珈琲休憩

巡里恩琉

非情事態宣言

 まだ上げ初めし前髪の、から始まる島崎藤村の詩がある。言わずと知れた初恋だ。自分がこの詩を知ったのはまだ十になったばかりの頃だったと記憶している。当時の自分はちょうど雛飾りや仏具神具の細工に魅了され、平安時代の、主には貴族文化を調べることを楽しんでいた(お陰様で級友から「某式部や某少納言と会話したころあるんだろう」等と言われたりしたのも今となっては何とやら)。その所為で「前髪を上げ始めたばかりとはどれだけ幼いのだろう」と、幼い認識不足故の謂れなき罪を藤村に掛けたわけだが、誓って言おう、悪気はなかった。無論、初恋が書かれたのは明治の頃だとか、当時の風習などというものだとかをまだ知らなかった。それに小学生のやる歴史だ、知っていたことなど嵩が知れている。

 兎にも角にも、当時の自分は藤村の初恋を足掛かりに開国期の文化に興味を持ち調べることとなった。これと似たような経験はいくらでもあって、自分はいつだって本を足掛かりに様々な国や地域の文化や風習、物や伝統の歴史を調べて自身の糧としてきた。対象が何であれ知ることは自分にとってはとても楽しい事で、同時に価値観や思考が決して一つではないことを知りその背景を考えるいい機会だった。多様な視点を幼いうちに知る事が出来たのはとても幸せなことだったと思う。

 文学は(掌に収まるという意味で)手軽な合法劇物である。言葉が過ぎた。いや然したったの数百円で他人の思考回路に、全く空想の世界に、体験しえなかった事件に時代に浸れるのは一種麻薬めいている。時には考えもしなかった物事に感銘を受けることだってある。自分などは文字媒体であれば種類を問わない、いわゆる文章ジャンキーと呼ばれるタイプであるが、似たような人は決して少なくない割合でいる事だろう。特に日本は本が安く、質がよく、翻訳も豊富であるが故に、日本語さえ読めれば世界の名著が読めると言われる。これは一つ素晴らしいことだ。方々から変態だと言われる技術への執念と、書き手の情熱と、相応の犠牲の上に成り立つ変態じみた成果だ。是非世界に誇っていきたいと思う数少ないひとつである。

 ところで、文学は手軽な合法劇物だと言ったが、記録文学ノンフィクションでもない限り(本質的には記録文学すら)基本的には虚構であり、追体験すらも筆者の感性と読者の想像力を通した紛い物であること、自分に全く同じことが起こる、できるとは限らないことを無言の前提としていることをよくよく理解しておかねばならない。我々はエルフではなく、勇者でもなく、世界的な生き残りでもない。本当は初歩も過ぎてこんなこと言いたくはないのだが、殊近年は(昔からいたのかもしれないが)文学の虚構と現実との区別がつかない規制論者が目立つ。

 彼らの主張に曰く、不道徳本によって青少年の生育に悪影響を与え、模倣的な犯罪が増えるのだとか。全くもってナンセンスだ。その根拠となるデータは何処だ。マスメディアが恰もそう言う風に書き立てているだけではないか。少年犯罪の件数自体は昭和30年をピークにむしろ減っている。少年人口辺りの凶悪事件も(近年、少年検挙における強盗の解釈が広がり、判然としない部分があるが)凡そ減っている。この手の規制論者についてはいつもの事なのだが、所謂風俗本片手に自慰をしたこともないのかと言いたくなる。本質的には風俗本での自慰も、記録文学での追体験も変わりはしない。書き手の構築力と読み手の妄想でもって自身にのみ満足を起こすものであり、幼少期の飯事のようなものだ。行く先は発狂か自殺かしかないような重圧の中でスプラッタ物を読んで、止め得ぬ涙を流しながら精神的外圧を発散させたことはないのか。屹度ないのだろう。

 何が健全で何が不健全かは各個人が定める物であり、周囲が躾ける物であり、公が制定するものではない。かもしれぬ論で語り規制するのは容易だが、それは文化を委縮させるものだ。それこそ国家による情報統制に他ならぬ。論理が飛躍しすぎだと文句を垂れる物も出てくるだろう、馬鹿を云え。一つ国家による介入を許せば、それは決して一つに留まらない。何れ全てへ介入するようになる。国家総動員法の頃がいい例だろう。赤本と言ったか、俗悪な本だとして規制されたのを足掛かりに表現規制へ転じたはずだ。昭和20年、たった70年と少し前の話だ。それともあれか、規制論者は真っ黒に墨塗りされた本が希望か。此処は何処の戦前だ。健全に不健全なものもあり、不健全に健全なものもある。平穏の中に語られる悪意が許されて、凄惨の中に語られる純愛が規制されるなど全くもってナンセンスだ。

 自分は彼らの主張に「自分が嫌いなものは他人も不愉快に感じるに違いない。だから規制しても問題ない」もしくは「不愉快なものは見たくないから大きな権力を煽ろう」という子供染みていっそ短絡的な驕りを見る。書く側が幾ら入口を狭くしても、条件を限っても不平を言うのだ。嫌いならば見ないようにすればいいと言うのに、いっそ文句がただ言いたいだけなのではないかとすら邪推する。それとも嫌いが過ぎて好きと歪んだのか。マゾか。確かに人である以上何につけ不愉快に感じるものはあるだろう、然しエロ・グロ・ナンセンスと一つのジャンルとして各々確立している以上、一定数それらに魅力を感じるものがいるのも確かであり、取材元まで辿れば開国以前からの歴史を持つものもあり、一概に禁じてしまうのは文化の貧困化を助長することになる。先人が築き上げた、そして時代に淘汰されて洗練されて今に残った芸術文化がここで断絶してしまう。それはあまりに忍びない。そしてこの断絶はマジョリティ以外認めない文化の形成を促すものであり、多様性を謳う現代に於いて相応しくない。そうしてマジョリティ以外認めない文化の単一化、貧困化は、抑圧され精神が捻じ曲がり折れ砕けた人間を量産することとなる。見ない振りをするのが、出来るのが大人に成ると云う事なのだとしたら、この国になんと子供の多いことよ。真見事な戦後教育の敗北を此処に見る。

 もしくは、青少年というだけで無邪気で純粋なものだと思い込んでいるのではないだろうか。馬鹿馬鹿しい。無邪気故に残酷で小賢しいのが本質だろう。それに思想的には純白かもしれないが、親が我々である以上、全く純粋であるはずがない。その親たる自分たちも穢れていないと驕るのならば見上げたものだ。1950年代頃のテレビ台頭時も一億総白痴化運動である等と言われており、低俗と言われたテレビに親しんだ世代が親だと言うのに。宜しい、テレビや新聞を過信妄信せず流されず、文学の虚構と現実との区別がついていて、それで且つ表現を規制すべきだと言う、罪なき者から石を投げよ。

 確かに日本は古く神道の国であり、仏教の国であった。日光東照宮の三猿は「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えであり、論語まで遡るなら「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」と言う教えである。然しその当時でも草双紙は存在した。彼らの主張が罷り通るなら、それは青少年を無菌室で育てようと言っているに等しい。然し万物は毒である。毒でないものはなく、万物無毒化するのはその服用量だけである。無菌室で育てられた人は、外へ出ると免疫が無いためすぐ病で死ぬ。彼らの言う健全な青少年が、社会人になった時、社会の汚さを知った時絶望で死なないと、周囲を殺さないとどうして言えるのだろう? 仮令生きたとして、その生が虚無にならないなどと如何して言えよう? 巧妙に自殺の縄をかけて自らの首をも絞めている。別の例を上げよう。近年お茶の間を震撼させた事件の容疑者達は、そのオタク性ばかりがマスメディアによって面白可笑しく取沙汰されたが、その少年時代は揃って情報を厳しく制限されて育てられた人物ではなかったか。

 この際序だ、近年急速に発展したインターネットによる情報の氾濫、というがインターネットは「膨大過ぎるが故に検索しなければ手元に来ない」特性を持つ。ただ一つ選べば数多のジャンルの情報が通るマスメディアにはない特性だろう。それがまるで四方から情報に晒されているような、テレビのような書き方をされるのは非常に違和感を覚える。本来、インターネットでの情報は発信側やサーバーが場所を限ったり、閲覧制限をかけたりする努力や、各家庭での教育で十分足りるはずなのだ。それを公権力に頼るなどそれこそ一億総白痴化運動であり、言論弾圧の許容である。本当に此処は何処の戦前だ。

 話を戻そう。芸術の断絶も多様性の欠落もそうだが、未知への興味や調べ物の歓びの手軽で合法な入口が失われてしまう。自分はそれが恐ろしい。グロテスクは苦手だが、その解説を読んで人体構造や器官役割を調べるような人間だって此処にいる。処刑の歴史を知って、宗教をより理解できるようになった人間だっている。未曽有の体験から筆を持つものだってあるだろう。先ある若者に世界の優しく美しい所だけを見せたい、と言う気持ちが分からないわけでもない。大人の矜持だろう。然し何がきっかけで物事に興味を持つかはそれこそ人其々なのだ、興味への入り口は広くある方がいい。そうでなければ自分のような知識を喜びとする人間は覚醒できぬまま、特にこの個性を謳われる時代、自身の特性も杳と知れぬまま鬱々と発狂するしかなくなってしまう。与えられるべき情報で何が年齢に対して尚早なのかは各々が、親が決めるものだ。公ではない。公に規制を求めるのは責任転嫁であり、思考停止によって判断能力を奪うことになり、時には勉強意欲すら削ぐこととなる。育児放棄に等しい。現行の形骸化した道徳授業ではなく、真の意味での道徳がここで生きるべきなのだ。世代を跨いだ育児放棄が長くなされた結果が現在であるというのなら、真見事な戦勝国の敗北を我々は此処に見る。

 現実では理解が追い付かないものも、文学での追体験によって理解できることだってある。文学上での憧れを、憧れのまま悲しむことだってある。そんなほろ苦く淡い感傷だって掌で味わえるのだ。子供の頃はわからなかったものでも、大人に成って読み返して理解する経験だってあるだろう。まだ見ぬものを、知らぬものを、掌の上に没頭できる幸せを、歓びを、どうか大人からも子供からも奪わないでほしい。誰かが見たいものは、誰かが見たくないものだ。誰もが見たいものなど、真実ありはしない。そんな初歩も過ぎることをどうか忘れないでほしい。今後生まれくる名作の為に、今際の際に追いやられる名作の為に。

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