恐怖






 その男は部屋の中を目にして、扉を開いたまま止まったが、シルビアも凍りついていた。

 物音一つ、失せた時間が流れた。

 最初に動いたのは、男だった。ドアノブから手を離したことによる、微かな微かな音がよく聞こえた。

 扉がゆっくりと閉まる音も。

 この部屋の扉は一つ。その前には男がいる。逃げ場は、ない。


「何をしている」


 たった一言。一言だけとは思えない重みを持ち、威力があった。

 『彼ら』がまた来ない内に逃亡をと思い、実行寸前だったのに、来てしまった。見つかった。


 男の目は、シルビアの姿を捉えている。服は着替え、枷は外した後。髪はまだ染めておらず、そうでなくとも、この部屋にいるべき『シルビア』の姿がなければ誤魔化すことは不可能だ。

 シルビアの姿を凝視していた男は、目を、この部屋にもう一人いた人物の方へ向けた。倒れている女性ではなく、シルビアに逃亡の術を与えてくれていた女性だ。

 白い服の近くにおり、シルビアより扉に近くいる彼女もまた、一切の動きが止まっているようだった。


「──お前、メアリか」


 メアリ、と、女性の方を見て一つの名前が出てきた。

 シルビアは、こんな状況になって、その男によって彼女の名前が「メアリ」なのだと知ることになった。


「ここで何をしている」


 男は、今一度問う。彼女──メアリに向かって。


「何を持っている。この状況は何だ。あの服は何だ。誰にあのような服を着させている。枷を外したのはお前か。何をした。──お前、『女神』に何をしようとしている?」


 一言ごとに、男が前へ一歩進む。声が、問いが重なるごとに息がし辛くなるような雰囲気がまとわりつく。

 やめて、と心の奥底が言った。やめて。この雰囲気は嫌だ。この空気は、『過去』に引きずられそうだ。

 メアリ彼女に向けられる男の目が、異様な色が増す。

 その全てを向けられるメアリ彼女は、一言として発そうとしなかった。否定も。


「……まあ、いい」


 ふっと息を吐き、男は言ったが、空気は少しも軽くならなかった。


 動かなければ。どうにかしなければ。でもどうする。何か言わなければ。何を言えばいい。何を言うのが正しい。何をどうすれば、この場を一番穏便に──


「『我が剣よ、ベルギウス神の信仰の元に顕現せよ』」


 白い光が、宙に線を描き、何かが飛沫をあげた。

 その光景は、嫌にゆっくりに見えた。

 舞う液体、微妙に傾き、床に向かって倒れていく体。

 液体が音を立て床に飛び散る音と、見えていた体が床に倒れた重い音で、全てが元通りの早さに戻った。

 一度、瞬きをしたときには、床に倒れている人が増えていた。メアリ彼女だと認識するのは、見ていたわりに遅かった。


「──」


 喉から声が出ようとしたのに、実際には出なかった。出て、声は悲鳴となったか、彼女自身には名乗られていない名前となったか。


「疑わしきは罰せよと言う。この状況では最早疑いようもないが」


 視界の端に、靴が映った。

 声の方から、こちらに歩いてくる男がいる。途中にいるメアリを越え、シルビアの方に。

 そして、シルビアの前にまで来た。

 シルビアは、倒れたメアリを凝視していた。──殺されてしまった? 死んでしまった? 

 倒れた姿は背が向いている。呼吸があるか、どうか。


「汚してしまってすまない。罰するのなら部屋の外でするべきだった。後で綺麗にさせる」


 ぴくりと、メアリの体が動いた。わずかに。だけれど、確かに動いた。まだ生きている。


「何を、見ている」


 低い声がしっかりと耳に入ってきた。強引に鼓膜を揺らされたような声だった。

 びくりと震え、シルビアはそこで目の前に意識を向けた。すぐ前に『その男』がいるとまともに認識し、後退りかけた。


「……ああ、あれか。まだ生きていたか。後で殺しておくから問題ない」


 え?と、シルビアは顔を見ようとしなかった目を上げた。

 殺しておく?


「──殺さないで、ください」


 小さけれど、声は言葉になって出ていった。

 生きている。辛うじて生きているのだ。殺さないで。


「お願いします、今なら間に合います。私に治させ──」


 強く口を塞がれた。一瞬呼吸が止まるくらい、強く。

 口を塞いだのは、手だった。手を辿っても、辿らなくとも分かる。目の前の男だった。

 片手で、シルビアの顔を掴むように口を覆っていた。


「おかしい。話すようにした覚えはない。そればかりか、人間の命乞いのようなものが聞こえた」


 あの異様な迫力を持つ目が、今はシルビアに向けられていた。

 異様な目付きは笑っていなかった。顔も笑わず、恐ろしい形相が見上げる先にあった。


「それに、治す、と言いかけたか。まさか力を『あれ』に使おうと言うのか。まさか、だ。あのような卑しい存在を気にかける必要はない。君が見るべきは──『私だけ』だ」


 シルビアが喋ったことは、全てが逆効果どころか、喋る行為自体が逆効果だった。


「重罪を犯そうとした人間は罰する。同じ罪を犯したヴィンスも、今の戦が終われば殺しておく。──『女神』をここから出そうとすることは、死に値する」


 メアリが斬られたのは、シルビアを逃がそうとした場面を見られたからだ。シルビアを逃がしてくれようとしたから。

 何度目か分からない。兄のものかもしれない、瓶の中の目が思い出された。

 ──記憶の、瓶の中の目が転がった。

 シルビアを逃がしたことで、どんな目に遭ったか分からない兄。戦場で見た彼は、片目を覆っていた。あの下に目がないなら、あの瓶の中の目は……。

 メアリは、今、目の前で斬られた。

 それは、シルビアを出そうとした罪──シルビアのせいだと男は言う。


 さっき、メアリに何を言おうとしたのか分かった。

 兄と同じ事をしようとしてくれた彼女が、もしも見つかったときに酷い目に遭うかもしれない可能性だ。

 それと同時に、他の感覚でしかなかったことも分かった気がした。


 この部屋で、女性たちが目を逸らし、顔を伏せ、お茶を少し溢しただけで青ざめた状態。

 女性たちの空気の中心にいるのは、シルビアだった。

 メアリが今、シルビアのせいで罰されたように、彼女たちの様子はシルビアに関係があって作られていた。


 ここにいてはいけない。いなくてはならない。正反対の思いが混在しはじめる。

 シルビアはここから逃げなければならない。ここにいてはいけないし、いたくない。戻りたくないと思う。

 一方で、いなくては、シルビアがいなくなった後にこわいことが知らないところで起きる気がした。兄が、知らないところで酷い目に遭っていたかもしれないように。

 逃げると、どの範囲まで『迷惑』がかかるのか。

 急激に、決意が揺さぶられた。

 今、何をすることができ、何をすることが正しく、何をすることは許されるのか。分からなくなる。

 ジルベルスタイン家の人間が、シルビアのせいで殺された。今、メアリがシルビアを出そうとしてくれたことで殺されかけた。死んでしまいそうになっている。同じだ。いや駄目だ。惑ってはいけない。


 口から、手が離れた。

 呼吸が楽になる。


「そこの警備の目も節穴だ。離宮の入り口の人間も。いや、メアリだけなら仕方がないとするか。──『女神』ごと出していれば、まとめて罰さなければならないところだった」


 口を解放されても、シルビアは口を動かすことすらできなかった。

 こわい。こわい。こわい。

 自分の言葉一つで、どうなるか分からない怖さ。自分が逃げると、そのせいで殺される人間がいる怖さ。──何より、『シルビアのせい』で人を殺そうとする男が怖かった。


 その恐怖が、今新たに生まれたものだけでなく、奥から奥から出てくる。隠れていたようなものが、出てくる。

 ──かつてここにいたとき、負の類いの感情を覚えたことがなかったのではない。

 その感情、感覚を理解していなかったのだ。

 過去、ここにいたとき、話すことが出来るようになっても、彼らの前では話さなかった。相変わらず話す必要のない状態だったけれど、それだけではなく話すべきではないと頭のどこかが判断していたのだ。

 あれは、不安であり、漠然とした恐怖でもあったのだろう。何に不安し、恐怖していたのかも分からずに。


 男が微笑む。さっきまでの表情を覆い隠す。けれど、もうシルビアは知ってしまった。微笑みは不気味で仕方がなかった。


「服は新しいものを持って来させるとして、先にこれをつけておかなければな」


 男が、床に落ちた枷を拾うために屈む。

 それを追うと、メアリの姿が微かに見えた。彼女の体から床に広がる液体がある。血だ。


「言ったはずだ」


 腕を乱暴に掴まれた。

 視線も引っ張られ、見ると、あっという間に笑みが消え去った目があった。

 兄と同じ色でありながら、決して重なることはない目だ。


「あんなものは見るべきではなく、君が見るべきは『私だけ』だと」


 痛い。

 指が、服の袖が下にずれ露になっている腕に食い込んでいる。

 痛みは、掴まれているからだけではない。掴まれている箇所は、包帯が巻かれ、下に傷があるところだ。

 指が包帯を避け、肌に直接触れる。それだけではなく、傷を割るようにする。痛みが酷くなっていく。


「セシルはイグラディガルに捕らわれている。どうとでもなればいい。他の弟も後で消し、父も消す」


 血が、傷から出てくる。肌に流れ、包帯に染みる。


「『女神』を手に入れ、王になるのは私だ」


 男は、傷を抉っていた指を舐めた。指を真っ赤に染める血が、消えていく。


「その身には力が満ちている。──『伝説』を再び現実にし、『伝説』を越えた完全なる国を作ろうか」


 伝説。

 シルビアも、その伝説は知っている。そして、自らが『女神』と呼ばれてきたのは、その伝説の『女神』とされているからだということも。

 自分が多くの人と異なることは、自覚している。信仰する神を持たない。一柱の神を信仰する信仰心がない。欠けているのではない。元からないのだ。

 けれど、自分が人ではないものだと思うことには違和感めいたものがある。思われることにも。


 そういう意味では、この国もイグラディガルも同じだ。自分は『女神』という存在に意味を見いだされ、扱われている。

 でも、なぜ、拘るのだろう。『伝説』を目指そうとするのだろう。シルビアには分からない。

 自分が『女神』であり、人ではないものだとすれば、天に居場所があるとでも言うのだろうか。行けば、こんな何もかもはなくなり、少なくとも『自分のせいで』として人が死ななくなるとでも──。


 ノックの音がした。

 シルビアの中に、考えが生まれ、渦巻きはじめたときだった。男の視線が逸れ、身を起こし、ゆっくりと扉の方を見る。ノックに返事はしない。

 すると、ドアノブが動いた。

 男が中にいるからか、鍵はかけられていなかった。ドアノブが動いて数秒後、男とシルビアが見ている先で、扉が音もなく開く。

 最初にアウグラウンドの制服を認識した。ここはアウグラウンド。見慣れていたイグラディガルの制服はあるはずがない。

 扉の側にいる「警備」ではないのか、とシルビアは思っていた。

 しかし、次いで目にしたことに瞠目した。目を疑った。

 その姿は、決してこの部屋で、この国で見たことのなかった人のもの。そして、戦場にいるはずの人。

 アルバートが、アウグラウンドの制服姿で立っていた。








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