第十話 深まる夜と辛い話
見慣れているはずの刃物が自分の手にないと、これほど恐怖を感じるものなんだ、とライラは思った。
目の前にいる男は、ついさっきまでの緩んだ雰囲気をひっくり返した。綺麗だと思っていた碧い眼は冷たく感じる。
背筋に汗が流れ、ごくりと唾を呑みこんだ。
「おとなしくしてくれれば、命まではとりません」
「……その言葉を信じろと?」
「騎士に誓って」
ライラは碧い眼を見据えた。濁りのない、真っ直ぐな眼差しが返ってくる。怒りや憎しみではない、任務遂行への強い意志がこもっているように感じた。
彼の鍛え上げられた肉体はこけおどしではないだろう。軍医とはいえ軍人ではなく民間人だ。そもそも男に力で勝てない女だが、こうなるとなす術もない。彼にとってライラを組み敷くことは造作もないだろう。
――逆らっても無駄ってことか。
無謀にも対抗すればこの短剣は容赦なくライラの首を切り裂くだろう。そんなことは容易に想像できた。
そしてライラの次を探すのだろう。
ここで逃げても誰かが犠牲になるのだ。
――すっかり油断したってことか。
額から汗が流れ、顎から滴り落ちた。
見合ったのは数瞬だろうが、ライラには数十分に感じていた。
「……すっかり眠気も飛んじまったよ」
「すみません」
バーンズは、へらっと笑った。
扉を開け中に入ったライラは、手に持っていたランプを天井から吊るさがっている金具に掛けた。ランプの仄明るい光に照らされ部屋が浮かび上がる。
窓のない壁には棚が備え付けられているが、そこには何も置かれていない。部屋の中には古びたテーブルと、二脚の椅子。扉の二か所。
がらんとした、生活感を感じないここが、ライラの家だ。
「茶でも飲むかい?」
ライラは煙管をテーブルに乗せ、バーンズに振り返った。
「……質素な部屋ですね」
「正直に殺風景って言いいなよ」
顔をぐるりと巡らせて部屋を見たバーンズに、ライラは苦笑する。
「起きたら診療所に行って、帰ったら寝るだけの部屋だからね」
ライラは埃をかぶっていた椅子を手で払い、「ほら」とバーンズに座るように促した。バーンズはその椅子をじっと見つめたまま動かない。
「ボロくて壊れそうだけど、大工だった旦那が作ったやつだから頑丈なのは保証するよ」
そう言ってライラがお湯を沸かしに隣の勝手場へ行こうとした。
「二脚、なんですね」
バーンズがボソリと呟いた。その意味することが、ライラには分かった。
「あたしは
ライラの胸が痛んだ。
誤魔化すように家用のランプに火を灯し「お湯を沸かしてくるから」と言い捨て、勝手場に逃げ込んだ。
勝手場の隅に置いてある水瓶から
「どこにも逃げやしないよ」
「いえ、そうではなく――」
「じゃあなんだい?」
「……気が利かない性格で申し訳ありません」
暗がりで頭を下げるバーンズが、目に入った。ライラは気が付かないふりをして、木屑に火を移した。
「まぁ、事実だしね」
ライラの心が小さい悲鳴を上げた。
頼りないランプの明かりのもと、ふたりはテーブルについた。揺れる湯気だけが明瞭で、ふたりの口は閉じたままだ。
ライラは足の上に手を置き、目の前の湯気を立てるカップを見ていた。
彼の用事など麻薬調査以外にはないのは、わかっている。だが自分は麻薬など知らない。かかわってもいない。
では何故?
ライラの頭には疑問が浮かんでは破裂して消えていた。
「手荒な術に訴えてしまったことをお詫びいたします」
静寂を破ったのはバーンズの謝罪だった。彼は座ったまま、テーブルに額をつけるまで頭を下げた。
「先に話しをしてくれりゃ――」
「それでは僕が無能に見えません」
ライラの言葉を遮り、バーンズが言いきった。強い口調にライラは顔をあげた。ライラが見た顔には、情けなかったバーンズ影はどこにも見られない。この顔で王都の騎士といわれれば、だれでも納得するだろう。そんな顔だ。
この顔で迫られていたら、コロッと落ちる女がいてもおかしくはない。その代りミューズは警戒していたな、とライラは感じた。当然ライラも警戒していただろう。
「……バーから先のことは、想定外でしたが」
バーンズが頬を赤くし、すっと目を逸らした。ライラに連れ去られたのが彼にとっても予想外かつ恥ずかしいものだったようだ。
そのことで、ライラに少しだけ余裕が生まれた。
「先に言っとくけど、あたしは麻薬になんて関わっちゃいないよ。大体、ここレゲンダには麻薬中毒の患者はいないんだ。麻薬を買えるほど裕福な奴もそうはいないしね」
ライラは先手を打って防衛線を張った。バーンズの調査目的が麻薬であることは知っていたからだ。
何の話があってここまで押しかけてきたのかは不明だが、少なくともバーンズの望む情報はないんだ、というのをはっきりと伝えた。
「えぇ、それは知っています」
バーンズはカップを両手で包むように持っている。多少でも気まずいと思っているのだろう。
「麻薬というのは僕がここに来る名目でしかありません。ここに麻薬なんてないのは最初っから知ってます」
「……じゃあなんで来たんだい?」
ライラの疑問はもっともだ。
「いま王都では新しい麻薬とも呼べる薬が蔓延しつつあります。それは鎮痛剤を高濃度に生成し、そこに微量の麻薬を混入させる、悪魔の薬です」
バーンズが顔を歪めて話を続ける。
「麻薬よりも安価で、かつ快楽性が高く、中毒性も高いんです。最初は貴族の子息が遊びで始めたものが一気に広まり、平民にまで及び始めました。中毒になった人は強盗や人さらいなどの犯罪を犯してまで薬を求めています。王都の治安が急激に悪化しているんです」
「それが
驚くライラにバーンズは小さく頷いた。
「ちょっと待って。仮に君の話が本当だとして、そんな組織的な犯罪をするような人間はここにはいないしい、あたしだって知らない」
だがバーンズはゆっくりと横に首を振った。
「あるじゃないですか、それだけのことができる組織が」
じっと見つめてくるバーンズに、ライラはハッとした。
「まさか……」
「そのまさか、です。この件にはレゲンダを統治する軍が関わっています。というか、軍こそが主体です」
バーンズの言葉はライラの予想を裏切らなかった。
「診療行為への補助ができるほど、レゲンダの軍の予算は多くありません。軍が何かの手段で金を稼いでいるのは王国でも掴んでいます」
「それが悪魔の薬ってことかい?」
「えぇ。コトリネを蒸留させ、鎮静成分を抜出しているようです」
ライラは鎮痛作用の強いあの緑の粉を思い浮かべた。コトリネは痛み止めとして、あるいは外科を必要とする施術にも使用される、必需品だ。それが悪用されるなど、ライラには考えも及ばなかった。
「でも、
「そのために、王都では幼子、特に女の子の誘拐、売買が横行しています。騎士団としても摘発はしているのですが、内通者もいてからぶるときもあるのが現状です」
「そんな……」
誘拐と聞いてライラは言葉に詰まった。そしてその非道さに腹が立ち、テーブルに拳を叩きつけた。
「明日にでもミューズを問い詰める!」
「やめてください。ライラさんが殺されてしまいます」
バーンズの必死な表情に、ライラは浮かしかけた腰を元に戻した。そして力なく笑った。
言いにくそうなバーンズが続ける。
「話はまだあるんです。王国には後継者たる王子殿下が二人いらっしゃいます。兄のケルリオン・トラスト王太子殿下とノインバック・トラスト第二王子殿下です」
「……それが、なんだっての?」
「王国内の貴族、軍の大半はケルリオン殿下支持なのですが、ごく一部の過激な貴族がノインバック殿下を担ぎ上げてようとしています。その貴族をバックに悪魔の薬を捌いている集団が、軍に存在するのです」
「ミュ-ズがそいつらの仲間だってこと?」
バーンズが「そこまでの尻尾はつかめていないのですが」と言いつつ小さく頷いた。
ライラはテーブルに腕をつけ、覆いかぶさるように項垂れた。
「その稼いだ汚い金でここの住民が助かってるのかい?」
「彼らは支持基盤を拡大しつつあります。ここレゲンダのように軍が統治している街に仲間を送り込み、民に対する補助を通じて支持を得ているんです」
「……その代り王都の子供たちが犠牲に?」
「女性も……ですけどね」
女性という言葉に、ライラのショックで目の前が暗くなった。自分がいいことだと思っていた軍による診療への補助が、力が弱く立場的にも男にはかなわない女性に不幸をもたらしていたことに、だ。
ライラはゴツンとテーブルに額をつけた。
この街のためには軍の補助が必要だ。補助がなくなれば金がかかる診療所に来なくなる人が大半だろう。王都から離れている国境の街は豊かなわけではないのだ。
だがその代わりとして、顔も知らない王都の弱者が犠牲になる。ライラはそれも許せない。同じ女性が売られていくと聞けば、そう思うのも当然だ。
レゲンダを取れば王都の女子供が不幸に見舞われる。だからと言って住民には気軽に診療は受けてもらいたい。これくらい大丈夫と思っていても、その実はわからないのだ。
「僕は王都から派遣された騎士です」
「わかってる。それはわかってる」
「それを踏まえた上で、ライラさんにお願いがあります」
「言うな!」
ライラは勢いよく顔をあげた。悔しくて潤んだ視界に、バーンズの青い瞳がやけに鮮やかに写った。
「言います。僕に協力してもらえないでしょうか」
バーンズの声を聞きながら、ライラは死んだギリアムのことを思い出していた。
――
ライラは
「あたしは、もう、答えのない問題にはかかわり合いたくないんだ!
ライラはガツンガツンとテーブルに額をぶつけた。そのたびに眼鏡のフレームが悲鳴を上げる。
「ライラさん!」
がたっとバーンズが立ち上がり、ライラの脇に屈んだ。彼の手がライラの肩にあてられ、そのままぐっと起こされる。
「……」
目に涙をためているライラを見たバーンズが言葉を失っていた。ライラは唇をかみ、激情が渦巻く感情の嵐に耐えていた。
「そんなことしちゃダメです!」
ライラの頭はバーンズに抱きしめられた。
「こんなことさせてるのはお前だろ!」
ライラは振りほどこうと身体を大きく揺するがバーンズの力には敵わない。頭を抱えられ、体を寄せられたライラは腕でポカポカとバーンズを叩くだけだ。
「離せ! なんであたしが! なんで!」
「ライラさん落ち着いて!」
「落ち着けるかバカァァ!」
「僕が悪いのはわかってます。これが解決すれば、お詫びに僕ができることであれば、尽力させてもらいます! 何でもします! だから落ち着いてください!」
喧嘩の真っ最中の猫のようにフーフーと息を荒立てるライラは、バーンズに頭をぎゅっと抱きしめられている。
ほろほろと溢れる涙はバーンズの服に吸い取られていく。
「どっちを取ったって、誰かが泣くんだ!」
「泣く方は最小にします」
「その最小だって、幸せでいたかったんだよ!」
ライラの絶叫に、バーンズは固まった。ライラはただただ嗚咽を漏らし、泣いた。
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