第3話 創作者を探せ 問題編
参考:アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの(原題:The Memoirs of Sherlock Holmes)』より、『白銀号事件(原題:Silver Blaze)』
その日、お姉さんは珍しく共有の休憩スペースにいた。
非常階段の近くに設置された、喫煙所兼テレビ室。
あるまお姉さんは長椅子の一つに座って、共用の雑誌をぱらぱらと捲っている。
当然、一人きり。
本人曰く「コミュニケーション障害なので他人と一緒にいると苦痛なんですよ」ということだけど、精神病院に入院してる人が言うにはあまり洒落にならない冗談だと思う。
そんなお姉さんの正面のテレビで流れているのは、探偵らしく、と言うべきなのか、推理もののドラマらしい。
どうもクローズドサークル系の話のようで、男女数人がお前が犯人だコイツが怪しいと互いに疑い罵り合っている。
傍から見ている限りではとても愚かしい図だ。
「人狼ゲームのようですよね、これ」
髪をかき上げつつの唐突な一言。
てっきりこちらの存在には気付いてないと思ったのに、振り返ることもなくそう言うものだから、僕はびっくり仰天。
彼女の隣に座りつつ、「いつから気付いてたの?」と訊ねる。
「いつから、と言えば、最初から、でしょうか」
「最初からって……でも、こっち見てなかったよね?」
「別に、聞こえていた足音が止まれば後ろで誰かが立ち止まったことは分かりますよ」
アルマお姉さんは平然とそう言うけれど、僕はお姉さんの天才ぶりにいつもながら驚くばかりだった。
こういうところがただの探偵ではなく、ホームズみたいなのだ。
万能の天才というか、多彩な探偵という意味で。
「ところで、『人狼ゲーム』って?」
「有名なパーティーゲームですよ。プレイヤーがランダムに人狼と村人に分かれ、自分の正体がバレないようにしつつ他のプレイヤーと会話していきます。最後に投票して処刑するプレイヤーを決めるのですが、処刑されたプレイヤーが人狼ならば村人側の、反対に村人ならば人狼側の勝利、というようなゲームです。幾つかバリエーションがありますが、基本的にはそういうルールですね」
「えっと……つまり、村人側は村人のフリをする人狼を見抜いて、人狼側は上手く村人のフリをして、本当は村人のプレイヤーを人狼に仕立て上げればいいの? 自分への疑いを逸らすっていうか」
「その通りです、眼帯君。理解が早いですね」
褒められて少し照れくさく感じながらも、僕は思う。
なるほど……。
お姉さんの言う通り、クローズドサークル系の話に近いかもしれない。
大体の場合、嵐の孤島や雪の山荘で起こる殺人事件は連続殺人だから、犯人以外の人間は犯人を誰か当てようとして、逆に犯人は他の人間を犯人に仕立て上げると犯行を続けやすくなる。
「でも、そのゲームの場合だと、誰が人狼か判断できないんじゃないの? 殺人事件ならアリバイや動機で犯人を推測できるけど……」
「そうですね、だから他にも様々なルールがあるんです。村人陣営の中には村人以外にも役職があり、例えば占い師という役職ならば他の人が村人か人狼かを知ることができたり、私がディオゲネス・クラブの友人と行うワンナイト人狼では、怪盗という役職があって、他の人と役職を交換することができたり……」
「へー……。なんだか、難しそうなゲームだね」
率直な感想を僕が述べると、アルマお姉さんは笑って言った。
「嘘を吐くことと嘘を見抜くことが上手くなるゲームですよ。あとは……そうですね、」
と、テレビを一瞥する。
その画面では、探偵らしき高校生が犯人らしき男を指差すシーンが展開されていた。
どうやらクライマックスのようだ。
「こういったミステリー作品であるように、他人は知り得ない事実をうっかり口にしてしまう人がいると、とても盛り上がりますね」
次いで、お姉さんは雑誌をテレビ脇のラックへと戻しつつ、立ち上がる。
「さて、そろそろ部屋に戻りましょうか。と言っても、特に面白いこともないですが」
「え? でもお姉さん、このドラマって今から謎解きパートでしょ? 見なくていいの?」
今はCMで最近売れ始めた歌手が化粧品の宣伝をしているけれど、もう一分もしない内にトリックの説明が始まるだろう。
お姉さんにとっては答え合わせの時間のはずだ。
でも僕のホームズは事も無げにこう言った。
「いつも言っているでしょう? 物事の基本は応用です。別に私は探偵ではありませんが、有り触れたトリックを組み合わせた程度の謎ならすぐ解けますよ」
そしてアルマお姉さんはテレビを消して、休憩所から出て行く。
その背中について行きながら、僕は思うのだ。
有り触れたトリックを沢山知っているのだから、お姉さんはきっと、推理小説が好きなんだろうと。
●
慣れ親しんだお姉さんの病室へと赴き、しばらく他愛のない話(お姉さんの友達、ちょっとした豆知識、好きなおやつ等について)をしていると、彼がやって来た。
僕達のレストレード警部こと、鞍馬輪廻さんが。
あるいは対抗せず面白い事件ばかりを持って来てくれるから、ホプキンズ警部だろうか?
今日も片田舎の小学校教師のような柔らかな雰囲気のリンネさんは、僕達二人を見て「揃ってるね」と笑った。
「こんにちは、リンネさん」
「ああ、こんにちは」
「今日はなんのご用事ですか? まさか、ただのお見舞いではないでしょう?」
「酷いな、まるで僕がいつも謎解きを依頼する為だけにここに来てるみたいじゃないか」
そう朗らかに笑うリンネさんの右手には小さな紙袋がある。
お見舞いの品、だろうか。
あるいはお姉さんに謎解きを頼む為の謝礼代わりかな?
かのホームズと同じで、あるまお姉さんは殺人事件を解決しても報酬を受け取ることはないが、甘いものなら別なのだ。
というより、お姉さんは報酬とか関係なしに甘いものが好きだ。
それが女子だからなのか、それとも探偵として謎解きに糖分を必要とするからなのか、僕には分からない。
「今日は他の方に用事があって来たんだけど、どうせだから寄ってみたんだよ。二人共、甘いものが好きだったなと思って」
「要するに、ついで、ですね」
リンネさんの言葉をばっさりと切り捨てるお姉さん。
でも彼は特に怒ることもなく、来客用の机とセットになっている椅子に腰掛けて言った。
「まあ、言ってしまえばそうだけど、ついででも折角ケーキを買って来たんだしね。良かったら食べて欲しいな」
「ついででもケーキは頂きますよ。ねえ、眼帯君?」
「僕も貰っていいの?」
「いいよ。あるまさんと一緒に、いつもお世話になってるからね」
今日も今日とて全方位に優しいリンネさんだった。
間違いなく色んな女子に好かれるのに、誰にでも優し過ぎて告白されないタイプだ。
アルマお姉さんはそんな彼の対面に、そして僕はその隣に腰掛け、少し遅めのティータイムとなった。
「……で、リンネさん。今日は本当に事件はないの?」
ショートケーキを半分ほど食べ終わったところで僕は訊いた。
リンネさんは大きな手でケーキを切り分けつつ、幸いにしてね、と笑ってみせる。
「僕としては君達に相談しないといけないような謎……つまり、クライエントや同業者にとっての困り事がないことは幸いだけど、あるまさんの謎解きが見たい君にとってはそうじゃないかな?」
「うーん……。困ってる人がいるのは可哀想だと思うから、そう言われると仕方ないかなあ……」
僕はアルマお姉さんの活躍が見たいだけで、困ってる人の話を聞きたいわけじゃないのだ。
そういう人の話を聞いて、どうにかするのはソーシャルワーカーであるリンネさんの仕事だし。
困っている人があるまお姉さんの頭脳で助かるのなら、それが一番なんだけど。
「ミス・マープルシリーズにおける火曜ナイトクラブのように、解決済みの事件を謎として提示すれば良いのではないですか? そうすれば困っている方の困り事は既に解決済みですから、眼帯君の良心が痛むこともありません」
「良い案だけど、僕も専門職だからね。みだりに関係者の私的な話をすると僕の良心が痛むよ」
リンネさんは具体的に何をしているかは分からないけれど、何かのプロだ。
そのプロ意識からか、こういうような発言を時折する。
だから、リンネさんが事件を話す場合には場所も関係者も適当なイニシャルで表されるし、個人が特定されないように細かな部分は変更されているという。
加えて大前提として、必要もないのに個人について喋ったりはしない。
彼がアルマお姉さんに相談する時は、どうしても解決しないといけない問題がある時だけなのだ。
「そっか……」
つまり、今日は謎はなし。
当然、お姉さんの謎解きもなし。
少なからず落胆する僕を後目に、そう言えば、とリンネさんが呟く。
「プライバシーの話をしていて思い出したけど、生徒の落とし物の話を友達から聞いたっけ」
「友達? 落とし物?」
「うん。学生時代の先輩で教師をやっている人がいるんだけど、その人が個人情報満載の落し物を拾って困ってるって話」
「どうして困るの? 個人情報満載なら、誰が落としたかすぐに分かるじゃん」
財布ならば学生証や定期券が入っているだろうし、携帯電話やスマートフォンなら適当に電話を掛けてその相手に訊けばいいし。
悪い人に拾われたら困るだろうけど、先生が拾ったのなら困ることなんてないと思う。
「……ということは、『落とし主が誰か分からない』かつ『当人は名乗り出ることができない』というものですね。犯罪の証拠が収められたもの、例えば中身が盗撮写真のデジタルカメラなら該当しますが、恐らくそういうものではないでしょう。落としたこと自体がスキャンダルになってしまうような重要書類とも考えられますが、学校で、しかも生徒が落としたものということですから、これはありえません。となると、つまり……」
ケーキを食べ終えたお姉さんは、そこまで言ったところでベッド脇の収納棚に折り紙を取りに向かう。
その落とし物の内容についてはリンネさんが引き継ぎ説明した。
「落とし物はメモ帳だよ。手の平サイズの、数百円もしないようなもの。ただ中身が問題でね」
一呼吸置き彼は続けた。
「その中身がただの予定表や備忘録じゃなく、誰かの創作のアイディアノートだったから問題なんだ」
そしてリンネさんは語り始める。
その、ある意味でとても女子高校生らしい、些細なメモ帳の紛失事件の話を。
●
「僕の先輩、Hさんはとても真面目で優秀な人でね。子どもの頃の夢が先生で、夢を叶えて今は高校で教師をしてる。その高校は、そうだな……T高校としておこう。T高校は普通の公立高校で、特筆すべきことがあるとすれば生徒数が多めで、そのお陰か公立高校にしてはかなり校内の設備が充実していることと、あとは武道系の部活が強いことくらいだ。Hさんは勉強ができただけじゃなく武道家でもあって、特に剣道はインターハイ出場レベルの実力者だから、今はT高校の女子剣道部の副顧問をやってる。問題が起こったのは、その女子剣道部でだ」
おおよその背景説明が終わったところで、一羽目の鶴を折りながらアルマお姉さんが訊いた。
リクエストがなければお姉さんは鶴しか折らない。
「リンネさんも中々の実力者なのでしょう? 確か、四段でしたか」
「ああ、まあ、そうだね。段位と強さは関係ないけれど」
「四段? それって凄いの?」
スポーツや武道にはてんで無知な僕の疑問にお姉さんが簡潔に答える。
学生に誇れる程度には凄いですよ、と。
少し恥ずかしそうに微笑み、リンネさんが言った。
「僕の話は置いておこう。とにかく、T高校の女子剣道部の話だ。内容を簡単に言ってしまうと『剣道場の更衣室でHさんがメモ帳を拾って困っている』というそれだけの話なんだけど……順を追って説明していこうかな」
「登場人物の方に配慮するのは結構ですが、可能な限り詳しくお願いしますね。何が手掛かりになるか分かりませんから」
アルマお姉さんの探偵らしい言葉に頷いて、改めて彼は話を再開する。
「T高校の女子剣道部は結構な強豪で、特に団体戦のレギュラーは自主練習を行うこともあるんだ。一応説明しておくと剣道の団体戦は五対五だから、つまり五人でだね。その日も大会が近いとかで、部活自体は休みだったんだけど、レギュラー五人は自主練習を行っていた。普段は顧問か副顧問のHさんが指導役としているんだけど、顧問の先生は出張中、副顧問のHさんは別の仕事があって、その日はどちらもいなかった。部長主導で自主練を終えて、皆で道場を簡単に掃除して、剣道場の中の更衣室で着替えて、解散。鍵を預かってる部長の子は帰りに職員室に寄って、Hさんに鍵を返していった。Hさんは仕事を終えた後、戸締まりと忘れ物の確認の為に剣道場へ向かった。そして、更衣室でメモ帳を拾ったというわけだね」
「……更衣室の間取りを教えて頂けますか?」
「間取りって言っても、普通の更衣室だったはずだよ。長方形で、短い辺の片側に扉があって、反対側には壁と窓。両サイドにロッカーが並んでいて、真ん中には長椅子が二つ並べてある。男子剣道部も同じ道場で練習するんだけど、女子が更衣室を使うから、男子は用具室や道場の片隅で着替えてるね」
「何故高校の女子更衣室の間取りを男性であるリンネさんが把握しているのかは気になりますが、続けて下さい」
「いや、そんなこと言われたら続けられないよ……。一度Hさんにお願いされて、指導に行ったことがあるだけだって」
「指導に行ったことがあったとしても、女子更衣室の間取りを覚えている理由の説明にはならないと思いますが。いやはや、いたいけな女子高校生にリンネさんは何を指導したんでしょう? 私、気になります、ですよ」
そう言って、アルマお姉さんは口の端を歪める妖しい笑みを見せる。
参ったなあという心情を整った顔の全面に出しつつ、リンネさんは弁解した。
「僕が指導に行った日は土曜日だったんだけど、練習は午前中だけで、午後は道場の大掃除だったんだ。それで大掃除を手伝ってる内に、『更衣室の中の椅子を動かして掃除したいんですけど、重くって、だから手伝って欲しいんです』と頼まれて、女子更衣室に……」
「なるほど、分かりました。すみません、細かいことが気になってしまうタチでして。私の悪い癖ですね」
「うん、誤解が解けたのなら良かったよ」
安心した風に言うリンネさん。
僕はぼんやりと考えていた。
その剣道部の女子達はこの優しげな風貌のお兄さんと仲良くなりたいが為に、理由を付けて更衣室へ引きずり込んだんだろうなあ、と。
いくら長椅子と言っても運べない重さじゃないと思うし……。
況してや体育会系の女子だ、多分それはリンネさんと話したいが為の可愛い嘘だったのだろう。
まったく、美青年は得なのか、損なのか。
「とにかく話を戻すけど、Hさんが手帳を拾ったのはそういう間取りの女子更衣室でだった。場所はその二つ並んだ長椅子の下。普通に立っていたらまず気付かないだろうね。Hさんも手で弄んでいた鍵を落として、それを拾おうとした時に気付いたって言ってたよ」
「長椅子の下の、どの辺なの? 誰のロッカーが近いとかさ」
僕の問いにリンネさんは口元に手を当て、少し思案してから言った。
「……手前じゃなくて奥の方、って言ってたかな? 誰のロッカーが近いかは登場人物を紹介してから説明するよ」
「では先に、メモ帳の中身を伺いましょうか。誰が落としたのか分からなくて困っている、ということは、そのHさんという先生は誰が落としたか調べる為に中身を検めたのでしょう?」
「中身、中身かあ……。創作の設定帳ってだけじゃ、駄目かな?」
「そうですか。言い難い内容で、真面目な先生が対応に困り、落とし主も名乗り出ることができず、恐らく落としたのは高校生女子ということは……BL系ですかね? ショタ攻め総受けリバやおい、イケメンなお兄さん達が組んず解れつと言いますか」
一羽目の鶴を僕に渡し、二羽目の製作に取り掛かったアルマお姉さんの言葉に、リンネさんはなんとも言えない表情をした。
その顔が何よりも答えだった。
「…………本当に鋭いね、アルマさんは。その通りだよ。メモ帳の内容はボーイズラブ系の設定集。二次創作って言うのかな。どのカップリングが良いとか、このキャラは好きな人の前ではこんな感じだろうとか、そういったことが書き連ねてあったらしい。思い付いた時にこっそりメモしてたんだろうね。走り書きらしい綺麗とは言い難い文字で、全体的に掠れてたって」
「メモ帳に密かに自らの発想を書き留めるとは、古風な創作女子ですね」
「その古風さが裏目に出た形だけど……。落としたのがスマホなら中身を見られることはなかっただろうし」
BL、BLか……。
僕には良く分からないけれど、世の中にはそういう、男の人同士が愛し合う様を見て喜ぶ女の人が存在するらしい。
いつだったかお姉さんは「女子の有り触れた嗜好の一つです」と言っていた。
けれど、有り触れていると同時に恥ずかしいことというか、できれば隠しておきたい嗜好でもあるようだ。
だからこそ、落とし主は名乗り出ることができないんだろうし。
「ちなみにですが、どの作品のどのカップリングだったんですか?」
「その情報、いる?」
「男の方であるリンネさんには分からないと思いますが、ある程度BLに精通すると、その女子の見た目や性格から好みのカップリングが分かるようになるそうですよ」
「そうなのか……。かのシャーロック・ホームズが、ズボンの泥がロンドンの何処で付いたものか判別できる、みたいなものかな」
BLの好きな女の人には申し訳ないけど、僕の大好きなホームズをそんな例えに使わないで欲しい……。
「まあでも、残念だけどHさんはそういうのには縁がない人でね。良く分からないと言ってたよ。コートで云々、という記述があったらしいからスポーツ漫画だと思うけど」
「なら、恐らくテニスかバスケかバレーでしょうね。とりあえず趣味嗜好から落とし主を特定する線は諦めましょう。割って入って申し訳ありませんでした。ではリンネさん、話を続けて下さい」
「続けて下さいと言われても、もうほとんど話すことはないんだけどね。……とにかくHさんはメモ帳を拾って、中身を見てどうしたものかなあと考えて、一応次の日の部員達に『メモ帳の落とし物があったから心当たりのある者は名乗り出ろ』と言ったんだけど、誰も名乗り出なかった、と。それで、どうしたもんかなあと僕に話してきたんだ」
「そのH先生はメモ帳を落とし主に返してあげたいって思ってるの? 名乗り出る人がいないなら処分してしまおう、って考えになってもおかしくないと思うんだけど」
僕の言葉に、リンネさんは深く頷いた。
そうして、両の手を顔の横でピースの形にし、二度三度指を曲げた。
エアクオート。
この場合のニュアンスは「今から言うことは秘密にしてね」。
「……内緒にしろって言われてるんだけど、Hさんも学生時代は創作活動をしてたんだ。Hさんの場合はオリジナルの恋愛小説だけど……でも、自分の創作物を他人に見られた時の恥ずかしさや、原稿のデータが消えた時の辛さなんかは良く分かるから、だからできることなら落とし主に返してあげたいんだって」
「……良い先生なんだね、その人」
僕も、僕が一番よく話すお姉さんも、大人に対してあまり良い印象を抱いていないところがある。
いや、ここに入院している子どもは多かれ少なかれ大人に対して不信感がある。
でももし、そんな風に生徒の気持ちが分かる先生がいたら、例えばアルマお姉さんは学校に行けたのだろうか。
あるいは、僕は。
「……そうですか」
どうやらアルマお姉さんも、僕と同じようなことを感じたらしい。
三羽目の折り鶴を作る手を止めると、綺麗な灰色の目を細めて言った。
「私は何処の腐女子がどうなろうと知ったことではありませんが、リンネさんのご友人が困っていらっしゃるのなら、少し考えてみましょうか」
リンネさんはお姉さんの言葉に本当に嬉しそうに微笑んだ。
●
「Hさんは、前の日の部活で更衣室の掃除をしていて、その日に更衣室を使ったのは自主練に来ていたレギュラーの五人だけだから、多分その五人の中の誰かがメモ帳の持ち主だろう、って言っていた。五人の内、三年生は三人、二年生は二人だ。一人ずつの簡単な人物像と更衣室のロッカーの位置を説明するね」
まず一人目、と前置いてリンネさんは言った。
「一人目は部長、三年生の、えっとじゃあ……Sさん。団体戦では大将のことが多くて、実力的には一番上だ。女子としてはかなり身長が高めで、百六十後半から百七十前半……大体アルマさんくらいかな。成績もそこそこ良くて、部員に対しては少し厳しいところがあるみたいだけど、それは部長だから仕方ないんだろうね。部長だから、最後に戸締まりをして鍵をHさんに返したのがこの子だ。鍵を預かってたわけだから、職員室に返す前にメモ帳を落としたことに気付けば取りに行けただろう。ロッカーの位置は入り口から向かって右の一番奥。……こんな感じで良いかな?」
「結構ですよ、続けて下さい」
「二人目は副部長、同じく三年生の、この子はKさんにしておこう。Kさんは団体戦では大体次鋒をやってる。二番目に戦う人だね。Sさんとは対照的に、優しい性格の纏め役で、後輩の悩み事を聞くことも多いみたい。あるいはSさんと仲良しらしいから、怒る役と慰める役を二人で分担してるのかな? あとは……確か、一年生に妹がいたな。お淑やかでしっかり者で、お姉ちゃんって感じの子だったと思う。字も綺麗だから、この子は違うと思う、とHさんは言ってたなあ。ロッカーは入り口から向かって右の奥、Sさんの隣だね」
改めて考えてみると、人物像とロッカーの配置からメモ帳の落とし主を特定するなんて、かなり困難なことに思える。
いくらアルマお姉さんと言えど難しいかもしれない、と思い始めた僕を後目に、三人目の説明が始まる。
「三人目。Cさん、三年生。団体戦では副将が多い。大将の前、四番目に戦う人だね。この子は物凄く背が高くて、間違いなく百七十以上ある。加えて上段――竹刀を頭上に構えるスタイルで、しかも左利きだからかかなり打突が速かった記憶がある」
「剣道のことは良く分からないんだけど、野球みたいに左利きの方が有利なの?」
「いや、そんなことはないかな。大体のスポーツでは左利きだと有利なんだけど、剣道ではそうでもない。ルール上は問題ないらしいけど、左利きだからって左利き用の構え方をする人はあまり見たことがない。左利きの人も右利きの人と同じように構えてるよ。ただやっぱり利き腕の方が力があることが多いし、特に左上段の場合だと打ちに行く際には左手一本になるから、左利きの人だとやりやすいのかもしれないね。剣道の世界において左上段で有名な八段の先生は元々左利きだったから左上段を始めたらしいし……でも、どうかなあ。僕は右利きだけど、右腕で刀を振ると力が入れやすいからこそ太刀筋が歪みそうだなあって思っちゃうな」
「剣道という武道は特殊なんですよ、眼帯君」
と、アルマさんが言った。
「何故かは寡聞にして知りませんが、剣道は左手を主にして使うことが基本となっているんです。剣道では右利きの方であっても、柄の先を握る左手に力を入れて竹刀を振るいます。日常生活においては右利き用の設備やルールに左利きの方が合わせる形ですが、剣道では左利きの方が竹刀を振るいやすい右構えに右利きの方が合わせているんです。ですからリンネさんも、恐らく右手一本よりも左手一本の方が竹刀は振りやすいのではないでしょうか」
「へえ……。なんだか変な感じだね」
「一応補足しておくと、剣道において右構え、つまり右手が上で左手が下の構え方が主流なのは元が剣術だからと言われてる。お侍さんは左腰に刀を帯びてたから、それを抜こうとすると自然に右手が鍔元、上の方を握ることになる。必然的に柄の先を左手で握る。刀を抜く時はひょっとしたら殺し合いになるような切羽詰まった状況だから、右手の方が振りやすくとも手を入れ替えるのが不合理だったんだろうね。じゃあそもそも何故左側に帯刀してたのか、とまで考えると、もうこれは武道家じゃなく歴史家の領分だから分からないけれど……」
僕はお姉さんと顔を見合わせ、勉強になりましたね、と笑い合う。
こういう風に、流石のアルマお姉さんでも知らないことがあると分かる瞬間が、僕は好きだ。
ほんの少しだけだけど、この名探偵のことを身近に感じられるからかもしれない。
「ええっと、何の話だっけ? ああ、そうか、Cさんの話だったよね。Cさんは身長が高いこともあってスポーツ全般が得意で、たまに他の部活の助っ人に行ったりもしてるそうだよ。性格としては、うーん、普通の子かな。さっき言った、僕がその剣道部に行った際には、『私は鞍馬さんみたいな背の高い男の人が好きです』と笑ってたなあ……。ごめん、僕も男だから、女の子に褒められるとそればっかり覚えちゃうな」
はにかんだ風に笑うリンネさん。
こういうことを嫌味なく、自然に言えるからモテるんだろう。
「背が高いことは分かりましたから、Cさんのロッカーの位置を教えて頂けますか?」
「ああ、ごめんごめん。Cさんのロッカーは向かって左側の一番奥だよ。僕はそうは思わなかったけど、普段から接しているHさんが言うには抜けてるところがあるらしいから、彼女が落とし主の可能性は大いにあるって」
「なるほど……」
六羽目の鶴を作り始めたお姉さんは「続けて下さい」と話を促す。
「三年生が以上、後は二年生二人。一人目は……Iさん、にしよう。Iさんは中堅、三番目に戦う人だ。他の子は小学校からずっと剣道をやってるけど、Iさんは中学校から始めたらしい。今も二年生でレギュラーだし、センスがあるんだろうね。性格はアッパー系で、とても明るい子だよ。僕を更衣室に呼んだのはこの子だったなあ。ちょっとずぼらというか、適当なところもあるみたいで、忘れ物は多いし、よく部長のSさんに怒られてるらしい。副顧問のHさんが考える限りでは『一番落とし物をしそうなのはIだけど、Iなら笑って名乗り出そう』とのこと。ロッカーの位置は向かって右側の真ん中くらいかな?」
「最後の一人はどんな方ですか?」
「五人目は……どうしようかな、えーっと、じゃあYさんにしよう。Yさんは先鋒が多い。切り込み隊長として一番最初に戦う人だ。ただ切り込み隊長とは言っても、本人の性格は大人しい方だよ。身長も五人の中で一番小さいし、古風なおさげが印象的だったな。剣道以外では本が好きで、多分剣道は高校までで大学では文系のサークルに入るだろうって。Hさんは『イメージとしては一番創作をしていそうだけど、ロッカーの位置がメモ帳が落ちていたところから一番遠い』と言ってた。Yさんのロッカーは入ってすぐの左側だね」
リンネさんは流石に疲れたのか、溜息を一つ吐いた。
僕は改めて五人の少女をイメージしてみる。
「うーん……」
Sさん、部長、鍵の管理者、厳しい性格、ロッカーは向かって右側の一番奥。
Kさん、副部長、優しいお姉さん、字が綺麗、ロッカーはSさんの隣。
Cさん、背が高い、左利き、リンネさんが好き、ロッカーは左側の奥。
Iさん、明るくて適当、忘れ物が多い、よく怒られている、ロッカーは右側の真ん中くらい。
Yさん、小さい、大人しい、文学少女、ロッカーは左側の手前。
「眼帯君、どうでしょう? 分かりましたか?」
「正直に言っていい?」
「どうぞ」
「全然分かんない」
僕が正直にそう言うと、アルマお姉さんはふふっと笑った。
その瞳は見下すようではあるけど、駄目な弟を見るようでもあって、なんだか心地良くて気恥ずかしい。
そんな感情を隠すようにして僕はリンネさんに問い掛ける。
「H先生は字の感じから誰が持ち主か分からないの?」
「そうだなあ……。一応Hさんも考えてみたらしいんだけど、全体的に走り書きが多いこともあって分からないらしい。ただ普段の字が綺麗なのはKさんで、逆に悪筆なのはIさんと言ってたかな」
「うーん……」
縋るように隣に目をやる。
見れば、いつの間にかお姉さんは鶴を折るのをやめていた。
折り紙を折るのは考える時の彼女の癖。
つまりアルマお姉さんは、もう答えを出したのだ。
「アルマお姉さん、誰が落とし主か分かったの?」
「そうですね。今回の場合、私も確信はありません。……ですが、自信はあります。断定はできませんが、この五人の中で誰が一番落とした可能性が高いか。それは判断出来ました」
いつも通り謙虚に、そして穏やかに僕のホームズは告げる。
日本人としては珍しい、ダークブルーの瞳を細めて。
「では眼帯君、今日のホームズからワトソン君への問題です」
「ええ、またそれ?」
「はい。また、です。今回も私は自分の説の補強のため、リンネさんに、あるいはリンネさんが分からない場合にはそのHさんに、質問したいことがあります。それは一体なんでしょう?」
「でも僕全然検討も付いてないし……。ヒントはないの?」
「ヒントですか。では、質問は落とし物のメモ帳に関することです。考えてみて下さい」
質問は、メモ帳に関すること。
そうアルマお姉さんが言った瞬間、リンネさんの眼光が鋭く変化した。
そうして静かに「ああ、そうか」と呟く。
なんでこんな簡単なことに気が付かなかったんだと言わんばかりに。
「……どうやらリンネさんの方は分かったようです。さて、ワトソン君はどうでしょう?」
未解決の謎。
未解決の謎。
候補は五人、メモ帳の落とし主は……?
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