臓器くじ(上)

臓器ぞうきくじ】

くじに当たった人を殺し、その臓器によって複数人を助けるという「ひとりの犠牲によって多数が利益を得る」という問い。哲学者のジョン・ハリスが功利主義的観点から検討した。


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「被検体1439、前に出なさい」


 部屋に鳴り響いた声に従い、1439は前に一歩進み出た。

 部屋の中は、一面の灰色。正確にはコンクリートむき出しで、今目の前にある椅子と、それを囲むように配置してある医療−もとい実験機器以外に何もない。


「被検体1439、椅子に座りなさい」


 指示通りにすると、椅子の肘置きから出てきた拘束具で手の自由を奪われる。足も同様の処置を施され、動かせなくなった。


 しかし当の1439は慣れたもので、全く動揺を見せないどころか、表情すら変えない。ただ黙って、正面にあるマジックミラーの黒い窓を見据えていた。窓のとなりの出入り口から、数人の研究員が部屋に入ってきた。

 

「バイタルチェックを始めます」


 研究員の一人がそういった。けれどそれは、1439に向けられたものではなく、他の研究員に告げた業務報告のようなものである。


 そして今日も、1439の1日は何事もなく、味気なく始まった。


 1439は、生まれてから今まで、白い建物の中で育った。

 年齢は17と10ヶ月。血液型はO型。


 性別、という生物学的な分類もあるようだが、性別の自覚が精神の発達に文化的な影響を及ぼすことを防ぐため、1439は生物の雌雄というものに関する知識をほとんど教育されず、また自分の性別を知らされていない。


 暇つぶしに探ってやろうと、施設の職員たちと自分の見た目を、比較してみたこともあった。しかし現時点では、自分はどうやら、男か女かはっきりと分かるほど、身体の外観が十分に成熟していないらしい。そんなわけで、1439は早々にその暇つぶしをやめた。


 別に知らなくても問題ない。


「1439、思考を止めなさい」

「ぐ、がっ」


 いつのまにかあたまに刺さった電極から、微弱な電気が流れてくる。しかし微弱といっても、脳みそを直接駆け巡っていくわけで、ビリビリなんてかわいい衝撃ではなく、なんというか、ゴリゴリと大脳新皮質から脳幹に向けてドリルでも突っ込まれている感触だ。知っている言葉に言い換えるならば、とても不快、と表現できるかもしれない。


 正確には、それは痛みというものである。

 だが、そんなこと1439は知らない。

 別に知らなくても、問題はないからだ。


 名前の通り、1439番目の、実験のために生産された実験動物なのだから。



 1439は、自分が何の実験に使用されているのか、いまひとつぼんやりとした理解しか得ていなかった。よく、様子を見に来たと言って、1439の部屋に訪れる「チーフ」と名乗る女−彼女、と言われていたので恐らく女だろう−に尋ねたことがあった。


「あなたのおかげで、世界中の人々を救うことができるのよ」


 チーフは具体的なことは語らず、詳細を促そうにも、1439は会話の引き出しなど持っていないに等しいため、はぐらかされるばかりであった。


 そういう対応をされるのは少し腹立たしい。

 けれども、1439は腹立たしい時に何をしたらいいのか、よく分かっていない。無意識のうちに唇を引き結び、あとは気まぐれに、「腹が立った」と述べるくらいしかしない。だから結局自分が腹を立てていることをアピールすることもなく、会話は1439が望まない展開を以って締め切られるのだ。


 そういうことが何回かあったため、1439はここしばらくのあいだ、自分の実験についての質問はしないでいた。


「君、自分がなんの実験に使われているのか、気にならないのかい?」


 だから、ある日突然自室に入ってきた、自分と同じくらいの子供がそう尋ねてきた時、いろいろと驚いた。


 まずここでの生活の中で、1439に与えられたこの部屋に入ってくる人間は、研究員やチーフ以外にいなかった。ましてや、自分と同じ検査服を着た子供なんて見たことすらない。


 さらに、今まで誰に聞いても言葉を濁されるばかりであった実験内容を、この子供はあたかも知っているかのようにしゃべりかけてきた。


「さっきからほとんど表情変わってないけど、感情がないの? それとも表出できないだけ? 今どんな気持ち?」


 仰天して動きを固まらせていると、その子供は口からどばどばと言葉を吐き出し続ける。


「今、驚いてる」

 ようやくそれだけ答えると、その子供は微妙な笑顔を浮かべた。

「全然そうは見えないけど。まあいいよ。で、さっきの質問に戻るけど」


 君、自分がなんの実験に使われているのか、気にならないのかい?


 全く同じ問いを向けられ、1439は少し考え、それから簡潔に答えた。


「いや、気になる」

「じゃあなんで聞かないのさ」

「聞いても答えが返ってこないから」

「どういうことさ」

「聞かなくてもいい、と言われるのが大概だ」

「なるほどね」


 子供は思わしげに片眉を上げて相槌を打った。そして肩口まで伸びた髪をかきあげ、こちらにうなじを見せてきた。


「ほら、ここにバーコードがあるだろう?」

「うん」

「僕も被験体なんだ。君と違って、実験の内容を知った上で自分から志願したんだけどね」

「へえ」

「あんまり関心がなさそうだね」


 子供の眉間の幅が、わずかに狭まる。不満そうだが、それはお互い様だった。1439は久々に、不満を口に出した。


「もったいぶって実験の内容を教えないからだ」

「はは、それはごめんよ」


 全くもって反省の色の見えない表情の子供は、1439の左胸にそっと手を当てた。

「君の存在は、世界中の人々を救うことができるんだよ、なんちゃって」

「それは知っている」

「ありゃりゃ。じゃあ、ここからが初耳かな」


 子供は一瞬だけ微笑みをみせ、それから1439の耳元に口をよせて囁いた。


「それは嘘だ。君の存在は、一部の人間を救い、一部の人間を地獄に落とすよ」


かゆいような心地良いような吐息とともに鼓膜を震わせた音が、言葉となって1439の心臓を貫いた。


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少し長くなったので、前後編に分けたいと思います。


 


 





 



 



 



 

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