武道の精神
いつか僕は、日本の武道のことについて、俯瞰的でもいいから、詳しく書いてみたいと思ってる。
僕が子供の頃、剣道や柔道に親しんでいたことは書いたと思う。その中で、なぜサッカーや野球でなく、武道なのか。
僕自身、古いものが好きだと何度も書いたが、自分は武道の精神に惹かれている。きっちり襟を正して、背筋を伸ばし、上下関係があり、道場に入る時は、神聖な場所という意識で入る。そういうことが、自分にまさにぴったりくるから、僕はサッカーでなく、剣道をしていた。
サッカーも実はクラブに入ってた時期があるんだけど。あくまで「日本人的な精神」って意味での武道を愛していた。
僕が空手をやりたいと言って、親から反対された話は書いた。だから代わりに剣道をしていたわけだが、剣道と比べると、柔道は、また別の意味があるように思える。
「柔よく剛を制す」という言葉があるように、外国人に比べれば、腕力も体躯も見劣りする日本人が、彼らと対等に渡っていけるように、実のところ、こんなことを言うと誤解されるだろうが、「義務教育」でやるべきと思う。
実は僕は柔道については「義務」でやっていた。オブリゲーション。自分の意思じゃない。
父が柔道をやっていたが、なんというか「柔道独特の雰囲気」があり、自分は空手や合気道がいいと思っていた。寝技が苦手だったのは、レスリングなどに興味がないところから言っても、明らかだった。実は結構シャイな自分は、寝技に入るのが恥ずかしい。こんなことを言うこと自体が恥ずかしいので黙っているが。だから結局、齧った程度だが、今になって、その精神について見直して、もう一度、道場の門を叩いてもいい、と思い始めている。
基本的に、柔道は相手にやってこられても、その相手の重心を崩すような動きをして、バランスが崩れたところを、崩れた方向に相手を転がせばいい。そうなると、こちらが小柄であっても、襲われた時に、勝てる。
まあ銃で撃たれてしまったら「おしまい」なわけだけれども。
僕が武道の場でいつも気持ちがいいと感じるのは、やはり礼節が主軸になって人が動いているせいだ。僕はこう見えてクラシックな思考回路だから、それだけで自分が生きている場所にふさわしいと思える。言い方が大げさだが、フランク過ぎる人間関係に実は馴染めない。海外にいるのに、本当におかしなことだが、社交的に生きているのは、あくまで処世術であり、本当は常に「お行儀の良い優等生」でいることを強制されてきたのだから。
僕は勝つためになんでもしたらいい、というような卑怯な真似が嫌いだ。そういうのって、結局のところ、「単純な好き嫌い」なんだろうと思う。勝つために手段を選ばない、というのも、流儀じゃなかった。やられたらやり返すということができず、一瞬に躊躇うところが、自分の弱さだけれど、どうしてもそういうところは克服できなかった。勝負事の場にあまり出ないようにするのは、そういう情け心が命取りになると知っているから。
Jさんなんかは、自分と違う。生きている世界がもっと極端な場所だから、一瞬のためらいで、自分の命を落とす。だから、ものすごく割り切っている。そんなふうに割り切れない限り、踏み込むのはやめたほうがいい世界でJさんは生きていた。Jさんも週3日、合気道の訓練をしていた。
武道の場合、真剣を使う流派なんかはまた精神が違うと思うし、そちらはあまり詳しくないが、一般的な日本の武道はある意味「精神的な鍛錬の場」であり、決して殺人術などは教えない。当たり前かもしれないが。
日本以外でも、いろんなマーシャル・アーツがあるが、あまりに攻撃的が過ぎて、危ないものになってくると、そうやって得た力で何をするのか、という精神的な教育が重要になる。日本の武道というのは、そういうことをよくわかっていて、「得た力の使い方」を誤らないように、よく指導教育が行き届いている。自分が日本の武道について誇りに思うのは、強ければそれでいいというような短絡的な訓練でなく、精神的に勝てる強さを育む、本当の侍の精神を教える場であるということだった。
自分たちは腰に刀を持たなくなったが、いつまでもそういう武士道の精神を忘れたくない。本当にいつの時代なのか、と思うが、海外に出ると、日本のカッコいい過去の遺産がたくさん残っていて、出会う機会が多くある。海外に出て初めて、侍がこんなにカッコいいとは、とか、戦前の日本人が、こんなにも凛々しかったのか、と驚く場面が多い。日本にはもうそういう「かけら」さえ残ってない。面影などない。古武道の演舞を初めて見たのはおとぎの国だった。
刀といえば、中学時代の友人の父が真剣を集めていたが、そのことを聞いた時は「物騒なもの集める父にしてこの息子ありだな」と思ったものだった。とてもキレやすい友人で、おいおいやめてくれよ、と僕はその沸点の高さ、プライドの高さに辟易した。確かに学年で一番の成績ではあったが、そんなの、この荒れた中学じゃあまり意味ない。腕力で強い者が勝つ。それでも、成績の良さで周りから一目置かれているせいか、多少、慇懃無礼的ながら優等生。かつ、隠しきれない横暴さがあるやつだった。おそらく父親に似せた振る舞いをしているんじゃないか、と僕は感じたが、詳しくは知らない。まあ、そんな分析も失礼な話だが。それは誰しもが感じていたらしく、当時は誰も口に出さなかったが、卒業して社会人になってから、初めて、皆、実はそう思っていたと話が出たことがあった。
僕は努めて目立たないようにしていた。無法地帯のように荒れた中学。僕が目立って目立って困るようになったのは、中3の思春期過ぎからだ。剣道をやめたタイミングで、受験勉強が始まり、偶然、メガネからコンタクトにした。深い意味などなかった。すごく良く見えて、視界が広がり助かったんだが、モテてモテて、困るようになった。強度の近眼の分厚い牛乳瓶の底のようなメガネを外したら、すごいイケメンだったというような、漫画のようなストーリー。普通に構内を歩いているだけなのに、注目を浴びてしまい困るようになった。それまでの僕は「大人しい冴えないオタク枠」を埋めていたのだから。小学校の高学年では、そこまで目は悪くなかった。だから、授業中しかメガネをかけていなかった。中学になって、本当に見えなくなってきて、そうなったのだが、うちの家系は皆、目が悪い。遺伝だから仕方がないと思っていた。
いきなりモテ出しても、全くピンとこない。何より、その女子のゲンキンな感じが僕は嫌だった。おまけに、成績の良さはずっと目立たなかったのに、学年で一番のやつと同じ高校に合格してしまった。僕の人生が狂ったのは、この辺からだ。あの子と出会った時、僕は中3の春でまだメガネだったが、あの子とはすぐに仲良くなった。あの子も写ってる初めての集合写真では、僕はメガネをかけて写っていた。そんなことはまあいい、武道とあんまり関係ないから。
ただ、実はその学年一番のやつ、中3の時には席が隣になったから、結構仲良くなった。仲良くなったと言うか、進学塾も同じだったから、業務連絡的な繋がりが増えた。それで何度か、家に遊びに行ったことがある。その時に、刀が見たいとは俺は、口にすることさえ思いつかなかった。ただ、今になったら、見てみたかったな、と思う。ちょっと残念だな。田舎の引き戸の先、広い上がり框に楚々とした生け花が水盤に活けてあり、やつのお母さんは決して美人ではなかったが、腰まである長い髪で、色白の丸顔、仕草から何もかもが、ひどく女性らしかった。
別に社会人になってから、やつと電話で話したこともあるんだが、やつはちょっと変わったやつで。僕は、人によってあまり態度が変わるやつを信用できないと感じる。僕には良いやつで丁寧なんだが、自分より明らかに下であると、横暴なところが顔を出す。だからというか、まあ、友人関係が途絶えて長い。同級生をあまり悪く言いたくはないんだが、象徴的なエピソードがあるから、また書くかもしれない。最後に電話した時、どうしてると聞いたら、すごい田舎に飛ばされたと言っていた。どこの病院だ、と聞いたが、それは言えない、カッコ悪い、田舎の大したことのない病院だ、と。やつは医者になったが、結局、その後、開業している。カッコ悪いから言えないとは、やつらしい。本当に僻地の田舎だったんだろう。
俺は刃物は好きであっても、「刃物は集める人を選ぶべきだ」と真剣に考える方。たとえ料理包丁や果物ナイフであっても、生半可な気持ちで扱う人を軽蔑する。当たり前だけれど、包丁は見えないところにしまうべき。ギラギラと壁にマグネットで貼り付けてあるような西洋風のキッチンは、どうしても抵抗を感じてしまう。防犯上も風水上もよくない。
Jさんが俺に、恐ろしく切れる包丁をプレゼントしてくれて、日本の研ぎ石の使い方などを聞かれたことがあるけれど、子供は絶対に刃物の使い方、銃の使い方の基本を厳しい指導者から習ったほうがいい。銃は日本ではまあほぼ必要ないし、登録なしの所持は違法だから、別だ。一般人で銃を扱う動画で、見てて「とんでもないな」という扱いをしている人がいるが、武器の正当な扱い方をきっちりしっかり最初に習ってないと買えないようにしたほうがいい。他の国の話。日本じゃ買えないので関係ない。僕は、物を粗末に扱う人が嫌いだ。それでも、なかなか習慣というのは恐ろしい。Bといると、早くしろと急かされるせいなのか、「雑い」ともっとマニアな人から言われることが増えた。本来の自分はそんなでない。だから、ある意味、真剣に悩む。
カメラなどの精密機械もそうだが、手荒に扱うなど、とんでもない。僕は本来、モノ派の人間で、指紋や汚れ、傷がつくような扱いが我慢できない。何に対しても。その辺が、海外にいると荒くなる。もちろん自分より、ずっと行き届いた扱いができる外国人にも多々出会う。僕が自分で自分に納得できないのは、Bと一緒にいるようになって、そういう細かいことを言うと、すぐにBがキレる。こういう点というのは、本当に共同生活が難しい点だ。僕なんて、荒い方だと思った。ある時、友人の家でテフロンのフライパンを洗った後、何気なく重ねたところ、友人が飛んできて、テフロンが禿げる、重ねるな、と怒られた。そういうやつに比べたら、僕などまだ、気配りが足りない方。Jさんもそうだ。包丁をガラスのまな板で使ったら、飛んできた。ガラスのまな板など使ったら、歯が一発でダメになるだろ、あーあ、と。これらの話は、また書きたい。僕はごく、標準的な部分が多いと思うが、もっと物を大切に扱う人は一杯いる。なのに、Bは本当に扱いが手荒い。ここに出てきた人は、全員、男だが、女性の場合は、大抵「気になるほどがさつな人」はいない。日本人では。僕が外国人の女性は嫌だというのは、物理的に、生活する上での細かなこと「あらゆるところが自分と合わない」せいだ。まあ好きになれば関係ないのかもしれないが。
話がずれてしまったが、武道している人、昔の日本人は、本当に強い人、本当に立派な人。凛々しく、自分をしっかり持っていて。そういう人が多かった。まあ、その時代、そうでない人もいただろうけど、映画や小説になったり、逸話に残るような人は、立派な人ばかりで当然か。
子供の頃、武道していた時、実のところ、そんなことに全く気づかなかった。武道の精神のそこまでの良い面。確かに道場に入る時は、ピリッとしていて、それは好きだった。こっちの道場の、どこかキビキビしていないようなところ、だらっとしているところ、お辞儀の仕方など、細かいところは確かに気になる。もっとピリッとしろ、と思うことは多い。よく教育が行き届いたところなんかはそうじゃないが。やはり日本のちゃんとした道場に留学経験がないと、わからないのか、と思ったり。
ただ、今の小中高生なんて、軟弱過ぎて、何かの病気じゃないかな?と思うこともある。僕も軟弱な方だけど、それに輪をかけて、親に甘えたり、躾がなってないことについて、そんなことを赦す親というのは、どの世界に生きてるのか、と日本に帰ると思うことはある。よく考えたら、自分はかなり厳しく育てられ、それでもこの程度。そうなると、軟弱な子たちをスパルタ式の道場合宿かなんかに缶詰にして、目からウロコを3枚も4枚も剥がしたほうがいいんじゃないかと思うほどだ。極端かもしれないが、実のところ、社会に出て本当に厳しい目にあった時に、自分でさえもこんなに参ってるというのに、軟弱に育てられた子が耐えて生き抜けるととても思えない。
子供の頃の自分は、真夏の道場の厳しい長時間の練習になんでこんな暴力的なことをしなきゃいけないのか、と、実は「軟弱者丸出し」で、仕方なく連日、しごきみたいな稽古を受けていた。フラフラになりながら。将来に希望など全く持てなかったのは、ただただ厳しいばっかりで、自分はいくらやっても勝てなかった。勝てない理由があったのだが、誰もそのことに気づいてない。僕自身、気がつかなかった自分が信じられない。
こんなことになんの意味があるのか、と。毎日恨みながら、叩きのめされて。
礼節や精神は好きでも、物理的に痛いし、しんどい。自分がどうしてもダメだったのは、相手が全く見えなかったというお粗末な理由で、今やれば絶対に違う。極度の近眼なのに、メガネなしで剣道をしていた。大人になって、ブラジリアン柔道のセルフディフェンスのクラスを取った時、なんだ、勝てるんじゃないかと思ったのは、コンタクトで行ったからだ。人生やり直せるものなら、あの頃に帰りたいくらいだ。本当に悔しい。
当時は、激しい稽古よりも、帰宅部で早く帰って、涼しい場所でジュースでも飲みながら、のんびりテレビ見たり、ゲームしたり、漫画読んだりしたかった。もちろんそんなことはしなかった。サボったことも一度もない。僕はこう見えて、とても真面目だった。ズルとかしようと思ったこともないし、遅刻もない。
自分は子供の頃、ダラダラと過ごすことを、一切許されてなかった。実は僕は、ゲームなんて大人になるまでやったことがない。それというのも、「そんな時間があったら勉強しなさい」という毎日を過ごしたから。口うるさく決して言われないんだけど、空気。勉強しないと後で悲惨なことになるという空気で、決して教育ママでないし、塾も強要されなかったのに、真面目に勉強してた。とりあえず、父さんくらいを目指すには、すごい勉強しないと全く届かない。それは自分でもわかっていた。言われなくても自発的に勉強した。でないと未来がない、とよく知っていたから。
そしてそのことについて、僕は一切疑問を持たず、みんながゲームとかしてても、自分もやりたいと思ったことはなかった。だってゲームって時間の無駄でしょ、と思って。
でも、大学になってからゲーセンには行った。それは内緒ね。課金しないとダメだから、リミットあるでしょ。ちょっとくらいだから。自分が稼いだ金だしね。
そんな軟弱な自分が、今頃、武道? それというのも、一緒にいて気分のいいやつって、みんな、なんらかの「日本の武道」をしている。ものすごく一緒にいて、清々しいというか、気分がいい。
不思議なことなんだけれど、武道の精神的な効用というのが、武道をやっている人からでさえ、間接的に伝わってくる。何も言わないのに、不思議なことだ。
僕の目には、ピンと張った静かな糸のようなものが、緩むこともなく、切れることもなく、彼らの中にあるのが見える。ものすごく静かで、無音の世界。武道の心得がある人間は、他人を尊重し、自己主張しないで、まるでそこにある石などの自然物のようにナチュラルに存在する。
これが武道の効果なのか。僕はいくつかの道場も海外のいろんな国で見学したが、確かに日本の道場にはかなわないものの、日本人の武道の精神が海外で芽吹いていることについて、驚きが隠せない。日本にいたら気づかないことだが、日本人が生き残っていくには、例えば、純粋な日本人が0人になろうとも、日本人的な精神を受け継いでいってもらうしかないから、当の日本人自身が「日本人の精神とは何か」をよく知っておくべきであると僕は考える。
そのために子供に武道を習わせることというのは、正直、塾に行かせることよりも重要で、確かに学歴は必要だが、良い学校に行ったからといって、良い人生は待ち受けない。しあわせになるためには、勉強ができて、どんな場面でも柔軟に対処して解決策を出し、実行できる『生き抜くスキル』と、どんな目に遭おうとも、柳に風と受け流し、攻撃してくる相手の重心を崩して、相手を転がし、自分を引き倒されることなく淡々と、飄々と生きることだ。冷静な「状況の読み」、確固たる「自分」が必要だと思う。「確固たる自分」というのは、「武道の精神や礼節」がその方向を導いて、道標になってくれる。
子供だった自分に、誰かこういうことを言ってくれていたら。
そうしたら、イヤイヤでなく、剣道も柔道も、もっと前向きに取り組んだのに、と思う。僕は、勝ち負けのある競技が大嫌いで、攻撃的にならざるを得ない武道も心の中では大嫌いだった。礼儀や礼節は好きだ。でも暴力はいただけない。空手がやりたかったのは、こんなところで告白すると、身も蓋もないが、喧嘩で負けたくないという、すごく不純な動機だった。矛盾しているが、子供の頃というのは、体格、腕力が全ての世界だ。気に入らないとなればすぐに手が出る。自分が好む好まざるに関わらず、常に争いごとに巻き込まれるのだから、そうならないように、「あいつは強い」と思ってもらわないと、見かけが優しそう、弱そう、自己主張が少ない、思い通りになりそうに見えると、すぐに舐められる。持ち物や権利さえ、簡単に奪われる。それは違うだろう、とはっきり言いたい時、理不尽な主張をごり押ししようという輩は「なんだお前、文句あるのか、俺に盾突く気か?やる気か?」すぐそう言う単細胞。勉強ができない頭の悪い自分勝手なやつほど、子供の時はのさばる。教育程度の低い教養のない親に育てられて本人も気づいていない「負の遺産」なのだが。そういう糞も味噌も一緒くたになったような公立校にいたら、「強くなりたい」と思うのは自然なことだ。
でも今、それは間違っていたと思える。喧嘩で使えば、もちろん破門になるが、建前みたいなものだと思ってた。強くなりたい理由が、外に向いていた。自分の中を成長させようというのでなく、外からの攻撃に強くなりたい、と。
武道の精神は決してそうじゃない。「風林火山」という言葉があるが、僕たちはそこにある自然の一部のように、自然の摂理を体現することによって、外からの外敵の攻撃を自らが自我的に動かずに、相手に送り返すのみ。
武道の精神は他人に対する尊重、礼儀、礼節と自己の終わることのない鍛錬とで、たとえ指導者が故人になろうとも、連綿と受け継がれて死に絶えることもない。永遠の存在。自分が自分らしく強く生きるために、その心と体の訓練は、いつになっても効果があると僕は思う。政府の方針で、「愛国」と言われたり「武道を義務教育に」と言われたら、なんだか気持ち悪いが、実際のところ、海外にいると、その方策は正しく思える。生き残っていくために。
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