第406話 ロジカルシンキングの練習

 問題解決プロセス……黒魔女さんの小説教室とは真逆の文章の作り方だけれども、やってみもしないうちに使えないと判断するのは早いと思うんだ。

 ちょっつ、ロジカルシンキングの練習してみようかな。


 まず、小説を書くのに必要なのは、論理性なのか感性なのかという話だ。

 これはジャンルによると思う。

 論理性を必要とするジャンル(ミステリ、謎解き)と感性を必要とするジャンル(ファンタジー、純文学)。

 横ちょにそれると、どのジャンルでも愛は必要だが、そもそも愛って論理的なのか。


 愛は絶対必要なのであえて横へ置いておくわけだけど、論理的な愛なんて聞いたことないなあ。

 感情、情緒、感性に触れるものであることは確かなはずなんだけれども、実際よくわからない。

 理論を愛し、論理的であることをよしとする精神はそれすなわち愛なのか? わからない。


 愛の次に大切と思えるのが道徳だ。

 これは一部強制ともいえる面があり、押しつけがましく感ぜられる場合があるので、あえて不道徳なものを描くジャンルもあるし、エンタメたりえるのだがそれも道徳があって初めて不道徳という観念が存在し得る。

 なので、小説に道徳は不可欠。


 正体がよくわからないんだけれども、必要だと言われているのが哲学。

 哲学とは人の生きる道、と定義したとすればそれはすでに小説だ。

 大河ロマンでもいいが、小説とは人の生きる道を描くものであると考えるから。

 他の人はしらない。


 しかし、初めに戻るが、論理性が全く存在しない人間がいないであろうというのと同じ理屈で論理性が全く存在しない小説というのもないのではないか。

 文章表現に論理性を欠くと、めっちゃ抽象的な詩みたいな感じになるだろうと予想する。

 また感性のみによる文章も、またないのではないか。


 小説における論理性とは、一種のお作法だと仮定してみて、お作法のない小説は成り立たないので小説に論理性は必要。

 また論理性とは説得力だと仮定してみても、説得力のない小説はあるかもしれないが、一般に流布しないであろうから、小説に説得力は必要。


 感性とは嗜好性を占めると仮定すれば、それは多かれ少なかれ他者の心に訴えかけるであろうから、犯罪小説だろうが、猟奇小説だろうが、ホラーだろうが小説に感性は必要だと予想できる。


 エログロがどんなんだかわからないのだが、論理的なエログロってあるんだろうか? 人の心も科学的な側面を持つが必ずしも論理的でない。

 論理的でないから小説の俎上にあがるのだと予想する。

 飛躍するが、人の心が論理的でないから小説があるのだろうか。

 だとすれば、小説に必要なのは感性だ。


 だいたい、小説ってなんのためにあるんだろうか。

 本をよく読む人には職業的な習慣であるばあいと、嗜好性による場合とがあると思うが。

 知識をとりいれるのが目的の人物と、空想に遊ぶのが目的の人物とでは、選ぶものが違うのではないだろうか。


 知識を摂取するのが目的ならば、ネット情報もあるし、必ずしも選ぶのが小説である必要はない。

 しかし、空想に遊びたいならば、映画、ゲーム、漫画、そして小説である必要性がないわけではない。

 音楽世界もドラマ性があって初めて人の心に伝わるのではないだろうか。


 では、空想は論理的であるのだろうか?

 論理性はいつでも必要だろうが、論理性は空想を地に足をつけたリアルとして表現するのに必要なだけで、空想そのものではないのではないか。

 空想は論理ではないのではないか。

 空想を空想である、と表現するツールとしての論理性が認められるだけではないか。


 一気に飛躍するが、わたくしは仮説を立てようと思う。

 論理性とは小説を成り立たせるお作法であり、表現のツールであり、表現される対象としての小説とは、感性そのものではないのだろうか。

 だとすれば、小説に欠くことのできないものは、お作法ではなく、ツールでもなく、感性なのではないか。


 ようするに、誰かを好きだ! と思う気持ちが必ず小説に必要だと言われるように、必ず何かを好きだ! と思う気持ちが、小説には込められていないと成り立たないのではないか。


「好きだ!」という気持ちをどうやって、どのように表現するかというところが論理性の必要なところなんではないだろうか。

「好きだ!」に理由がないとしても、「嫌いだ!」にはたいてい理由があるものだ。

 その理由を述べよと言われた時に必要なのが論理性なのではないだろうか。


 大人になると、好きだも嫌いだも、どうでもよい距離感というものを憶えるものだが、そのどうでもよいものをどうでもよくない形にするのが小説なのではないか。

 好きだの嫌いだの、複雑だの単純だのを述べた小説を読みたいと思う気持ちが、人間の中にはあるのではないだろうか。


 あるいは、変化。

 人の心の変化を描くのが小説だと言われることがある。

 小説を深く知らないのでわからないが、わたくしが好んで読んでいたのはそういったものだったと思う。

 論理は変化するだろうか?

 感性は変化するだろうか?

 作家の技術に巧拙はあっても、論理が変化するとすれば、それは破綻だ。


 つまり、論理とは、小説上で破綻してはいけない、普遍的な指針であり、作家はそれを貫けないといけない。

 感性は変化してよい。

 感性が変化するということは、すなわち感情を動かすということ。

 情動であり、感動である。

 小説には少なくとも感動が必要だ。

 ……また飛躍した気がする。


 小説に感動がなぜ必要かと言うと、それを読む人が喜ぶであろうからである。

 簡単に言うと、読者は感動したいし、感情を動かされたいし、感性を刺激されたい。

 それが心の豊かさだと考えるからだと思う。

 少なくとも感動するとワクワクして楽しいし、充足感が後からくる。

 満足である。


 逆に、感動などしたくない人間もいる。

 多分に心臓や呼吸器が弱いのだろう。

 落ち着きたいし、ほのぼのしたいし、しみじみしたい。

 そういうニーズに合わせた小説も確かにあるだろうし、そういう作品も一種感動作と言えなくもない。

 それらはワクワクを欲しない読者へ向けた作品なのだろう。


 またも飛躍するが、充足感! これは大事だと思う。

 日常系でほのぼのしても充足感があれば読者は満足だし、インディージョーンズではらはらしてもばっちり盛り上がれば満足という人もまたいる。

 そうでない人もいる。

 だから、表現は、創作は、人の数だけあってよいというのがわたくしの考えだ。


 小説はちょっとした驚き。

 ちょっとした冒険。

 スリルがあって、心が満たされて、それでいて安全。

 事故の起こらない旅行を楽しみたい人向けなのだと思う。

 ネットサーフィンで無限に楽しみたい人も、くっきりと切りとられた芸術に耽溺したい人も、一番初めは小説物語に触れてきたはずなのである。


 ちょこっと考えたのだが、論理性を表現のツールと仮定するならば、ツールをうまく使えたからと言って優れた小説とは言えないのではないかというのがわたくしの意見だ。

 論理的に優れていれば事足りるのなら、論文でそのツールを発揮すればよいではないか。

 論文には必ずしも感性は重視されない。


 論文で感性が重視されることがあるとすれば、それは論じる上でなにを問題視するかの観点によると思う。

 それこそ道徳とか哲学とか、イデオロギーとか。


 とりあえずの結論として、小説に感性は必要。

 しかし、わたくしは個人的に、論理性の破綻した物語はよいと思わないし、読みたくない。

 理解できないものを(感性を)理解できる(共有できる)もの(媒体)に変換するのが論理性だと思うので、それが破壊されたりすると思考が止まるのである。


 自分の立ち位置として、小説には論理性と感性と、両方必要だということにしておきたい。

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