第6話「神功皇后」伝説の謎
「神功皇后」伝説の謎
日本人に取り古代英雄伝説で最も代表的な物語が「神功皇后」である。
その活動は九州を中心に展開し、日本の各地に分布される八幡神社は、神社総数の約12万社ある中で4万社余りが神功皇后を祭神として祀り、地域の一ノ宮として多く崇敬を受け、皇孫の祖神として古くより伊勢神宮と共に崇拝されている。
「神託と神功皇后」
景行天皇の死後、後継に成務天皇が継承したが皇子にいなかったので「ヤマトタケル」の第二に皇子の足仲彦(仲哀天皇)が即位した。
足仲彦(仲哀天皇)は父ヤマトタケルの武勇に長けているのに反し、弱々しく描かれている。ヤマトタケルクマス征伐後に、景行天皇が九州熊襲征伐を行なわれた。次ぎに即位した成務天皇が皇位就いたが継子が無かった為にヤマトタケルの皇子の仲哀天皇が即位したが、再び熊襲が朝廷に反逆を企てたと知って、天皇は熊襲征伐に向かいった。
九州は筑紫の香椎宮で武内宿禰が神降ろしの場で、神託を問うた所「西の方国があり、その国には金銀の財宝の財宝がる。その国に行くように」のお告げを仲哀天皇は疑って「西方を見ても大海があるだけ」行動を起こされなかった。神は「そなたはこの天下は統治する国ではない、そなたは黄泉の国に向かいなさい」と仰せになった。
そのとき下された神託に従わなかった為に神の怒りに触れ、翌年仲哀天皇は崩御されたと記されている。
武内宿禰は神に、皇后の御腹の皇子の男女の別を問うた所、皇子とお告げがあって、大神の名を問えば「天照大御神の御心による、表筒神、中筒神、底筒神の住吉三神である」と答えたと言う。
* 仲哀天皇の不可解な謎の死は、神功皇后の御腹には世継ぎの予言と神託が述べられている。
何か仲哀天皇に身辺に、記述にない王権に政変があったのか、短い記述で神罰があったことを伝えている。
神功皇后を支える武内宿禰と住吉神三神の導きで国内統治、三韓征服を進めていく、九州を中心に展開されてゆく。
一方、神託に従った神功皇后は、熊襲、土蜘蛛を次々征服した。
* 神功皇后の出自については、「日本書紀」には気長足姫尊は開化天皇の曾孫、気長宿禰王女である。母は葛城高顙媛と言う。幼少から聡明で、叡智があって、容貌も優れ、美しいと記されている。
また「古事記」には誉田別(応神天皇)の母オキナガタラシヒメについて新羅の沼の畔で娘が昼寝をしていると、日光の娘の陰部に日が射し、やがて身篭り赤い玉を産んだ。これを見ていた男は玉を貰い受けたが、ある時国王の子アメヒボコから牛殺しの疑いをかけられ許しを請う為に赤い玉を差出した。
赤い玉は美しい娘に変身、王の子と結婚、その後二人は不仲になって、やがて娘は「祖先の国」に行くと小船に乗って海を渡り難波に住みついた。後追ってきたアメヒボコは多遅摩(但馬)に上陸、新羅より持ち込んだ「八つの宝」八前の大神として出石神社に祀られ、アメヒボコは多遅摩に住み着き妻を娶り、その子孫から神功皇后(オキタナガタラシヒメ)であると語られている。これを見れば渡来系の影響の神と見られる。
「三韓征伐」
神の神託によって「三韓征伐」は「記紀」に記載されている。夫の仲哀天皇が急死後、神功皇后が六八年間代わって政務を執り行った。
先ず始めに齎宮に入って自ら神主になって、住吉大神の神託で再び新羅征伐の託宣がでた。対馬の倭珥津を出発し、妊娠したままの海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を攻めた。新羅は戦わずして降伏して、朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約束したという。「日本書紀」には新羅王は王子を人質に出した事記されている。
新羅国を馬飼と定め、百済国の海を渡った、地名を屯倉と定め、皇后は御杖を新羅の国王の門に突き立てた。
住吉三神の荒御魂を、国を守る守護神として鎮め祭り、帰国され新羅から帰国後、筑紫で誉田別皇子(応神天皇)を産んだと「古事記」に記されている。
神功皇后は帰国に際し出産を遅らせるために、御腹に月延石、鎮懐石と言われる石を当ててさらしを巻き、冷やす事によって出産を遅らせた。
月延石は3つあったとされ、長崎の月讀神社、京都の月読神社、福岡の鎮懐石八幡社に奉納されたと言う。
神功皇后の帰国後、新羅王汗礼欺伐は人質として倭国に渡った妻子が奴婢とされたので使者を派遣し返還を求めてきた。
神功皇后はこれを受け入れ、見張りに葛城襲津彦を新羅に遣わすが、途中の対馬で新羅の使者に騙され逃げられた。
これに怒った襲津彦は新羅の使者三人を焼き殺し釜山南の多大浦から上陸、慶尚南道梁山辺りを攻撃し捕虜を連れ帰った。
この時の捕虜は桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
「百済記」には神功四六年に百済が倭国に朝貢した記述が残されている。
神功四九年には神功皇后は将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅に急襲しょうとするが、兵の増強を進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪らに合流を命じて、新羅軍を破った。その後七カ国を破り、四つ邑は抵抗もなく降伏した。
神功五一年には百済は久氐を派遣し朝貢した。
皇后五二年には百済王は倭国との同盟を記念し七子鏡と七枝刀を献上した。
「葛城襲津彦の新羅征討」
神功皇后62年葛城襲津彦を遣わし新羅を打たせる。
「百済記」に拠れば新羅が倭国に奉らなかったために沙至比跪(さちひこ葛城襲津彦)を新羅に遣わし討伐したが、所が沙至比跪は新羅の美女に心奪われ矛先を加羅に向け滅ぼす。
加羅王は百済に亡命し、加羅王の妹は天皇に直訴し、天皇はこれに怒り木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また沙至資跪は天皇の怒りが収まらないと石穴で自殺した。
* 4世紀末から5世紀初頭にかけ大和政権は、新羅を征圧した事は歴史的史実で朝鮮半島の百済、新羅などに「記」残されている。
学説には神功皇后の新羅征服の伝説は「記紀」に押しはめたに過ぎず、継体天皇時代に形成されたと推測され、神功皇后の存在の史実に懐疑的な見方もある。
その要因として斉明天皇が新羅征伐に断行し客死しその後「白村の戦」に失敗、敗走し中大兄皇子の近江宮遷都になった史実と持統、元明へと女帝を元に神功皇后像が出来上がったのではとの説がある。
また近年まで魏志倭人伝の卑弥呼には天照大神と並んで、神功皇后が最も有力な候補とされていた。
江戸時代には新井白石が大和説、本居宣長が九州説など色々憶測を呼び、九州中心に活躍をした神功皇后の記述には、倭の女王が魏の皇帝に貢物を贈った、と言う魏志倭人伝の記事が引用されている。
「古事記」大和帰還への道
新羅から帰国した神功皇后は、九州に一旦落ち着かれ皇継の誉田別皇子を出産、大和に帰還には大きな問題があった。
先妻のオホナカツヒメの仲哀天皇の間に生まれた皇子二人、香坂王(カゴノサカ)、忍熊王(オシクマノ)が待ち構えていた。九州にあって神功皇后は大和の不穏な動きを察知、反逆のここ抱く事を懸念し策を講じた。
「古事記」にはこう記されている。棺を乗せる船一艘を用意し、皇子を喪船に乗せ「皇子はすでに亡くなられた」と噂を流された。
これを聞いたカゴサカノ王とオシクマノ王は皇后一行を待ち伏せて討ち取ろうと「斗賀野」(大阪兎我野町か神戸の都賀川の地か?)で可否を占って「誓約狩」をした。
カゴサカノ王は櫟(くぬぎ)に登っていたら、大きな怒り狂った猪が現れ、カゴサカノ王を食い殺した。弟オシクマノ王はそれを怖れる事無く、軍勢を立て直し皇后の軍勢に立ち向かった。
皇后も軍勢を降ろし相戦った。オシクマノ王は難波の吉師部(大阪岸部?)の祖先イサヒノ宿禰将軍として、一方皇太子は和禰臣宿禰をナニハネコタケフルクマノ将軍として、追い退けて山城に至った時、オシクマノ軍は立ち直り、相戦った。
皇太子側のタケフルクマノ将軍は「皇后は亡くなったのでもう戦う事は無い」と噂を流し、弓の弦を切って偽装降伏をした。その計略にはまったオシクマノ軍勢は武装解除した所へ、皇太子軍は隠し持っていた武器を追撃、逢坂辺りまで追い詰めは破り、楽浪で悉く切り伏せた。オシクマ王と将軍は追い詰められ湖上に乗り上げ、身を投げて共に死んでしまった。
戦いが終わってタケシウチウチノ宿禰(建内宿禰)は皇太子を連れて、禊をする為に、近江と若狭国を巡歴した時、越前の国の仮宮を造りそこに住まわせた。
その地のイザサワケノ大神が夢に現れて「私の名を御子の御名に変えたい」とお告げがあった。お告げに従う事を伝えると、明日、浜に来ればその贈り物を差し上げると告げられた。翌日浜に出てみると、鼻に傷付いたイルカが浦一杯に集まっていた。
これを見て御子は「神は私に食料の魚を下さった」と神を讃えて「御食津大神」と名付けた。それが今に「気比大神」であると言う。
イルカの傷付き臭かったので「血浦」と言ったが、今は「角鹿」(弦が)と呼んでいる。気比大神の前で成人の儀礼を終えた御子は都に帰還して、神功皇后が待ち受ける待酒によって「大御酒を献上し」御子が天皇と認められた。
この段は「酒楽の歌」が二首に歌謡によって作られている。仲哀天皇の御陵は「天皇を河内国の長野陵に葬りまつる」神功皇后は「狭城の楯列陵を葬り申し上げた」ときされている。
*「古事記」では難波に向かう筈の御子がわざわざ「角鹿」つるがに禊に行ったかについては神功皇后の出自の系譜の「天日槍命」に名を代える成人の儀式と一般的に言われている。「原始的な即位儀礼」と解されている。
「日本書紀」では御子を武内宿禰が抱いて戦っているが、「古事記」では皇太子、成人として陣頭指揮をしている。
若狭地方は海人部の拠点、漁業や海の産物で生業をしている。笥販大神、御食津大神は食物を司る神として、古くより朝廷に献上していたかも知れない。また北陸一帯は朝鮮半島に近く、白山神社のように新羅系に神々を祭神とする地域、オオクニヌシ系の国津神、地主神などが点在する。
この気比神社や若狭への巡行は神功皇后の出自の関連付けではないかと思われる。
「日本書記」大和帰還への道
新羅を討った後、皇后は軍卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に遷って天皇の遺骸を乗せて都に向かった。
その時仲哀天皇の先妻の御子、麛坂王、忍熊王は「皇后には御子あり、郡臣は従っている、皇后は幼い御子を立てるだろう、自分達兄である、どうして弟に従えるか」と画策を立てる。
天皇の陵を造るまねをして、淡路島に渡り石を運び、人海で皇后を待った。犬上君の倉見別と吉師の五十狭茅宿禰は麛坂王に付いた。将軍として東国に兵を起こさせた。
麛坂王、忍熊王は兎餓野を出て様子を窺った。その時 赤い猪が突然襲いかかり麛坂王を食い殺した。
忍熊王は軍を率いて退却、住吉にたむろした。皇后は敵の動きを知って,武内宿禰と御子を抱いて迂回し紀伊水門から、皇后は真っ直ぐ難波に向かった。途中で船がぐるぐる廻って進まず武庫に帰って占われた。
天照大神のお告げには「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない、広田国(摂津広田)に置くが良い」葉山媛に祀らせた。
また天照大神の妹の稚日女尊が教えて「自分は活田長狭国(摂津生田神社)に居たい」それで五十狭茅に祀らせた。事代主が長田国(長田神社)に祀らすように、住吉三神が大津の淳名倉の長狭の祀らせるように、お告げに従った。 これら神々の鎮座を見て平穏になった。
忍熊王は陣を引き、宇治に陣取り、皇后は紀伊より日高で太子(応神天皇)に会えることが出来た。
群臣は忍熊王を討たんと小竹宮(和歌山県御坊市小竹)に移り、変事の障害に遭い、何日かが過ぎて武内宿禰と和珥の臣の祖先竹振熊に命じて、数万の兵を率いて山城付近に進出した。
宇治に至って忍熊王は陣営を出て戦おうとした。そこで武内宿禰は和睦を提案し、直ちに武器放棄を装った。
忍熊王はその偽りの言葉を信じ、忍熊王は全軍に武器を解き河に投げ込む事を命令した。
武内宿禰は隠し持っていた控えの武器を出して敵に迫った。
自分は騙されたと知った忍熊王は兵を率いて逃げたが武内宿禰は精兵を送り近江の逢坂で追いつき破った。逢坂の地名はこの地名に基づく。
「日本書紀」はここで仲哀天皇の陵を河内国の長野陵に葬ったと記され、誉田別皇子の立太子として「大和国の磐余に都を造った」と記されている。
その二年後、新羅王が朝貢されたと記述が残されている。
* 「日本書記」では神功皇后の大和帰還には難波から播磨国を拠点に住吉神のお告げと、お告げにより、神を祭り難を逃れ、神功皇后は和歌山から迂回、武内宿禰軍と合流、近江で策略で忍熊王を討ち取った。
麛坂王は「古事記」と戦いの最中に「日本書記」同じく猪に食い殺される。九州を立って大和帰還する時には誉田別皇子が近江に戦った時は成人になっているので、何年かの月日が経っていると言う事かもしれない。
◎神功皇后の邪馬台国の卑弥呼説について、「記紀」の編纂者は「神功皇后紀」には卑弥呼を意識して考えていたとようである。これを基に江戸時代までは神功皇后が卑弥呼と考えていた様であるが、神功皇后の三韓征伐に「魏志倭人伝」はこの件に言及していない。時代考証に100年のずれがあって、今日では余り論議されない。
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