15-5.禁断

『もういい加減、』もう幾度目になるか、〝キャサリン〟の警告が耳につく。『シートに就いた方が身のためよ』

『そっちこそ、』負けじとマリィも声を尖らせる。『加速に入らないのはどうしてかしらね?』

 実のところ、加速の気配がないではない。そうこうしている今も、緩やかなGがマリィを後方の壁際に引き寄せつつある。

『単なる親切よ――解らない?』いっそ憐れむような〝キャサリン〟の声。『あなたがどうなろうと、もう誰にも判らないのよ? 同情の一つや二つ、湧いて出たって不思議はないでしょ?』

『じゃ、』怖気に挫けまいと挑発の声をマリィはくれた。『やってみなさいよ』

 ――加速。何の前触れもなくマリィは後部隔壁へ叩き付けられた。息が詰まる。

 高G加速は一瞬で終わった。圧迫されていた息が、血流が、ここぞとばかりに出口を見出す。霞みのかかる意識の中、マリィはむせ返りながら考えた――この〝キャサリン〟を出し抜く手だて。

『どう、これで解った?』〝キャサリン〟の声が勝ち誇る。『あなたを生かしていおくのは単なるお情け。その気になれば……』

『……その気に……』そこへマリィが絶え絶えの声を割り込ませる。『……ならない……のは……どうして……かしらね?』

『まだ信じてるの?』〝キャサリン〟の声に嘲弄の響きが乗る。『その生命に価値があるとか』

『でなきゃ……』負けじとマリィも声を返す。『今ごろ……私は、死体に、なってる……違う?』

『知ったような口を利くわね』〝キャサリン〟の声に表情が覗く――不快。

 大きく息を整えたマリィが、そこへ一息に畳みかけた。『親切? 同情? あなたに? キースをここまで騙し抜いたあなたに? おためごかしもいい加減にしたら?』

『彼のこと、何もかもご存知って顔ね。じゃ彼の何を知ってるの? 何回女を買ったかとか?』

『それが、』マリィの声が思わず尖る。『何に関係するっていうの!?』

『満足させてもやらないで飼い殺しもないもんだわ』形だけの同情も露わに〝キャサリン〟が芝居がかった声を向けた。『いくらトラウマがあるからって、ねェ?』

『何の話かしら?』言いつつ声が震えるさまを、マリィは自覚した。

『法廷記録を洗えば一発よ。あなた、初めては強姦だったんですってね』

 嫌悪がマリィの背筋を駆け上がる。思わず拳が後部隔壁に弾けていた。

『それが何!?』声に震え。怒りの熱。

『人間の感情には大事なんでしょ?』鼻歌の一つも唱えそうな〝キャサリン〟に舌なめずりの気配。『性交までの過程ってものが。特に初めての相手は大事よねェ、その調子じゃ?』

『エリックは解ってくれたわ!』天井知らずの感情がマリィを衝く。『それでも私を癒やしてくれたのよ!』

『でも、』甘く、囁くような陥穽が口を開ける。『それはキースじゃない――違う?』

『――!』息が詰まる。言葉が出ない。マリィは自覚した――論理の罠。

『キースのこと、』言葉の隙間にさえ毒を覗かせて〝キャサリン〟が嬲る。『それじゃ何もかも知ってる風な口は利けたもんじゃないわよねェ?』

 理性では罠だとマリィ自身も理解していた――しかしなおそれを激情の波が押し流す。

『黙りなさい!』

『ほら図星』嗜虐の響きを乗せて、〝キャサリン〟がなお言を継ぐ。『所詮キースはエリックの代用品ってわけじゃない。あなた、彼に何を期待してたかしら? エリックの影を重ねてただけじゃないの?』

『――違う』

『どこが違うもんですか。最初はエリックだと思って近付いたくせに』

『――違う!』

『ざーんねん、エリックはもうこの世にいませんでした――そうなったら早速キースに鞍替え? 図々しいにも程があるわ』

『――違うッ!!』

 ――間。残酷な、マリィの激情を弄ぶかのような、束の間の静寂。そして〝キャサリン〟が決定的な一言を放つ。『あなた、ただの尻軽女よ』

 拳。マリィが後部隔壁を叩きのめす。マリィが、恐らくは最も毛嫌いするであろうその単語。

 ――高らかな、勝ち誇ったような嘲弄が降ってくる。『言い返せる? あなたはまだエリックに未練たらたらで、キースのことなんてロクに考えちゃいないじゃない。キースが可哀想ね、とんだ道化もいいとこだわ』

『黙りなさい!』

『聞きたくないでしょ?』悪魔のような、甘い囁き。『――それが図星の証拠よ。反論したけりゃするがいいわ。泥沼に嵌まり込むだけよ』

『黙りなさい!!』

『――黙ると思う?』勝ち誇ったような〝キャサリン〟の声。『あなたは強姦魔に初めてを奪われて、エリックに慰みを受けて――それだけ。キースの入り込む余地なんて最初ッからなかったんでしょうに』

『うるさい!』頭の中でタガが外れた。『そっちこそキースのことなんて本当は解ってもいなかったくせに!!』

『あらお言葉』意外そうな口ぶりで〝キャサリン〟が驚いた形を見せる。『じゃ、キースの失意っぷりもご存知ってわけ? この2年――それどころかあなたと出会ってからずっと、彼がどんな思いで過ごしてきたか』

『キースの口から直に聞いたわよ!』激情の赴くままにマリィに言。『ただただ罪を贖うためだけに生きてきたのよ! 自分を責め続けて。それどころか私を助けようとまでしたわ――命を懸けて!!』

『で、』〝キャサリン〟の語尾が軽く跳ねる。『それっぽっちで心が動くわけ?』

『――そう、』マリィが一つ息をついてみせる――逆転の糸口。『あなたには解らないわけね。彼の誠意が』

『で、それとこれとがいともたやすく一緒になるわけ?』知ってか知らずか嘲弄の〝キャサリン〟。『彼に何もかも許せるの――心も身体も?』

『彼は総てを差し出したわ。命懸けで私を救けてくれようとしてる――惑星を丸ごと敵に回してでも』決然とマリィ。『今度は私が彼を癒やす番だわ』

『それじゃ答えになってないわよ』諭すように〝キャサリン〟の声が丸味を帯びる。『お義理で慰められる彼の立場にもなってみたら?』

『お義理ですって?』今度はマリィが鼻先に笑いを乗せた。『義理でこんなことが言えると思う?』

『どっちにしろただの尻軽女って言ってるの』〝キャサリン〟は嘲笑で応じた。『エリックのためだの何だの言って、死んだと判ったらさっさと次の男――変わり身が随分と鮮やかすぎるんじゃない?』

『意味が解らないんなら黙ってたらどう?』怒りの中に余裕をマリィが覗かせた、その時。

『解らないどころか、』割り込む〝キャサリン〟の言葉に嗤いが滲む。『とんだ道化だって言ってるの』

『――どういうこと?』マリィの眉根に怪訝が乗った。

『そういうことよ』鼻先に笑いを一つ引っかけて〝キャサリン〟の声に優越感。『あなた、キースの言ったことだけが総てだと頭ッから信じてるわけ?』

『……何よそれ!?』マリィの声が怒りに震えた。『そうやって、またありもしないことを吹き込むつもり!?』

『別に、信じる信じないはあなたの勝手よ?』歌うかのように〝キャサリン〟が語尾を踊らせる。『ただ、あなたの知らないことを私が知ってる――それだけのこと』

『その減らず口をいい加減に畳んだらどう?』努めて平静に、マリィは突き放した――底にある焦りを隠しおおせたものかどうか、判然とせぬまま。

『別に黙ってたっていいのよ?』〝キャサリン〟の問いがマリィに挑みかかる。『あなたがただの物知らずで終わりたかったらね』

『そうやって嘘八百を信じこませようったって……!』

『事実だったら?』割り込んで〝キャサリン〟の嘲り声。『それとも何、あなた何をおいてもキースを信じ抜く自信が……?』

『信じるわ!』こちらも割り込ませて即答を突き返す。マリィは眼前の座席越し、〝キャサリン〟がその分身を潜ませているであろう操縦卓へ睨みを飛ばす。

『大した自信ね』〝キャサリン〟の声が悪魔の囁きを思わせて問いかける。『その根拠はどこから来るのかしら?』

『キース――』マリィはそこで言葉を呑み込んだ。次いで決然と言い放つ。『いえ、もう彼なしではいられなくなってしまったから。彼が何者かなんて、もうどうでもいいことだわ』

 ――哄笑。〝キャサリン〟の嗤い声が高らかに響く。

『騙されるもんですか』マリィの口中に呟き――さながら自らに言い聞かせるがごとく。

『騙しゃしないわ、ただの事実よ』舌なめずりの気配さえ匂わせて〝キャサリン〟が囁きかける。『ただ、今のあなたに耐えられるかしらね?』

『ただの挑発だわ』斬り捨ててマリィの声が据わる。

『そう、なら教えてあげる』至上の悦びにうち震えるかのような気配の向こうで――〝キャサリン〟が告げた。『エリックね――彼、まだ死んでないわよ』

 瞬間、文字通りの衝撃がマリィの身体を衝き上げた。


〈3秒前――2、1、離脱!〉

 〝キャス〟の制御でSMD-025ゴーストが姿勢制御スラスタを噴かした。電子戦艦〝レイモンド〟外壁に口を開けた裂け目へ、ステルス装甲もないその剥き身を踊らせる。艦体が陥った複合スピンの軛から外れ、機体は一路〝オーベルト〟へと放たれた。

〈アーム展開!〉

 ゴーストが宙空で本来の姿を取り戻す。姿勢制御はもとより、複合センサを備えたアンテナの役割も担うアームが上下左右に前後も加えてその数6本。

〈ヴェクトル修正――001-359!〉方位の微修正も全て〝キャス〟が担う。

『レディに全部お任せってのも気が進まないんだけどな』

 後席のロジャーがおどけ半分にぼやく。

「今の俺達はただのお荷物だ。余計な口は叩くだけ損だぞ」律儀にキースが返して一言。操縦系もろくに復旧する暇がなかったときては、今のキース達は文字通りの〝お荷物〟に過ぎない。実際、制御のほぼ全てを〝キャス〟に直結しての見切り発進となっている。

〈姿勢制御089-065!〉

 先刻のやりとりで懲りたか、〝キャス〟には付き合う気配もない。機体各部のスラスタがメイン・エンジンを〝オーベルト〟へ向ける――そこで舌打ちの気配が兆す。

〈どうした、〝キャス〟!?〉鋭くキースが訊く。

〈ボンクラ整備!〉〝キャス〟の声に怨嗟が疾る。〈推進剤ポンプが逝ってるわ! 自己診断機能からイカれてる! スラスタがガス欠よ――22番、32番、45番! 14番に42番も!!〉

 キースが連られて舌を打つ。スラスタそのものの制御ファームウェアは復旧したはずが、あの短時間では自己診断機能のチェックにまで手が回らなかったことには違いない。

〈それで整備中ってわけかい〉呑気な声でロジャーがぼやく。

〈主機関の偏向噴射は!?〉茶々は無視してキースの声。

 ゴーストが〝オーベルト〟を目指す軌道に乗ったまではいいものの、今度はそちらへ正確に主機関を向けて減速噴射しなければ、あえなく激突の羽目を見る。主機関の水素プラズマ噴射は制限付きながらノズル内の磁場で偏向し得る理屈、それで多少なりと姿勢制御ができるとして……、

〈駄目、それじゃ電力が足りない!〉他のスラスタで姿勢をいかばかりかでも変えながらも〝キャス〟が悲鳴を上げる。

〈構うな、減速だけでもやれるだけやれ!〉

 コクピットを減速Gが突き上げる――だが導き得る結果は揺るがない。

〈間に合わない!〉

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