コップの中の漣
ポテろんぐ
第1話 象は生きているのか
あと五分で目覚ましが鳴り、妻が起こしに来る。
縄の音が聞こえそうなほどに締め付けられている胃が、それまでに収まってくれればいいが……胸のあたりの濡れた汗に冷房の風が当たって、少し震えるほどの寒気を感じた。
心臓はまだ慌てている。
寝室のドアが開き、妻が俺を起こしにやってきた。
「あら、起きてたの?」
彼女がそう言って見せた笑顔に返事ができず、生あくびで誤魔化した。
また、あの夢を見た。
そのせいで、目覚ましよりも早く、自分で目をこじ開けてしまった。
朝食のテーブルに着くと、いつもなら小学校に行っている筈の沙優がパジャマ姿でぼーっとテレビを眺めていた。
「まだ、熱下がらないのか?」
妻が返事をするより前に、沙優が乾いた咳を一つした。夏風邪は長引くというが、もう三日、学校を休んでいる。
「象さん、大丈夫かな?」
沙優のしゃがれた声に、俺はテレビに目をやった。『動物園の最長寿の象が病気になった』というニュースをやっている。
「最近、こればっかりやってるわね」
妻が、俺の朝食をテーブルに置いた。
ニュースは「今日の朝にフルーツを少し食べた」と、回復に向かっているニュアンスで、次のニュースに変わった。
沙優をチラッと見る。
「元気出てきたみたいだぞ」
「ほんと?」
赤い顔の娘は、まだ心配そうに俺を見た。そういえば、このニュースを流し始めてすぐに沙優は風邪をひいてしまったな。
「フルーツを食べたって言ってたから、もう大丈夫だよ」
そういうと沙優は小さい声で「よかった」とつぶやいた。茶碗を見ると、今日もおかゆを半分、残している。
「沙優ちゃんもお薬を飲んで、早く元気にならないとね」
と、妻が粉薬を飲ませると、象のニュースに触発されたのか、今日は文句を言わず、苦い顔だけして飲み込んだ。
よっぽど、感情移入してるんだな。
確か、あの象のニュースをどうするかを決めるのは、昨日の会議だったはずだ。
役所に行けば、もう結果が出ているだろう。
最近は本物のニュースに明るい出来事が多かった。少し調整が入り、明日ぐらいにあの象を殺すことも考えられる。
なんとか元気になる方向で決まってくれてればいいが……
「そういえば、あなたにまた小包よ」
妻がそう言って、茶色い小包を持ってきた。
「阪本か?」
妻は「ん」と俺に小包を渡した。差出人は書いていないが、封筒の上からの感触で阪本だとスグに解った。
「何が入ってるの、それ?」
「写真だよ」
俺は陰鬱な気持ちをごまかすためにコーヒーを飲みながら答えた。
「データで送ればいいのにねぇ」
妻はそう言って笑った。
「昔から変わってたからな、こいつ」
俺も笑いを作って返す。
「パパ、顔赤くない?」
「あら、沙優ちゃんの風邪がうつったかしら?」
「熱いコーヒーを飲んだからだよ」
俺は「そろそろ行くよ」とテーブルを後にした。
内容が内容だけに誰かの目に入ったら大事なので、家のゴミ箱に捨てるわけにもいかない。
小包はカバンにしまって職場で見ることにした。
阪本のせいで、また胃が痛み出した。
県庁のトイレの個室に入り、小包を開けた。案の定、データが入ったCDと何枚か、サンプルの写真。そして、直筆の手紙。
データで直接送ってこないのは、ネットの検閲に引っかかるからだ。
写真の内容は、戦争で廃墟と化した海外の街。そして……そこで今も暮らしている人々。
子供から大人。笑顔から、泣き顔まで。
仕事柄、こう言った写真は見慣れているが、それでも何枚かを見て、思わず声が出そうになった。
「俺は、やっぱり性にあわねぇよ、こんなの」
そう言って仕事を辞め、素人同然の状態から、コイツがシャッターボタンを押し始めて、もう十年が経つ。
役所勤めの面影などどこにもない、髭面の阪本の写真も入っていた。
「いい顔してるな」
夢で胃を握りつぶされている男にはない笑顔だ。
俺はポケットからハサミを取り出して、写真を細かく切り刻み、封筒と一緒にスナック菓子の袋に入れ、最後にコンビニの袋で包んだ。それを部署に戻る途中のゴミ箱へ捨てた。
阪本、お前が撮ってる真実は、もう真実じゃないんだよ。
その後、出社してきた課長に俺は呼び出された。
象のニュースをどうするかの方針が決まったようだ。
生かすか? 殺すか?
内心、裁判の判決を聞くような心持ちで、課長と会議室に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます