ブラックルーラーズ
@nakashiwasu
雪原の王フェンリルを食す(狩の章)
二足で立てば、人を優に超えるほど大きなシロクマの頭が雪原に叩きつけられた。
シロクマが暴れれば暴れるほど雪は舞う。
しかし頭を押さえつけた大狼フェンリルの足が、シロクマを決して逃さなかった。
この極寒の地で、ありとあらゆる肉を喰らってきたシロクマですら、雪原の王には力及ばず鋭利な牙で腹の肉をえぐられる。
雪の白と、木屑の茶色と、血の赤と──。
濁りに濁った汚い絨毯の上でシロクマは生き絶えた。
叫び声にも似た音を打ち鳴らしていた吹雪はやみ、屍となったシロクマの肉を吟味するフェンリル。
陽の光が照らし出し、視界も開けた雪原に隣接する林の中で男は銃に弾薬をこめた。
白い息を吐き、寒さに凍えながら男は長銃を構える。銃口と彼の視線が見つめるのは、木々の間に見えるフェンリル。
「このクソ寒い中、一週間も探したんだぜ……。大人しくしといてくれよ」
方向感覚を失いそうな白銀の世界を一週間歩き回ってようやく見つけた巨大な獲物を前に、白い息を吐く口がほころぶ。
霜焼けで赤くなった指先が、かたい引き金を絞り──。
パンッ!と林の中で発砲音が澄んだ空気を引き裂いた。
木々の間を通過し、見事フェンリルのうなじに直撃する弾丸。
しかしそれは致命傷どころか、血の一滴も流れない軽傷中の軽傷にしかならない。
「うお、マジかよ」
相手はこの雪原において、弱肉強食の頂点に君臨する王である。
小さな弾丸で命を奪えるとは思っていなかったが、まさか毛を局所的に焦がすことしかできないとは。
うなじから線を描くような煙をあげるフェンリルの敵意に満ちた鋭い眼光が、林の中で銃を構えていた金髪の男を捉える。
「聞いてた以上に化け物じゃねえか」
男が悪態をつきながら、砲身に溜まった火薬のカスを叩き出していたその時、大きな口にくわえるシロクマを放り投げたフェンリルの咆哮が一帯を揺らした。
空は歪み、地は震え、木の上に降り積もった雪が次から次へと落ちていく。
爆発でもしたのではないかと錯覚させるような咆哮に、男は両耳を塞いで身をかがめた。
「アネモネー! 大丈夫かー!」
男が叫んだのは、女の名前。
しかし、その返事を待つ間もなく、フェンリルが猛烈なスピードで男のもとへ駆け出した。
降り積もった雪を巻き上げ、猛進するフェンリル。その頭上で太い枝が動く。
「あやうく落ちちまうとこだったぜ!」
フェンリルが来るのを待ちわびたと言わんばかりに、木の上からフェンリルの背に飛び乗ったのはまだ成人もしていないような少女だった。
両腕を腹に回してフェンリルの背にしがみつくと、少女は縫い目だらけでおぞましい顔を白い体毛の中にうずめる。
「止まれこのヤロー!」
少女が背に飛び乗ったことで、右へ左へ、後ろへ前へと暴れ回るフェンリル。
再び大口から飛び出した咆哮が、辺りに地震を起こす。
木の上で一度耐えた地震だ。少女は華奢な見た目に反比例した強靭な腕力と不屈の精神力で耐え抜き、両腕をフェンリルの首に回した。
「オラ、さっさと死に──」
首の骨をへし折ってやろう。
そんなことを考えた瞬間、フェンリルの頭ごと少女の体は大木に激突。
「痛たたた!」
太い幹が粉々になるほど強い衝撃に、少女の身は投げ出されそうにもなったが、フェンリルの白い体毛を強く掴んでなんとかとどまった。
「ビックリ動物対ビックリ人間ってとこか」
火薬と弾を銃につめた男が、足もとの雪を蹴散らしながら暴れるフェンリルと、その上で必死に耐える少女を見て小さく笑う。
辺りの木を砕きながら争うフェンリルと少女に巻き込まれないよう、適度な距離をとって構えた銃の砲身に白い毛が落ちた。
どうやら極度のストレスでフェンリルの体毛が抜け落ち、周囲に舞っているらしい。
「今日ほど自分が犬アレルギーじゃないことを幸運に思ったことはないな」
表皮に当てたところで、強固な筋肉に弾丸を阻まれる。
眼球か、ツンとたった耳か、あるいは肉の薄い関節か──。
呼吸を止めた男が意識を銃口とフェンリルに集中させた時、毛先から手を滑らせた少女のバランスが大きく崩れるのが見えた。
「やっべぇ!」
「何やってんだバカ!」
なんとか足だけで踏ん張ってはいるものの、急に油でも塗ったように滑り始めたフェンリルの表皮に焦りを隠せない少女。
「なんだこいつ、めっちゃ滑る!」
「いやいや、お前投げ出されたら死ぬって!」
「やばいやばいやばぁぁい!」
フェンリルが唸り声とともに身をよじらせると、少女の体は空中へ投げ出され、降り積もった雪に上半身が丸々突き刺さってしまった。
「もしかしてこれって、ピンチ……?」
顔と同じように縫い目だらけの生足を澄んだ空気に晒す少女からは、何の反応もない。
呼吸が少々できないところで簡単に逝きはしないだろうが、男が何より心配したのはフェンリルの眼に映る自身の安全だった。
銃一本でどうにかなる相手でないのは最初の銃撃で検証済み。頼みの綱である少女を引き抜いてやりたいが、そんな余裕はない。
口から微量の焔を吐き出し始めたフェンリルの足が、木屑で色の濁った雪を蹴飛ばした。
刹那、フェンリルと同格の勢いで駆け出した小さな黒い影が、男の隣を通過して一目散にフェンリルのもとへ向かう。
「九死に一生だったぜ、まったく」
黒い服に身を包み、長い黒髪を激しくなびかせてフェンリルに立ち向かう少女の後ろ姿を認知するや否や、男はホッと胸をなでおろした。
安心しきった男を尻目に、距離を一気に縮めた黒い少女の左足が走ってくるフェンリルの顔面に突き刺さる。
「……遅い」
抑揚のない口調で呟くと、少女はすかさず腰にぶら下げた剣を引き抜いて血にも似た真っ赤な刀身を露出させた。
黒い少女の回し蹴りは、フェンリルに更なるストレスを与え、脱毛を促進。
炎を吐き出す大口を開いたフェンリルの怒涛の咆哮は再び雪原を揺らし、辺りの木に残った雪を全て落とす。
「何回鳴くんだあの化け物!」
先ほどまでとは比べ物にならない咆哮に頭を痛くした男はその場に身をかがめた。
「……うるさい」
表情も、声色も、全てにおいて感性の欠片も感じられない黒い少女だったが、小さく舌打ちをするあたりは少しイラついているのだろう。
世にも珍しい真紅の刀身を持つ剣を強く握る黒い少女。
その視線の先でフェンリルが動き出す。
自身の何倍もあろうかという体躯のフェンリルをジッと見つめたまま、少女は動こうとしない。
少女がようやく動いたのは、鋭利な牙や爪が自身を引き裂きそうなほど迫ってきてからのことだった。
大きく開いた口に足を突っ込んだと思えば、強引に巨体を地面に叩きつける少女。
口を閉じ、細い脚を食いちぎられる前に剣を持たない手で上顎を開いた。
「カチカチの筋肉の上からじゃ刃は通らないんだろうけど……そりゃグロ過ぎだろ」
足で下顎、手で上顎。
無理やり開いたフェンリルの口の中では幾度となく発火を繰り返し、彼女の手足も熱いのだろうがそれを表情には決して見せなかった。
とんでもない力に抑えつけられ、身動きを封じられたフェンリル。
「こいつは……こうやって殺す」
無感情な言葉とともに、少女は手にしていた剣の刃先でフェンリルの喉を貫いた。
断末魔にも似た最後の咆哮を散らし、顔面を蹴り飛ばされたフェンリルは暴れる。
ただただ、暴れ続けた。
「ザクロ、アネモネ引き抜いてあげて」
「はいはいっと」
一帯の木を薙ぎ倒し、しばらく暴れてから生き絶えるフェンリルの姿を嘲笑した後、ザクロと呼ばれた男は踵を返す。
フェンリルの背に乗って格闘した結果、雪に上半身が刺さった少女アネモネを、ようやく引き上げに向かったのだ。
「おーい、生きてるかー」
そう言ってアネモネの縫い目だらけの脚を掴み、勢いよく引き抜くザクロ。
呼吸もしているし、どうやら無事に生きてはいたのだが、その顔色は優れない。
無論、霜焼けで顔が真っ赤だというのはあるが、それ以上に不満そうに口を尖らせていた。
「おせぇ」
「そう言ってくれるなよ、あんな化け物と向き合えば誰だって自分が可愛くなるだろ」
フェンリルとの格闘で夢中になっていた二人の視界に飛び込んできたのは、雪原特有の澄んだ空に浮かぶ煌びやかな星々。
そしてその下で、くたばったフェンリルにナイフの刃をたてる黒い少女の姿だった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます