第5話ヤマトタケル英雄伝説の謎
ヤマトタケル英雄伝説の謎
日本人の英雄伝説で、最も人気の高い「ヤマトタケル」の伝説は今も語り継がれ人々の脳裏に刻まれている。
「記紀」に記されている「ヤマトタケル」は“小確尊”(ヲウスのみこと)のことである。
「記紀」に編纂されている「ヤマトタケル」は「日本書記」と「先代旧事本紀」では”日本武尊“称し、「古事記」では倭建命と称され、内容も「日本書紀」では少し趣が違い「古事記」の方が詳しく記されている。
主人公の「ヤマトタケル」の猛々しい活躍と、叔母倭媛と皇継関係とヤマトタケルの裏面性も赤裸々に描かれ、大和王朝を取り巻く政治と支配状況と、地域の土地柄を知らしめる遠征と、悲運な「ヤマトタケル」の終末が日本人の共感を呼び伝説が今尚語り続けられている。
小確(ヲウス)大確(オホウス)
父王オホタラシヒコシロワケの多くの妃を持ち八十人の皇子が生まれて上に、三野国(美濃)の噂の美くしき姉妹姫を娶る為に兄のオホウスに連れ帰る事から端を発する。
その美しき姉妹姫はエヒメとオトヒメと言う、兄のオホウスは二人の姫を自分の妻にしてしまい別の娘を父王に差し出した。
「記紀」描かれている王継を廻り紛争は兄、弟など女性問題が絡み正統性を関連付け引き継がれている。
このヤマトタケルの場合も兄オホウスと弟のヲウスの展開から始まり、兄のヲホウスの父王に背信行為に、少年であったヲウスが諭し役になり、兄オホウスが厠に入る所を掴み手足を引きちぎり、薦に入れ投げ捨てる。
「日本書記」には兄殺しの記載なく父王の一旦九州平定の後、16歳のヲウスに討伐に遣わした。倭姫の登場もない。
* この凄い腕力は出雲の国譲りの場面で高天原の使いのタケミカズチが、タケミナカタが抵抗したので、握りつぶし身体を投げ飛ばし諏訪まで追い詰めた強力に似ている。
この話を聞いた父王(景行天皇)ホタラシヒコは、わが子の制御の効かない暴力的な性格に慄然とし、豪腕ヲウスを恐れ疎んじ、排除を企て九州を支配しているクマソタケル兄弟を討ち取るように命じた。
* この時代には九州に抵抗する強力な種族の熊襲、隼人が大和王朝に激しい抵抗して抵抗していたのだろう。一般的に熊襲と隼人は同一視されているが九州に置く別の種族で時期的に隼人は平安時代に登場し霧島市から隼人の石塚が出土されている。天孫降臨の日向三代の兄海彦幸の弟山彦幸の登場で皇継に成れなかった山彦幸の末裔とされている。
力を持て余すヲウスは父王の真意を知らず喜び九州に向かうがその前に叔母ヤマトヒメの所に寄って「御衣と御裳」をお守りとして受け取り意気揚々と西に向かった。
* この場面で出てくるヤマトヒメ(倭姫命)は父王の妹姫で伊勢の祭祀を司る。豊鍬入彦命の後を継ぎ天照大神の御杖代として大和から伊勢の国に入り、神託により皇大神宮を創建したと伝えられる。ヤマトヒメについては東征の折にも立ち寄り何かにつけヤマトタケルに励まし支えになっているようである。
熊襲征伐へ
大和を旅立ったヲウスは熊襲の首長クマソタケル兄弟の征伐に向かった。手勢やどの様な行程は定かではないが、ヲウスは策略を練って、熊襲の館に忍び込み「麗しき娘の姿」の女装で祝宴に紛れ込みクマソタケルに近づき酌をして廻った。叔母ヤマトヒメから授かった御衣で変装し、色白で妖艶なヲウスの女装に心奪われ二人の隙を見て、突然兄クマソに襲い掛かり胸に突き刺した。
さしずめ15.6歳の美少年であったろう。そんな妖艶な美少年に油断したのか、不意を突かれた勇猛な熊襲タケルは、ヲウスの短剣の一刺しで絶命、その様子を見た弟タケルは逃げ出したが酒に酔って逃げ出せず、館の端に追い詰められ、背中を掴み尻を一突き通した。瀕死の弟タケルは今際の際で相手の名を問うた。
私はヲウスまたの名は「ヤマトヲグナ」と答えると、弟のタケルは自分達より強い者達が西方に居た事知った。その勇猛さを讃えて「ヤマトタケル」の名を与えた。絶命したタケルをヲウスは剣を引き抜き果実を切り刻むが如く斬殺をした。以後ヲウスは「ヤマトタケル」を名乗ることになった。
*この熊襲征伐に巧妙な策略と残虐な殺戮方法を「記紀」は飾り立てる事なく赤裸々に描写している。この時代には仕返や反逆を恐れ、根絶やしに抹殺する種族存続に激しい争いがあったのかも知れない。当時の遺跡の人骨に刻み込まれた痕跡があり、大和王朝の覇権拡大の手段の選択は無く、地方の種族の熊襲が「ヤマトタケル」の名を与える事で傘下、従属を示したのであろう。
出雲征伐へ
熊襲征伐を終えたヤマトタケルは筑紫水門から日本海に沿って北上し「出雲国」に入った。出雲に着いた「ヤマトタケル」の武勇は伝わっていたのか「イズモタケル」と友情結んだ。ある日の事、「ヤマトタケル」は木で造った偽物の剣を腰に吊るし、イズモタケルを誘い肥の河に水浴に出かけた。
水浴を終え「太刀の交換」を提案し先に水から上がった「ヤマトタケル」はイヅモタケルの太刀を腰につけ、後から上がったイズモタケルは残された「ヤマトタケル」の太刀を腰につけた。そこで「ヤマトタケル」は太刀合せを挑んだ、偽物で太刀は抜けないイズモタケルの隙を見て一機に切り殺してしまった。
*出雲に入って「イヅモタケル」「熊襲タケル」タケルは日本書記の「武」古事記の「建」と勇ましい男の美称だったのだろう。
しかし今回も「太刀の交換」と言う友情の証とでも言う口述で、手段を選ばない姑息な策略で出雲国のイズモタケルを屈服させたのである。古代謎に包まれた巨大な出雲国家の中央王権への抵抗の激しさを物語る。また「古事記神話」の国譲りを連想される。突如現れた出雲地方の荒神谷遺跡は「銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個」が出土、何故あれだけの武器が一箇所に埋めなければならなかったかは解明されていない。
ただしイヅモタケルについては「日本書記」にはこの出雲の物語は一切再登場せず、熊襲征伐後は吉備や難波の邪神を退治し、内海の水路を開いたとして天皇の賞賛を受けた。
東征へ
大和に帰還した「ヤマトタケル」は何の労いの言葉も無く、直ちに東征への出発
の命令であった。
◎「古事記」では西方の蛮族から帰ると直ぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の征伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父王のは自分を死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙の剣)と袋を与え「危険時にはこれを開けなさい」と言う。
◎「日本書紀」には東征には将軍として兄のオホウス(大確命)が選ばれたが、怖れずいて逃げてしまい、代わりにヲウス(日本武尊)が名乗り、天皇は賞賛し皇位継承を約束する。また軍勢には吉備氏、大伴部氏を就け、古事記の記述には泣きながら趣くのと違って、喜び勇んで東征に趣いた。後は伊勢により倭姫命より「袋」と「草薙の剣」が与えられる。「草薙の剣」はスサノオが出雲での大蛇退治で尾の中から出てきた剣で「草薙の剣」は伊勢神宮にあったものとされている。
「古事記」には伊勢から尾張の尾張国造家に入り、美夜受媛と婚約をして相模国に、国造の荒ぶる神がいると欺かれ「ヤマトタケル」は野中で火攻めに遭ってしまう。
そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打ち石が入っており、草薙の剣で草を掃い、迎え火を点け逆に敵を焼き尽くしてしまう。その地を焼遣(焼津やきず)として地名として残っている。
相模から上総に渡る際に、水走の海(浦賀水道)を渡る時に大嵐に遭う。船は荒波に翻弄され進むことが出来ず、后橘媛が海を鎮める為に見ら命に替わり入水すると、波は自ら鎮まった。嵐の7日後に媛の櫛が浜辺に見つかったと言う。后弟橘媛の夫「ヤマトタケル」の恋い慕って回想する歌を詠んでいる。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」が「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語し神の怒りをかったと記されており、后弟橘媛は犠牲によって難局を逃れた事を記されている。
ヤマトタケルは更に東国に「蝦夷」を平定し、足柄坂(神奈川、静岡)の神を蒜(野生のひる)を打ち殺し、東国を平定し、四阿嶺に立ち、そこより東国を望み后弟橘媛を偲び「吾妻はや・(我妻よ)」と嘆いたと言う。それ以降、東国を「東、吾妻」と呼ぶようになったと言う。その後、甲斐国の酒折宮で連歌し難局を振り返る。その連歌の下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。
科野(信濃)経て尾張に入った。
「日本書紀」には「ヤマトタケル」の行程が古事記と異なり上総から北上し北上川流域まで達し、陸奥平定後、甲斐酒折へ入り、ここで吉備津彦に「越」(北陸に向かわせた)「ヤマトタケル」は信濃の坂の神を蒜で殺し、越を廻った吉備津彦と合流した。
尾張に入った「ヤマトタケル」は結婚の約束をしていた「美夜受媛」と歌を交わし、そのまま結婚をしてしまう。神剣を美夜受媛に預けたままに、伊吹山のへその神を素手で討ち取ろうと出立する。この遍は日本書紀と同じである。
素手で伊吹の神と対決に趣いた「ヤマトタケル」の前に、白い大猪が現れるが、上の使いと軽く無視をした。実際は神の化身で大氷雨を降らされ失神させられつぃまう。山を下ったヤマトタケルは居醒めの清水で気を取り戻したが、既に病に侵されていた。
弱った身体で大和に目指して、当芸。杖衝坂、尾津、三重村と進み、その間地域の地名起源を描写しながら、死に際のヤマトタケルの心情を述べながら能煩野で「大和は国のまほろば・・・」と4首の歌を詠みながら亡くなった。
「日本書記」では伊吹山で大蛇をまたいで通ったことから神に怒りをかって氷を降らされ、病身となり尾津から能煩野に至り、伊勢神宮に蝦夷を献上、朝廷には吉備津彦に報告させ、三十歳で亡くなった。
* 東征では、九州や出雲の猛々しい活躍はなく苦戦を強いられている様子が窺える。幾度となく難局を踏破しながら「ヤマトタケル」の個性を十分察し出来る描写が続き、后の登場と助けを必要とし、身を呈して救った弟橘媛への慕情と葛藤の歌が詠まれている。荒ぶる神々は蝦夷や地域の種族、豪族であろう。国造の役人も配置が伺え、大和朝廷の支配地がまばらに存在していたことも推測できる。
また叔母のヤマトヒメの授かった草薙の剣も火打石も威力を発揮できず「日本書記」には吉備津彦、大伴部氏を共に就けているがその動向は伝えていない。叔母から授かった「草薙の剣」は伊吹山で結婚した美夜受媛に預けて荒ぶる神に立ち向かう、この「草薙の劔」は草を掃って難を逃れる、不思議な神通力の劔を忘れたがこのヤマトタケルに登場させたのは皇位の「三種の神器」の正統性を示す為とも言われ、その後、美夜受媛の元に熱田神宮に祭られている事になった。
白鳥になった「ヤマトタケル」
「古事記」ではヤマトタケルの死の知らせを聞いて、大和から訪れた后や皇子達は陵墓を造り周りを這い回り、八尋白智鳥と化した「ヤマトタケル」を歌を詠いながら後を追った。
白鳥は伊勢を出て、河内の国志畿に留まり、そこに陵墓を造るが、やがて大空に舞い上がっていった。
「日本書紀」には父天皇は悲しみの余り、寝食も進まず、百官に命じてヤマトタケルの能煩野陵に葬るが、白鳥になって大和に向い、飛び去って行ったと言う。白鳥は大和琴弾原から河内は古市に舞い、そのうち大空に舞い上がり天に昇っていったという。
◎ 景行天皇の御世は「古事記」にはヤマトタケルを中心に描かれているが「日本書紀」には景行一二年に熊襲は朝廷に反旗を翻した。この時天皇は自ら筑紫に向い途中、周防で四人の土蜘蛛を退治、九州に渡っては石室と禰疑野に澄む5人の土蜘蛛を次々と打ちのめし、熊襲の本拠地日向の国では熊襲の娘を味方につけ「熊襲タケル」を娘に打たせた。
その後七年間九州征伐を敢行し大和の戻っている。その後わが子の「ヤマトタケル」征服した諸国を巡行したと記されている。「古事記」と違って慈悲深い天皇に描かれている。
* ヤマトタケルの悲運な死に追悼する者多く、各地に伝説が生まれ、伝説の地に陵墓、神社が造られ「ヤマトタケル」が没した能煩野の三重県に「白鳥塚」亀岡市に「T字塚」が「能煩野陵」に日本書紀には大阪羽曳野市には「白鳥陵」が、最後に立寄ったとされる「大鳥神社」和泉の国一ノ宮として信仰を集め祭神として祀られ、近江国一ノ宮の建部神社は稲依別王、犬上君、建部の君の祖として祀られている。
「日本書記」と「古事記」の記載事項に違いはあるが、伝え記された足跡は、架空ではあるが日本人に数々の伝説と夢を残した古代の英雄の覇者「ヤマトタケル」は、揺ぎ無い大和王朝確立に寄与した事には違いない。
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