1 雇われる前にクビですか!?(一人称)

 あの日、義父は私にこう告げた。


『支度金だ。喜べ、お前の奉公先が決まったぞ、明珠めいじゅ


 その直前、支度金とやらは、目の前で借金に消えていたのだけれど。


 私は今、深山に囲まれたゆるやかな勾配を登っている。

 すでに郷里を離れてはや二日が経つ。


 全ては義父のせいだ。母が私を連れて再婚し亡くなったのが、五年前。父親違いの弟、順雪じゅんせつは姉思いで気立ての優しい子。でも、母を溺愛していた父は、変わってしまった。まるで、母が好きだったから私や弟にも関心があったというくらいに。


 いつまでも、なくなってしまったものについて、くよくよしてる場合じゃない、これも愛する弟のためだ。


 私は力強く顔を上げた。


(これからは私が順雪のためにしっかり稼ぐんだから! ここでもし私の身に何かあって、支度金を返せと言われたって、もう、そんなお金! どこにもないんだから――――っ!)


「明珠ねーちゃん、大丈夫?」

「ハッ……あ、美味しい? 私が漬けた大根の梅酢漬け」

「うまいよ! 色もきれいだ」


 年季の入った竹筒から爽やかな酸味が漂ってる。紅色に染まったいちょう切りの大根を取り上げた少年が、目の前でかりりと良い音をさせた。

 不案内な土地で、通りかかった農夫のお祖父さんと孫の楚林そりんに出会い、牛が曳く荷車に乗せてもらうことができた。

 早植えに備え水を張った棚田を眼下に見下ろして、畦道を揺られている。


「ねーちゃんは、あの蚕家さんけに行くのかい?」

 楚林を見ていると、どうしても順雪のことを思い出してしまう。

(二年くらい前の順雪もこんな風に好奇心いっぱいの目で、かわいかったっっ……)

 父親違いで六つ年下の弟はもう十一歳になるけれど、私がいなくてもちゃんとやってるかな。

「そうよ、奉公人として雇ってもらうの」

「すげー! ねーちゃんは術師様が怖くないのか?」


 術師――その言葉を聞くと複雑な気持ちになる。《むし》を操る者のことを人はそう呼ぶ。


《龍》を祖とする《蟲》は、この世の万象のことわりを司る存在だ。

 ここ龍華国では、《龍》と人の娘の間に生まれた子が国を開いたとされ、蟲招術ちゅうしゅうじゅつで常人の目には見えぬ《蟲》を呼び出す才を持つものは、敬われている。

 一方で術師は、目に見えぬ力を操るゆえに人々から恐れられてもいた。

 義父が見つけて来た奉公先の蚕家は、その中でも、代々、宮廷術師を輩出している蟲招術師としては並ぶもののない当代一の名家なのだ。


「怖くないわよ、術師は不思議な力を使うけど、悪い人はいないもの。もし、悪い術師がいたとしても、蚕家はね、そういう悪い術師を取り締まる家なんだから」


 皇家の覚えめでたい蚕家はそういう立場なのだと、母から聞いたことがある。


 でもさ、と言って、楚林は身を寄せて、ヒソヒソと耳打ちして来る。

「蚕家の庭にある御神木は、血を吸うんだよ!」

 なに言ってるの? ちょっとなに言ってるのこの子。お姉さんを怖がらせようったって、そうはいかないんだから。

「御神木が血を吸うぅ?」

「人間の生き血が養分なんだ、ヘマをした奉公人は生き埋めにされちゃうんだよっ?」

 なにソレ、ちょっとやばくない? 奉公人限定なの、ねぇ?

 大げさに脅してくる楚林に引きつった笑顔を向けていると、お祖父さんの血相を変えた声が飛んで来た。

「コラ! なんてこと言うんだお前っ」

 穏やかに手綱を握っていた農夫のお祖父さんが、ものすごい形相で振り返っている。

「っとに、子供がふざけてることなんで、とり合わないでくだせぇ」

「いえ……蚕家ほどの名家になると色々な噂がありますね」

 名家の悪口を言っていると思われたら、まずいのだろう。

 怒られた楚林は、祖父の気持ちなど知らずに、ぷぅと頬を膨らませた。

「信じてないのかよ、ちぇー。十日前だって蚕家に入った賊が、みぃんな捕まって御神木の根元に埋められたんだ」

 生き埋めの話も怖いけど、賊という言葉も聞き逃せない。この辺りは野盗が出るのだろうか。

 不安な顔で私が目を向けると、お祖父さんは困った顔をした。

「十日前に、この近くに賊が出たってのは本当です。身分の高いお方の馬車が襲われやしてね、蚕家の方が間に合って助かったとか、助からなかったとか……賊はまだ捕まってねぇから、ぼうずが言った生き血を吸う御神木の話は嘘だ」

 恐ろしそうに首をすくめて、再び手綱を振って牛を歩かせる。


 蚕家はこの先で、近隣の村から離れた場所に、広い所領を構えているという。その近くまで道案内してもらえるらしいのだけど。


 鬱蒼とした林が見えて来た手前で、道は二手に分かれた。

 遠くの深山から立ち込める霧が、ゆるゆると濃い緑の頭上に漂って来ている。


「すまんが、乗せてやれんのはここまでだ。わしらは村に続く道をこのまま行くが、蚕家に行くのは、もう一方の道だ。ここは裏門に近いから、その道をたどって行きゃ正門まで着く。まだまだかかるけんど」

 楚林ともここでお別れ。予定通り二日で来られ、覚悟していたより順風満帆な旅だったと思い返す。

 荷車に乗せてもらったおかげで、足も軽くなり、私は農夫のお祖父さんに道案内のお礼を言って、頭を下げた。

「ありがとうございます。ここまで案内してもらえて本当に助かりました」

 その拍子に、ふと足元の道の脇に、草をかき分けたような人ひとりが通れる程度の道が目に入る。

 三本目の道がそこにあった。


「これは、獣道ですか? 」

 どこに続くのだろう。

「蚕家の裏門に続く道だ。見ての通り人が歩く道じゃねぇ」

「裏門は近いんですか?」

 さっき近いようなことを言ってたような。

「近いよ! でも裏門のすぐそばに御神木が生えてるよ〜」

 おどろおどろしい振り付けで楚林が荷台から口を挟むと、またお祖父さんの檄が飛んだ。

「こら、おめは黙ってろ」

「いいわよ、御神木っていうからには、きっと大きな木なんでしょ? それなら丁度いい目印になるわ」

 お祖父さんの説明によると、道なりに正門までは一刻(二時間)で、獣道を行くと裏門まで四半刻(三十分)だそうだ。

 これは、行くでしょう。まだ日は高かったし、何かあれば引き返すだけの時間はたっぷりある。

「大きな壁で囲まれた屋敷だからな、間違っても通り過ぎることはねぇ」


 もう一度お礼を言って、ぶんぶんと手を振ってくる楚林に私も元気よく手を振り返した。二人と分かれて、シンと音の絶えた林に向けて歩み出す。


 道とは名ばかりの道だった。


(これはっ……失敗したかもっ!?……)


 所々で、背丈を越えるような草をかき分け、四半刻が過ぎた頃、木々の隙間の向こうに、はじめ霧かと思った灰色の行き止まりが、よく見ると建物の白壁だった。

 着いた、とほっとしたのもつかの間、灰色の壁を背景に林の中に潜む五、六人の黒い人影が目に入る。なにあれ、なんで全身黒ずくめなの?

 突き進む私の足がそこで止まった。


(まさか、賊!?……まだここにいたってこと!?)


 あともう少しなのに、蚕家、目の前なのにっ!? 思わず頭を抱えたくなったけれど、ここで選択を間違っちゃいけない。

 こういう時は、逃げるが勝ち!!

 黒装束の男たちに背を向けるのをためらって、後ずさった拍子に、木の根にかかとを取られて、よろける。転びこそしなかったものの、ガサガサっと草が揺れ、男たちが離れたところから、こっちを見たのがわかった。


 男たちが走り出すのと、私が身を翻して駆け出したのは同時だった。


(――だから、蚕家に来るのは嫌だったのよっ!!)


 どうしよう、どうしよう、どうしよう、泣きそうな不安が胸をせり上がって来る。


『決して蚕家に関わってはいけない』

 蚕家と因縁のある母、麗珠れいしゅは私にその理由まで明かして、忠告していた。だから、その言いつけを守って来たのに。

 えるってこと、誰にも知られないようにして来たのに。


(順雪のため、使っちゃった支度金のため――母さん、お願い! )


 着物の合わせに手を突っ込んで、そこにある母さんの形見の守り袋を強く握りしめた。


(力を、貸して――!)


 これを手にすると、いつも温かな力が流れ込んで来る気がする。心の緊張がわずかに和らいだ。

 蟲の存在にだけ聞こえる《蟲語》で、万象の化身に連なる言葉を唱える。


「《大いなるかの眷属よ その姿を我が前に示したまえ》」


 これは実の両親から受け継いだ、私の力。

 言葉は名を手繰り寄せる。


「《板蟲バンチュウっ!》」


《蟲》によって変わる呪文を放つと、《蟲》が呼び出された。

 ここではないどこかから、けれど、まるでさっきからそこにいたみたいに、足元の空気から滲むように、気配と色が輪郭を持つ。まな板のように薄く平たい《板蟲》は、戸板の半分ほどもある肢体で、低い位置に浮かんでいた。


 首筋をチリチリと刺す気配が、すぐそこまで迫っている、ここにいてはいけない、本能的な恐怖に急かされ、板蟲に飛び乗る。


「《飛んで!》」


 胴に当たる長辺の両側にある、何対もの細く長大な羽がひらひらとはためかせ、板蟲はふわりと高く浮かび上がった。

 頑丈さが売りの板蟲は、私が乗ったくらいではビクともしない。性格が温和で力持ちだから、家では荷運びの時に役立ててるけど。

(よかった、うまく発動してくれて……)


 息を飲む男たちの中に、術師はいないみたいで、私は胸をなでおろしかけた。

 毒を含んだ視線が離れない、黒装束の男たちは目で追いかけながら、その手にゆっくりと短刀を握った。

「《板蟲、あの塀を乗り越えてっ!》」

 板蟲にさらに高度を上げさせて、上空の霧であたりが霞む。でも、壁を乗り越えるまで、気を抜けない。

 それにしても、遅い! 板蟲は好きだけど、遅い!

 ゆるやかな速度にやきもきしていると、突然、目の前に平らに枝葉を広げた大樹が、行く手を塞ぐように現れた。


 これが御神木。この葉、幹のねじれ方、桑の木、だろうか、こんなに大きくなるなんて知らなかった。


 板蟲が白壁を乗り越え、大樹をかいくぐろうとした。枝をかすめた瞬間、「ぐじゃり」という手応えがして板蟲が搔き消える。同時に私の体もストンと力が抜けた。天地が逆さになり、最初の枝にぶつかる。


「!?きゃぁっ」


 声は出た。でも、身体はそのまま枝葉を突き破って、凄まじい音を立てながら一直線に地面に向かって行く。あっという間だった。

(落ちる――――!)

 もうダメ、死んだ!


「うっぐ!?」


 どすっと私は弾力のある何かの上に落ちた。思ったほど、固くない。痛いけど、そんなに痛くない? 今のうめき声は私が?


 目を開けると、顔があった。黒い瞳が綺麗で、吸い込まれるように見つめる。これは、驚いてる顔だ。多分、私も今こんな表情をしている。

 こんなに整った顔を他に見たことがないくらい、この人、なんで、こんなに近くにいる、の……?

「ごっ……」

 私の下に人がっ、人が下敷きなっている!!

「ごめんなさいっ! その、えと、これはっ、く、黒い賊がいてっ!?」

 空から降って来た理由を、全力で説明しようとして、しどろもどろになる。

 その前に、どこうと思ったけれど、身体に力を入れようとすると、奪われるように力が抜けていってしまう。

 しかも、打ち所が悪かったのか、気分まで悪くなって来た。理由はわからない、でも、板蟲が消えた感触が、強制的な術の解呪に似ていたから、その影響かもしれない。


 そこまで考えたら、急に体を持ち上げられ、私は声を上げてしまった。

 下敷きになっていた青年がおもむろに立ち上がる。一見細い腕が強い力で私の身体を支えた。横抱きに抱えたまま、素早く移動し、張り詰めた視線を周囲に走らせる。

 あの黒装束の男たちは、蚕家を狙っているようだった。

 追いかけられた時の恐怖を思い出して、私は力の入らない身体を強張らせた。


「賊は、侵入していないようだ」


 ややあって、静かな声が告げる。

 どこか信頼したくなる心強さに、詰めていた息を吐き出した。

 見上げると引き締まったおとがいと、その輪郭にかかるまっすぐな黒髪が目に入る。気のせいか、香の匂いがつんと鼻をかすめた。

 下敷きにしたのが女性じゃなくてよかったと思う。さっきのしなやかで機敏な動きといい、もう少し柔らかければ本当に女性かと思う顔といい、こんな綺麗な人が本当にいるなんて。


(私は……頭を打って、幻を見ているんじゃないかしら……?)


 まるで、神仙郷に住まう若木の精か、貴……。

「……お、降ろして下さいっ、すみませんでした本当にっ。ごめんなさい、降りますっ!」

 重要なことを忘れていた。

 奉公人として雇われに来ていたことを思い出して、青年の腕から降りようともがく。もがいた途端、めまいで霞む視界が回って、あえなく倒れた。

 腕の中に。

「どこか怪我を!? ひどい顔色だ。紙のようだぞ」

 違うの。降りたいんです、いっそこのまま地面に放り出してほしいんです。そう心の中で訴えてみても届かない。

 真剣な声音で、顔を覗き込んでくる青年から、少しでも遠ざかろうとすると、逆に反動をつけて抱き直されてしまった。

(……ん……?)

 その拍子に頬に温かいものが触れる。布にしては柔らかいような、張りのある固さ。さっきより焚き染められた香が強く薫る。体温で温められた香が匂い立つ。体温?

(ななななななな……なんで素肌なの!?)


 叫びかけた悲鳴を飲み込んで、耳まで一気に赤くなる。

(ちょっと待って、ちょっと待って、きゃーっ、なんではだけてるの、なんっ、私のせい!? 私を受け止めたせいではだけてるの!?)

 ジタバタとかろうじて動くと、なんとか頬は引き剥がせたものの、腕の中にいることには変わらない。触れるもの、見るもの全部に目のやり場がない。


(っていうか、――この人の着てるのって、絹織!?)

 見たことのない光沢、この肌触り、細い絹だけでおられた正絹の生地だったらどうしよう。さっきまで獣道を走っていた私は薄汚れてるのに。

 こんなものを着ているなんて、間違いない。

(貴族……なの? このひ……)


 恐る恐る見上げた私の目に、白絹を濡らす鮮やかな紅色と、爽やかな酢の香りが飛び込んできた。

 ぽたり、手荷物から滲み出た雫が地面に落ちる音がした。


「いや――――っ!!」


「どうしたっ!?」


 無理。ぜったい無理。こんな現実受け止められない。

 使い古した竹筒が、走ったり、飛んだり、落ちたりした動きにさすがに付いて来られなかったみたい。

 自慢の梅酢漬けが絹の衣服を鮮やかに染めていた。

 私は全部を否定するようにかぶりを振って、涙目で青年の顔を見た。申し訳なさで、いっぱいで、丁寧に謝ろうとちゃんと伝えるべく彼の胸に、震える手を置いた。

「ふ、服……絹の、絹がっ……」

 だめだ。全然言葉になってない。

(あやまりきれないっ、絹のお召し物がっ、ハッ、これって一体、いく……ら?)

 ざあっと頭から血の気が引いていくのを感じた。

 新たな借金!? それよりこの失態で雇ってもらえなくなったら!?

「なんだ、何を言ってる? おいっ……」

 青年が何か言っているけど、よく聞こえない。

(気持ち悪い、だめ、吐きそう……)

 お腹の底から何かが這い上がって来そうだった。


「震えているな、ひとまず屋敷へ――」

 だめ、それは、だめ、私は腕の中に抱えられているんだから。

(やめて。揺らさないで。おおお願い)

 心の声は届かない。

 青年の判断は相変わらず早く、娘を一人抱えていても機敏に駆け出す。

 絶対、吐くもんか! 最後の気力を振り絞って、暴れまわる気持ち悪さを抑え込んだ。瞬間、ゾッとする寒気が背筋を走り抜ける。


 意識が暗闇に飲み込まれる。私は全身の力を使い果たして、気を失った。


 ◇ ◇ ◇


 これはその後の、私の意識がない時のこと。


 その時、裏庭の異変に気付いたのは、武人として腕の立つ張宇ちょううさんだった。

 離邸から飛び出した彼は、私の身体を抱えた青年の姿を目にする。


「これは、いったい……」

 我が目を疑いながら、詰まる胸に言葉がかすれる。

 臣下の礼を取る前に、青年の方が先に答えた。

「わたしも驚いている。いったい何が起きたのか、一切わからん」

 張宇さんの目には、主君が抱いたみすぼらしい身なりの娘は不審に映ったのだろう。

 警戒もあらわに腰の剣に手を伸ばした。

「その者は、どこから?」

「突然、神木から降ってきた。下にいたわたしがこの者に触れた途端……」

 言葉を切って、青年は腕の中の娘をまじまじと眺めた。

 見たところで、謎も疑問も解けるわけじゃないのに。


 水を差すように、武人の固い声が響く。

「その娘は、わたしが預かりましょう」

「娘一人くらい、わたしでも運べる」

 青年はあっさりはねつけた。

「主上!」

 心配しているのがわからない主君じゃないと、知っているから、張宇さんは青年の意志と自分が取るべき行動の間で、やきもきと気を揉んだ。

「聞いたことのない、素っ頓狂な悲鳴を上げていたぞ」

 青年の方は、どの素っ頓狂な姿を思い出したのか、楽しげに喉を鳴らした。


「とにかく、離邸の中へ戻りましょう。季白きはくなら、何かわかるかもしれません。お身体に触りはありませんか?」

 一刻も早く、もう一人の従者に見せなくては、と張宇さんは考えた。

「いや……特に悪くはない、と思う」

「わかりました。お召し物の替えも、すぐに用意致します。さあ、その娘をこちらに」

 主君を守るためなら、意に沿わないことも進言する。

 不機嫌そうに青年は黙した。

「……」

 かたや武人は歯向かう覚悟で主君をじっと見る。

「どうしてもか」

「どうしてもです」

「しかしな」

 食い下がりすぎだと思う。


「得体の知れない者をおそばに置くことは承服できません。――季白に言いつけますよ」

 その一言が効いたみたい、折れた青年が私の身体を差し出し、張宇さんがそれを受け取った。

 瞬間、そう変わらぬ位置にあった青年の姿が掻き消えた。

「!?っ」

 目を見開いたまま固まる張宇さんの足元から、子供の声がした。


「もう一度、その娘をよこせ」

 言い方は変わらないのに、声だけが幼い。

「ああ、よかっ……よくはないか」

 安堵しかけて、首を振りながら、息を吐く張宇さんに、がぐいと両腕を差し出す。

 本気なのだと気付いて、武人が慌てる。

「無理ですよ! 無体なことを言わんで下さいっ、抱えきれずお倒れになってしまいます!」

「大丈夫だ」

 またも強権発動。

「根拠なく断言されても譲れません!」

 避けるように身をひねる武人に、有無を言わせぬ様子で、ずいと歩み寄ると、少年は娘に手を伸ばした。

 腕に触れる。何も起こらない。次に、ひし、と抱きついてみる。やはり、何も起こらなかった。

「……戻らんな」

 呟く姿はなんとかしてあげたくなるほど、打ちひしがれていて。

「なぜだ。先ほどのアレは、どうしたらもう一度見せてくれる?」

 ただただ眠りこける私の顔に、少年は切実な眼差しを向けていた。



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