歴史短編集

川村一彦

第1話「徐福伝説」の謎 


「徐福伝説」の謎 

徐福伝説は紀元前3世紀頃に秦の始皇帝の命を受けて不老不死の霊薬があるとされた東方の蓬莱山に向かって船出し日本に渡来した伝説である。

その伝説は日本の各地に残っていが一番著名なのは和歌山への徐福の漂着で「徐福公園」や「徐福の墓」まで残されている。

【起因】

また中国でも司馬遷の「史記」に秦の始皇帝の不老長寿の薬草を求めて神仙が住む東方絶海の彼方に向かったと記されている。

また朝鮮にも徐福伝説もあって『海東諸国記』に記された記述には孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、崇神天皇の御代に死に神となって、人々に祀られているとある。

また奇説として徐福がイスラエルの失われた10支族の一つでヨセフ(ジョセフ)ではないかと言う奇説まで存在する。

それほど古代の世界には徐福の存在が神秘に包まれ謎が多いのである。また徐福が東方の未知の国に薬草を求め旅立つ要因や起因は司馬遷の『史記』に記されているが二説ある。

「准南衡山列伝」によれば、秦の始皇帝に「東方の三神山に不老長寿の霊薬がある」と申し入れ、始皇帝の命の受け三千人の童女童男と百工を従えて、五穀の種を持って東方に船出をしたとある。そして「平原広沢」を得て王になって戻らなかった。

この筋書きを見れば始皇帝を騙し多くの臣下を従えて東方の広大な土地に移り住み其処で王となったと記されている。

※三神山とは、「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山については『竹取物語』に「東の海に蓬莱山という山あるなり」で「方丈」は、神仙が住む東方の絶海の中央にある島とされ、瀛州は日本のことを指すらしい。


同じ『史記』の「始皇帝本記」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の妙薬の献上する話を持ち掛け、援助を得たものの、その後、秦の始皇帝が現地に巡行した際には出港しておらず、改めて出向を命じたものの、その帰路には始皇帝が崩御したという記述になっている。

徐福は「不死の薬を名目で実際には出向せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。

また日本の一部の国民の認識として、秦の始皇帝が死の恐れから逃れるために不老不死の妙薬を採取すべく、その役目を徐福に命じた。

徐福は多くの随行の共の者と不老不死の薬草を持ち帰った所、秦の始皇帝は既に崩御していたとか、徐福が日本の紀伊半島に辿り着き、不老不死の妙薬を探し求めたが、見つけることができず、当地に住み着き子孫を残し亡くなったという説など民話風な筋書きになっていることもある。

これら現在の一般に流布されている徐福像は「准南衡山伝」に基づいたものがそれである。

これら記述を見ると徐福の中国での評価は芳しくない。

中国での徐福の評価を悪く要因は、不老不死の妙薬などあろうはずがない、不運にも無理な役目を背負わされた徐福は行き先の地に土着し「秦」と称し各地に残る「徐福伝説」存在の要因になったとされている。

中国では行く先で土着した徐福に良いことなど言う者などいるわけがない。記述は徐福のいない場所で秦の始皇帝を騙したとか欺いたとか言った決めつけの記述を残したのであろう。

その後、時代を経て日本の各地や朝鮮半島の徐福の英雄伝説の広まりに、徐福名誉回復に徐福一族が名乗りを上げ始め1982年『中華人民共和国地名辞典』の編纂の際、江蘇省運港市にある徐阜と言う村が「徐福村」が伝承や遺跡があることが判明した。

その後中国各地より観光客が多く訪れて好評となった。

中国の徐福の評価は日本や外国からの英雄伝説が反映された要因にあったと考えられている。

もう一つの説に中国でも徐福を英雄視する傾向は何によるものかと問えば、渡来先、渡航先の神秘に満ちた英雄の人物になっていて、中国人の徐福の所業と影響を中国の功績として評価させたい思惑が働くという説がある。


【日本の徐福の記録】

 紀元前219年秦の始皇帝に時代に童男童女500人と随員含めて総勢3000人の集団が引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方に向かって桃源郷日本に旅立つ一行がいた。その先導をする人が秦の始皇帝から命を受けた「徐福」であった。

この内容は平安時代の求法する円仁の「円仁入唐求法巡礼記緑」「阿部仲麿」「吉備真備」「古事記」「日本書紀」など等々となっている。

この報告は中国の内外で大きな話題と関心を呼び、真偽の論争が巻き起こった。

日本の著名人司馬遼太郎が崇高してやまない、中国の修史官「司馬遷」が著したもの発見であった。

徐福の名誉回復と評価の回復が日本に残された記録の数々であり、司馬遷の著した記述の再評価と発見にあった。


【徐福の航海】

出港地については現在の山東省から浙江省にかけての諸説がある。最も有力とされているのは河北省秦皇島から浙江省慈渓市辺りとされている。

航海の航路は途中の韓国済州島西帰浦市から朝鮮半島の西岸に立ち寄り日本にたどり着いたという。

『史記』には「徐福は童男童女を引き連れて脱出する時、稲を含む五穀の種子と進んだ農耕器具や生産技術をもって東渡した。

この記述は古代日本に稲など穀物の伝来を暗示するもので、朝鮮半島経由で北九州辺りにもたらしたと考えられ、海流に乗って鹿児島から四国沖を経由し紀州半島に渡来したものと考えられる。

当時の航海技術から考えても朝鮮半島伝いに済州島を経て九州沿岸に辿り着いた思われる反面

多数の要因、随行を要する平底舟から、こぎ手を必要とする大型船一隻125名の航行できる四隻で日本の沿岸に漂着したとしても不思議はない。


【日本の徐福伝承】

徐福伝説は日本の各地に残っている。青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。

佐賀県佐賀市・三重県熊野市・和歌山県新宮市・鹿児島県、いちき串木野市・山梨県吉田市・東京都八丈島・宮崎県延岡市などが有名である。

●徐福は現在の、いちき串木野市の上陸し、市内にある冠嶽にある分の冠を奉納したことが冠嶽神社の起源とされている。

因みに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然のたばこ葉が自生をしている。

●また丹後半島の新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』と、「すり鉢」言う古文書には徐福の事が記されている。

●徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されておる。

少し先の波田須駅の所に徐福ノ宮があり徐福が持参したと伝わる「すり鉢」をご神体としている。

徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説の物語は、地域によって様々である。

●『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で漢語と万葉仮名名を用いた分類で日本の歴史を記されている。

富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、徐福の来日した年代が『海東諸国記』の孝霊天皇の頃と言う記述が『宮下文書』の記述と符合するが指摘されている。福源寺山門鶴塚碑。

●山中湖の秦の徐福が不老不死の薬を求めて、この地に来て子孫が住み着いた。長池伝承。

●河口・吉田の徐福の子孫は秦氏と名乗り、羽田、波多を名乗る家数件ある「甲斐国誌」。※日本徐福会の会長を政治家羽田孜氏が務める。 

●河口湖村には秦の始皇帝の命に従い徐福は海を渡り、紀州那智が海上の三神山に不老不死の妙薬を船出し浦に上陸。熊野三山を通り富士山に登った話。供の“おきなの娘”を娶って帰化し、土着した。養蚕などを教えてついに湖畔につい果ててしまった。※徐福社(浅間神社に末社)

●和歌山の伝承地、徐福伝承の地として一番有力候補地が和歌山である。

和歌山県は南部に位置する新宮市は太平洋に面し、黒潮の流れに当たる温暖な地である。

徐福は今から2200年前に秦の始皇帝の命により何日も航海の末辿り着いたのが日本の熊野地方である。

徐福は熊野川を不老不死の薬を求めて蓬莱山を目指した。熊野川河口にまるでお椀を伏せたような形の山を見つけた山が、神々が降臨するとされた蓬莱山と思った。

熊野川は紀伊山地に源に前兆50キロにも及ぶ川である。

蓬莱山南面は「阿須賀神社」蓬莱山の南側から竪穴式住居跡や弥生式の土器など出土することから、この辺り一帯が弥生時代より集落があったと思われる。

和歌山に「徐福公園」に史跡を示す数々の施設や碑がある。場所は和歌山県新宮市新宮に徐福を記念する公園である。

元来この地に徐福の墓があったとされる地を中心に平成6年に公園となっている。公園の目印になる中国風の楼門を設置するなど大々的に整備がなされた。

和歌山県の伝承によると秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に不老不死の霊薬があると、申し入れて命を受けて財宝と共の数千人を従えて東方に船出をしたという。その内の蓬莱とされる地がここの新宮とされる。徐福はこの地の新宮に住み着いたという。

徐福と一緒に住み着いた従者たちは大陸から文化や農耕、捕鯨や魚業に関する技術を新宮の人々に教えたという。

この公園にある徐福の墓には、江戸時代の元文元年(1736)に建立されたもので、紀州藩初代藩主徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせた。

この公園を中心に設置された由緒坂など以下の物が設置されている。

「徐福の墓」新宮の古文書に元文元年付で「楠藪へ秦徐福の石塔立」と伝えられる。もとは和歌山藩主徳川頼宣が建立を目指したものでので、藩の儒学者李梅渓に揮毫せしめたものと伝えられる。

「徐福顕彰碑」天保五年に紀州藩の儒学者である仁井田好古が筆を揮って建立する予定だったもの、運送中に船の事故で実現できなかった。昭和15年(1940)皇紀2600年事業の一環として記録をもとに建立したという。

「七塚の碑」かつてこの地に北斗七星の形に造られた七つの塚、七塚があった。これは徐福の7人の主要な従者の墓とされている。徐福が再び大陸から持参した梅を埋めた所と言う。

「天台烏茶の木」徐福の墓の脇に、徐福が求めたという不老不死の霊薬の正体ではないかと言われている天台烏薬の木が植えられている。

●京都府伊根町に徐福が上陸したという伝説が残されている。「新井崎神社覚書書」

●佐賀県金立町に孝霊天皇72年に、徐福は男女数千人を引き連れて来てこの地に留まった。立山雲上寺は徐福の跡を留めた霊地である。「街道諸国記」

●佐賀県諸富町には徐福は現在の佐賀県諸富町北の搦、寺井の池にとどまり、金山の北山に入った。「徐福祭」毎年1月20日にある。

●武雄市の徐福一行は伊万里より上陸し黒髪山から蓬莱山へと進み、武雄にとどまる。

●佐賀県山内町には徐福一行は大船20隻に分乗し伊万里に来航し黒髪山に留まった。蓬莱山(武雄市)金立山(金立町)不老不死の仙薬を求む。

●鹿児島県串木野市冠岳、一説に孝霊天皇の大宇、秦の徐福来たりて王冠を留しゆえに大冠岳と称す。


【神武天皇説】

徐福伝説の神武天皇説をうなずける最も重要な要因が『古事記』に出てくる神武天皇東征説の筋書が徐福に類似していることにある。

徐福は日本の天皇に成ったのか?中国の清の時代、黄遵憲氏が著書「日本国志」でこのことを指摘した。さらに台湾の衛挺生教授著書に著した。

「徐福入日本建国孝」に徐福は秦の始皇帝の命により、一度目は5年くらい日本にいて秦の始皇帝のもとに帰った。

徐福は5年間に日本の地形とどのような民族がすんでいるか調べ、徐福は船を北上させ青森から津軽を経て太平洋を回り和歌山を回り九州にも回った。

一説には日本全国を回ったので日本の徐福伝説が多く生まれたと言う説に証拠立てている。

徐福伝説に迂闊にも一度目に上陸をしていたら一行は全滅していただろうと説明し、調査し準備周到をして二度目に備え軍団の計画を立てたという。

帰国すると「サメがいて上陸できなく不老不死の薬が見つからなかった」軍勢を頂ければサメを退治し行って参りますと述べた。こう言って始皇帝に許しを得て日本に二度訪れた。

二度目は綿密に計画のもとに童男童女、牛、馬も、鎌や鍬など農機具を揃え永住する為の用意を整えた為に大規模な人数になってしまった。

そして最初に徐福の考えで淡路島上陸を企てた。なぜ淡路島に最初に上陸を決めたについては四国も理解せず、九州を回ったが蛮族がいて上陸ができず淡路島に決めた。

淡路島に上陸し軍団に休息し力を付けて、次に四国に行き平定をした。

そこから中国地方を回り、東に向かい和歌山から大和盆地に入った。この筋書きは「古事記」の

神武天皇の東征に似ている。

この頃には秦の始皇帝は亡くなって帰る必要がなかった。

居場所を無くなった徐福は大和の地に住むことになった。

一説によると、この時の言葉は中国語ではなくユダヤ語で語られ、徐福は中国人とユダヤ人の言語の感覚の持った人物に代わっていた。

ヤはヘブライ語で神の名前で。ウマトはヤマウト(大和)と言う。ここに国を造る「神の国を造る」神倭伊波礼琵古命(いわれびこ)になっていた。

中国の清の時代に、黄遵憲氏が「日本国誌」に『古事記』の筋書にと自国の徐福伝説を重ね合わせ両論を併記で「徐福神武天皇」を造った意図は解らないが、これによって日本各地の説話、伝説を結び付け符合するように伝播させた。

今も残る徐福伝説が『史記』に依る記述から広大に日本に広まった要因と言えよう。

了。川村一彦

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