻撃元なら、ほぼ分かります」

「ほぼ、じゃダメなことくらいわかるだろう。誤って反撃すれば、国際社会でこっぴどく批判される。それと手続きも問題だ」

「手続きですか?」

「そうだ、手続きだ。どこで、いかなる相手に、どの武器を使用するかを定めた基準との整合性をとらなければならない。そもそも、これで交戦状態にでも入ったらどうするつもりなのか」

「すでに攻撃を受けているんです。反撃は正当防衛ではないんでしょうか。手をこまねいていると適正な対処がとれずに、被害者をさらに増やす恐れがあります」

「ここで無茶をすると、世界中から過剰防衛だと、きっと袋叩きにあうぞ」

「定めによると、“内閣総理大臣は、日本サイバーセキュリティ推進本部(JACO)の勧告に基づき、サイバー危機における被害防止に対応する”ことが許されています」

「その通りだが、それはあくまでもその他の手段がない場合に限定されているだろう。そこも確認しないといけないし、前もって国会への根回しもしておいた方がいいし」

「二十日以内に、国会の承認を受ければ良いんじゃないですか。法的には事後承諾で良いんですから」

「おい、おい。君は何年、宮仕えをしているんだ。法律にはそう書いてあっても、実際の運用では、事前に了解してもらうことが大切なんだ。それが宮仕えというものの役目だ」

そんな侃々諤々、喧々囂々の議論をしている内に、マルウェアはどんどん進化し、亜種化していった。マルウェアの中に、自らを作り変えて行ける巧妙なプログラムが内包されていたためだ。もう亜種が、新種の亜種を生み出し、その新種が、さらに新しい亜種を生み出す、異常な繁殖状態になっていた。

もうマルウェアというよりは、サイバー兵器と呼べるまでに進化していた。手が付けられなくなる状態まで、あと少しの時間しか残されていなかった。

日本のサイバー空間は、崩壊の危機にあった。


一方サイコはサイコで、努力を続けていた。

ドローン退治というサイコの仕事は終わった。それでも手を緩めなかったのは、最後のツメが残っていたからだ。

―憎っくき犯人を捜さないとね。

先ほどのプロパティをたどって、今度は「詳細」タブを開いた。「タイトル件名」は防災警戒情報ネットとされ、「アクセス日時」は3時間前を指していた。「前回保存者」も「作成者」も、確かに麹町区役所・危機監理課となっていた。

―どこにも不自然なところは無いけどねえ。

だが念のため、サイコは「詳細」タブの中にある「詳細設定」をクリックした。そこに「アクセス許可エントリー」を発見。今度はそこをダブルクリックをした。

―これだ。これが犯人だ。

そこには「種類:許可」とされた上で、「アクセス:フルコントロール」、そして「プリンシパル:anonymous administrators KPMci15i」となっていた。

―これだ。この“anonymous administrators KPMci15i”という、こいつが犯人だ。

サイコはやっとの思いで、犯人のシッポを探し当てることに成功した。

―でもこれは匿名なんだから、これだけじゃ捕まえられないし、反撃もできない。どうしたものだろうか。

さすがのミスJACOも、暗礁に乗り上げていた。


こんな時に備えて、予めJACOでは反撃用のキラーソフトが開発されていた。

その名は「アメノウズメ」。アメノウズメとは天鈿女命から命名した名前だ。

日本神話では、スサノオノミコトの乱暴に怒った天照大神が、天岩戸に隠れて高天原の世界が暗闇になったと記されている。いわゆる岩戸隠れ伝説だ。その時に困った八百万の神が一計を案じた。それは岩戸の前で神々が大騒ぎをして天照大神の気を引き、事態を打開するという策だ。その中心的役割を果たしたのが、天鈿女命(アメノウズメ)であった。

天鈿女命は岩戸の前で扇情的に踊って、神々の集っている場を盛り上げた。その盛り上がり方を聞いて「なぜ皆、楽しそうにしているんだろう」といぶかった天照大神は、天岩戸を少し開けてみた。そのチャンスを逃さなかった神々。天照大神は天岩戸から引きずり出されて高天原が明るさを取り戻した、と言い伝わっている。

その神話になぞらえて、高天原よろしく、サイバー空間に明るさを取り戻すという願いが込められて、このソフトが「アメノウズメ」と命名されたのだ。

アメノウズメの構造は単純だ。

マルウェアの手口は概ね、フィッシングページに誘導し、HTMLなどのファイルをダウンロードさせ、ファイルをシェアするように仕向け、最後にファイル中の認証情報をすべて抜き取る、という流れだ。またそれを補う形で、マルウェアの検出を阻止するソフトが仕込まれていることもある。

この手口に対してアメノウズメは、怪しいWEBメールサービスや、マルウェアそのものを検知し、システムの感染とデーターの窃取を防ぐ。また「至急」「緊急」「依頼」「支払い」「Payment」「Invoice」などの単語へも敏感に反応するようにプログラムされている。これでマルウェアから、システムをプロテクトするのだ。

今、ネット上で大暴れしているスサノオノミコトのようなマルウェアを退治できるかどうか、JACOの威信をかけた戦いが始まろうとしていた。

作戦名は、アメノウズメ作戦。

サイレンとAIドローンでミソをつけた中嶋本部長は、背水の陣を敷いていた。

「本部長、準備完了です。いつでも命令して下さい」

赤派の同僚であった元銀行マンが命令を待機。それに対して、JACOの中嶋本部長は隣の和久井危機管理補佐官へ、

「和久井補佐官、始めますよ。良いですね」

と確認。それを受けた補佐官は、

「これはJACOの勧告に基づいた反撃、という理解で良いんだね」

と確認。

中嶋はうなずいて、

「すでに国家公安委員会のOKも取れております」

と補足。

それを確認し終わった補佐官は、すぐに命令を下すのではなく、

「それならばちょっと待ってくれ。今から官邸におられる総理の最終確認をとるから」

と言って中座。

―この期に及んで、それはないよなあ。

だれしもそう思ったが、官邸補佐官に対して口には出せなかった。

それから長い時間が経過。その間、苛立ちを隠せない元銀行マンは、何度も中嶋本部長の顔色を伺った。だがさすが本部長、顔色一つ変えずに堪えていた。

時間がかかった理由は、この時すでに通信手段が途絶していたからだ。もう官邸と公邸の近さですら、徒歩で行き来する他、方法がなかった。

和久井が戻って来た時には、アッと言う間に1時間が経過していた。危機管理センター内は、ダレた雰囲気に満ち満ちていた。

「お待たせした。官房長官から、“総理への確認が取れた”とのご連絡を頂いたので、手続き通り、反撃を始めてくれたまえ」

軽い厭戦気分から何とか抜け出し、気を取り直した中嶋本部長。

士気を鼓舞しようと、精一杯大声で宣言した。

「よしっ、ではアメノウズメ始動。目標はanonymous administrators KPMci15iだ。一斉にかかれ」

と下命。アメノウズメ作戦が決行された。

訓練と同様、ディスプレイ上ではアメノウズメが支配しているサイバー空間領域が赤く着色されている。反撃開始と同時に、その赤色の面積がたちまち増加。

「今、赤色部分が50%を超えました。あと1分で全領域が赤に変わります」

その報告を聞いて満足そうな中嶋本部長。

「75%を超えました。あと30秒で、全サイバー空間がアメノウズメの領域になります」

もう勝利は目前だ。中嶋本部長は余裕の表情を見せ、和久井補佐官の顔からは笑顔がこぼれ始めていた。

「現在90%、あと15秒です」

元銀行マンのハツラツとした声で、センター中が精気を取り戻した。

最初に、異変に気付いたのはサイコだった。

「アレレ。あれは何かしら。赤地の上の方の部分に、白い点が出来たわよっ」

その白い点は、白点から点々に変わり、すぐに白い点線状に連なっていった。それにしたがって、赤地の割合も90%から85%になり、さらに下落していった。

「今、80%を割りました。依然、下降中。止まりません」

10秒前とは反対に、元銀行マンが悲痛な叫び声で報告。

ディスプレイには点線同士がつながって、白い斑点になり、全体は赤と白とのマダラ模様に変わっていった。

本部長も補佐官も真っ青な顔色だ。

その中にあって冷静なサイコは、あることを思いついた。そして、その白い斑点模様の変色部位を取り出して、精密検査に取りかかった。マウスの右クリックで白点をつかみ、デュアルディスプレイの右側にドラッグ。それをJACOの分析ソフトにかけて、中のプログラムの検査を始めた。

サイコが素っ頓狂な声を上げるには、それほどの時間はかからなかった。

「何よこれは! さっきアタシたちがanonymous administrators KPMci15iに送り込んだアメノウズメのプログラムじゃないの。ただ、そのアメノウズメが変異して、アタシたちが逆襲されているっ」

アメノウズメが突然変異をして、アメノウズメ亜種に変化。その亜種が逆にアメノウズメに侵入して逆転写され、反撃の反撃、つまり逆襲機能を獲得して、元のアメノウズメへ逆感染し、破壊したようだ。

―亜種のアメノウズメが広がって、集団感染状態になっている。これがサイバー・パンデミックのメカニズムなんだ。

ディスプレイ上は、ほとんど真っ白に変化。もう、なす術がなかった。

アメノウズメ作戦の完敗だった。

サイコは「サイバー空間がリアル空間になって、そのサイバーがリアルを攻める」とか、「全人類がデリートされる」とか断言した、IQ256のハッカーの言葉をあらためて噛みしめていた。

―ひょっとすると、こんな事態が起こることを示唆していたのかもしれない。

ハッカーの放った謎掛けは、実は予言だったのだ。

これで3連敗した中嶋本部長は唇を噛みしめ、またもやジッと耐えるしかなかった。



4・3  首都東京、放棄

その頃、MOVAで東上中のボクたちは、アマチュア無線で非常通信を試み続けていた。ただ、無線機の緑色LEDがチカチカ点滅を繰り返しているだけで、なかなか応答が来なかった。

それでもオヤジは諦めなかった。でも声が徐々に上ずってきた。

「・・・これは訓練ではない。こちらJP32YZR、ポータブル1。名前は江藤。英語のエ、東京のト、上野のウ、エトウ。現在、国道1号線を走行中。日本のサイバー危機への対応で上京するため、緊急援助を求める。応答をどうぞ。・・・・・・・・・・もう一度繰り返す。こちらJP32YZR、ポータブル1・・・・・」

7回目のコールで、ようやく応答があった。

「JP32YZR、ポータブル1。こちらJQ12GDI、満田と言います。三笠のミ、千鳥のチ、煙草のタ、ミチタです。初めまして。杉並区荻窪からの送信です。お手伝いすることがあれば、何なりとおっしゃって下さい。エトウさん、どうぞ」

「よっしゃ、来よったで」

とオヤジ。

諦めかけていた時の応答は、うれしかった。しかも落ち着いた声なので、安堵した。

挨拶もそこそこにして、情報交換が始まった。ボクたちは道中で見聞きしたことを伝え、満田さんからは首都圏の惨状が明らかにされた。

「荻窪辺りでは、ドローンが飛び回っているんです。それが異様な飛び方でしてねえ。YZRさん、どうぞ」

「了解。・・・了解しました。どう異様なんやろうか? ミチタさん、どうぞ」

「了解。・・・複数のドローンが一列に飛んでいるかと思えば、次の瞬間、一斉に散開したりしてねえ。見事にシンクロしているんです、どうぞ」

「了解。・・・勝手に飛び回っているんやなくて、誰かに、コントロールされているんやないですか、どうぞ」

「そうかもしれません。でも先頭を飛んでいる一番大きなドローンが仕切っているようにも見えるんです、どうぞ」

「仕切っとるって。ドローンが、ドローンを仕切っとるとでも言うんでっしゃろか? あんたねえ、そんなアホなことって。どうぞ」

「でもそうとしか見えません、どうぞ」

「ミチタさんねえ、ドローンや言うても、機械でっせ。どっかの誰かが仕切ってるに決まっとるやないですか」

「いや、それはどうかと・・・」

ボクは思い当たるところがあって、その会話に割って入った。急にマイクを奪われたオヤジは不満気だ。

「ミチタさん、YZRの息子の江藤飛雄と言います。ちょっと教えていただけるでしょうか?」

「ハイ、息子さんですね。どうぞ、どうぞ、こちらJQ12GDI、満田です」

「複数のドローン、とおっしゃいましたが、それらの型は同じでしょうか、それとも別々でしょうか? ミチタさん、どうぞ」

「大きさも、形もバラバラです。それだけ見ると、烏合の衆ですけど。それが何か? トビオさん、どうぞ」

「もう一つお伺いします。ドローンは趣味用の小さいタイプですか、それとも業務用の大型でしょうか?」

「趣味用の小型は、オモチャみたいでしたねえ。でもカメラが付いた空撮用もあれば、産業用の大型のドローンも混じっていました。まちまちです」

「産業用も?」

「測量用とか、地形調査用のドローンですねえ。それと農業用のものもありました。おなかの部分にタンクを抱えていたので、あれは農薬散布用か、種まき用でしょう。それと警備用ドローンは、投光器とCCDカメラが付いているからすぐにわかります。配送用ドローンも、プロペラが大きいので見分けがつきます。バラエティには、富んでいましたねえ」

―やっぱりだ。

とボクは思った。ただ、畳み掛けて聞いてみた。

「さらに一つお伺いします。色とかデザインとかはどうでしょうか?」

「それもバラバラでした。確か、赤、白、黄色。それと黒色とか蛍光色のやつも。ツートンカラーもありましたねえ。デザインも多様です。売れ筋の中国製はデザインでわかりますし、それと日本製・韓国製もありました。でもトビオさん、それがどうかしたんでしょうか? YZRさん、どうぞ」

―もう間違いない。

疑いは確信に変わった。

―やっぱり。バラバラのところから来た、バラバラのドローンが、ドローン同士で連絡を取り合って動いているんだ。M2Mだ。人間の手を離れて、自動でシンクロナイズしているんだ。仮に、誰か人間が仕切っているんなら、ドローンをわざわざ不揃いにする必要はない。

さらにボクは、

「重ねてお伺いします。ドローンによって、何か被害が出ていますか? どうぞ」

「大いに実害が出ております。ドローンが人間を襲うんです。特に歩きながら携帯端末を使っている人への被害が大きいです。突然、上空から急降下したドローンに突っ込まれたり、回転翼で頭をたたかれたりしております。大型のドローンはそれ自体が殺傷力を持っていますから、切り傷、打撲、下手をすると内臓破裂を起こしたりします。こんな状態ですから、救急搬送も満足にはできません。手遅れになった犠牲者も増えています。通り魔です、通り魔ドローンです」

―通り魔と言っているが、これではもう、通り魔殺人ドローンだ。しかも組織的に動いている。これはコネクティッドされているに違いない。携帯端末を使っている人を襲うんだから、そうに違いない。

ボクはミチタさんにお願いした。

「JQ12GDI、ミチタさん。お願いがあります。今、ボクたちは圏外状態でまったく外部に連絡が取れません。ミチタさんのハム仲間を通じて、東京が非常事態であること、日本全体が非常事態になりかけていることを、全国に伝えて欲しいんです。それをできるのは、今はアマチュア無線のハム仲間しかありません。どうぞ」

「了解。・・・了解しました。もう連絡をしております。札幌のJK81PPKさん、仙台のJL76LQTさん、金沢のJW98COTさん、松本のJQ06GOTさん、名古屋のJM26OFRさん等、全国津々浦々の仲間と連絡を取り合っています。その他にもCB無線局や簡易無線局、パーソナル無線局、漁業無線局などの協力も得ています。でも最後の頼みは、口コミです。自転車を使った人海戦術もして、情報共有を図っています。ルートは完璧です」

―心強いことだ。

ボクもオヤジも安心した。

「それとドローンについては、まだお伝えしなければならないことがあります」

「まだ、何かあるんですか?」

「立川にいるハム仲間からの情報ですけれど、ちょっと前に、政府専用ヘリコプターがドローンの大群に襲われたという情報があります」

「襲われた? それが政府専用ヘリなら、必ずVIPが乗っているんじゃないですか?」

「そうかもしれません。未確認情報ですけど、ヘリは官邸から飛び立って、立川広域防災基地へ向かう途中にやられたようです」

「ヘリが官邸から飛び立った!」

その言葉を聞いたボクは、心臓が止まるかと思った。

国の緊急災害対策本部は、通常は官邸内に設置されるように定められている。でも官邸が機能せずに使えない場合は、中央合同庁舎か、防衛省かに移動することになっている。そして、それも被災して使えない場合は、最後に立川に代替されることとなっている。

職業柄、JACO所属のボクには、未確認だというその情報だけで、事態の深刻さが飲み込めた。

―きっと官邸の施設が機能しなくなったんだ。中央合同庁舎も、防衛省も、ダメになったんだ。危機管理センターも然りだ。だから首都・東京を放棄して、立川へ移ろうとしていたんだ。

加えて、ボクが懸念したことがある。

―政府専用ヘリがやられたということは、官邸の幹部たちの安否が心配だ。だれが乗っていたんだろうか。

懸念が懸念を生み、ボクの頭の中では、懸念の連鎖反応が起った。

―もし、政府専用ヘリのコールサインがSDF1(セルフ・デフェンス・フォース・ワン)なら、総理の搭乗ヘリということになる。もしそうなら、総理の身にも重大な危険が迫っていることになる。和久井補佐官や中嶋本部長たちのことも心配だ。そしてサイコのことも。これは国家の存亡にかかわる一大事だ。でもまさか、あのSDF1が襲われるなんて、そんなバカなことってあるはずが無いよなあ。これが杞憂であることを祈るばかりだ。

ボクの見立てを、ミチタさんに明らかにする時がやってきた。

「JQ12GDI、ミチタさん。こちらはJP32YZR、ポータブル1、江藤です。聞こえますか?」

「はい、こちら満田。感度良好です」

「色々と貴重な情報、ありがとうございました。ちょっと長話になりますが、大事なことをお伝えしなければなりません。今、そちらの方で起こっていることは、とても見過ごすことはできません。これら一連の事件は、AIドローンによる機械組織ネットワークとしての犯罪と思われます。政府専用ヘリを襲ったのもAIドローンでしょう。しかもそれらは単なるAIドローンではなく、人間を殺しかねない“コネクティッド・ハンター”です。ネットワークに接続されている情報ディバイスを、ことごとく狙い撃ちにしているようです。だからミチタさんも、ぜひ気をつけていただいて・・・」

と説明しかけたところで、ボクは話すのを止めざるを得なかった。MOVAのはるか前方に、黒い霧がわいていることに気付いたからだ。しかもその黒霧は、こちらへ迫ってきている。

「トビオ、あれは何や。どんどん、デカなっとるやないか」

その黒霧に、横のオヤジも気づいたみたいだ。

「・・・いや、いや。あれは、大きくなってきているんじゃない。近づいて来ているんだ」

「近づいてきてる? こっちへ近づいて来とるっちゅうんか?」

「・・・そう、こっちへ向かって・・・来ているんだ。・・・まっしぐらに・・・」

「そうや・・・ほんま、一直線に来よる・・・」

黒い霧は、ボクたちの目前にまで近づいて来ていた。

ボクもオヤジも頭がロック状態になり、思考停止してしまっていた。

霧のように見えたかたまりは、霧の粒々が見分けられるようにまで近づきつつあった。その一粒、一粒がこちらへ向かって飛んで来ていたのだ。

もう明らかだ。

「・・・あれは・・・普通の霧なんかじゃない・・・」

オヤジも同じように、

「そうや、あれは、あれは・・・霧とはちゃうで」

「黒霧じゃない、あれはドローン、AIドローン、いやコネクティッド・ハンターだ。ボクたちを殺しに来たんだ。来るぞ、来るぞ」

先頭を飛ぶ一基は、熊ほどの大きさの超大型ドローンだ。グウォーンと、プロペラが空気を切り裂く音が、すぐそばまで迫ってきた。

「わあ~~、来よった、来よった。助けてくれ、こちらJP32YZR、JP32YZR。ドローンや、殺人ドローンが来よったんや、だれか、だれか、だれでもエエから助けてくれ・・・・・ああ、もうアカン、もうアカンわ。あっ、あっ、だれか、だれかはよ来てくれ・・・・・」

「YZRさん、エトウさん、どうしたんですか、至急応答してください、こちらJQ12GDI、至急応答してください。どうぞ」

「・・・・・・・トビオ、切るんや、スイッチや、早う切れ、チャうがな、無線機やない、MOVAの方や、アアッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「こちらJQ12GDI、エトウさん、応答してください、どうしました? 応答をどうぞ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「こちらJQ12GDI、大丈夫か、大丈夫か。応答せよ、応答せよ。どうぞ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」



4・4  中嶋本部長、行方不明

大ホールで、和久井補佐官が大声で宣言をした。

「公邸の危機監理センタ―は放棄。直ちに立川へ移動。そこに臨時の緊急対策本部を設置する。関係者は各自で移動し、1時間後に現地集合のこと」

サイコは、立川に設けられた緊急災害対策本部へ向かうヘリコプターに搭乗するJACO本部長の中嶋を公邸・玄関で見送った後、自席に戻った。

「お留守番は頼んだよ。立川への移動は、あくまでも緊急避難的措置だ。だからすぐに戻ることになるしね。その時、直ちに仕事ができるよう、準備を怠らないように」

と、その時に交わした中嶋の言葉が、最期の言葉になるとは想像すらできなかった。

緊急連絡は防衛省から入った。第1報は、


「SDF1、遭難。詳細は調査中。続報を待機せよ」


という、ごく簡単なものであった。

それをサイコは元銀行マンと2人で、公邸大ホールの元危機監理センターの自席で知った。

―SDF1だって! 政府専用ヘリのコールサインがSDF1なら、総理の搭乗ヘリだ。総理ご自身が事故に遭われたんだ。でも、政府専用ヘリともあろう機体が、なぜこのタイミングで事故に遭うんだろう。一体何があったんだろうか。

ただ緊急連絡から何十分経っても、続報は入って来なかった。

心配が募ってきたサイコ。

―さっき本部長が乗ったヘリも、SDF1だったんだろうか。もしそうならば、本部長も遭難したことになる。でもまさか、そんなことって。

焦れたサイコは、公邸に残っている乗客・乗員名簿を調べ始めた。姓名・性別・住所などが、乱雑な手書きで記された名簿を見た途端、サイコは馴染みのある複数の名前を発見した。

それはWakui、Nakajimaとなっていた。

―ああ、やはり2人ともSDF1に同乗していたんだ。これは大変だ。神も仏もないものか。

と天を仰ぎ、神仏を恨んだ。

名簿には、総理、官房長官、副長官と共に、和久井補佐官と、直属上司である中嶋本部長の名前が連なっていた。

もう疑う余地はなかった。日本が直面しているサイバー危機を打開すべき人々全員が、難を免れなかったのだ。

―でもまだ望みは残っている。ヘリが遭難したとの情報だけで、別に犠牲者が出たという話ではない。どこかに不時着しているのかもしれない。首相が乗っているヘリが、まさか墜落したりはしない。まあ大丈夫でしょう。

と何の根拠もないままに、希望的観測をして自分を無理矢理に安心させていた。

第2報が入ったのは、それから暫くしてからのことであった。


「SDF1は立川広域防災基地手前で着陸に失敗。周辺地域への大きな被害は無い模様」


と遭難の詳報があった。

サイコはかつて訪問したことのある立川広域防災基地のことを、思い浮かべていた。

―周辺に大被害が無かった、というのはホント良かった。着陸失敗という情報なので、ヘリが落ちた、という報告ではない。

これは不時着である、というサイコの先入観を覆す情報ではなかったので、まだまだ安心していた。

それでもサイコは、

―それにしても、あれだけ広大で視界も開けている基地への着陸を失敗するって、余程のことかしらねえ。今日は天気も悪くなかったし。パイロットはどうしちゃったのかしら。操縦ミスかしらねえ。

と、操縦の方ばかりに気をかけていた。

ただ第3報は、サイコの楽観的な思い込みを完全否定するには、十分な内容であった。


「乗員・乗客は7人。複数名の心肺停止者がいる模様。内1名は総理。現在、緊急搬送中。周辺地域では火災発生」


突然の悲報であった。もう最悪の事態をも、覚悟しなければならない、

―ええっ、心肺停止? 心肺停止って?! 総理が心肺停止って!

政府を司る官邸の面々が危機に瀕している。その中に内閣の首長たる総理が含まれている。それだけで、国家の中枢機能を直撃する重大事故だ。それが高ずれば、日本社会が絶対的混乱に陥りかねない。

―それとさっきは「周辺に大被害はない模様」だったのに、現在の情報では、「周辺に火災発生」となっている。そうすると被災した住民がいる可能性がある。

刻一刻と状況が悪化。サイコの楽観は、絶望に変わりつつあった。

緊急時における情報伝達の難しさは、JACOも十分理解をしており、リスクシナリオも準備していた。また処置や対応も検討していた。だが現実は想定を越え、最悪のさらに最悪に至っていた。

―事態をコントロールできるのかしら。もしコントロールできなかったとすると、大変だ・・・。それにしても、もっと情報が欲しい。ビジュアルな情報は、入ってこないのかしら。

情報不足のために悲観が悲観を生み、絶望が絶望を生むチェーン・リアクションになっていた。

「ねえ、動画でも静止画でも良いから、何とかして手に入れて・・・」

と元銀行マンへ頼もうとして、ふと気付くと、彼の姿が見えなくなっていた。

―ハァ~っ? さては、怖くなって逃げ出したんだな。

ため息しか出なかったサイコ。ただ、彼の行為をなじる気にはならなかった。

―彼はきっと家族思いの人だったんだ。

と無理矢理に納得した。自分も恐怖にかられて、丸ごと投げ出したくなる心境になっていたからだ。

―ここにいても、本部長が帰ってくるかどうかわからないし。もう戻ってこないかもしれない。そうなるとお留守番をしていても無意味だし。アタシも、ここで何もできない、どうすれば良いのか・・・。同じように逃げようか。

絶望が、サイコの迷いに拍車をかけた。

―あの時、皆で懸命に勉強したJACOの訓練は、何だったんだろう、何か役に立ったんだろうか。パートナーのミスターJACOがここにいてくれれば良いのに。そしてミスターに、ギュッとハグされたら安心するのに。

メンタルは、訓練ではなく、修羅場を踏まないと鍛えられない。

―こんな簡単ことに、今までどうして気付かなかったのだろう。

と後悔した。

トビオのことを考えながらも悲嘆に暮れていた時、サイコにダメ押しの第4報が届いた。


「総理・官房長官・副長官は死亡が確認。補佐官は意識不明の重体。本部長は行方不明。操縦士・副操縦士も心肺停止」


最悪の事態以上の過酷さであった。まるで映画を観ているかのような現実感のなさ。小出しの情報ながら、一挙にどん底に突き落とされたサイコは、

―首都圏がなくなるかもしれない。

余りのショックで、不覚にも一人ぼっちの自席で落涙した。泣き声をあげて泣いても、誰が聞いている訳でもない。だから無人と化したセンター内で、オイオイと大声で泣いた。でも、ひとしきり自分の運命を思い詰めている内に、涙も枯れ果てて来た。

そして、泣き止んだサイコの顔付きは一変。

―もうこうなったら、アタシが一人でやるしかないんだ。泣いている場合じゃないんだ。神か仏がアタシに授けてくれた試練なんだ。

自戒して、気持ちを切り替えたサイコは、覚悟を決めた。泣き顔は、憤怒の形相に変わっていた。

サイコは、すっかりミスJACOになっていた。


「SDF1墜落・炎上の原因は、ドローン攻撃」


第5報の段階になって、ようやく映像が入ってきた。立川広域防災基地の監視カメラからのものだ。

上空を飛ぶ大型ヘリが、全速力でカメラの方向へ向かって飛んで来る様子が映っていた。SDF1は、雲一つない快晴の青空に、まず黒い点として現れた。遠く過ぎてエンジン音は届いていないが、順調に降下中の様子だ。

やがて、衝突防止灯の白ストロボが点滅して見え始めたと共に、胴体の日章旗がはっきりしてきた。鮮やかな日の丸が付けられていることで、

―この機体がSDF1なんだ。

とサイコは理解した。

エンジン音が少しずつ大きくなると共に、基地を一回りしてゆっくりと着陸態勢に入ろうとした。その時、反対側から黒い霧のような影が、わき上がるように現れた。

そしてその影がSDF1をすっかり覆い尽くした途端、機体は緩やかに回転しながら真っ逆さまに墜落。墜落の瞬間、乾いた衝撃音に続いて、メインローターを失ったガスタービンエンジンだけがウィーンと高速で空回りする異音をさせて、重さ10トンの機体はもんどりを打った。周辺には地面と激突したメインローターのブレードが飛び散り、折れた尾部がぶっ飛んで転がり、ドアが引きちぎられて乗員・乗客全員が外に放り出された。

胴体に押しつぶされたり、ローターに巻き込まれたりする乗員と乗客。

ひっくり返った巨体は、原形をとどめずに大破した後に、ドゥ~ンという大音を何度も響かせて爆発。3㎥もの燃料に引火した炎が、火砕流のように周りへ飛び火し、住宅地を火の海にした。

―こんな大惨事なら、五体満足でいる方が不思議だ。

サイコは目を丸くした。

そのドゥ~ンという爆発音と、危機監理センターのドアがドゥ~ンと勢いよく閉じられる音が、サイコの耳に同時に聞こえた。

驚いたサイコがドアの方向へ振り向くと、そこには江藤飛雄、つまりボクが立っていた。



4・5  再会

ボクがオヤジと一緒に永田町へ帰京したのは、大阪を出発してから3日目のこと。草木も眠る26時過ぎだった。体力的にも精神的にも、一番キツい時間帯であった。正面玄関にMOVAを乗り捨てて、センターに急いだ。

危機監理センターと表示された、重厚なドアを押し開けて入室。開いたドアは、ドゥ~ンという大音をたてて閉じた。

ボクはサイコを久々に見た時に、「こいつは亡霊か」と思ったほどだ。

公邸のサイコは髪も着衣も乱れ、頬は痩せこけ、肌は荒れ放題。一気に20歳も老けて見えた。ただ、眼に力がみなぎっていたことが、不気味であった。

ボロボロにやつれ果てた姿は、3日間、熟睡もせず、食事もろくに摂らずに、この場所を独りで死守していたことを物語っていた。机といわず、ソファーといわず、ごみ箱といわず、そこら中に菓子袋、ペットボトル、ドリンク剤のビン等が散乱。ここで、懸命に食い繋いでいたことがわかる。

「サイコ」

「トビオ君っ・・・」

気丈なサイコの泣きべそを目の当たりにして、それ以上の言葉は邪魔であった。

ボクは黙って、サイコをしっかりと抱きしめてやった。

当然と言えば当然だ。それだけで気持ちが通じ合い、二人だけの別世界に没入していた。横にいたオヤジが、妙な咳払いをしたことにも気づかなかったほどだ。

ちょっとロマンチックになりかけた。そのタイミングでサイコが、

「・・・トビオ君、それにしてもその無精ヒゲを剃らないと。それと臭うわよっ」

と冷静なコメントを寄こした。

「えっ。はぁ、そうだ」

人のことを言える場合ではなかった。ボクもオヤジも、負けず劣らずボロボロだった。

お互いに、この3日間について情報交換をし合った。サイコはアメノウズメ作戦の失敗のこと、SDF1墜落事故のことを話した。ボクは道中で見聞きしたことを話した。

「日本存亡の危機が、そこに迫っているんだ」

共通の認識が確認できた。


墜落の原因は、AIドローンの一団による攻撃だ。映像がその証拠だ。

それらは、吸気口からローター機関部へ入ってエンジンを停止させ、揚力を奪った。バードストライクと同様のメカニズムだ。またテールローターに絡まって、トルクを0にした。

ヘリの持つ致命的な弱点が狙われ、コントロール不能に陥ったことが、直接の原因だ。

「それにしても・・・」

ボクは思い出しかけていた。

「それにしても、ってっ?」

サイコが、そっくりそのまま繰り返した。

「そうだよ。それにしても、どうしてAIドローンは、SDF1を襲ったりしたんだろうか」

サイコは、力なく首を横に振るだけであった。

ボクは箱根の山を、東京へ向けて駆け下りていた時のことを考えていた。

―あの時も突然、沢山のAIドローンが出現したよなあ。でもオヤジが「スイッチを切れ」と叫んだのを、MOVAのスイッチではなく、MOVAも無線機も両方のスイッチと勘違いして切ったんだった。そうすると、不思議にもコネクティッド・ハンターが雲散霧消、消えてなくなったんだよなあ。ついでにハムの交信も途絶えたけど。

「あの時に、ドローンが消えたのはどうしてだろう?」

オヤジは、

「あの時のことか? それを聞きたいっちゅうんか? そうか。あの時はなあ、危機一髪やったんや。あれが、本当の機転を利かすっちゅうもんやで」

と解説をし始めた。初対面のサイコの前で得意満面でしゃべるのが、ボクは悔しかったけれども。

美少女は世代を超えて、世にはばかる。


その話を横で静かに聞いていたサイコが、突如ディスプレイに向かって、キーボードを叩き始めた。何かアイデアを思いついたようだ。ブツブツとつぶやいている。

「そうねえ、やっぱり訓練通りにやるしかないわねえっ」

まずサイコは、あのアメノウズメを手際良く起動。

ボクはその画面を凝視した。

―さすがだ。でも、さっきの話じゃあ、アメノウズメ作戦って失敗したのでは?

ちょっと心配になった。だが、ボクの目は画面に、耳はオヤジの話に集中していた。


オヤジは昔話を、夢中になって語っていた。

「若い頃の話しやけど、無線機もテレビもステレオ機器も真空管っちゅう代物でできとってなあ。これがよう故障しよるんや。テレビも真空管やでぇ、横シマがしょっちゅう入るし、チラチラするし。これはもう完全に逝きよったなって、諦めかけるんや」

―ボクはまた、3極管か5極管かの話を聞かされるのではないかと、内心ウンザリした。

「そんな時は、どうしたらエエと思う? 今みたいに、買い換えるんとはちゃうで。分らんやろうなあ、そんな時はなあ、テレビをバンバン叩くんや、思いっ切りやでぇ」

確か、その話にも聞き覚えがあった。でも初めて聞くふりをしないと、オヤジは機嫌を悪くする。だから、へえ~、とか、まぁ~とか生半可に相槌を打っていた。

「それで横シマが見事に直ったりするんや。叩いたら直るんや、不思議やろう。多分どっかの接触が悪かったんやろうなあ、昔はハンダでつないでたからなあ。ええっ? ハンダも知らんのか、しょうないなあ。そのハンダが浮いてきよるんや」

簡単に終わりそうもないオヤジの話。ボクはサイコの方が気になって、耳から目へ、神経を集中した。


他方、アメノウズメを起動したサイコは、

―そうか、サイコはアメノウズメの一部を切り取って、利用しようとしているんだ。

ボクの目にも、少しは馴染みがあったアメノウズメ。

今回の作戦ではマルウェアに憑りつかれて、逆にその亜種に変化。つまりアメノウズメがウィルスに変わってしまったので、作戦は失敗したのだ。

しかしながら、確かにそれ以外の部分は活用可能だ。

ディスプレイに注目していると、どうやらアメノウズメの中で、ウィルス検出機能のみを有効化しようと、サイコはプログラムの分離を図っているようだ。

―だけど、それでどうしようって言うんだろうか。

キーボードがバチバチと、乾いた音をたてている。


片や、オヤジは続けて、

「それに比べて、最近の伴天連の機械はほんまにイカン。叩いても、蹴っても、ウンともスンとも言わんのや。こりゃあ、どもならン」

また伴天連か、と諦めた。

「しかしなあ、叩いても直らんかったらどうすると思う、なあ、どう思う」

首を傾げて、さあ~、としか受けようがなかったボク。その、さあ~がオヤジの口調に火をつけた。得意顔になって、

「わからんやろうなあ。教えたるわ、そんな時は切るんや。スイッチやないで、コンセントからやで。電源コードを引っこ抜くんや。そうすると元通りなんや」

ボクとサイコは思い当たる節があって、一瞬目を合わせた。

「あの時は、MOVAをドローンが狙っとったんや。情報ネットに接続しているもんを全部狙っとったんや、だからスイッチを切れと言うたんや」

ボクとサイコは、お互いに微笑み合った。

同じことを考えていることが、わかったからだ。

「出始めのパソコンも、そうやったやろう。あの頃のパソコンは、全部国内で造られてたんやけどなあ。今はほとんど国外に変わりよった。それはしゃあないとして、リセットボタンっちゅうのが、わざわざ付いとったんや。リセットボタンやで。まあ、よう固まったけどなあ。最近は気取って、フリーズっちゅうんやてなあ。そんな時は、すぐリセットボタンや。叩いてもアカンときは、リセットボタンや」

いつの間にか、サイコは手を止めて聞き入っている。ボクは、サイコの心を感じていた。

―リセットだ。リセットが良いのかも知れない。こうなったら、これしかない。オヤジも捨てたもんじゃない、たまには良いことを言う。

ボクは確信を深め、本気モードに入っていた。横のサイコも、繰り返し大きくうなづいていた。


一方サイコは、アメノウズメから分離することに成功した検出プログラムを手にしていた。それを使い、SDF1が襲われた時間に立川付近を飛行中のAIドローンを、GPSのデーターと照合。

該当するIPアドレスを検出した。

「すごいわねえ、500基ほどが飛び回っていたようね。こんな沢山の群れに、一時に襲われたら、ひとたまりもないわねえっ」

きっと遺書を書く暇もなかったに違いない。その時の中嶋本部長の恐怖感を思うと、言葉にならなかった。

―でも、誰がそれをコントロールしていたのだろう、それが犯人の特定につながる。あと一歩だ。そこにある事件の核心に、ボクたちは迫っているんだ。

緊張感がわいてきた。

同時にボクには、イヤな思い出もよみがえり始めていた。

―ああ、思い出した。小学生が真犯人だったんだ。なんと忌まわしい事件だったんだろう。それでボクは、とても痛い目にあったんだ。人生の汚点だ。あれは悪夢のような、ネットなりすまし詐欺事件だった。

目をギュッとつむって、何とかして記憶を振りほどこうとしても、ぐいぐい頭に絡みついてくる。

―ダメだ、ダメだ。IPアドレスだけで判断しては、間違うんだ。ちゃんと動かぬ証拠と、証言が要るんだ。それなくしては、軽々に動いちゃいけない。もう2度と同じ間違いを繰り返せないんだ。次はない。許されないんだ。

それが鮮明に浮かんで来るとともに、あの時の苦しさが脳裏に浮かんできた。息が苦しくなり、目の前が真っ暗になり始めた。核心に迫れば迫るほど、トラウマが頭をもたげて来る。どうしようもない悪循環に陥りつつあった。

―もうダメだ。これ以上は無理だ。

弱気で、過度に慎重になった自分が、幻のように傍に現れた。その幻がボクにささやく。

「これ以上、頑張らなくても良いじゃないか。上司も行方不明なんだし、ここで終わりにしても、誰にも咎められない、そうだろう」

そのささやきを聞くと、ネガティブな気持ちがおさまらなくなった。

―助けてくれ、もう一杯一杯で、耐えられない。思い出が粘りついて来る。

ボクは、立っているのがやっとだった。その場に泣き崩れればどんなに楽か、とさえ思ったほどだ。

「サ、サイコ。もう、もう、ここで止めようよ、な?」

「えっ、こんな時に何を訳の分からないことを言ってるのっ?」

足からフロアに崩れ落ちそうになりながら、サイコに懇願した。

「もう、もう止めようって、言ってるんだ、わかるだろう」

「こんなところで止めちゃあダメよ、日本はどうなるのっ!」

上手くロレツが回らなくなっていた。感情があふれてきて、過呼吸でヒーヒー言っている。

「もう、もう十分じゃないか。これ以上こだわって、今さら誰が得をするって言うんだ。もうおしまいなんだ。サイコならわかってくれるだろう、な?」

「トビオ君、顔が真っ青よ、どうしたのっ」

「もうダメなんだ、これ以上はダメなんだ」

意識が混濁してきた。

「トビオ、どうしたの。それでもあなたはミスターJACOなの、そんなことで良いとでも思ってるのっ!」

サイコが飛ばす檄が、遠くから聞こえるように感じてきた。

「もういいんだ、ボクはミスターなんかじゃないんだ。元々そんな器じゃない。そんな大それた異名は、即、返上するよ。ボクのことに、これ以上構わないでくれ」

「トビオっ・・・」

それっ切り、サイコは反論してこなかった。さすがのサイコもサジを投げたようだ。ボクには、サイコの声がはっきりとは聞こえなくなり、その姿も揺らいで見えてきた。

―サイコの姿が、あんなに小さく見える。

もう目もかすんで、見えなくなってきた。

代わってボクの瞼には、重体と伝えられた和久井補佐官の姿が浮かんできた。補佐官はボクに向かって拳を振り上げていた。それはボクを励ましているように見え、また「お前が、何とかしろ」と、怒りをぶつけているようにも見えた。

ボクはそんな補佐官に対して、

―補佐官、すみません。もう限界です。ボクは、江藤飛雄はここまでです。

と最敬礼をし続けた。1分間、2分間、3分間と、首を垂れ続けた。もうこれが現実世界か、非現実世界かもわからなくなった。

再び顔を上げると、今度は行方不明の中嶋本部長が目の前に立っていた。本部長は苦悶の表情を浮かべていた。その顔を見たボクはもう直視できず、涙があふれ出した。

―本部長、本部長。お助けできなくて申し訳ありません。不甲斐ない自分をお許しください。

心で本部長の無事を祈った。するとスッと本部長の姿は消え去った。

代わって現れたのは、ネットなりすまし詐欺事件で迷惑をかけた、地元自治体の上司であった。

思わず、

―えっ、どうしてこんな遠い東京まで来ておられるのでしょうか。

その時ボクは、リアル空間とサイバー空間との間隙に、きっと落ち込んでいたのであろう。かつての上司は心配顔であった。何かボクに話しかけようとしていた。でも聞こえなかった。

その仕草を見て、かつての上司から贈られた言葉があったことに気付いた。

その大事な言葉を、何とかして思い出そうとした。

―何だったんだろう、あの言葉は。確か、厳しい言葉だったよなあ。それでハッパをかけられたんだ。思い出せそうで、思い出さない。何だったんだろう。

上司の声は聞こえないが、唇の動きは見えた。それは、まず「ド」から始まり、次に「コン」と続いていた。

―ド、コン、それと何だったんだろう。ド・コンから始まる言葉だ。ド・コンじゃない、ドコンでもない。思い出さない。

その時に横にいたオヤジが、急に口をはさんで来た。

「お前なあ、お前をそんな意気地なしに育てたつもりはないで。ここはお前のド根性を見せるときや、わかっとんのか、トビオ!」

オヤジによって現実世界に引き戻されたボクは、ハッと気付いた。

―そうだ、ド根性だ。それだ。

確か「ド根性」という言葉を、かつての上司から投げつけられたことがある。上京するきっかけとなった言葉。それが「お前の、ド根性を見せる時だ!」だった。それはとても手荒いけれども、上司なりの、花向けの言葉だったのかもしれない。

―思い出した。その言葉に押されて、ボクは東京にいるんだ、JACOへ来たんだ。

今、その言葉は上司からではなく、オヤジから強く言われている。

横のサイコも心配顔でボクの顔を覗き込んでいた。

―ド根性だ、ド根性だ。ここはド根性で乗り切らないといけないんだ。

時と場を超えて、「ド根性」という言葉が、ボクの心に響いた。

―もう迷っている場合じゃない。ここで踏ん張らないといけないんだ。ここで頑張れば、あのなりすまし事件の汚名が返上できる。名誉挽回できるんだ。

ボクの気持ちが、弱気モードから、ド根性モードへ切り変わった。


「よしっ!」

と自分に気合いをいれて、ボクは気持ちをインストールし直した。

サイコは立川広域防災基地に一番近いところにある、公衆無線LANを利用していた。それは駅に隣接したカフェにある「@12CAFESPOT」と名付けられたルーターであった。大胆にも暗号キーを検索して、コネクトに成功。

そこを踏み台にして、AIドローン検索するつもりだ。

さっそく成果が上がった。

「トビオ、わかったわよ。AIドローンのIPアドレスは“drone.192.361.33.xxx”ってなってるっ」

ボクはすぐさま、

「そのドローンのナビゲーションデーターと持ち主を、ポートからダウンロードしてくれ!」

「了解っ。ナビゲーションデーターによると、このdrone.192.361.33.xxxが同時刻に、立川周辺を飛び回っていた。きっとこれがSDF1を襲ったAIドローンの内の、1基ね。このドローンは周辺の営農者の持ち物よ。農業用か何かだから、所有者が犯人とは考えにくい。別の真犯人が、どこかにいるっ」

「今、そのドローンはどんな状態だ?」

「元の所有者のところへ戻って、翼を休めているよ。静かにしていて、止まっているっ」

「じゃあ、SDF1を襲ったのかもしれないけれど、突入したドローンじゃないよなあ」

「ちょっと待ってね。その時一緒に飛んでいたドローンで、政府専用ヘリの墜落現場に、いまだに留まっているのがある。それを調べようっ」

「よし。頼んだ!」

しばらくすると、

「わかった。GPSで照合したから間違いない。drone.172.221.334x4xptという別のIPアドレスのドローンを見つけた。ステイタスはコネクティッド状態にあるけど、現場で動けないみたい」

「それだ。そのドローンがSDF1に突っ込んで、墜落させた憎っくきドローンだ。CPUは生きてるから接続中だけど、プロペラか、モーターか、何かが壊れて動けないんだ。そのIPアドレスは、どこからコントロールされていたのか、調べられるか? それが真犯人だ!」

「う~、難しいけどやってみるっ」

再びキーボードとディスプレイを相手に、にらめっこし始めたサイコ。首をコクン、コクンしながらも懸命だ。

―健気なサイコ。助かった。

ボクは寡黙に感謝した。その時、サイコは振り向いて、

「わかった。コマンドの主がいる。でもっ・・・」

「でも、って何だ? それが誰だか、分かったんだろう」

「う~ん、そうなんだけど。でもコマンドの主は、一人でも、一か所でもないようなのよっ」

「どういうことだ、特定できないのか?」

「それなんだけど、特定の誰かから出ているんではなくってっ・・・」

「特定の誰かではなくってっ・・・って言うと、何なんだ?」

「そう。コマンドはねえ~、コマンドは特定の誰かからではなくって、全部から出ているのよっ」

「???」

「つまり、コネクティッドされている全部の情報ディバイスから、無数のコマンドが出ていて、そのコマンドがAIドローンも含めて、全部の情報ディバイスに対して勝手気ままに指令を出しているのよっ。それで無差別に攻撃がされているのよっ」

まるで禅問答だ。

でもM2Mである以上は、論理的にはあり得る。

「つまり、コネクティッドされている全部が、影響し合って動いているっていうことになるのか?」

「そう、その通りっ」

「とすると、特定のドローンや、特定の犯人をとっ捕まえても、無駄ということになる。代わりのディバイスが、それに置き換わるだけだからなあ・・・もう一度聞くけれど、コネクティッドされている全部っていうのは、情報ディバイス全部、つまりIT機器だけじゃあないっていうことだな?」

「そうなの、パソコンはもちろん、スマホも、AI冷蔵庫も、AI調理器も、交通信号機も、オフィスの複合機も、医療機器も、みんなそうなのっ」

「とすると、お掃除ロボットも、MOVAも、それとペット型ロボットもそうなのか?」

「もちろん。家でも、ビルや工場、病院でもあるのよ。飛行機も衛星も同じ。IPアドレスが割り振られて、ネットワークでつながったセンサーやプロセッサーを持つ、あらゆるディバイスが全部、つながり合って危険なのよっ」

それを聞いたボクは、両手を高々と突き上げて、万歳のポーズをとった。お手上げ状態だ。

そんなディバイスは、この2045年には数百億以上に拡大しているからだ。

―もはや、ド根性もこれまでだ。これが予言されたシンギュラリティなら、観念するしかないのだろうか。

その時のこと、オヤジが口をはさんで来た。

「さっきも言うたやろう、ハタいてもアカンときは切るんや。電源コードを引き抜くんや、リセットで一発や!」



4・6  グレイト・リセット

もう最後の手段だ。オヤジから投げかけられた「リセットで一発」という言葉で、方針が決まった。

でもボクは考えあぐねていた。

「でもディバイスの1つ1つをリセットすることなど、多すぎて不可能だ。具体的にはどうすれば、リセットできるのだろうか。必要な人海戦術を、どう取れば良いのだろうか」

確かに方針は決まったが、新たな課題の発生だ。

オヤジはまた、

「任しとかんかい。ここはアマチュア無線の出番やがな」

と胸を叩きながら、マイクを握った。

「JQ12GDIさん、こちらはJP32YZR、ポータブル1。聞こえますか?」

GDI・満田さんを呼び出した。

「今から30分後の2045年6月1日、06時00分00秒に日本中の情報ディバイスを、同時に遮断。大型はスパコン、サーバーから、MOVAやAIロボット、3Dプリンター、IoT機器はもちろんのこと、小型はペット型ロボットや家電に至るまでを対象とします。リセットボタンを押してもエエし、スイッチを切ってもエエ。それが無理なら、電源コードを抜いてちょうだい。とにかくコネクティッド状態にある機器を一旦リセットして、最後に電源を入れ直してください。これはシンギュラリティ到来を阻止する、全日本の“グレイト・リセット”です」

オヤジの考えた作戦は、サイバー史上最大の、リセット大作戦だ。

「ラジャー、エトウさん。了解しました。こちらJQ12GDI。グレイト・リセットの件、承知しました。これを非常通信として、全国のハム仲間に回します。それでは30分後の成功をお祈りください」


その後、たった30分間であったが、ボクにとって、それは宇宙の始まり・ビッグバンから現在に至るまでのような、とてつもなく長時間に感じた。

その間、サイコはパソコン、携帯端末、AI冷蔵庫、コピー機、館内のデジタルサイネージなどのリセットの準備のために、公邸内を奔走していた。

ボクはサイコに突っ込みを入れた。

「おい、おい、おい。それはコネクティッドされてないから、大丈夫だろう」

「念のため、コーヒーサーバーや卓上計算機、電子辞書、洗浄便座、電動歯ブラシ、消臭スプレー、脚立、電気蚊取り線香、卓上扇風機も集めてみたの。上手くリセットできるかしらっ」

「消臭スプレーと脚立は余計だろう。それとペンとかメモ帳とかも」

「そんなことはないのよ、これはデジタルペンとデジタルノートなの。コネクティッドされているんだから、リセットをしなきゃあ、ねっ」

ペンとノートのデジタル化は、予想外だった。

そこまで念を入れたのは、自動測定式血圧計や万歩計などが、意外にもコネクティッドされていたからだ。


そして運命の時刻、06時00分00秒が訪れた。

公邸大ホールには何の変化も起きなかった。ただ天井から吊るされているシャンデリアが2~3回、点いたり消えたりはした。エアコンも一瞬、強風モードになった後、静音モードに変わった。でもそれだけで終わって、あとはウンともスンともいわずに、全く変わらなかった。

公邸の面々は、みんな拍子抜けした。

「やはり失敗だったのかもしれない」

とボク。

オヤジは、

「ウ~ン」

と、うなったままだ。

―元々、グレイト・リセットを行うなんて、誇大妄想だったのかもしれない。やはりシンギュラリティは避けられなかったんだ。不幸にも予言は当たったんだ。これで人類の時代は終わって、AIの時代になるんだ。世界の秩序は2045年の、この瞬間に変わるんだ。

ボクは諦めかけた。

その時、サイコが何やら玄関先で叫んでいる声が聞こえた。

ボクは玄関へ急ぎ足で向かい、サイコの手招きに応じて、乗り捨てたままのMOVAの前に着いた。

街にはいつもの喧騒は、まだ戻っていなかった。

けれども、交差点をチラ見すると、さっきまで赤信号が点きっ放しであった信号機が、赤・黄・青とも正常に作動していた。

横断歩道の電子音が、いつも通り「カッコー」と鳴いていた。

ペット型ロボットであろうか、ネコが庭を駆け回っていた。

先ほどまで「圏外」と表示されていた手許の携帯端末を見ると、アンテナマークが屹立し、バリバリの受信感度であることを示していた。

―これはもしかすると吉兆か。

ボクは予感した。

その玄関で、消したはずのMOVAのハザードランプが、自動点滅しているのを発見した。

―よし、大丈夫、きっと大丈夫だ。

ボクの予感は、確信へと深まってきていた。

MOVAの前で、まずボクは大きく深呼吸。それから恐る、恐る、話しかけた。

「Hi!、スティーブ」

すると、ポン~~と響く軽い起動音の後、

「ハイ。何かご用でしょうか、トビオさん?」

すぐさま立ちあがった。元気なスティーブの声を聴くのは久々だ。

―本当に良かった。でも、まだ原因不明だ。いや、2045年のサイバー空間で原因も犯人も特定できないんだ。全部がコネクティッドされているから。ああ、考えれば考えるほど頭が痛くなる。もう考えるのは止そう。


ボクはAIスティーブに、

「すぐ帰宅する」

と言い残して、後部座席でぐっすり眠りこけた。

MOVAはレベル6で帰路についた。




(了)

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2045年のグレイト・リセット 志川 久 @hisa1212

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