狙い






 巨大な魔物は、海に静かに佇んでいた。ゆらり、ゆらりと、タコのように多くの触手を微妙に揺らす。


「海賊船は出来るだけ距離を置け! 神剣使いは全員戦闘準備! 船は二隻使う、その船に移れ! 魔物退治に行くぞ! その他の神通力持ちは神官と浄化を継続!」


 海賊との戦闘を終え、少しは落ち着いていた船内に、慌ただしさが戻る。


「隊長!」

「何だ」

「海賊船の舵が壊されています!」


 は?

 と、アルバートが心底訝しげな声を出した。


「海賊船の舵が……」

「繰り返すな、聞こえていた。……これだから邪神信仰者は狂っているって言うんだ」


 一つため息をつき、アルバートは魔物との距離を黙視して、仕方なさそうにする。


「距離はもうこのままでいい。どうせ距離なんて気休めだ。──ただ、殿下が乗っている船は離れさせる。海賊船とはわけが違うからな。魔物も周りに他に大勢の人間がいれば、そっちには行かないだろう」


 騎士団の船二隻を魔物に近づける。

 シルビアのいる海賊船から移ることのできる騎士団の船は、二隻あった。一隻は今近づいてきた。

 レイラ含め、同じ海賊船にいた神剣持ちが、今近づいてきた方に駆け寄っていく。あちらが今から魔物に近づく船で、もう片方が王太子の乗っている船だ。


「シルビア」


 シルビアは、背中の神剣を抜き差しして確認していた手を下ろし、「はい」と返事する。


「殿下に船の中に入っているように伝言だ。あの殿下のことだ、のんきに外にいるに決まっている」

「分かりました」

「お前はそのままその船で待機だ」

「待機、ですか」


 なぜ。

 自分も神剣を持っている。

 魔物退治が危険なのは聞いたが、まさか自分まで下げるのではあるまい。

 理由が分からず、シルビアはなぜと問う目を向ける。


「誤解するな、今回のみだ。海の魔物は戦い方が陸とは違う。海の魔物退治は、陸より少し厄介だからな、今回はよく見ていろ」

「──分かりました」


 了解の意を示し、シルビアは神剣使いが乗り込む方とは反対の方に止まっている船に移った。

 ほどなくして王太子は見つかった。アルバートの予想通り、甲板にいたのだ。魔物の方を見ていた。


「シルビアか」


 近づくシルビアに気がついた。シルビアは近衛隊が側にいる間を通り、王太子の元へ至る。


「さてはアルバートから伝言だな」

「この船を魔物から離すそうです。殿下は中に入っているようにと、アルバートさんが言っていました」

「魔物が出たからか」


 シルビアは頷く。


「さすがに海では、普通でさえ危険性が高まるからな」


 分かった、と王太子が了解を表した。

 周りでは、この船を動かせるように準備が始められる。

 船には近衛だけではなく、第五騎士隊の面々もおり、甲板で警戒に当たるようだ。

 近衛にも神剣の使い手がいるため、第五騎士隊の神剣の使い手は新人のシルビアのみ。他は全員、魔物退治に当たっている。

 シルビアは外で警戒する面々に習っていようと、魔物の方を見ると、離れていくこの船とは反対に、魔物に近づいていく船が二隻。

 魔物はゆらり、ゆらりと体の一部が揺れているのみ。


「邪神とは何か、知っているか」


 振り向くと、王太子が顔だけ振り向いていた。

 青い瞳と目が合ったが、直後にわずかに動き、焦点はシルビアに合わなくなる。

 王太子の視線は、シルビアの向こうを見ていると思われた。


「我々の信仰の元となっている神々とは異なり、天にのみいたとされる大神。その娘を殺し、そのときすでに神々が手を引いていた地に墜とすという大罪を犯した女神」


 それが、邪神だと呼ばれる存在だ。本日拘束した海賊たちの信仰の対象。

 シルビアの知識の有無を聞かずして、王太子は、静けさの満ちる口調で淡々と語る。


「邪神と呼ばれることとなったその神は、その罪のため他の神々からの呪いを受け、追放された。ゆえに、邪神信仰者には帰るべき土地と国がない。かつてその神がいたとされる土地は粉々に砕かれ、消滅させられたからだ」


 邪神信仰者がいなくとも、地から魔物が生まれるのは、邪神の力が所々に散らばり、染み付いてしまっているから。

 海賊となるのは、海の底に自分たちの国が沈められたのだと信じる者たちがいるから。

 邪神は、他の神々がおわす天にはいない。だが、その影響は地に染み付いている。


「神々の呪いの一端が推し量れそうなものだ。──このように、祈れば祈るほど禍々しいものを生み出すのだから」


 シルビアは海に視線をやった。王太子が見ているのは、魔物だ。

 罪を犯した神がゆえ、かの神々の民は、本来他の国々の民が受けている力の恩恵を受けられず、歪んだ形となって表れる。

 この世の他の生き物が決して持たないおぞましさを持つ生き物は、見る者によってはもはやこの世ならざるものに見えるだろう。


「しかし本当に、何というか、何度見ても見慣れないものだ。──お」


 あ。

 シルビアも、言いそうになった。


「目を開いたな。おぉ……」


 王太子が何とも言えない調子の声を出した理由は、シルビアにも分かった。

 ──魔物が、目を開いた。

 全身が黒で、何か違和感があると思っていたら今まで目がなかったのだ。

 ただし、今開いた目は、普通の生き物のように二つではなかった。

 無数の目。

 魔物の全身に目玉があった。ぱちりぱちりとほぼ一斉に開いた目は、ギョロギョロと左右上下に動いている。


「殿下、中に」


 近衛隊隊長が、足を止めている王太子をそっと促した。


「ああ、そうだな。こればかりは、大人しく中に入らなければ──いや、待て」


 王太子は一旦は顔を前に戻したが、すぐに二度見するように視線を……魔物の方向ではない。

 視線を戻すときに通った、横。何を、どこを。

 王太子の青い目に、銀が混じる白い光が散る。思わず、青い目線の先を追いかけるように、シルビアはその方向に目を。


「あれは……船か」


 海の向こう。黒い点があった。

 船、なのか。


「海賊船ではないな」


 ちらりと王太子の方を見て、シルビアも一度目を閉じ、開く。視界を遠くへ、遠くへ。

 船だった。王太子の言うとおり船で、海賊船ではない。船の側面に、大きく模様が刻まれ、旗も上がっている。


「テレスティアの紋章か。……来てしまったか」


 え。

 何の模様か、と記憶を探っている間に言われて、内容に驚く。

 テレスティア。この国に訪問するという国だ。その国の船が来てしまった。

 海賊に関しては間に合ったと言えようが、魔物はまだだ。

 魔物は──大きな水飛沫が上がる音が、遠くから聞こえてきた気がした。

 見るのは、一拍遅かった。

 見たときに、ちょうど、海で絶大な存在感を放っていた魔物が消えた。ちょうどでよく見えなかったが、海に沈んだ、のか。


「船が沈まないといいなぁ……」


 近衛隊隊長の声は、心配そうだった。彼の婚約者であるレイラは前線にいるのだ。心配にもなるだろう。

 そのレイラが言っていた。──「乗っている船の下から現れられて、下から穴を空けられたことがあったかな。食べられちゃいそうになった隊員がいっぱいいたのよ」と。


「……どこに」


 魔物は、どこに。

 一番緊張感に包まれていたのは、魔物の一番近くにいる船にいる面々だろう。この船は、まだそれほど遠くとは言えないが、さきほど離れはじめた。緊張感はあるが、前線を案じる緊張感だ。


 だが、それは、全員の予想を裏切り、一番安全な場所にある船の近くに現れた。


 大きな音を立てて、巨大な水の柱が出現した。──否。魔物である。勢いで白く染まっていた水のベールが海に落ちると、魔物がそこにいた。

 シルビアの顔に塩水がかかるが、目を閉じることを忘れた。いきなり近くに現れた魔物に、驚きに襲われていたのだ。


 ──「どうせ距離なんて気休めだ」


 アルバートの言葉の意味が分かった気がした。海の中を自在に移動する魔物には、少しくらい離れた距離なんて、微々たるものなのかもしれない。

 シルビアは海の魔物との具体的な戦いかたを知らないが、魔物をどうにかする前に動かれたならば。

 事実、今、魔物はここにいる。


「まさか──周りにあれだけ人間がいたのにどうして無視してこっちに来るんだ……!」


 「殿下、中に!」という大声が聞こえ、さらに近衛隊隊長が、シルビアの肩に手をかけ雑に後ろに下げた。


「隊長──私は」

「おおっと、つい。下げなきゃって思って。あんまりにも華奢だから、つい。ごめんよ」

「いえ」


 シルビアも、近衛隊隊長に習い、神剣を引き抜く。魔物を睨む。その動きに集中する。

 魔物の無数の目が、一斉に動いた。ギョロり、と。全身に目があるからか、目が合った気がして、嫌な心地が充満する。

 しかし、気がしたのではなく、本当に目が合っていたのかもしれないと思ったのは、後のことだった。

 魔物の手とも呼べる触手の一本が動いた。唐突で、動きが素早かった。空気を切る、ビュッという音のみが聞こえ、動きは見えなかったに等しかった。

 斜め少し前に近衛隊隊長。もっと前方にも誰かがいた隙間を縫って、対象となったのは。


 シルビアだった。


 魔物が動き、風を感じ。

 反応して、剣を動かそうとしたら、体に何かが巻き付き、前に引っ張られた。ものすごい力で、踏ん張る暇もなかった。


「──!」


 声を上げる隙も、同じく。

 止まらなければならない。頭のどこかがすぐに警鐘を鳴らしたけれど、どう止まるというのか。

 このまま行けば確実に危険だ。それは分かっている。でも。


「シルビア!!」


 腕を、掴まれた。

 間一髪か。止まった場所は、船ぎりぎり。脚は完全に船の外に出ている。

 そんな寸前で止めてくれたのは、


「イオ」


 だった。

 イオが、船の縁ぎりぎりでシルビアの腕を掴み、全身で止めてくれていた。

 厳しい表情だ。シルビアも自分を引っ張る力が強く、厳しいと思った。

 イオが引きずられる。前のめりになる。

 このままでは、シルビアだけでなく、イオも船から引きずり出されてしまう。


「イオ、離して下さい」

「──そんなこと」

「大丈夫です」


 何が大丈夫なのか。イオは、苦しい表情の中に、そう言いたげな表情を混ぜた。

 シルビアは、止めてくれて良かったと思った。けれど、これではいっそ一度引きずられてしまった方がいい。

 そこからどうにかするしかない。シルビアだって、第五騎士隊の人間なのだ。どうにかする。


「どうにかします」


 ずれ続けていた手が、決定的に滑った。手が離れる。

 追おうとする手は、指先さえも、二度と触れなかった。

 シルビアは、ふわっと宙に投げ出された心地に包まれた。足場がない。掴まる場所も。


「シルビア!!」


 イオの声だと分かったけれど、もう姿は見えなかった。

 もう船の外、船の側面が見える、落下途中だったのだ。

 ビュオオオと空気を突き抜け、容赦なく落下していく先に、青く波打つ落下地点。

 海面が、迫る。


 ぎゅっと目を瞑ると、空気のない水の中に突入した。

 冷たい。いや、温い、か。こちらの地は、すでに気候は暑めのようだから、凍える冷たさではなかったことが唯一の救いかもしれなかった。

 冬であれば、どうなっていたか。


 水中に突入すると、さきほどのスピードからすると、遥かにゆったりとした動きになった。

 そっと目を開くと、周りから、何本もの魔物の手がやって来る。あれに捕まれば、終わりだ。

 シルビアは気合いを入れ、神剣に力を込め、動かしにくい剣を振る。ここまで引き込んでくれた手を、切る。

 すかさず足を動かし、上を目指しながら他の手を睨むが、一本切られたことでか、手は痛みに悶えるように震えていた。


 その隙に、海上に出る。

 口を開いて、息を吸い込む。呼吸が出来る空気があるとは、素晴らしい。


「シルビア、無事か!」


 上から降ってきた声を見上げると、船からイオが身を乗り出していた。

 少し、離れてしまったようだ。


「問題ありません!」


 聞こえるように、声を張って伝えた。

 怪我はしていない。


「それより、気をつけてくださいイオ!」

「気を付けるのはお前だ!」


 確かに。今や一番危険な位置にいる者は、シルビアで間違いない。

 魔物は、海に潜っているようで、海面より上に姿が見えない。


「シルビア、引き込まれたのはお前か」

「アルバートさん」


 下を気にしつつ、どうしようかと思っていたら、アルバートが現れた。海を漂っている状態のシルビアのすぐ側に、である。

 どうやら、他の船を避けて船でこちらに来るのを待たず、海面を走り、魔物の元に駆けつけたらしい。

 砲撃をしかけてきた海賊船の攻撃を止めたときのように、海面に降り立つアルバートは、シルビアを見つけてその場に立ち止まった。


「大丈夫か」

「はい。──あ、アルバートさん、テレスティアの紋章がついた船が見えたと殿下が」

「何だと。……いや、まあいい。とにかく被害を被る前に消す目的に変わりはない。立てるか」

「……やってみます」


 アルバートのように、水の上に立てるか。

 ──立てる

 立てる気がした。気がするのなら、きっと出来ることなのだ。

 シルビアは自らの足に集中し、水面に集中。自らが立つ場所に、膜を張るように神通力を。沈まない、立つイメージをし──まず、手を。


「アルバートさん──」


 後ろ、と言うのと、アルバートが背後からの気配を察知する方がわずかに早かったか。

 彼が剣を振り、背後から素早く迫った魔物の手を切った。

 一方、シルビアは意識がそちらに向き、とぷん、とまた海水に沈む。


「とりあえず、合流するぞ」

「わ」


 シルビアが立つのを悠長に待っている余裕はなくなった。

 アルバートによりシルビアは海から引き上げられ、肩に担がれた。

 アルバートは、人一人の負荷がかかっているとは思えないほど、通常通りに走り出す。

 素早い。風が生じ、全身ずぶ濡れのシルビアには冷たく感じる。が、寒いとは言っていられない。


「やけにこっちを狙ってくるな」


 海面から顔を出した魔物は、近くにそれなりの人数が乗っている船を無視し、アルバートとシルビアの方にすーっと動く。

 手が伸ばされるが、アルバートが動きを見切り、切る。


「……狙われているのは、お前か」

「私、ですか」

「ああ。向かう先が、俺じゃない。お前を掴もうとしている。そもそも、さっき俺達を無視して行った先で引き込まれたのも、お前だ……」


 走りながら、考えるように述べたアルバートは、眉を寄せ、少し黙る。


「……まさか。いや、なるほどな」


 独り言を呟いた彼は、急に立ち止まった。

 シルビアを離さない、そのままの状態で、後ろに向く。

 そのときを待っていたように、魔物が全身を海から出した。例によって水飛沫が立ち、こちらに降りかかる。

 アルバートの灰色の目は、水飛沫の向こうを見据える。鋭い光を宿し、魔物を睨む。


「『イントラス神に祈る』」


 アルバートの口にした言葉に吠えるかのように、魔物が音を発した。耳障り。音までもが醜い。


「『邪悪なる神のしもべを滅する力を』」


 今まで見た中で、最も強烈な光がアルバートの剣に宿った。

 そしてアルバートが剣を振るうと、光の剣撃が、海の魔物を貫いた。

 魔物は、震える。襲いかからせようとしていた手も全て震え、ずぶずぶと泥に沈むように海に沈んでいく。


 その様を視界にしっかり捉えつつ、アルバートが指笛を吹いた。不規則に、何度か音が鳴る。

 すると、こちらに先が向き近づいて来ようとしていた船から、次々と人が飛び降りていく。


「シルビア、お前は……」


 アルバートが、シルビアに呼び掛けたはいいが少し迷う様子を過らせた。

 下を見て、またシルビアを見る。


「船に戻れ」


 下ろすぞ、と言われて、シルビアは今度こそ海の上に立つ。


「俺は潜って、あれに止めを刺しに行く。他に魔物もいないかどうかも確認にな。もう魔物は行かせはしないが、十分に気を付けろ」

「はい」


 シルビアの返事をしっかり聞いて、アルバートは足場を解除して海の中に潜っていった。







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