準備





 逃げてください。

 女性は、シルビアを見て確かにそう言った。この部屋で、揃いの衣服を身に付けている人とこれほど真っ直ぐ顔を合わせるのは初めてだった。

 シルビアと目を合わせることになった彼女は、微かに息を飲んだ。


「あなたは……?」


 シルビアが覚えていないだけ、なのだろうか。知らない女性だ。

 元々、この国でシルビアがまともに覚えている顔は限られすぎている。その中に女性はおらず、その女性のような衣服を身に付けている人達の顔は全員覚えていないと言っても良い。


「──私は……いいえ、お話ししたいのは山々なのですが、時間が」


 我に返った女性は、素早くシルビアに近づいた。


「……枷ですね……」


 シルビアの手首と足首にあるものに、女性は衣服のポケットに手を入れて、小さなものを取り出した。

 蝋燭の火を浮けて鈍く光るそれの形状は。


「鍵」


 女性の手が枷に手を伸ばしていくのを見て、シルビアは驚いた。枷の鍵?


「ダシアス殿下が枷と鎖を作らせることを耳に挟みました。わざわざ個人で作らせることには相応の理由があります。その後あなた様が見つかったと、そのために戦をすると聞き戦の準備が進む中隙を見て合鍵を作りました」


 彼女は早口で言いながらも、鍵穴を見つけ鍵を差し込もうとしている。

 だが、鍵が枷に当たり、カチャカチャと細かな音が立つ。……女性の手が、震えているのだ。


「申し訳ありません。緊張、しているのか……。大丈夫です……大丈夫」


 それでも何とか鍵を差し込み、枷は手足共に外れた。重い枷は、大きな音を立てないようにそっと床に置かれた。

 シルビアは立ち上がった。手首と足首は、大して動かしていなかったのにも関わらず、重いものから解放され非常に軽くなったように感じた。


「これに、お着替えください」


 次に女性は、床に落ちている白い衣服の下から、別の衣服を取り出しシルビアに差し出した。

 真っ白なものではなく、色がついた、この部屋に出入りする女性たちが着ているものと同じ衣服だ。目の前の彼女も着ている。


「その人は……」


 シルビアが示したのは、倒れている女性だ。突然、倒れてしまった。

 後から現れた方である女性は、シルビアが気にする女性を振り返り、あっという顔をしてシルビアを見て、「気絶させただけです」と言った。


「その内目を覚まします。……決して死んでいません、大丈夫です」

「いえ、急で驚いただけですので」


 疑うような聞き方をしてしまったかもしれない。

 だが。


「……どうして、助けてくださるのですか……?」


 衣服を受け取りながら、尋ねずにはいられなかった。

 逃げてください、と彼女は言った。枷を外してくれた。鍵は隙を見て作った複製だと言わなかっただろうか。そして手渡された衣服は、ここに出入りする女性たちが身につけているもの。

 彼女は、ここからシルビアを連れ出そうとしてくれている。

 だけれど、なぜ。この国の人、だろう。おそらく。

 シルビアには、助けてくれる心当たりがない。


 シルビアの問いを受け、女性はシルビアの元々の服に触れようとしていた手を止めた。


「……ヴィンス様には、お会いになられましたか?」


 その名に、シルビアの息が詰まった。


「会い、ました」

「そうですか……。彼は、こちらに戻ってくる様子はありましたか……?」


 戻ってくる、も、何も。

 腹部と腕の一部分に痛みを覚えた。錯覚か、実際に痛みがあるのか。

 シルビアは、問いにだけ答えようと何とか口を開く。


「兄様は──」


 どう言えばいいのか、言葉が見つからなかった。

 戻ってくる様子?

 ない、と言えばいいのか。ないかどうかは、厳密にはいつの間にかここにいたシルビアには不明だ。だが、それ以前に起きたことがあった。

 頭が、戦場で生じた混乱にかき乱される。分からない。未だにあの出来事に心が決着をつけられない。どう受け止め、理解すればいいのか。

 何かの決着をつけることが、こわい。


「……余計なことを聞きました」


 シルビアが答えられなくなっていると、女性が呟くように言った。


「申し訳ありません」

「いいえ……私が、少し、どうすればいいのか分からないところがあるだけ、です」


 持っている衣服を握り締めた。

 本当は「だけ」、で済ませられる心の具合ではなかった。


「今、ヴィンス様があなた様のことを覚えておられなくても」


 シルビアが視線を上げると、女性が、こちらを見ていた。


「ヴィンス様は、──かつてのヴィンス様であれば、きっとあなた様をここから出すことを望みます。以前、彼が実際にしたように。何度でも」


 しっかりとした声だった。彼女は、自分で言ったことに、自分でも頷いた。


「だから私はあなた様をここから出します。この国から」


 はっきりと、彼女は言った。シルビアをここから出すと。

 兄と、どのような関係がある人なのだろう。

 それを問うのは、後にするべきだろう。彼女は『味方』だ。どうして、と理由はもう問わない。

 シルビア自身、出ようと考えていたけれど、手助けしてくれる人が現れるとは思わなかった。まさに思わぬ助け。


 シルビアは、彼女に手伝ってもらいながら着替えはじめた。

 ベールを取ると、白く曇っていた視界が晴れた。

 白い服を脱ぐと、腕の一部に包帯が巻かれていた。

 一瞬、その位置を通る刃が見えた。

 目にして、下に塞がっていない傷があると初めて明確に感じ、ずきりと傷が疼いた。

 シルビアはぎゅっと一度目を瞑り、開いた。

 女性が準備してくれている服に、腕を通す。


「私はこの外の状況がどのようにはっているのか知らないのですが、扉の外にも人はいます、よね」

「います。ですがこの格好であれば出られます。髪は、染め粉を持ってきたので、表面だけ染めても構いませんか?」

「はい」

「……急遽用意させたので、良い染め粉ではないのです。髪が荒れてしまうかもしれませんが、ご容赦ください」

「荒れても問題ありません。ありがとうございます」


 そこまで準備して、来てくれた。そのこと自体シルビアにとっては驚きで、感謝しきれない。


「目の方は、伏せていただくしか方法が──」


 衣服を整えながらシルビアの前までやって来た彼女は、シルビアを見て、目を見開いた。


「目の、色が……」


 おそらく、水色に見えているのだろうと思う。気がつかない内に、目の色を変化させていたようだ。


「目の色は変えられるので、問題ありません」


 ジルベルスタイン家に行き、兄がいなくなって、泣かなくなってからしばらくして気がついたら出来るようになっていた。

 髪も変えようとすれば、変えられるのかもしれない。ジルベルスタイン家でも、そう考えて言ったことがあるのだが、染められるのなら染めた方が確実だということになった。目は他に方法がないので仕方なく。意識しなければ、戻ってしまうから。他に方法があれば、目もその方法が採用されていただろう。


「そう、なのですね」


 ぽかんとしていた彼女は、ぎこちなく頷いて動きを取り戻して、もう一度今度は滑らかな動きで頷いた。分かりました、と。


「そうであれば、大丈夫でしょう。扉の両側にいる者は中はわざわざ確認しません。明らかになる前に城を出ます。ヴィンス様のように入念な計画はありませんが、必ず連れ出してみせます。すでに、馬は用意するように言ってあります。裏門に行けば逃げられます」


 シルビアは聞き取った証に、頷きを返す。


「一つ、逃亡先を定めるために教えて下さい。あなた様がおられた国は、今戦をしているイグラディガルですか」

「はい」

「分かりました。では、城を出た後は戦場のイグラディガル側の陣営を目指します」


 この国から、イグラディガルへ。

 道のり、どれほどの距離か。シルビアは覚えていない。そもそも、戦場に行くのと、かつてシルビアがジルベルスタイン家に行った経路は異なるのかもしれない。

 そう、シルビア一人ではこの建物と城、そして首都を出られたとしても、正確な目的地を目指す土地勘がない。

 そして、今の女性の言い方は、彼女が一緒に来てくれると捉えられるもの、だ。


 気がついたことを思いながら、ふと彼女を見ると、まだ名も聞いていない彼女はシルビアが脱いだ衣服を長椅子に置いていた。

 その姿が、『記憶』と重なった。

 何年も前、同じように突然シルビアの部屋に来た人は、シルビアの手を引いて部屋どころか建物も出て、馬で外に駆けていった。


「──あの」


 呼びかけは、思うより先に声となった。

 背が向いていた人は振り向いた。

 背丈も、背の広さも異なる。服装も異なり、性別も異なり、顔も違う。当たり前だ。彼女は兄ではない。

 重なっていた記憶が霧散し、彼女の顔が見えている。


「……いえ、何でもありません」


 何かを言おうとした。でも、何か。その「何か」はまだ感じるけれど、それだけに集中して探っている時間がない。


「そうですか?」


 彼女は少し不思議そうにしたが、やはり悠長にしている場合ではなく、次は白い服の下から小さな入れ物を取り出した。染め粉だろう。

 シルビアは、彼女が髪を染める準備をしている間に同時に出された靴に、手を向ける。


 ガチャリ、


 音は、少し離れたところから。──扉の鍵だ。

 シルビアの手は思わず止まる。最優先が扉の方を見ることになった。

 機敏に顔を上げると、扉は開くところだった。入ってくるのは別の女性か、それならば……。


 異なってくれるようにと、無意識から願っていただろう。

 だが、現実とは容赦がない。願いは願い。そうでないときは、そうではないのだ。

 出入口から姿を現したのは、一人の男。『彼ら』の内の一人、だった。








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