第二集 『御陵あるまの追憶』

第13話 御陵あるまの日常 問題編



参考:アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの冒険(原題:The Adventures of Sherlock Holmes)』より、『赤毛連盟(原題:The Red-Headed League)』





 精神病院の入院患者が普段どんな風に過ごしているかなんて、きっと一般の人は想像できない。

 あの博学多識なお姉さんでさえ、「私も実際に入院するまでは好きな小説の中に出てくるオリガ記念病院という精神病院くらいしか知りませんでした」と言うくらいだから、普通の人はまず分からないだろう。


 僕は精神病院の開放病棟に入院しているけれど、実際に入院している人間の意見を言うと、特に普通の病院と変わらない。

 屋上の柵の高さが異常に高かったり、『保護室』と呼ばれる部屋があったり、面会に来る人の荷物の中に危険物がないか調べられたり、お医者さんや看護婦さんじゃない人――リンネさんのようなソーシャルワーカーがよく出入りするくらいで、ごく普通の病院だ。

 朝起きて、ご飯を食べて、薬を飲んだりカウンセリングをしてもらったりして、自由時間を過ごして……。

 そんな風にして一日が過ぎていく。


 全然部屋から出ない人もいるし、絵を描いたり軽作業を熱心にしている人もいる。

 たまに騒ぎを起こす人もいるけれど、そういう人は何処にだっているだろう。

 そもそも誰だってたまには不安や恐怖で泣いたり暴れたりするものだ。

 だから、普通のこと。


 僕が皆に迷惑を掛けてしまって落ち込んでいる時には、そんな風に担当の先生が慰めてくれた。

 人間は誰だってそんなものだって。


「……まあ、ここに入院している人達は社会的入院状態になっていることも多いからね。普通の人とほとんど変わらないこともあるだろうね」


 僕が精神病院について話を振ると、リンネさんはそう言った。


「社会的入院?」

「うん。本来、入院は継続的に看護や治療の必要な人間の為の措置だ。身体が何処か悪いから、それを治す為に入院する……。そのはずなんだけど、精神障害等の場合、患者さんの病状に関わらず、ずっと入院していることがありえる」

「……なんで?」

「退院して欲しくないから、ですよ」


 窓際に佇んでいたアルマお姉さんは、手にしていた本をぱたんと閉じて言う。

 あの口端を歪める妖しい笑みを見せながら。


「家族や社会、コミュニティーが、『もう戻ってきて欲しくない』と望んでいる。自宅や故郷に帰れないのだから、病状がどうであろうと病院に居続けるしかない。そもそも精神障害やトラウマは持病と同じです。ある程度までは良くなりますが、完全に健常者と同じにはならない。ある程度で付き合っていくしかないんです。その『ある程度の問題を抱えた人間』を受け入れる側が拒否すれば、もう何処にも行けません」


 時間は巻き戻らない。

 欠けたものは直らない。

 だから、何処にも行けない。


 そうお姉さんは語った。


「……些か極端な言い方だけど、うん、アルマさんが言ったことが理由の一つ目。もう一つの理由が、患者側の出て行く意欲がなくなってることが多いこと」

「退院したくない、ってこと?」

「そう。……例えばだけど、十年以上入院してて、家族と連絡を取り合っておらず、友人もいなくなった人が、退院したくなると思う? さっきのアルマさんの発言にも関係するけど、誰にも頼れる人がいない社会に放り出されて生活できると思う?」


 ……思わない。

 そんな風に放り出されるくらいなら、知り合いが沢山いる病院にいた方がずっといい。


「まあつまり、そういうことだよ。どうにかしたいと思ってるけど、やっぱり中々難しくてね……」


 僕は。

 あるいは、お姉さんは。

 この社会がもう少し優しかったなら、もう退院していてもおかしくないのかもしれない。


 そんなことを思った。


「余談だけど、ちなみに今はもう法律上では『精神病院』という単語は使われず、『精神科病院』という表現で統一されてる。珍しい議員立法でね、精神医療の正しい理解の為に作られた法律で変更されたんだけど……。まあ実態としてはあまり変わっていないかな」


 リンネさんがそう纏めたところで精神病院、もとい、精神科病院に関する話はお開きになった。

 今日も明日も社会は変わらない。

 僕もお姉さんも、しばらくはこの病院に入院したままだろう。


 だから今日は、僕のホームズである御陵あるまの日常の話をしよう。







 お姉さんはホームズのような名探偵だけど、ベーカー街221Bのようにしょっちゅう様々な階層の依頼人が押し掛けてくる、ということはない。

 何度となく口にしているように、少なくとも彼女は職業的な探偵ではないし、特別な事情がなければそう名乗ることもない。

 だから定期的に訪れるのはお姉さんのワトソンである僕と、あとは精々リンネさんや椥辻さんくらいのものだ。


 数少ない個室に――しかも相当に設備が整った広い部屋に入院しているにも関わらず、彼女は大抵の場合において、一人。

 お見舞いに来る家族も友達もいないみたいだった。


 いや、それでもアルマお姉さんは恵まれている方だと言えるだろう。

 精神科病院に入院している人間に好んで会いに来るような人はそもそもそんなにいないのだ。

 病気の内容によってはとにかく人に会いたくないことも大いに有り得るから、「お見舞いの人が多い」がイコールで「恵まれている」と繋がるかと言えば、そうは言い切れないけれど。


 実際にお姉さんも体調が悪い日は「誰にも会いたくありません」と言ったきり、一日中一言も喋らずにずっと横になっていることもある。


「…………」


 そして、今日もそうだった。


 お姉さんは朝からずっと横になっていた。

 僕がベッド脇の椅子に座っても、ちらりと一目見ただけで、何も言わない。

 ずっと寝転がったまま、青い空を見ている。


 最近は調子が良かったけれど、今日は酷いみたいだった。

 今日が月曜日であること――ブルーマンデーなのは、多分関係ないだろうけど。

 大体僕達にとっては平日も休日も大して変わらないし。

 精々がテレビの内容が変わるくらい。


 そういう隔離された世界に暮らしているのだ。

 僕も、お姉さんも。


「お姉さん……」

「…………」


 彼女を苦しめているのはきっと頭痛に耳鳴り、倦怠感、そして憂鬱だ。

 自律神経失調症の分かりやすい症状。

 こういう日はアルマお姉さんも万能の名探偵ではなく、ただの少女に見える。

 何処かから追い出され、何処にも行けず、何処にも行く気がなくなってしまった一人の女の子。

 いつものお姉さんは、そのお伽噺のお姫様のように整った容姿と妙に合致する、天才故の自信が見え隠れする笑みを湛えている。


 でも一人の女の子である時の今の彼女にはそんな自信は伺えない。

 格好良く活躍する主人公ではなく――誰かがここから助け出してくれることを、半ば諦めながらも待ち続けている檻の中のお姫様。

 精神病患者らしい状態のお姉さんはそういう儚げな雰囲気を纏っている。


「……また来るね」


 こういう時は、僕も黙って病室から立ち去る。

 変に言葉を掛けたりはしない。

 きっと明日には不遜さを隠し切れていない微笑を浮かべた、僕のホームズに戻っていると信じているから。


 原作中でホームズがイライラしている時にワトソン博士は黙って見守っていた。

 名探偵を信じて待つことも、ワトソンの立派な仕事の一つなのだ。







 翌日。


 昼過ぎにいつものように彼女の病室を訪れると、アルマお姉さんはタブレットをぼんやりと眺めていた。

 何処か海外の大学の講義をオンラインで受講しているのだ。

 当然画面の中の教授が話す言葉は日本語じゃないけれど問題はない。

 病室から出ない割に国際的なところがあって、お姉さんは英語を始めとして何ヶ国かの言葉を扱うことができる。

 特に英語は「特技」とわざわざ表現しないくらいに得意だった。

 そうでなければシャーロック・ホームズの原書を読んだりはしない。


「……ふう」


 授業が終わると彼女は小さな溜息を漏らした。

 難しい講義だったようで、少しお疲れのようだけど、昨日よりはずっと血色が良い。


 今日のお姉さんは復活して、戻っているらしい。

 あの多才で不遜な僕のホームズに。


「お待たせしましたね、眼帯君。何か御用ですか?」


 静かで聞き取りやすい声でそうお姉さんは問い掛けてくる。

 首を振って僕は答えた。


「ううん、大丈夫。用は……ないけど」

「そうですか」


 とてもクールに彼女は言うと、僕を後目に枕元に置いていた本を読み始めてしまった。


 不機嫌なわけではない。

 社会性がないだけだ。

 基本的にお姉さんは話を振られなければ何も話してくれないのだ。


 逆に言うと、何か質問したり、意見を求めたりすれば口を開いてくれる。

 だから僕とアルマお姉さんが行う世間話の内容は僕が振った話題に依存する。

 今日だったら、例えば「どんな授業を受けてたの?」と問い掛ければ説明してくれるだろう。


「……机、使ってもいい?」

「構いませんよ」


 でも僕はお姉さんと他愛もない話をすることも好きだけど、ただ黙って一緒にいることも好きだった。

 同じ病室で、彼女は本を読み、僕は勉強をする。

 分からない部分を質問すれば教えてくれる。

 そんな時間が好きだ。


 僕達のレストレード警部ことリンネさんだって毎日のように来るわけじゃないし、毎回のように謎や事件を持ち込んでくれるわけじゃない。

 だから名探偵には謎解きをしない日も沢山ある。


 多分、今日はそういう日だろう。

 だから僕は来客用の机に苦手な数学の問題集を広げて解き始める。

 何の変哲もない日常を過ごしていく。







 水曜日。

 いつものように昼過ぎにアルマお姉さんの病室に行くと、お姉さんは新聞を広げていた。

 珍しい、というのが僕の正直な感想だった。


 お姉さんは新聞が好きではないし、目を通すとしてもタブレットで電子版を読む。

 何かあったの?と僕が訊ねると、彼女は微笑んで言った。


「別に何もありはしませんよ。いつもと変わらずこの社会は不景気で不健康です。紙面にはそれを煽るような文章ばかりが踊っています」

「ふーん……」


 いつも通りのシニカルな物言い。

 でも、いつもと同じではない。


 彼女の傍らには他にもいくつかの新聞が積まれている。

 いつもとは違う。

 間違いなく、何かあったのだ。


「……最近のニュースの中に面白そうな事件があったの?」

「別に私は御魂を察知できる化物ではありませんし、緑の帽子を被った探偵の相棒の犯罪者を感知できる少女でもありません。当然かのホームズのように事件の記事から裏で糸を引くモリアーティ教授の痕跡を読み取ることもできません」


 いつも通り色んなミステリ作品に触れながら何処までもクールにアルマお姉さんは言う。

 彼女が読み終えたらしき新聞を見る。


 出版元は様々だが、どれもここ数日のもの。

 一番古いもので二日前。

 今日のお姉さんは少し上機嫌そうで、それに加えて。


「そう言ってもお姉さん、『面白そうな事件があったこと』は否定してないよね?」

「……否定していませんね」

「でしょ? 多分、お姉さんは今日の朝刊をタブレットで読んでいて何か面白い事件の記事を見つけたんだ。その事件が起こったのが二日前、月曜日で、その日アルマお姉さんは調子が悪かったから何もせずずっと寝ていた。新聞も読んでいない。だから休憩室に置いてある今週分の新聞を全部持ってきて、事件の記事を読んで、手掛かりがないか探してたんじゃない?」


 僕が自身の推理を披露すると、僕のホームズは小さく笑う。

 あの嘲りが透けた笑みではなく、興味深いものを見つけた時の笑顔だ。


「『The faculty of deduction is certainly contagious, Watson.』――推理能力には確実な伝染性がある。ホームズの言う通りですね」

「じゃあ、やっぱりそうなの?」

「はい、見事な推理でした。正解です。気になる事件を見つけたのでバックナンバーを調べていたんです」


 思わず僕はガッツポーズをしてしまう。

 それが自分の推理が的中して嬉しいからなのか、お姉さんの謎解きが見れるかもしれない期待からなのか、どちらなのかは分からなかった。

 まあどちらでも良いだろう。

 どっちにしろ、楽しいことなんだし。


「で、どんな事件なの?」

「断っておきますが、特に謎はありませんよ」


 そう前置いてからお姉さんは言う。


「京都市内で起こった、ただの殺人事件です。古いアパートに住む男性が惨殺されたという、珍しくもないものです」

「じゃあ、何が気になったの?」

「今日の朝刊には被害者の身元が判明したという記事がありました。その身元というのが興味深く、三件の殺人等の罪で指名手配中の犯人だったそうです。顔や名前は変えていたそうですが」

「つまり……怨恨?」

「ええ、その可能性がかなり高い。被害者は毎朝同じ時間に職場へと向かい、同じ時間に近くに住む同僚にアパートの前まで送ってもらうという生活を送っていたそうです。仕事以外で外に出るのは買い物くらいで、外出らしい外出も同僚達と飲みに行く程度だったと。当然でしょうね。指名手配されているのなら何がキッカケでバレるか分かりませんから」


 この現代で全国指名手配されて捕まらないでいられることが凄いと思うけれど、その為にはそういう工夫が必要なのだろう。

 わざわざ人の多い京都で暮らしていたのも、木を隠すなら森の中、ということかもしれない。


「凶器は量販店に売っている包丁。目撃者はなし。指紋もなし。部屋に鍵が掛かっておらず、被害者が職場に来ないことを不思議に思った同僚が部屋で死体を見つけなければ、しばらくは発見すらされなかったでしょうね。動機が疑われるのはその殺人事件の被害者遺族ですが、三件も事件があれば関係者は相当な数に上ります。よって動機だけで犯人を特定するのは難しい……」


 新聞を畳みながら僕のホームズは続ける。


「警察が見つけることができなかった犯人を発見し、その生活スタイルを把握し、準備を整え、痕跡を残さず犯行を終え立ち去る……。現実世界の殺人事件は推理小説の中とは異なり、衝動的なものがほとんどですが、今回の事件の犯人は中々に聡明なようです」


 そう纏めると、お姉さんは僕に向かって微笑んだ。

 今日はこの事件の話は終わりにしましょう、と言って。


 探偵ではない御陵あるまは、気になった事件があったからといって首を突っ込んだりはしない。

 こうしてぼんやりと推理を行ってみせるだけだ。


 こんな風に今日も何もない一日が終わる。







 明けて、木曜日。


 この日は珍しいことにお姉さんの部屋に先客がいた。

 彼女は僕の姿を見つけると、椅子から立ち上がり「チーッス」なんて風に軽く挨拶してくる。

 紺のブレザーに肩甲骨辺りまである茶色い髪。

 たまにお姉さんに勉強を教えてもらいに来ている、あの女子高生二人組の一人だ。

 こうして正面から見る機会は今までなかったけれど、アルマお姉さんほどじゃないけど結構整った顔立ちをしている。


 僕もあと何年かすれば、この人のような可愛らしい女子高生になれるのだろうか。

 それ以前に退院できるかどうかが怪しいけれど。


 それとなくお姉さんに視線を送ると、僕のホームズは言った。


「こちらは白梅陽菜さん。北野さんと一緒にいるところを見掛けたことがあるでしょう?」

「うん」

「今日はゆあっちはいないけどねー」


 何が楽しいのか、ニコニコと白梅さんは笑ってみせる。

 男子受けが良さそうな、悪戯っ子っぽい笑みだった。

 「ゆあっち」というのは彼女の相方、北野さんのことだろう。


 次いでアルマお姉さんは今度は白梅さんに向けて僕のことを紹介する。


「そしてこちらは私のワトソン、眼帯君です」

「よろしくね、眼帯君」

「……はい」

「声がちっちゃいなー。でも、かわいー」


 近くに歩み寄ってこられ、思わず僕は後退る。

 そんな僕を助けるように白梅さんを制止してからお姉さんは説明した。


「眼帯君は人見知りなので、そういう風に遠慮なしに距離を詰めるのはやめてあげてください」

「……あれ? そうなの?」

「そんなことは……ないけど……」


 口では否定するものの声量は尻すぼみ。

 我ながら分かりやすい。


「じゃあアルマ先輩と同じだねー」

「白梅さん。断っておきますが、私は人見知りではなく、人嫌いです」

「より酷いじゃん」


 白梅さんの言う通りだった。


「お姉さん、あの」

「皆まで言う必要はありませんよ、眼帯君。『なんでこの人がここにいるの?』と疑問なのでしょう?」

「えーっ、ひっどーい!」


 不満の声を上げ、大袈裟なリアクションを取るブレザー姿の少女。

 最近はずっと病院にいるから分からないけれど、普通の女子高生は皆こんな感じなのだろうか。


「別に眼帯君があなたのことを嫌っているというわけではありませんよ、白梅さん。学校の制服を着た人間が昼間から病院にいれば疑問に思うのは普通のことでしょう?」

「あ、そのことか。今日は創立記念日で休みなんだよねー。だから、遊びに来ちゃった」

「実際は数学の宿題の答えを聞きに来たんでしょうに」

「もー。なんで言っちゃうかなー、アルマ先輩は」


 親しげに話すアルマお姉さんと白梅さん。

 二人の関係性はどういうものなのだろう。

 お姉さんのことを「先輩」と呼んでいることから察するに、何かの先輩後輩の仲なんだろうと思う。

 そう思うのだけど、お姉さんは高校に行ってなかったはずだし、そもそも中学生の頃に自立神経失調症を発症したはずだから中学を卒業したかどうかも怪しい。


 じゃあ、何処で知り合ったのだろう?

 もしかしたら何かの事件だろうか?


 また訊いてみるのも良いかもしれないと僕が考えていると、お姉さんが言った。


「さて、眼帯君も来たことですし……白梅さん。あなたの従兄弟のお兄さんの話をもう一度、話していただけますか?」

「え? さっきの話?」

「そうです。ちょうどあなたのお兄さんが巻き込まれた事件について、昨日眼帯君と話していたところなんですよ」


 昨日?

 ということは、あの事件だろうか。


「巻き込まれた、って言っても……。お兄ちゃん、そのアパートに住んでたってだけだよ? しかももう引っ越すし」

「はい。あなたの従兄弟のお兄さんは限りなく無関係でしょうが、良ければ先ほどの世間話をもう一度話してみてください。私も聞き漏らした部分がないか確かめたいので」

「いいけど……」


 不思議そうに小首を傾げた白梅さんは話し始める。

 指名手配犯の殺人事件。

 事件が起こったアパートの一室の、その隣の部屋に住んでいるという従兄弟の話を。







「私の従兄弟のお兄ちゃん――北野陸って言うんだけど、今二十歳の大学生なんだ。私には優しいんだけど、どっちかって言うと根暗なタイプでさー。大体私が行くといっつも部屋でアニメ見てるかな。奨学金貰っててバイトする必要もないし、私が連れ出さない限り、買った本を読んでるか、録画したアニメ見るかしてる。頼めば買い物くらいには付き合ってくれるんだけどね」

「お兄さんはどの辺りにお住まいでしょうか」


 訊ねるお姉さんの手には折り紙がある。

 いつも通り鶴を折っているけれど、何処か緩慢だ。

 きっと既に結論は出ていて、今は話を聞きながら確認しているだけだから頭を使う必要がないのだろう。


「どの辺りって、あの殺人事件が起こったアパートだよ? 千本中立売のバス停近くの、通りから一本入ったところの、ボロい木造アパート」

「まるで骨董品みたいですね」

「そう言えなくもないかな? 陸兄ちゃんは二階に住んでるんだけど、階段は錆びてて今にも壊れそうだったし、廊下は体重の軽い私が通ってもギシギシ音鳴るし」

「益々骨董品のようなアパートですね」


 愉しげな笑みを浮かべて「続けてください」とお姉さんは先を促す。


「何処まで話したっけ? ああ、そうそう。そんな陸兄ちゃんはボロっちいアパートの二階、真ん中の部屋に住んでる。そのアパートは一階も二階も三部屋ずつあって、だからお兄ちゃんが住んでるのは202号室ってことになるのかな? 事件が起きたのは陸兄ちゃんが住む下手の隣、一番奥の203号室だった」

「隣の部屋の住人はどんな方か、分かりますか?」

「うーん……。お兄ちゃんは、規則正しい人、って言ってたかなあ。ほら、ボロいから廊下を歩くとギシギシ鳴るって言ったじゃん? それに壁も薄くて隣の部屋のドアの開け閉めの音も聞こえるくらいで、だから部屋の前を誰が通ったか分かるんだ。お兄ちゃんが言うには、隣の部屋の人は毎朝同じ時間に出掛けて、毎晩同じ時間に戻ってきてるみたいだったって。で、『相当規則正しい人だなあ』って」


 ニュースで報道されている事実と同じだ。

 指名手配犯に言うことじゃないかもしれないけれど、被害者は相当に真面目な人だったようだ。


「陸兄ちゃんはそんなアパートに暮らしてたんだけど……。ほら、ね……。隣の部屋で殺人事件があったって聞いたら、あんまり住んでいたくないじゃん。それに狭いから友達も呼べないし。だから近々引っ越す予定だってさ」


 私の話はこれだけ、と白梅さんは纏めた。


「口振りから察するに、あなたはお兄さんの部屋に何度か遊びに行ったことがあるようですね」

「うん、あるけど」

「他の部屋の住人がどんな風か分かりますか?」

「ええっ、そんなこと訊かれても分かんないよー。普通分かんないんじゃない? だって、何回か遊びに行っただけだよ?」

「それでも郵便受けやアパートの前に停まっていた自転車等から人が住んでいるかどうかは分かるでしょう?」

「覚えてないよー……。アルマ先輩って、いつもそんなこと考えて生きてるの?」

「初歩ですよ」


 普通の女子高生である白梅さんは引き気味だけど、確かに探偵としては初歩的なことかもしれない。

 きっとお姉さんならばこの病院の階段の段数も把握していることだろう。

 勿論僕は知らないけれど。


 原作のワトソン博士も下宿の階段の段数を答えられなかったから、ワトソン役である僕が答えられないとしても問題はないのだ。


「あ、でも」


 と、白梅さんが言った。


「自転車が停まってた気がするし、一階の部屋には誰か住んでるんじゃないかなあ」

「一階の部屋に、と言うからには根拠があるんですか?」

「うん。お兄ちゃんは毎日金閣寺辺りの大学まで歩いて行ってるくらいだから自転車は持ってないし、隣に住んでた被害者さんは分からないけど、若者向けのデザインの自転車だったし、違うんじゃないかなあ。201号室は空室だってお兄ちゃんが言ってたし……。あ、そうだ。一階に住んでるホストのお兄さんのやつかも」

「ホストのお兄さん……ですか」

「うん、そうそう。一階に住んでるんだって。一度すれ違ったこともあるけど、金髪の幸薄そうな感じの人だった。そうじゃなきゃ、劇団の人かなあ? 一階にはホストのお兄さん以外に役者の卵の人が住んでるらしくて。あのアパート、本当にボロっちくて部屋も狭くて当たり前みたいに監視カメラもないし管理会社も入ってないけど、でも家賃は滅茶苦茶安いんだ。だから売れない役者さんには嬉しいんじゃないかな」

「なるほど……」


 古ぼけた木造アパート。

 現在分かっている住人は四人。

 二階の奥に住んでいた被害者の男性、同じく二階の白梅さんの従兄弟、一階に金髪のホストさんと役者の卵。


「そうそう、話してる内にもう一つ思い出した。これはホントにどうでもいい話だけど、あの事件が起こった夜の何日か前、お兄ちゃん、その売れない役者さんにチケット買わない?って言われたんだって」

「チケット? 自分が出演する演劇のですか?」

「うん。四条だったか五条だったかの小さな舞台だったと思うけど、そこの劇場をやるから見に来てくれないか、って。お兄ちゃんは珍しくその日の夜は友達と約束があったから断ったんだけど、結局友達との約束はなしになったし、行ってあげれば良かったなあって」

「……それは、」


 何羽目かの鶴をベッド脇の袋の中に落として、僕のホームズは訊いた。


「その演劇があったという日は……まさか、今回の事件が起こった日ですか?」

「そうだよ? どうして分かったの?」

「失礼ですが、あなたのお兄さんは友達が多い方ではない?」

「え、何いきなり……? まあ、そうだけど……」

「でもその日はたまたま友達と約束があった?」

「たまたまっていうか、最近その友達? 大学の先輩らしいんだけど、その人とここ最近よく遊んでただけだって。その日も二人で……あの、その……」


 何故か頬を紅くし、目を逸らして、言い淀む白梅さん。

 そんな彼女にアルマお姉さんは、こちらも何故か少し興奮した様子で確認する。


「その日、お兄さんがお友達の方と行く予定だったのはキャバクラ……いえ、ソープランドではないですか?」

「なっ、ななな、なんで分かったの?! っていうか、それ以前に女の子がそんなこと……!」

「そんなくだらない価値観は知ったことではありません。いいから答えてください。あなたのお兄さんはお友達とそういう店に遊びに行く計画をしていた。間違いなく現地集合。恐らくはお友達の奢りだった。でもお友達は約束の時間になっても来なかった。メールかラインか電話か何かで『少し遅れるから先に入っていてくれ。予約はしてあるから』という連絡があった。だから、あなたのお兄さんは言う通りにしばらく店で遊んだ――そうですね?」


 捲し立てるような口調に白梅さんは驚きながらも答えた。

 どうして分かるの?と。

 私が昨日、お兄ちゃんとの電話で話した内容が、何故そんなに精確に分かるのか、と。


「ああ、そうか……。そうですか……」

「お姉さん?」

「……アルマ先輩?」


 突然僕のホームズは俯き、笑みを押し殺すように手を口に当てる。

 それでも堪え切れなかったのだろう。

 彼女の肩は小さく震えていた。


 鶴は――もう、折っていなかった。

 つまり、そう。

 御陵あるまは謎を解いたのだ。


「今の話、それが最後のピースでした……。まさかとは思っていましたが……まさか、現実に、本当にこんなことがあるとは……!」


 いや、ちょっと待て。

 昨日お姉さんは「この事件には謎はありません」と言っていた。

 多分あったとしても昨日の段階で大体の真相を見抜いていたのだと思う。


 だとしたら、この笑みは。


「……お姉さん? 何か分かったの?」

「ええ、分かりました。あまりにも簡単で、しかし斬新で、まさか現実でやってみせる人間がいるとは思っていませんでしたが……」


 あの口端を歪める妖しい笑みを見せて、お姉さんは続ける。

 これで犯人が捕まえられないとしたら警察は相当な馬鹿揃いですよ、と。


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