大切な人






 兄と目が合った。

 その瞬間、シルビアの動きの一切も止まっていた。


「ヴィンス、敵は」


 問いに、ヴィンスが先に動きを取り戻した。


「──あ、ああ、近くにはもういない。ここしばらくは誰もいない状態で来た」

「それなら、先に地下通路に行くぞ」


 アルバートの促しにより、一名加わった状態で再度地下通路を目指す道を行きはじめた。

 ついていきながらも、シルビアはちらりと兄の方を窺った。けれど、ずっとは見ていられなくて、視線を逸らす。

 言い様のない緊張が生まれて、全力で走ったのではないのに、心臓が早鐘を打っていた。

 理由は、わかっていた。


 一階部分にまで降りると、床の一部が開き、地下に空間が広がっていた。これが地下通路。

 しかし梯子などはなく飛び降りるしかないようで、大した距離ではないけれど、先に降りたアルバートがシルビアを受け止めてくれる。

 通路は、十分な高さがあった。地下ということで、もちろん窓はなく自然光は望めない。そこに置いてあったらしい灯りがつけられ、通路を照らしたところで、最後に兄が降り、蓋が閉まった。

 見える範囲では、前と後ろの直線しか空間がないためか、閉塞感を覚えた。

 しん、ともっと静かになった場で、


「シルビア」


 と、名を呼ぶ声がして、シルビアはぴくりと小さく震えた。声は兄のもの。名前を呼ばれたのは、随分、久しぶりだ。

 戦場では、呼ばれず、冷たい視線に晒された。

 その目が思い出されて、視線を上げるのがこわかった。


「すまない、シルビア」


 兄の方が見られなかったシルビアは、謝る声に、顔を上げた。

 兄は、そこにいて、シルビアを見ていた。

 視線が交わった目、顔は──。


「シルビア、私の妹。この世で一番大切な君を傷つけるなんて」


 兄は、両腕を広げた。


「来てくれるか」


 シルビアは躊躇わなかった。

 あんなにも恐れていたのに、躊躇う要素はなく、その姿に、気がつけば足が勝手に動いていて、腕の中に飛び込んだ。

 兄は、シルビアを受け止め、両腕で包み込んだ。深く、強く、シルビアを抱きしめる。


「傷つけて、忘れていて……裏切るような真似をして、すまない」


 いいえ、いいえ、とシルビアは顔を埋めた胸で何度も言った。

 もういい。もう、いいのだ。そんな思いでいっぱいだった。

 妙な緊張なんて消え去って、胸がいっぱいになっていた。


「兄上達にはまだ何もされていなかったか。いや、その前に私がつけてしまった傷は」

「傷は、治っています」

「全てか?」

「はい」

「……そうか」


 シルビアを抱きしめる腕にぎゅう、とより力が込められた。

 一方で、優しく頭を撫でる手があった。その手は、ゆっくりとシルビアを確かめるように撫でる。


「背が伸びたな」


 伸びた。記憶より、兄の顔が近い気がする。


「顔つきも、すっかり大人びた」


 それは自覚がないけれど、もう何年も経った。


「そして──随分と」


 脇の下に手が差し込まれ、足が浮いた。

 温もりと共に感じていた兄そのものと離れるけれど、その代わりに。

 兄の顔が見えた。

 子どものように、彼の目線より少し上まで抱き上げられていた。

 水色の目が、シルビアだけを映す。顔をよく見るように、下からシルビアを覗き込む。


「随分と、たくましくなった。剣を持って戦場に立つなんて。本当に、無茶をする」


 無茶ではない。シルビアがすべきことで、望んだことでもあった。

 大切な、大切な兄。

 たった一つの望み。再会を望んだ。

 その人が、今、目の前にいる。そればかりか実際に触れられ、温もりを感じられる。

 これは、決して夢ではないのだ。

 同じように抱き上げられたことがあった。そうしたのは過去から現在まで彼のみ。

 この位置関係と、その姿、しっかりと確かに自分を支える腕を感じ、シルビアの視界が滲んだ。


「……兄様」


 まさしく彼は、兄だった。かつての兄。会いたかった人。

 見下ろし、よく見える顔は、眼帯以外何も変わらない。瞳の色合い、雰囲気、その眼差し、優しい声。

 シルビアを映す水色の瞳が、今、細められる。


「──君は、泣くようになったのか」


 ぽたぽたと、兄の頬に落ちる滴は、シルビアの目から生まれ、流れ落ちるものだった。

 眩しそうに目を細める彼は、この上なく優しい眼差しをシルビアに注ぐ。


「外で、たくさんのことを知れたか? 見られたか? 感じられたか?」


 たくさんのことを知った。教えてもらった。見ることができた。感じることも増えた。だから涙が流れている。

 すべて、あなたが出してくれた外で得たものだ。


「……にいさま……っ」


 シルビアは手を伸ばし、兄の顔に触れた。顔には傷があり、衣服に戦いのあとが見えた。


「兄様、ごめんなさい、私のせいで」

「何を謝る。私が守りたいものが無事だった。これ以上に他に望むことは強欲だ。何も、問題はなかった」


 兄は微笑した。

 シルビアは涙がもっと溢れてきて、彼の首に手を回し、抱きしめた。


「久しぶりだな、シルビア。私の大切な、大切な妹」


 柔らかな声が、耳に響き、浸透していくようだった。

 抱きしめて。抱きしめられて。その存在をしっかりと感じて。

 温かかった。落ち着いた。

 とても、懐かしかった。


 再び地面に降り立つと、兄は最後にシルビアを見つめ、頭を撫でた。

 それから兄は、周りに控えていたメアリに目を留めた。


「メアリ、君はなぜ離宮に。その服と──それは血だろう。どうした」

「いいえ、大したことはございません」

「服の具合から言って、返り血ではないだろう。……だが、傷は……」

妹君いもうとぎみが治してくださいました」


 彼女はなぜそうなったのかは言わず、治ったことだけを言ったから、シルビアは兄の袖を引いて言う。


「逃がそうとして下さったのです。私を、逃がそうとして……」


 シルビアの言葉を聞き、怪我の理由を悟ったヴィンスは、メアリを見る目を見開いた。


「メアリ……君は……」

「おかえりなさいませ、ヴィンス様。大切なものを思い出されたあなた様が帰って来たことを、嬉しく思います」


 メアリは微笑んだ。

 その彼女を見ていたヴィンスは、にわかに上着を脱ぎ、それをメアリにかけた。


「戦場からそのまま来たこともあって、全くきれいなものではないが、衣服を着替えるまでは着ているといい」

「いえ、そんな──」

「いいから」


 決して強くはなく、やんわりとメアリを押し止めて、ヴィンスは微かに微笑んだ。


「君にも、随分迷惑をかけたようだ。ありがとう」


 その表情を目にし、メアリが、触れている上着をぎゅっと握った。


 ひとしきりのやり取りが終わったところで、一連の流れを黙って見守っていたアルバートが口火を切った。


「ヴィンス、これからどうする。あれから、シルビアのいた部屋で第一王子と会って、今は意識を無くした状態で一応拘束して置いてきたぞ」

「そうか。私も、一人。……兄弟全て無力化したということになるか」


 ふむ、と兄は考える様子になる。


「……今が絶好の機会か。改めての機会にすれば可能性は低くなる。全ての隙を突くなら、今、このまま」


 独り言のように、彼は呟き、考え込む。


「こうなればすぐにでも戦も止めたい。……考えられる流れとしては、父上には悟られないように兄上達のことは隠蔽し、戦場で休戦提案の使者を向かわせるように伝令を出し、戦を一時的にでも止める。同時に、父達の政策に賛同していなかった面々を集い、玉座を掌握するしかない、か」

「今から、出来るか」

「父以外を無力化したなら、可能性は見える。この国は、一見そうは見えないが、それなりに脆い。父達のやり方は急で、無理矢理すぎた。……この離宮にシルビアがいたときもシルビアの存在は公にされていたわけではない。彼らが異常だと思う者は少なくなかった。ただ、逆らうことなど出来なかった。そこを突けば、崩れる」


 シルビアが見上げる先で、兄はヴィンスと何かの話を進めていく。


「テレスティアの方からも早めに手を引かせなければならない。あの国には兄弟の一人が行っていたのだが、知っての通りそちらに捕まっている。……テレスティアとこの国との関係は知っているか?」

「テレスティアから来ていた王子が話していった」

「……そうか。今あちらには満足に『誓い』をかけられる人員はいない状況だ。シルビアがいると分かれば、テレスティアにいては一人遅れを取るからと。今、テレスティアは抵抗しようと思えば抵抗出来る状態ではあるはずだ」


 そういえば、とアルバートが何か思い出したように言う。


「テレスティア側とは膠着状態だって聞いていたな……」

「抵抗しているかもしれない、か」

「いや、待て。邪神信仰者はどうなってる」


 テレスティア、邪神信仰者、という単語でいつの間にかシルビアにも分かる話になっていたと知った。

 それとともに王太子から聞いた、テレスティアの事情を思い出した。

 アウグラウンドはどうやら邪神信仰者と繋がりがあるようで、海戦では海賊がテレスティアに攻めいった、とか。シルビアが思い出した内容を、アルバートが兄に言った。


「偶然でも何でもなく、この国は本当に邪神信仰者と関係があるのか」

「ある。『彼ら』は利用出来るものは全部利用することにした。手段は選んではいられなかった。ただし手を組んだわけではない。『彼ら』は当然邪神をよく思っていないから、邪神信仰者も見下し、あくまで捨て駒にできる兵力としたまでだ」

「テレスティアの令嬢が、一人邪神信仰者のようになっているのはどういうわけだ」

「……聞いた限りでしかないが、……惨い話に類することとなるかもしれない。……簡潔に言えば、ああいうことを洗脳と言うのだろう。聞いた話では、結果的にはそういうことが行われたようだ」

「戻せるのか。テレスティアの王子は、上手くやればその令嬢の邪神の影響を戻してやると言われたらしいが」

「結論から言うと、私は知らない、だ。そして私が知る限り、『彼ら』は確固たる方法など持っていないはずだ。やってみると、『そう』なった。それ以上でも以下でもない。罪悪感も何も持っていない。利用できる『代物』になったなら、利用する。それだけだ。……洗脳が解ければ、あるいは、としか言いようがない」


 兄は、ふっと息をついた。

 目が、壁の方を見る。


「これから、この国は色々償わなければならない。──どうあれ、全ては終わってからだ。やれることをやり、やるべきことをやる」

「それはもう決まりか」

「決まりだ。これからやる。君達はここから出ろ。どこでも自由に通行出来るように、私が持っている王家の証を預ける」

「いいのか?」

「以前は君がしてくれたことだろう。それに、今回も私が頼む側であることに変わりはない」

「……今度は、生死が分からないなんていう状況にはしてくれるな」

「全力は尽くす」


 兄からアルバートへ、何かが渡り、二人がシルビアの方を見た。


「シルビア、アルバート共に行ってくれ」

「兄様は」


 その言い方は、彼が含まれていないと瞬時に察した。


「私は、この国に残る」

「でも、残れば兄様は」

「大丈夫だ。問題ないようにも、これから動く」

「──何を、するつもりなのですか」


 アルバートと何か話していた。アルバートは、これからどうするかと言っていた。

 兄は、これから、どうする……何をするつもりなのだろう。

 シルビアの問いに、兄はおもむろに膝をつき、シルビアと目を合わせた。


「この国の現在の姿勢を変える。そのために私はこれから、父を討つ」

「討つ……とは、いいのですか」


 討つ。その先が、『父』と言われて、シルビアは思わず「お父様なのでは……?」と聞き返してしまう。

 兄は、少し、首を傾げてみせた。


「シルビア、私の父は立場的には君の父でもある。母もそうだ」

「……そう、なのですか」

「だが、おそらく君の描く父親像とは、アルバートの父だろう」


 父親という姿を知り、また、知っているのはアルバートの父だけだ。

 父と言われて思い浮かぶのは、そのまま養父だったから、シルビアは頷く。


「アルバートの父は、素晴らしい人だろう。公的にも、そして私的にも温かく思いやりがあり、子どもに最もそうである。親は大抵そのようなものなのだろう」


 兄は、深く頷いた。


「だが父は、変わった。いつからかはもう覚えていない。だが、私はいつからか父を父とは感じられなくなった」


 なぜか、そのとき、頭を撫でられた。


「『反逆』という言葉がある。主君等に逆らうことだ。国の歴史の中には、そうして子が親である王を討つという歴史が刻まれることがある。数少ないことだが、前例がないことではない」

「……はい」

「なぜ、そうするか。王が間違っており、このまま玉座にいさせるべきではないと思うからだ。──私は今からそうする」

「間違っていると、思うからですか」

「そうだ。彼らは、ずっと間違っていた。君を『女神』だと言い閉じ込めるばかりか、目が眩み、周りが見えなくなっていた。これから私はクーデターを起こし、今の王を降ろし、この国の行いを止める。今起きている戦も終わらせる」


 次々と言われた物事が、どれほどのことなのかシルビアには分からない。でも、大きなことをしようとしていることだけは、彼の様子で分かった。


「……私は、何かできませんか」


 拳を握りしめ、シルビアは問うた。

 自分は、今、何か兄の役に立てないか。何かできないか。

 何か、したかった。兄だけにさせたくなかった。


「この国から脱出しておいてくれ。アルバートと、またイグラディガルに行っておいてくれ」


 けれど兄は、そう言ったから、シルビアは表情を曇らせる。

 やっと会えた兄と、別れなければならない。

 何年も前の雨の日、『最後』に見た姿が重なって、不安になった。今、別れて、また会えるのだろうか、と。


「……兄様とは、また、会えますか……」


 消え入りそうな声しか出なかった。

 そんなシルビアを見て、兄は、シルビアの手を握った。


「今度は、きちんと約束しよう。私の妹、君に誓おう。再会を約束する」


 以前は約束がなかった。兄が、以前約束しなかったのは。

 シルビアは、片方が眼帯に覆われ、優しく微笑む一つだけの目を見つめる。


「もう一つ、だけ。約束、してください」

「うん。何だ」

「死んでも、なんて、もう、思わないで」


 絞り出すような声での言に、兄は驚いた表情になった。


「……すまない。あのときは、約束は出来なかった。でも今回は違う。死なない、約束しよう。全てを成して、生きて、君に再会する。シルビア、近い内にまた会おう」


 約束と一緒に抱擁されて、シルビアは腕の中で頷いた。きっと、きっと、約束だという思いを込めて抱きしめ返した。

 抱擁は短く、シルビアを離した兄はアルバートと目を合わせ、シルビアを彼の方に軽く押した。

 シルビアはアルバートの元に行く。


「メアリ、君──」

「逃げておけ、と仰られても困ります」

「……これから、城はどうなるか分からない」

「分かっております。ですが、私はこの国の人間ですので」


 兄に微笑み述べた彼女は、シルビアの方を見て、同じ微笑みを向ける。


「シルビア様、改めて挨拶出来る日を楽しみにしております。どうか、ご無事で」


 あなたも、どうか無事で。


 どうか、二人と無事に再会できますように──。










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