それぞれの物語 「恨みの物語」

渋谷 優

第1話

世界は、毎回違った物語を綴っている。同じような構成なんて一つもない。ただただ静かな、壮大なメロディーを奏でながら――。



 この物語もまた、そんな世界の物語の一部にすぎない。いや、すぎないというのはあまりにも酷だろうか? 少なからず、彼女にとっては相当大きな物語だったに違いない。僕にとっては本当に、本当に小さな物語にしか思わなかったけど。……それもそうだろう。毎日を、何事もなく平凡に過ごしていた僕には、彼女の苦しみを理解するなんて到底無理な事だった。


 彼女はその苦しみ故に「世界」を恨んでいたが、恨まれるのは「僕」の方なのかもしれない、と今更になって思う。


 2008年10月、僕が高校一年生の時の物語。彼女の奏でた「恨みの物語」である。




 木枯らしが強く吹き付ける10月の某日、僕は眠いのを我慢しながら登校した。外にはマンションや小柄なビルが立ち並び、車が走り、人が歩いている。いつもの風景である。

 ここは東京都杉並区の一角だ。都心と比べればだいぶ田舎に見えてしまう。「閑静な住宅街」という言葉がとてもお似合いだ。田舎といっても、僕はこの町を嫌いというわけではない。ゆっくり流れていく時間、都心とは違う静けさ、空気の流れ。まあ、考えればもうちょっとあるのだが、とにかく嫌いではない。

 しかし、生きていれば必ずと言っていいほど嫌いなモノの一つや二つはできるものだ。例えば、さっきから僕の後ろを追いかけるように走ってきたコイツ。


「遅刻だ遅刻だ遅刻だ!! あれ? 陸斗じゃない。こんな時間にそんなまったり歩いてんのよ。遅れちゃうわよ?」

「朝からホントに元気だよな、お前。」


 溜息一つ。まあ、僕の苦手なモノの一つがコイツだ。なんで朝からダメ出しされなきゃいけないのだろうか。一応言っとくと、コイツの名前は一瀬いちのせ姫華ひめかという。姫というだけあってか、本当に自己中心的で、周りのことは全く気にしない。欲しい物は何が何でも手に入れる、まさにワガママ王女といった感じ。別に幼なじみというわけではないのだが、姫華とは幼稚園時代からの腐れ縁がある。


「あんた、また朝飯食べて来なかったみたいね。ダメよそんなんじゃ。一日の始まりは朝食からって教えてもらったでしょ? そんなんだから元気でないのよ」


「朝飯を食ってきた挙げ句、遅刻しそうで走ってきたやつに言われたくないよ。悠長に家の中で朝飯食ってる暇があるんだったら、遅刻しないようにパンでもかじりながら登校してこいよな」

 

 と、こうは言ってる僕はというと、学校の閉門25分前に起きて、パンをかじってくる余裕すらなく、こうして登校している。姫華に言える身分でもないのだ。僕もバカだなぁ……。

 

 そんなくだらない事を長々と思っていると、閉門まであと5分! やばい! 


「なにやってんのよ陸斗! もう時間ないんだから、早くしなさい!」


 姫華は僕より少し先を歩いていた。どうやらさっき僕が言ったことは聞いていなかったらしい。深い溜息を一つ。


「はいはい、今行きますよ姫華さん!」

「ハイは一回!」


 本当にうるさいよアイツは。

 怒鳴られて、僕は学校へ急ぐのだった。


 

 帰り道の事だっだ。僕は一人で歩いている。夕日が町のすべてをオレンジ色に変えている。10月とはいってもまだ暑い。制服の衣替えは既に終わって、今は冬バージョンだ。僕はもう汗をかいてしまっている。少しは涼しい場所を見つけようとしているのだが、田舎といっても杉並区である。涼むのに適している木陰や森林は少ない。近くと言ったら、この近くに存在する久我山駅からだいだい2キロ先にある井の頭公園くらいだ。徒歩で行くには少し遠いし、電車でお金をかけてまで行きたいというわけでもなかった。


「……。川の近くにいってみようかな」


 川の上というのは、少なからず空気が流れている。少しは涼しいかもしれないと僕は思った。近くの川、神田川である。……「神田川」と聞くと、何故かかぐや姫の「神田川」を思い出す。


「あなたはもう忘れたかしら。赤い手ぬぐいマフラーにして。…………暑い」


 マフラーなんかしたくないわ暑苦しい! と、心の中でノリつっこみしてみたのだが全くおもしろくない。

 川に沿って歩いていく。ふと立ち止まって、川を見てみた。……気付いたのだけれど、さほど涼しいとは感じなかった。神田川は荒川水系の一部で、法律的にはちゃんとした支流として認められているらしい。しかしよく見ると、その流れはとても遅い。まぁ、結果的には空気の流れも遅いという事だ。


 ――それは、本当に不意のことだった。小さくてよく見えないのだが、橋の下(だいだい四畳くらいの川原)に、一人でポツンと佇んでいる――女の子?


 女の子だった。何故こんな所に? 気付かれないように、少し近くに寄ってよく見てみると、セーラー服を身に纏っている。


「あの制服、中学時代の女子のと同じ……」


 そう。そのセーラー服は、確かに僕の通っていた中学校の制服だった。でも、その姿はボロボロで、痛々しかったのだ。一体どうしたのだろうか。もしかして……いじめとか? それなら尚更である。僕はもうその姿を黙って見ていられず、近くの川に降りる階段を見つけて、女の子の近くに行ってみる事にした。しかし、その足取りは重く、うまく進んでくれない。


「……迷うな」

 と、僕は心に喝を入れた後、ゆっくりながらも女の子の方へ近寄っていく。……まだ気付かれない……まだ気付かれない……。結局、その女の子の距離はだいたい5メートルの所まで来ていた。まだ気付いていないらしい。不思議な事に、座り込んでいるその足元には小さなブルーシートが敷かれていた。いや、余計な事考えてるばあいじゃないよな。と、僕は勇気を出して声をかけてみる事にした。


「あのっ……」


 声をかけようとしたその刹那、その女の子は、掠れるような声で、小さく、美しく歌い始めた。


「……あなたはもう忘れたかしら。赤い手ぬぐいマフラーにして……」


 ……「神田川」だった。さっき僕がバカみたいに歌っていた「神田川」だった。うわぁ……。なんかリアルだな。姿が姿だからだろうか、外はうだるように暑いのに、その女の子は本当にマフラーがしたいくらい寒いかのように体を少しばかり震わせている。

 近くに来てみると、その姿がはっきり見える。髪型は黒髪のショートカットだが、後ろの方は少し長め。顔立ちは整っていて女の子らしくもキリッとしている。僕から見るにはとても可愛い。身長はざっと見て160センチくらい……かな? 着ている制服はやはりボロボロで、さっきまで不良と喧嘩していたような状況を思い立たせる風貌だ。コンクリートの壁に寄り掛かって、向こう岸をじっと見つめながら静かに歌っている。

 ……結局、女の子は「神田川」を全て歌い切ったようで、向こう岸をじっと見ていた目を地面に視線を落としたのだった。

 あっ! と、僕は本来の目的を思い出す。話しかけなきゃ。


「あ、あの」


 やっと気付いてくれたようで、ゆっくりこちらの方を向いてくれた。


「えっ! あっあなた、誰ですか!?」


 本当に驚いたようにその身を起こして言うのだった。


「いえ、あのっ、僕は前川陸斗という者ですが……」


「まさか、私を襲う事が目的とか? こんないたいけな女の子を襲う気ですか? そんな事は絶対に許されませんよ!」


「違うわ!! なんで襲わなきゃいけないんだよ!?」


「ふふ。そんなこと言って、どうせ私を見つけた時から欲情していたんでしょう? 男の人ってこれだから変態なんですよね」


「だから違うって! なんで話しかけただけで、こんな事言われなきゃならないんだよ!」


 正直、びっくりしたのは僕の方だ。こんなヤツだったんだ。可愛いのに……。


「ふっ、あはははは……」


 急に笑い出しやがったし……。


「いや、本当にごめんなさい。嘘ですよ、嘘」


「初対面の人間に嘘をつく人を初めて見ましたよ」


「いやぁ、久しぶりに人を見たんで気が動転しちゃって」


「絶対わざとですよね……」


「あはは、ごめんなさい。でも、どうしてここに?」


「いや、ボロボロの制服で何してるんだろうと思って。一体こんな所で何してるんですか?」


 尋ねると、その女の子は、盛大に、壮大に言い放ったのだった。


「実は私、ホームレスなんです!!」

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