アルテ(1)
階段を上がり、その先にあった両開きのガラスドアを押し開ける。すると、その先にあったのは高層ビルの屋上らしき場所であった。
広々とした、一面コンクリートの広い屋上である。周囲には夜の暗さが満ちているが、星空は見えない。都会の明かりを受けて不気味なオレンジ色に光る黒い雲が、空には厚くかかっている。
周囲にはこのビルと同等かそれ以上の高さの高層ビルが林立し、それには点々と蛍光灯の明かりが残っている。だが、どこにも人の姿や声はない。あるのはただ、吹き抜ける生温かい風だけである。
湧磨がその風に逆らって屋上の中央へと歩いて行くと、向かいにあったガラスドアから一人の男が姿を見せた。
黒いスーツと黒いネクタイ。その服装は要人警護のSPか何かのようだったが、その顔に被っているヒーロー戦隊ものの赤いマスクのせいで、その堅苦しい服装がむしろ悪ふざけのように見えてしまう。
だが、男の背は高く、肩幅も格闘家か何かのようにガッシリと広い。こんなヤツと戦うのか。湧磨が思わずたじろいでいると、湧磨とマスク男――アセンブラとの間に、
『Ready』
『Fight!』
の文字が躍った。
その文字が空中から消えるが早いか、アセンブラは動き出していた。
そのマスクと体格に裏切らず、どうやら真っ正面から向かってくるファイター型らしい。初撃、突進しながらの右ストレートはあまりにあからさまで躱すことができたが、熊が向かってきたような圧迫感に湧磨はゾッと息を呑んだ。
が、同時に自らの身体の軽さにも驚く。速い。未体験の速さだった。自らの動きに意識がついていかず、転びそうになったほどである。
――これが二千万の力なのか……!?
不格好にゴロゴロと転がってしまうことはしょうがない。そう諦めて、湧磨はアセンブラの拳のラッシュが起こす風を肌に感じつつも、どうにかその攻撃を躱し続ける。
と、不意に、視界左下に『!』アイコンが現れ、その横に『アリーローズ』の名と、『応答』、『拒否』の文字もまた現れる。電話のコール画面のようなその表示を怪訝に思いつつも、相手の隙を見て『応答』に指を触れてみると、
『湧磨、どうして反撃をいたしませんの!? 逃げてばかりでは勝てませんわよ!』
アリシアの怒鳴り声が脳を貫く。やはり今のはコールの表示だったのかと納得する暇もなく、アセンブラの蹴りを背後へ跳躍して躱しながら、
「反撃しないんじゃない! できないんだ! 俺は人の殴り方なんて知らない!」
『なら、これをゲームだと思ってみればいいみゅん』
と、ゆりりんの声。
『自分は今、VRのゴーグルを被ってアクションゲームをしてる最中なんだ、ってさ。実際、その通りなんだし』
――ああ、そうだよな。これはゲーム、ゲームなんだ……!
アセンブラの右アッパーを体操選手のようにバク転して躱しながら、湧磨はゆりりんの言葉に胸で反芻する。ゆりりんの言う通りだ。俺は今、VRのゲームをしている。それを忘れてはいけないのだ。
いくらかは自らの速さにも慣れてきた。つまり肉体的にも精神的にも、少しはエクスマキナという空間に慣れてきた。アセンブラの息がやや上がっているのを冷静に観察しながら、湧磨は小さく息を吸って腰だめに右の拳を構え――
「ふッ!」
突進。アセンブラの鳩尾に一撃を叩き込んだ。
どうやらこちらが前に出るとは思っていなかったらしいアセンブラは、防御態勢を全く取らずにそれを受け、微かな呻き声を発しながら背後へ吹き飛ぶ。その文字通り、軽く三メートル以上は吹き飛んだのである。
『あなた、中々やるじゃありませんの! その意気ですわ! 一気に畳みかけてさし上げなさい!』
「ああ、まあ、ガキの頃からずっとゲームはやってきてるから――」
アリシアは全く容赦がないが、地面に膝をついて腹を押さえるアセンブラを見て思わず申し訳なさを感じていると、突然、岩がぶつかったような衝撃が頭を襲った。
――え?
気づくと、湧磨は空中を飛んでいた。
赤黒い雲をぼんやりと眺めながらしばしゆっくりと宙を飛んで、それからハッと体勢を整え、後ろへ回転してどうにか着地をする。そして眼前に迫っていた、アセンブラの巨大な拳を腕でガードする。
『湧磨!』
『清里くん!』
アリシアとゆりりんの悲鳴に似た声が重なる。ガードをしても背後へ一メートルは吹き飛んだこの一撃をまともに喰らっていたら、どうなっていただろう。そう慄然としながら、湧磨は混乱していた。
――さっきのはなんだ? 俺は何をされた?
右のこめかみ辺りにじんじんと痛みが残り、焦点がふらふらと定まらない。それでも湧磨はどうにか歯を食いしばって意識を保ち、再び無様に地面を転がりながらアセンブラの拳を躱す。躱しながら、
「ゆりりん……! さっきのアレはなんだ? 俺は……何を喰らったんだ?」
『待って、いま調べてる所だみゅん! でもエクスマキナには二千近くスキルがあるから、調べるのには時間が……!』
『いちいち調べる必要などありませんわ。先ほどのものは、おそらく中距離系の攻撃でしょう? そう解りさえすれば、もう何も恐るるに足りないはずですわよ』
「恐るるに足りない? どういうこと――だっ!」
アセンブラの前蹴りを湧磨は脇に挟むようにして受け止め、ジャイアントスイングをするようにして投げ飛ばそうとする。が、その時、
『ダメ! 投げるのではありません!』
アリシアに怒鳴られ、湧磨は慌てて回転を弱めながらアセンブラの足を放す。
『あなたは本当にとんでもないお馬鹿さんですわね! 先ほどの見えなかった何かは中距離の攻撃だと言ったでしょう。ですから、相手との距離をあまり空けすぎないようにしながら、何か狙いを定めているような様子に注意すればよいのですわ!』
なるほど、確かに。普段、ゲームをしている時ならすぐに気づいただろうが、実際に自分がその立場になってみると案外、難しいものだ。そう反省しつつアセンブラとの距離を適度に詰めようとすると、
「ハ、ハハ……君は何を必死になっているんだ?」
妙なタイミングで投げ放されたせいか後頭部を打ったらしいアセンブラが、頭を押さえながらヨロヨロと立ち上がる。そのマスクの下にどうやら冷笑を浮かべながら、
「女子高生のファーストキスが貰える権利……? 若いね、君も。こんな出品、嘘に決まっているだろう。どうせ出品者は男さ。ノコノコ会いに行こうものなら、脅されてカネを巻き上げられるのがオチに決まっているじゃないか」
残念ながら、出品者は本物の現役女子高生である。それも絶世の美少女、金髪碧眼のブリティッシュ・ガールである。だが、それを教えてやる義理などない。湧磨は冷淡に訊き返す。
「なら、アンタはどうして入札エントリーしたんだ?」
「ただの小遣い稼ぎだよ。女子高生のファーストキスなんて、全く期待していない。しかしまあ、待ち合わせ場所には一応、行くかもしれないね。それで、もし本当に可愛い女子高生だったら……ぐふ」
「このエロ男め……。お前のようなヤツに、絶対に勝たせるわけにはいかない……!」
『あなたと一体、何が違うんですの?』
というアリシアの冷めた言葉は無視して、湧磨はその口元に笑みを作る。
「でも、悪いな。これは初めから、明らかに俺に分がある戦い(オークシヨン)だった。アンタには初めから勝ち目なんてなかった」
「ふん……少し反撃ができたくらいで粋がるのには感心できないね。初心者の君が、Bランカーの私に勝てるとでも――」
「欲望の強い者が戦い勝つ。アンタと違って、俺には確固たる欲望がある。絶対に勝ち取りたいという、揺るぎない欲望が」
指先に触れた、アリシアの唇の柔らかさ――
鮮烈な刺激で記憶に深く刻まれているそれを、湧磨は神経を研ぎ澄まして思い出す。あの柔らかさを、温かさを、俺はもっと感じたい。味わい尽くしたい、貪り尽くしたい。
「……行くぞ」
これからはこちらのターンだ。アセンブラの前に表示されているLPゲージは、およそ半分ほどにまで減っている。片や、湧磨のLPゲージはほんのわずか減っているのみである。この差は間違いなく、欲望を高めてくれたアリシアのおかげだろう。
その恩に報いるためにも、そしてあわよくばその唇を手に入れるためにも、自分は勝たねばならない。
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