僕と先輩の。
鴻桐葦岐
1話
1-1
「……出張、ですか」
昼休み、職場の上司に呼ばれた僕は、半ば愕然としながら聞き返した。
「新店舗のオープンスタッフが足りなくてな。申し訳無いが来週末と再来週末、金曜から日曜の計六日間、応援に行ってくれ」
他に人は居るのにどうして僕が、と不満に思うが、しかし、入社して一年そこそこの僕に、拒否権など無かった。渋々頷いて、持ち場に戻り溜息を吐く。
就職難だと云われているこのご時勢、就職出来ただけ有難いとは思っている。何時間もサビ残をさせられていると云う友人の話を聞くと、残業代の出る僕の待遇は未だマシと思える。上司を含む人間関係だって、少なくとも悪くはない。理不尽に怒鳴られる事も、手を上げられる事も無いからだ。けれど、元々志望していた業種ですらないと云う事が、僕を酷く憂鬱にさせた。
何とかかんとか、一年続けて来られたが、その間何度も辞めようか迷った。けれど生活の事だとか、再就職の事だとかを考えるとそれは憚られて、結局今に至っている。きっとこのまま、惰性で仕事を続けるのだろう。
終業までの間、僕は数え切れない程の溜息を吐いた。
仕事が終わり、駅に向かう途中でケータイが鳴った。最近買い換えたばかりの、所謂スマートフォンで、当たり前の様に最初からスカイプだのツイッターだのがインストールされていた。
取り出して見ると、これまた最初から入っていたラインの通知で、それは大学時代の友人からだった。
『仕事辞めたい』
と、漫画のキャラクターのスタンプ。
『俺もだよ』
と返し、ケータイをしまう。
再び歩き出しながら、僕は大学時代の事を思い返していた。
天気が良いと必ず「僕の講義なんて受けずに遊びに行けば良いのに」と云っていた教員、英会話のミニテストの最中突然日本語で喋り出してアシスタントの学生に止められる外国人教員、毎年全く同じプリントを使って全く同じ内容の講義を繰り返す教員、無計画に増設したとしか思えない入り組んだ校舎、いつも図書館の隅で居眠りをしていた同じ学科の女学生、真冬でも外のベンチで煙草を吸っていた男子学生。
懐かしい、とか、あの頃は良かった、なんて、年寄りじみてしみじみと思う。
次いで思い出すのは、所属していたサークル。部室棟の四階。エレベーターから一番遠い部屋。眼鏡と喫煙者率がやたら高くて、他のサークルの喫煙者が時々ライターを借りに来た、何故かベッドの置いてある懐かしき場所。文芸部。
あの先輩は結婚したらしい、とか、あの後輩は院に進んだらしい、とか、そんな話を時折聞くが、ただ一人、今何処でどうしているのか、ちっとも情報の入って来ない人が居た。
カミコ先輩。神の子と書いて、カミコ。神子舞姫先輩。
とても綺麗な顔をしていて、無表情で、口数の少ない、一年と二年を二回ずつやった、四歳上の先輩。
当時を思い出して、僕は苦笑する。我ながら随分甲斐甲斐しかったな、と。
僕が彼女の為に、出席やノートの世話をしていた事は、同じサークルの人ならみんな知っていた。何故なら僕は先輩の事が好きで、それも勿論、部員全員の知る所だった。
彼女は頻繁に大学を、それも何日も続けて休んでいて、だから単位が足らずに二度も留年していた。文芸部のみんなが云う。カミコは、一人じゃ卒業出来なかっただろう、と。
学科学年を問わず履修出来る一般教養や学部共通の専門科目の講義を先輩に合わせて取り、学生証で出席を取る講義では自分の物と一緒に先輩の物をカードリーダーに通し、毎回ミニレポートを書いて次回に提出し出席となる講義では先輩にノートとプリントとミニレポート用紙を渡し、もしくは書かれたミニレポートを受け取り僕の物と一緒に提出し……テスト前には持ち込み不可科目の勉強用にノートを纏めて先輩へ、持ち込み可の科目は範囲のあちこちに付箋で注釈を書き込んでから先輩にノートと教科書を返却し……などなど。
どれもこれも、文芸部員みんなが知っていた事で、もしかしたら同じ講義を受けていた他の学生にも、ともすれば一部の教員にすら、知られていたのかもしれない。
けれど、彼らも知らない事がある。それは、僕とカミコ先輩の、二人だけの秘密だった話。
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