正魔法ジャスティ!

牧屋

プロローグ

 戦火に追われ国を失い、あるいは見捨てられ。そうして少しずつ寄り合ってできた棄民きみんの行列。彼らはわずかな物資を馬車に載せ、歩みを進めていた。

 時にはさして多くもない金銭や食料と引き替えに労働力を提供し、必要とあらば物乞いもし、方々の国々、街を渡り歩き、救いを求めて聖地を目指す。

 捨て去られた彼らへ救いの手を差し伸べる者はどこにもおらず、あるとしたらそれは、こんな理不尽を強いる世界に対して憤り、慈悲を与えてくれるだろう最高神、サンティーネしかもはやなかった。


 ――女神が正義であるなら、自分達を見捨てはしない。


 最初にそう言ったのは誰だったか。

 重要なのは発言者ではなく、その言葉に込められたあるかなきかの希望。どういった形で救いがもたらされるか、そもそも聖地にまでたどり着けるのか。それすら些末事だ。

 先のない彼らにとって聖地への到達は悲願であり、それでいて幸せになる事は世界への復讐でもあった。

 絆とも絶望ともつかない何かで団結したこの行列は犠牲を払い、時には志半ばに諦めた脱落者を出し、数を増やし減らし、けれども一定数より決して少なくなる事はなく、一つの生き物のように行進を続けていた。


 何年もかけて、ついに聖地へ続く唯一の道――試練の山、その霊峰が街道の先に見えて来た。

 鮮やかに焼けた赤い空と垂れ下がった膜のような雲。それらを貫くようにして山間の影が濃淡のコントラストを作り、さながら血の通わぬ鉄塊の如くそびえている。

 ジャスティは魂を抜かれたように見上げた。今日はもう遅いから、背後では大人達が野営の支度を始めている。

 山稜が地平線に現れた時、歓喜か興奮か、泣き叫ぶような声を発していたみんなだけれど、もうジャスティ以外には明日の行程に思考を巡らし、準備を整えているのだった。

 伝え聞いた話では、あの山はとても険しいのだという。世にも恐ろしい数多くの難関が待ち構え、挑んだ者達はことごとく命を落とすのだとか。

 怖い。ただ純粋にそれだけを思った。生き死にに関わる事態に陥った事は何度もある。でもあの山は違うのだ。あれは人を――生命そのものを寄せ付けないのだと、本能の部分が警鐘けいしょうを鳴らしている。

 誰も気がつかないのだろうか。あそこに近づいてはいけない事に。


「……正義にすがってはならない……サンティーネ様はそう仰ったんだよね?」


 ちょうど、側に来た父親に尋ねた。本当は今すぐにでもここから離れたい。けれどみんなはあそこへ行こうとしている――だから口を突いて出たのは、そんな婉曲えんきょくな表現で。


「そうだよ……戒律の一つだね。破ると、正義を失ってしまうらしい」


 数あるサンティーネ教の戒律の中でも、どういうわけかその戒めだけは常にジャスティの胸に、一字一句違わずとどまっていた。

 他の戒律はどれも難解だったし、分かりやすいからこそ覚えていられたのもあるだろう。


「正義でなくなると……どうなるんだろう?」


 大人達は常々言っていた。感情を込めて、果てしない恨みつらみを吐き出すように。――自分達は奪われ続けて来た。今度は奪う側に回るのだ、と。

 奪う側、というのが何の事なのか分からなかったけれど、何かを失うという経験はジャスティにもある。

 大切にしていた道具。泣いて笑って一緒に旅をして、いつの間にか行列からいなくなっていた友達。生きるために初めて盗みを働いた時、ひどく痛んだ見えない傷――どれもささやかなものだったけれど、なくしてしまうのは怖い。

 だから、ずっと正しいものと聞かされて来た正義をも失ってしまうのは、余計に恐ろしい事のように思えた。


「でも、大丈夫だよ。サンティーネ様は私達をお許し下さる。正義は私達にあるのだから、何も心配する事はない――いつでも胸を張っていなさい」


 そう言って父親は笑った。今から思うと何の根拠もない言葉だったのに、それだけでジャスティは安心できた。何としても、試練の山を生き抜こうという気にもなれた。


 その途端。何の兆候もなく、それは訪れた。


 あれを見ろ、と誰かが叫び、空を指差した。つられてジャスティもかくんと顎を上げる。

 ほんの少しだけ目線を外していた空が――鬱金色に燃えていた。一面に炎を灯したかのように揺れ動き、うごめき、そして……その中心には、太陽が浮かんでいる。

 もうすぐ日没なのに、なぜここに。まさか再び空へ舞い上がっていったのでもあるまいに――そんな疑問はとっくにどうでも良くなった。

 ぱちぱちと火花のようなものを散らせ、ぐつぐつと煮え立ったようなその太陽はジャスティには――いや、人の言葉では到底形容しがたいおぞましい黒色。

 黒いカーテンに覆われて波打ち、中で無数の微生物がうごめいているかのように、ジャスティが生まれてから当たり前のように毎日を見て来た太陽とは、円形を保っているだけで色合いも気配も、何もかもがかけ離れ――身の毛がよだつほどに冒涜的ぼうとくてきだったのである。

 唐突に、けたたましい絶叫が上がった。

 地上へ視線を帰し、息を呑む。明日に備え休むために張られた天幕から、布や天井を引きちぎるようにして異形の化け物達が姿を現していたのである。

 行列のそこかしこ、街道のあちこち。今の今まで大人達が集まっていた場所を中心に化け物が現れ、手当たり次第、目につく先から凶器と化した腕や爪や牙を振るって人々を薙ぎ倒し、血しぶきを噴かせている。

 周囲は騒然となり、地獄絵図となるのに時間はかからなかった。武器を持って立ち向かう者もいたが、彼らの雄叫びはじきに途絶える。見知った仲間達が物言わぬ肉片となって無惨に転がるのに、ジャスティは震え上がって悲鳴すら上げられなかった。


「逃げるんだ!」


 父親がジャスティの手を引いて、押し合いへし合いする行列の中を走り出す。うまく蛇行して器用に縫い、女達と夕食の支度をしている母親を捜して目をさまよわせる。


「母さん……!」


 運良く、この混乱のただ中でも見慣れた背中を見つける事ができた。まだ助かったわけでもないのに安堵の息を漏らしつつ、父親とともに駆け寄っていく。


「おい、すぐにここから離れ――」


 父親の声は続かなかった。

 母親が遮るようにしてうなるような声を発し、次の瞬間には――あたりで暴れている、理性も何も放り捨てたような化け物達と似た姿へ変わり果てる。

 いや、本当にそのものだった。ただジャスティが無意識に、その事実から思考を遠ざけようとしているだけで。


 ――化け物は。化け物達は。これまで長く一緒にいて、楽しい事も辛い事も共に分かち合った仲間達が、その姿を変えたものだったのだ。


 彼らはかつての仲間に暴力を振るい、殺し、もしくは化け物同士で殺し合い。次第に逃げ惑う者達の悲壮な叫びよりも、産毛が逆立つような化け物達の不快な笑い声の方が増えていく。

 そこでジャスティは見た。正義の失われた世界を。それと首をすげ替えるように闊歩する、悪そのもののありのままの姿を。

 それはあまりにも邪悪で、残虐で、無軌道で――けれども何のしがらみもない、自由と生命の輝きに満ちていた。


 正義は。自分達が求めてやまなかった正義は、どこへ行った。


 ――正義にすがってはならない。


 この時、ジャスティはその意味を真に理解した。

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