第157話 シャルロッテの憂鬱な日々 後



 ──埃と墨の混ざった重厚な匂い。

 

 セントラルヴァルト家の書庫と同じ香りのする空間に、家を出てからまだひと月も経っていないというのに懐かしさのようなものが込み上げてくる。

 天井から差し込む光と、高く連なる書棚の影とが作り出す陽と陰の彩色が、書物院の厳粛さを際立たせていた。


『──す、凄……い……』


 目に付くすべての棚には本が隙間なく並べられており、その本の多さに圧倒されて思わず声が漏れた。

 物音ひとつしない院内のひんやりとした空気に、私の吐息が吸い込まれていく。


「学院にこんな場所があるなんて……」


 もしかしたらこの広い空間に私だけしかいないのでは──


 まるで深夜であるかのような静謐な室内に、そんな錯覚に陥ってしまう。

 それほどに書物院は静けさを極めた場所だった。


 しかし、無音の世界──と思ったのも、妖精さんが私に音を届けてくれるまでのことだった。


 幼いころから私を助けてくれる『妖精さん』──。


 どんな小さな音でも私の耳に届けてくれる不思議な現象を、私はそう呼んでいた。

 しかしそんな私の特異体質を知ってからというもの、お父様とお母様は私が近くにいるときには大切な話をしなくなってしまった。

 お姉様は『きっと神様からの特別な贈り物よ』と言ってくれるけれど……。

 子どものころは妖精さんのせいで嫌な思いをしたことも何度かあった。


 でも今はお姉様の言葉通り、私だけの特別な能力と思い、生活に役立てることにしている。


 そんな妖精さんが今、私に運んできてくれたのは、紙をめくる音と数人の小さな息遣い。と──


『え? え? ──えぇぇ!?』


 こ、ここ、書物院よねっ!?

 ど、どうしてっ!?


 男の人と女の人の愛の語らいだった。

 それもひと組だけではない。

 複数の恋人同士と思しき男女の囁き声が聞こえてくる。


『ひゃ、ひゃ~っ!』


 とんでもない場所に来てしまった──と早くも後悔したけれど、


『わ、私は用事があってきたのですっ!』


 震える足を踏ん張って、自分にそう言い聞かせる。


『け、決して皆さんの恋路に興味があるわけではないですからっ!』


 そう言いつつも、ついつい聞き耳を立ててしまう自分に気付かないふりをしながら、手に届く場所にあった本をサッと取ると──自分でもわかるほどに熱くなった頬をパタパタと手のひらであおぎ、いつも以上に気配を消すと誰もいなさそうな隅っこの席に座った。








 ◆







『──ふぅ……』


 呼吸を整えて机の上に置いた本に目を落とす。

 適当に手にした本は世界を混沌に陥れる悪の権化に関する書物だった。

 

 どうしてよりにもよってこんな本を……

 こんな本を読んでいるところを誰かに見られでもしたら……


 しかし本の内容である『無魔の黒禍』のことなど、今はどうでもよかった。

 ラルク様が先ほどまで私がいた場所に現れたのだから。


 ラルク様、なにかの本をお探しなのかしら……


 私は気もそぞろにその本をぺらぺらとめくりながら、真剣な表情で書棚を見やっているラルク様の様子を横目で窺った。


 い、今なら……


 話しかけられるチャンス。


 しかし難しい顔つきのラルク様を見るに、到底話しかけられるような雰囲気ではなかった。

 目当ての本が見つからないのか、さっきから古書が収められている区画を行ったり来たりしている。

 やがてラルク様は探すのを諦めたのか、別の区画から何冊もの本を選ぶとそれを抱えて窓側の明るい席に移動してしまった。


『あ、ラルク様……』


 ラルク様が座った席は人目につかない場所のため、私は最大限に気配を消すと、どうにかラルク様の身体が少しだけ見える席まで移動した。





 そして三アワルほどが過ぎ──。



 私は何もできずに、ただ、ラルク様の横顔を見ていた。


『が、頑張るのよ! シャルロッテ!』


 ずーっとこの言葉を繰り返して。


 緊張するあまり、読むふりに使用していた大切な蔵書が汗で湿ってしまっている。


『お近付きになるには今しかないのよ!』

『もう! 何やってるの、シャルロッテ!』

『早く行かないと! 日が暮れてしまうわよっ!』


 それでも自らを奮い立たせてラルク様に話しかけようと頑張るけれど、身体が思うように動いてくれない。


 そして

 

 ……リアちゃんに先を越されてもいいっていうのっ!?


 子どものころから何をしても敵わないリアちゃんを思い出したところで──


『──それはいやっ! シャ、シャルロッテ=セントラルヴァルト、い、行きますっ!』


 ようやく決心がついた。


 そして読書に夢中になっているラルク様の席へ向かおうと、立ち上がりかけたとき


『──あ、あれはエミリア教官っ!? い、いつの間にっ!?』


 ラルク様の正面に座っている青の聖女様の姿に、私は中腰の姿勢のまま固まってしまった。

 離れた場所にいることと、私の席からは横顔しか見えないということもあってエミリア教官の表情までは窺えない。


 なにかご用事でしょうか……?


 だけれども、頬杖をついて静かにラルク様を見つめている姿はまるで──


『──恋人同士……』


 私は目を疑った。


 リアちゃんだけでも手強いというのに、美しいリューイの双子の姉妹も常にラルク様の傍にいる。

 

 それに加えて、エミリア教官まで……

 

 そう考えると胃のあたりがキリキリと痛みだす。

 

 でもまさか教官が生徒と……?

 そ、そうよ、い、いくらなんでも私の考え過ぎよ!

 エミリア教官は先日の騒動の件で話があるだけだわ!

 

 いつも後ろ向きな思考になってしまう自分を変えようと十日前に誓ったばかりだ。

 私はそのことを思い出し、勇気を振りしぼってラルク様に近付こうとした。

 しかしそのとき──私は全身の力が抜けて椅子にもたれかかってしまった。


 エミリア教官がラルク様の隣に座り、手を握り出したのだ。


『え……ああ……そんな……』


 もはや疑いようのない光景に私は愕然とした。


 私はエミリア教官に憧れていた。

 いえ、私だけではない。

 魔法科学院の中で青の聖女様に憧れていない生徒など皆無だろう。


 こともあろうか、その教官とラルク様が……


 まだなんにも始まっているわけではないのに、すべてが終わってしまったかのような絶望感に襲われ、意識が遠くなっていく。

 だけれど、それでも妖精さんは私の耳元へふたりの会話を運んでくる。

 私は激しい動悸に苦しみながらも、仲睦まじいふたりの会話を聞かされる羽目となった。







 ◆






 夕暮れ過ぎ。

 書物院を出て寮へ戻る私の足取りはとても軽やかだった。


 ふふん!


 ラルク様とエミリア教官は、あ・に・と・い・も・う・とっ!

 兄妹だから仲が良くて、と・う・ぜ・んっ!


 ふたりの秘密を知ってしまったからだ。

 正確には兄弟子と妹弟子という関係だけれど、そんなことは小さなこと。


 ふたりは家族だから、そこに恋愛感情なんてあるわけがないのです!

 よ・かっ・た! 


 それと同時に──


 こんなに近くにいらっしゃったなんてっ!


 ラルク様の秘密も知ってしまったのだ。


 つまり──


 七年前に私を救護施設まで運んでくれた少年と、入学試験の日に同じく私を介抱してくれた少年が同一人物で、さらに神抗騒乱から都を護ってくれた聖者様とも同じ人物だった、ということを知ってしまったのだ。

 少なくとも正攻法で手に入れた情報ではないけれど、そんなことも小さなこと。


 私の勘は当たっていた!

 こんな奇跡があるなんて!


 これには運命というものを感じずにはいられなかった。


「──ラルク様! このことは決して他言しません!」

 

 理由はわからないけれど、ラルク様は誰にも知られたくないようだった。

 私としてもこの事実を他人に喋る気など、小指の先ほどもない。


 だって、この秘密を利用してラルク様と親密な関係になれるかもしれないじゃない!


「──ふふ、うふふふふっ!」


 

 堪えようとしても顔が緩んでしまう。



 明日からの学院生活が楽しみですぅっ!







「あ、いけない……報告書を提出するのを忘れていました……」


 そのことに気が付いたのは湯浴みを終えて、就寝に就く間際のことだった。




 そして予想通り、翌日にはライカ教官から呼び出しを受けることになるのだけれど──教官からお叱りを受けている間も気分は爽快で、長らく胸にあった憂鬱な気分なんてどこかへ吹き飛んでしまっていた。






 

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