硝子にくるまれて

羽間慧

第1話 講義室の会話

「海に行きたい」

 けだるげそうに呟いた少女の声に、僕はゆっくりと顔を上げた。

 ちらりと視線を向けると、だらしなく机に体を預けている姿が見える。これでは大人っぽい魅力が台無しだ。

 いい出会いは道端に転がっているものではないのかもしれない。僕は前を向くと、あくびを噛み殺した。睡魔を揶揄するような声が後ろで上がる。

「何でこの講義を取ったんだよ。お前も単位ほしさか?」

「ま、そんなとこ。映画を観るって言うから履修してみたけど、面白くなさそうじゃん。古いのばっかしで。だから海に行きたいな。秋人あきと、今度連れてってよ」

 耳に入ったばかりの不満を忘れるために、僕はプリントに視線を落とした。授業名の「日本の映画を観る」の文字が誇らしげに印刷されている。その下には六本の映画のタイトルが綴られていた。どれも名前だけは聞いたことがある名作ばかりだ。厳選した教員のセンスの良さに、思わず笑みがこぼれた。

 お前、まだこの授業を取っていなかったんだな。もったいないぞ、映画好きの和田先生の解説を聞いていないなんて。

 溜息交じりの友人の声が脳裏に響く。 

 四月に彼が勧めてくれなければ、僕はこの授業を履修していなかった。

 三年前期は履修したいと思える授業が少なく、僕はあと二単位をどうするべきか悩んでいた。卒業に必要な単位の見通しは付いていたから。二年前に履修していた友人から授業の内容を聞き、僕はこの集中講義を受けることを決めた。

 今週と来週の土日の四日間で十五回分の講義を受けて単位を得るという、厳しい日程だ。後ろの男女のように、単位ほしさで授業を選べば苦痛に感じるかもしれない。だが、一日に最大二本の映画を見なければならないことを考慮すれば、集中して映画を見る最善な時間配分になっていると思うのだ。

 講義室は広く、半円を描くような形状になっている。映画を見るにふさわしい上質な空間だった。えんじ色の革張りが施された扉は無駄な装飾がない。黒板を覆う飴色の木材は、古風でどこか家庭的な温もりがあった。

 唯一の欠点があるとすれば、広い部屋に対して席一つ一つが狭いものということだ。一人分の机の大きさは、リュックサックを置けば余裕がなくなるほど小さい。机との間がわずかしかなく、隣に座る学生の黒いエナメルのヒールがよく見えるほど密集している。

 学生にとっては息苦しい机の配置だが、教員にとっては数を数えるのに重宝する。授業開始時間が残り五分に迫ったため、和田先生は出席票を配り始めた。眼鏡を外しながら、ゆったりとした仕草で紙を捲る。ただそれだけの光景がひどく懐かしい。

 和田先生には定年退職するまで世話になっていた。後任の教員が映画について詳しくないため、しばらくの間は非常勤として教鞭を執るようだ。名前を忘れやすい和田先生がチューターではない学生のことを覚えていることはないだろうが、近付いたときに僕はちょこんと頭を下げた。出席票を回すために、僕は嫌々ながら後ろを向いた。

 少女が秋人と呼んだ彼の衣服には、煙草のこげ臭い香りが染みこんでいる。思い思いに伸ばした茶髪に映えるピアスは、派手な色のせいか痛々しく見える。

 彼は紙を受け取ると、再び少女と話し出した。話題は、海から彼女の嫌なところに変わっていた。

 知り合いにも似たような服装を好む人がいるが、彼の方がよほど魅力的だ。喫煙所から講義室へ帰ってくるときには煙草の臭いを消すように気を配り、野暮ったくならないように髪を整えている。何より彼女のことを蔑むことはない。

 彼女のことが不憫に思えたのか、少女は顔を見てみたいと言い出した。

「写真見せて」

「いいぜ。ちょっと待ってろ」

 どんな人が犠牲になっているのか。出席票に名前を書き込みながら、僕は他人事のように聞いていた。

「これが普段のとき、こっちはデートのときの写真だ」 

「何か意外。てっきり秋人のタイプじゃないと思ってた」

「俺が惚れるのは見た目じゃねーよ。こいつは、メイクしても大して変わらないからな」

「うわっ。自分の彼女だからって言いすぎじゃない?」

 どこか嬉しそうに手を叩く音と、足の動きが騒々しい。床の振動が僕のところまで伝わってきた。

「そうか? あ、そろそろ電源切らなきゃ……って、ライン来てたわ」

 集中講義、頑張ってねと労いの言葉でも送られたのだろう。返事を打つ様子が軽やかだ。その横で、少女は送り主の名前が読めずに黙り込んでいた。

「あめ……? ごめん。読み方、分かんない」

「雨宮な。雨宮みさお

 僕の口から、えっという小さな驚きの声が漏れる。彼らはそんなことに気付くことなく会話を続けていた。

「何で付き合いだしたん?」

「告れば絶対フラれねぇと思ったから」

 そういう理由で付き合うものなのか。心の中で僕は毒づいた。

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