1-2『死者と語らう音楽会』―死者は誰も恨みはしないよ
◇
古い教会に、パオロとジョエルはいた。ステンドグラス越しに夕日がさしこんで、二人を照らしている。ジョエルが演奏して、パオロがそれを聴いていた。ジョエルが弾いているのは、友人の背骨を使ったというハープティカではなく、普通のチェロだった。
「まだみえるかい?」
ヨキがたずねると、パオロはうなずき、誰もいない空間を指さした。
「首尾はどうだった?」ジョエルが演奏をやめてたずねる。
「エヴァンジェリン・グレイス。推測の域は出ないけれど、パオロがみているのは昨夏の鉄砲水で行方不明になっているバイオリンの天才少女だと思う」
「天才少女か。この街で天才と呼ばれるのであれば相当なものだろう。是非とも演奏を聴いてみたいね」
ジョエルはパオロに、エヴァのこと知ってる? とたずねる。パオロは首を横にふる。
「パオロの記憶にない女の子があらわれているのだから、これは君たちのいう死者の証明に一歩近づいたんじゃないかな?」
ジョエルがいうが、「まだわからない」とヨキは慎重な姿勢を崩さない。
「ねえパオロ、赤い髪の女の子に呼びかけてくれるかな? 君はエヴァなのかってさ」
パオロは虚空にむかって呼びかけ、首を横にふる。反応はないらしい。
「死者と語らう音楽会というのは人々が勝手にそう呼んでいるだけでね」
ジョエルがいう。
「実際のところ、死者には記憶や感情といったものがところどころ欠落していて、話せないことも多い。無理やりつれてきているような側面があるからね。僕のハープティカの演奏がもっとうまくなれば、完全な死者をつれてこられるようになるかもしれないけれど」
話せないのは声を知らないから、もしくは会話をほとんどしたことがないからではないか、とヨキは思う。しかし、あえて口に出さない。今はまだ、ジョエルが正しいか、ヨキの信じる科学が正しいかの判断は保留する。
「ねえパオロ、君は学校にはいっていないの?」
シュカがたずねる。ジャケットの襟を立て、あごに手をあてている。街の雰囲気にあてられて心霊探偵気分になったな、とヨキは思う。エヴァの状況はわかったから、次はパオロの事情聴取ということなのだろう。
「僕は落ちこぼれだから」パオロはいう。「三才で学校に入って、九才のとき、ナルサス音楽院への進学に失敗した。そこから僕は学校に通わなくてよくなって、楽器もとりあげられて、エンリコおじいさんのところでお手伝いをしてるんだ」
「エンリコおじいさん?」
「お墓を綺麗にしたり、廃墟になった家を掃除してる人。僕も将来、その仕事をするんだ」
グランナーレにおいて、進級できなかったものは、街から仕事を割りふられる。仕事の内容は落第したところによって変わる。九才で落第するものは少なく、そういうものにはおのずと一番きつい仕事が与えられる。
「どうやら、パオロには音感というものが一切ないみたいなんだ」
ジョエルがいう。彼が今、チェロをもっているのは、パオロが九才までさわっていた楽器だからという理由らしい。ヨキとシュカがいないあいだに色々と音を聴かせたのだが、まったく違いをわかっていなかったという。おそらく先天的なもので、九才までの演奏も、楽譜通りに必死に指を動かしていただけというのがジョエルの見解だった。
「僕はナルサス音楽院にいなかったから、多分、エヴァっていう女の子のことは知らないと思う。天才と呼ばれる女の子と、僕が知り合いになることはないよ」
シュカが、九才までパオロが通っていた学校についてたずねる。「キーリーク音楽学校という、地区の学校に通っていたよ」とパオロはこたえる。
ヨキは、ナルサス音学院長から受け取ったエヴァの経歴書に目を通す。三才から九才までの欄に、キーリーク音楽学校と記載されている。エヴァは天才少女で、幼いころから有名だった。同じ学校にいて、本当に知らなかったのだろうか。しかしヨキはそれよりも核心に近づくための質問をする。
「ねえパオロ、去年の夏、大水に襲われたときのことを教えてくれないかい?」
「え?」
「数十年に一度の大水で、街は水に沈んだんだろ。そのとき、君はどこにいた?」
ヨキの問いかけに、パオロは目を見開いて、口をあける。そしてなにかをいおうとして、けれどその口からは、なかなか言葉がでてこなかった。
顔面が蒼白になり、僕には、僕には、と繰り返す。そして、いう。
「僕には、大水に襲われたときの記憶が、ない」
◇
パオロは巡回船で帰っていった。乗りこむとき、巡回船は船着き場にとまらなかった。ゆっくり漕いでいたから、パオロはそれに飛び乗った。街の清掃人はみな、そんな風に空気のように扱われている。どこまでも、音楽の才能のない人間に厳しい街だった。
古い教会に残った三人。
「キーリーク音楽学校で一緒だったのなら、少なくとも、顔くらいはみてるだろうね」
シュカがいう。死者がみえるのは記憶の再構築という仮説を強固にする事実だが、別にそれでジョエルに勝ち誇ったりしない。シュカのことだから、パオロとエヴァのあいだに生じている問題を解決することしか考えていないのだろう。
「エヴァはパオロになにかを伝えようとしてるんじゃないのかな。霊の告白だっけ」
「映画の知識ですよね、それ。怖い幽霊につきまとわれていると思ったら、本当は良い幽霊で、その人に危機を知らせようとしていた、とかそんなやつ」
「やっぱ違うかな」
違うだろうね、と二人のやりとりを聞いていたジョエルがいう。
「僕のハープティカにはルールがある。死者は、望んだものの前にあらわれる。自発的にやってくることはない。つまり、会っているか否かはわからないけど、パオロが望んだということなんだ。エヴァがとどまっているのは、パオロがどこかで執着しているからだと思う」
死者の存在はさておき、パオロの心がエヴァのビジョンに影響しているという点にはヨキも同意だった。
「霊の告白じゃなくて、『罪の告白』なんじゃないですかね」
ヨキは、犯罪学の概念を持ち出す。
罪の告白とは、文字通り、罪悪感から自分の犯したことを他人に伝えることだ。ただ、そのやり方はダイレクトなものでなく、微細なサインだ。自分からはいいだしにくい、けれど他人に伝えたい。その気持ちが迂遠な方法を選択させる。
「ストレートにいいましょう。パオロはエヴァの死にかかわった。殺したかどうかはわからない。いずれにせよ、やましい記憶として、それを無意識のうちに消した。そして今、エヴァをみている。それが罪の告白のサインです。深層心理では、誰かに伝えたいんですよ。もしくは抑圧された心が助けを求めているのかもしれない。いずれにせよ、罪悪感がエヴァの幻影をみせている。欠落した記憶。それを取り戻せば、エヴァは消えるんじゃないでしょうか」
「どうやって取り戻すのさ」
「僕たちが死者を否定するために使った仮説を実践するんですよ。脳は今までのことを全て記録しているんです。催眠による暗示で、欠落した記憶を呼びおこし、再構築するんですよ」
「催眠術は科学だから、私たちでも可能かもしれない。けれどあれは熟練の技だよ。質問するだけなら簡単だけど、抑圧された心を解放するために意識レベルを下げるには高度な話術や音楽が――」
シュカがいったところで、おまかせあれとばかりにジョエルがチェロを鳴らした。
「聴衆に死者をみせたままでは街を去れないからね。協力させていただくよ」
シュカは眉間に皺をよせて難しい顔をする。本人が一度は封印した記憶を呼び覚ますことに抵抗を感じているのだ。特に、相手は十二才の少年なのだ。その取り戻した記憶が、彼の精神を歪めてしまう可能性だってある。
「先輩が望まないならかまいませんよ。現時点では、パオロはエヴァのことを知っていた可能性が高い。よって、音楽会でみえる死者は、やはり催眠による記憶の断片的な再構築だったと結論づけて、調査を終わらせることは可能です」
死者はたしかにいるのになあ、とジョエルが哀しそうにチェロを鳴らす。
シュカはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「実はね、さっきからお腹が減って、なにも考えられないんだよ」
◇
テラス席で、ヨキとシュカはテーブルをはさんで向かい合う。演奏家たちが弦楽器で演奏している。学院を無事卒業し、音楽家になれた人たちだ。
「コース料理ってのは、まどろっこしいよね」
「先輩の望みを叶えると、メイン、メイン、メイン、メインなんでしょうけど、そういうのは趣がないというんですよ」
「風情よりも食欲優先の社会の到来を望むよ」
結局、肉料理だけ四品も追加することになった。
「証明の方法はさておき、死後も存在が残ると思う? 直感的にさ」
シュカが口を拭きながらいい、ヨキはどうでしょうねとこたえる。
「意識は脳に依存していますからね。死ねば灰と骨になってなにも残らないというのが科学的ですよ。死後の世界があったとして、僕たちの意識はどうやって運ばれていくんですか」
「十九グラムの魂だよ」
シュカが笑いながらいう。自分でも非科学的だとわかっているのだ。
「また古い文献からの出典ですね。あの実験をおこなったのは、科学者というよりただのロマンチストですよ」
大昔に、魂を観測しようとした科学者がいた。
死によって魂がどこかへゆくとすれば、質量保存の法則からいって、死後、体から一定の質量が減っていなければならない。そのため、その科学者は瀕死の人間を体重計にのせ、死ぬ直前と死んだ直後の体重差を測りつづけた。そしてその前後で平均して十九グラム減少していたとし、それが魂の重さだという論文を発表したのである。
「あれは測定の方法も、心臓が止まったときなのか脳の機能が停止したときなのか、どの時点を死とするかも曖昧で、根拠のあるものではありませんよ。現在のセントラルの設備で再調査することに興味は湧きますけど」
「じゃあ、魂はないと思う?」
シュカがきき、ヨキは少し自分に正直になって、こたえる。
「まあ、質量保存の法則からいって、どこにいくのかわからないものはありますね」
「なに?」
「情熱ですよ」
世界の謎を解き明かすべく、心を燃やして仕事をしている。熱くなったり、強く祈ったり。そういったものは死んだ後になにも残らないのだろうか。こんなにも、身を焦がすように想っているのに。眠れない夜もあるのに。願っているのに。
「まあ、残らないから死は無常なのかもしれないし、そのヨキの情熱は調査報告書に変換されているのかもしれない。もちろん感情のまま残っていて欲しいけどね。誰かを強く愛した感情も、ただの脳の電気信号で、死ねば停止して終わり。そう考えるのは寂しいよ」
「死後の世界ですか。それがあれば、死者を呼びだすジョエルも本物ってことですよね」
「不思議な男だよね。死者を身近に感じ、人骨で楽器をつくる街。ホントにあると思う?」
「未踏地域なら可能性はなきにしもあらずってとこじゃないですか。確認不能ですけど」
セントラルの技術をもってしても侵入できない地図の空白、未踏地域。例えば放射能ベルトのなかであればどうだろう。そんな場所に適応して住んでいる人間がいたとしたら、もしかしたら背骨はガラスのような物質でできていて、磨けば虹色になるかもしれない。
「いってみたいね、ジョエルの故郷。それともあいつの背骨を抜いて確認してやろうかな」
そこでシュカは辺りを見回し、苦笑いしながら会話をやめる。骨とか灰とか、死体の体重差などを大きな声で話していたため、他の客が青ざめていたのだ。シュカがおしとやかぶって、コホンなどと咳をしていると、食後のコーヒーが運ばれてくる。コーヒーを注ぐバリスタ風の女の子には見覚えがあった。ナルサス音学院で泣いていた子だ。
「
ヨキがいうと、ブラウンの髪の女の子は「ええ」と笑う。彼女の表情は学院を追い出されたにもかかわらず、晴れやかにみえた。そう伝えると、女の子は「これはこれで良かったのかなと思うんです」という。
「自分に才能ないってわかってたんです。それでも、練習すればなんとかなるって無理やり思い込んで、ずっとやってました。すると、ちょっとは上手くなるんです。でもそのたびに、自分より才能のある人の演奏の良さがもっとわかるようになっちゃって。自分が上手くなればなるほど、みえてくるんです。才能のある人と、そうでない自分との差が。どうやったら楽譜にとらわれずにあんな自由に演奏できるんだろう、いいな。そう思って自分もやってみるんですけど、楽譜と違うことをするとすぐに破綻しちゃって。上手くなって、絶望して。上手くなって、絶望して。そんな繰り返しのなかで、自分がたいしたことないって、何度も残酷にみせつけられて。今はそんな終わりのない場所から外れられて、良かったなって」
つらかったね、とシュカはいう。
「コーヒー、とってもいい香りだよ」
「やさしいんですね」
女の子は注ぎ終わると、頭を下げて去ろうとする。しかし、思い出したように足をとめた。
「そういえばお二人は、学院長に、パオロについても質問したんですよね?」
学園から去ったのち、友だちから聞いたのだという。
「私、ナルサスの前にはキーリークにいたから、パオロのことも知ってます」
その言葉をきいて、ヨキはカップを机に置く。
「二人は知り合いだった?」
「ええ。エヴァはキーリークにいたころから女王様のように振舞っていて、放課後にパオロを呼びつけたりしていました。学校では、あまり一緒にいませんでしたけど。パオロは見た目も性格もぼおっとしていて、見てくれも悪いので、人目のあるところでは他の子を使い走りにしていたのかもしれません」
女の子が去ってから、シュカが神妙な顔になっていう。
「やろう」
琥珀色の瞳には、強い光が宿っていた。
「なにをですか?」
「催眠による記憶の再構築だよ」
どうしたんです急に、とヨキはたずねる。
「ヨキはさ、とても残酷な結末を想定しているでしょ」
「まあ、可能性の上では」
エヴァは高飛車で、才能のないものを虐げてきた。パオロと知り合いだったのだとしたら、もっとも才能のないパオロは一番ひどい扱いを受けたはずだ。パオロが恨みをもって、増水した川にむかって背中を押した可能性はある。そして本来的に善良なパオロはそれに耐えられず、記憶を消した。それがジョエルの死者と語るという暗示によって顕在化している。それがもっともあり得るとヨキが考える真実だった。
「私もさ、夢見る少女じゃないから、残酷な現実があることは知ってる。才能のないものがあるものに嫉妬することも、恨みを買ったものが報復されることがあることも。今回のケースの説明もしやすい。でも、別の可能性もある」
「別の可能性、ですか」
「うん。エヴァがパオロをいじめるかな? 音感がなくて、放っておいても進学できないことが確定的な生徒だよ? そもそも彼女は才能の軽重で扱いを判断したかな? それなら、二番目の生徒とは仲良くなるはず。でも、ナルサスではつらくあたっていた。エヴァが憎悪していたのは、本当に才能のないものだったのかな?」
「本人でないと、わかりませんよ」
「そんなことはないさ。パオロが教えてくれるよ。エヴァの生前の言葉を、きっとね」
◇
教会の椅子に、パオロが仰向けに寝かされている。
頭のうえに置かれた端末が、パオロの脳の状態を数値化して表示していた。セントラルの端末であるから本当はみせてはいけないのだが、催眠療法による記憶の再構築を優先させた。友人の背骨でつくった楽器で人々に死者をみせるという男を前に、オーバースペックなデバイスだのなんだのという議論は無粋に思えた。
「嫌だったら、いつでもやめるからね」
催眠はシュカがおこなうことになった。「ヨキはたまに優しくないからなあ」というのがその理由だった。
「最後までやるよ」
パオロはいう。
「僕は、あの女の子にひどいことをしたかもしれないんでしょ。もしそうなら、ちゃんと思いださなきゃいけないと思うんだ。そのあとは、どうしていいかわからないけど……」
「あんまり気を張っちゃだめだよ。眠るか眠らないか、そういう力の抜けた状態にならなきゃいけないんだからさ」
シュカは昨夜調べた手順どおりに催眠をおこなっていく。数字を数えさせたり、果てしなくつづく道をイメージさせたり。一定の調子、抑揚で言葉をかけつづける。
となりではジョエルがハープティカを演奏している。チェロとは違い、手に馴染んだ音であることがヨキにもわかる。とてもスローテンポでシンプルな音色。聴いているだけで意識が茫漠としてくる。
端末をみれば、早くもパオロの脳の状態は覚醒と睡眠のあいだ、あわいの領域に落ち込んでいた。なかなかやるだろ、とジョエルが片目をつむってみせる。いちいち芝居がかった男だ。
シュカがゆっくりと質問をする。最初は、どこで育ったかとか、お父さんとお母さんのこととか、あたりさわりのないこと。そしてだんだんと、キーリーク音楽学校での生活のことになり、エヴァのことになる。
核心となる大水の日の質問になると、パオロの息は荒くなり、汗が噴出した。しだいに身体が大きく痙攣し、泡を吹きはじめる。拒絶反応がでていて、精神にも肉体にも大きな負担がかかっているのは明らかだった。
シュカはいそいで演奏をとめさせ、覚醒へとむかわせようとする。しかしそれよりも早く、パオロの体が跳ね起きた。
「僕はバカだ!」
荒い息のまま、叫ぶ。そして泣き始めた。嗚咽をもらしながら声をしぼりだす。
「バカなんだ。たった一人の友だちを忘れてしまうなんて」
◇
小舟が海漂林のあいだをすすんでゆく。パオロのいうとおりに、いりくんだ白骨のような木々の迷路をぬけ、奥へと入ってゆく。もはや街から離れ、家もなにもない。木々の密度も濃く、昼だけれど、まるで夜のようだった。
先端に座るパオロとシュカ。ジョエルはチェロを気に入ったのか、ずっと音を奏でている。ヨキはすっかり定位置となった最後尾で艪をこいでいた。
「演奏する楽しみを忘れてしまった。エヴァはいつもそういっていた」
パオロが水面をみながらいう。
「音楽が他人から賞賛され、自分の将来の地位を築くための、なにかよくわからないものになってしまったって、いつも泣いていた。エヴァは自分の演奏も嫌いだったんだよ」
そしていつも怒っていた、とパオロはエヴァと過ごした日々を語る。
「キーリークにいたころから、もう、そうだった。クラスメートたちをとにかく嫌っていた。みんなの演奏も、もう、音楽以外のなにかだって。すべてを音楽のふりをした他人との競争にささげて、極限まで練習して、そうなったら才能の大小しか残らないのに。そして自分より下の人をこきつかって、そんな醜い自分に気づいていない。だからみんなが嫌いだっていってた。みんなで、こんな競争をやめればいいのに、って」
私はこんな醜い自分に気づいているだけ、まだましよね? と、悲しい顔で何度もパオロに問いかけていたという。
「驕れる神を罰する、また、驕れる神」
シュカが誰にいうともなくつぶやく。
「それで、エヴァはみんなに意地悪して、嫌われてしまったんだね」
「うん。でも、あんまり彼女のことを悪くいって欲しくないんだ。たしかにエヴァは色々な人にたくさんひどいことをしたんだけど、その後はいつもひどく傷ついていたんだ」
「君はエヴァと親しかったの?」
「うん。エヴァは僕にだけは優しかった」
小舟はやがて、白い根が大きく張り出した場所にたどりつく。平らで、まるで島のようだった。パオロが根にあがるので、三人も後につづく。
「エヴァは僕の演奏を褒めてくれた唯一の人だよ。いつも放課後になるとここへきて、二人で一緒に演奏した。エヴァはバイオリンで、僕はチェロ。僕は自分の演奏に必死で、エヴァの音を聴く余裕もなくて、ただ必死に下手な音をだしてた。情けなくて、涙がでそうになるんだけど、エヴァはいつもいってくれるんだ。僕の音がいいって。その、必死になってだしている音がいい。世界で一番きれいな、純粋な音だって。エヴァは僕と一緒に演奏をしているときだけは怒った顔をしないで、笑っていたんだ。なんで笑うのときいたら、僕と一緒にいるときだけは、なにも考えずに、本当の音楽ができる、真実の音がだせるっていうんだ」
パオロが落第し、エヴァがナルサス音楽院に進学しても関係はかわらなかったという。放課後、ここに集まって演奏した。パオロはチェロを取り上げられていたから、エヴァが持ってきた。エヴァが他の生徒から楽器を取り上げたのは、パオロのためだったのだ。
「エヴァは多分、誰とも分かり合えずに生きていくんだと思った。彼女は悪い女の子だったのかもしれない。でも、僕は、僕だけは彼女の友だちでいようと思った。エヴァは、エヴァだけは僕の音を褒めてくれた。なのに――」
「大水の日ね」
シュカがいい、パオロがうなずく。
「あの日も、僕たちはここで演奏していた。突然、水かさが増して、エヴァが流されそうになったんだ。僕はすぐに腕をつかんだ。でも力がなくて、引っ張りあげられなくて、離してしまったんだ。もしかしたら、僕は自分が助かりたかったのかもしれない。あのままだと、二人とも流されてしまったから。多分、そうなんだ。僕は離してはいけない手を離してしまったんだ。だから、記憶を失くした。そんな自分に耐えられなかったから」
パオロは虚空にむかって、「ごめんよ」という。エヴァがみえているのだろう。
「死者は誰も恨みはしないよ」
ジョエルはいう。
「君が望んだから、エヴァはきたんだ。君と語り合うために。それが僕の音楽会だ。そして君たちの語り合い方は言葉じゃない」
ジョエルは手に持ったチェロをかたむける。
「ねえ、聴かせてくれないか。天才少女が、世界で最も美しいといった音を。なにを隠そう、僕もどちらかというと技術におぼれがちでね。エヴァの言葉は心に刺さったよ。エヴァも、もう一度、君の音を聴きたいはずだ」
「伝わるの?」
「もちろんさ。僕のハープティカを信じてくれたまえ」
ジョエルがチェロを手渡す。パオロの手がそれに触れようとしたときだった。
頭上、少し離れたところで、葉がこすれる音がする。
次の瞬間、水面に何かが落ちてきて、水しぶきをあげ、波紋を立てる。
少し離れた場所に、白骨が浮いていた。
頭蓋には燃えるような赤い髪が残っていた。
◇
翌日、ヨキとシュカ、そしてジョエルの三人は小舟にのってパオロの家へと向かっていた。昨日、エヴァの死体がみつかったため、まずはそれをしかるべきところに届けることになり、パオロの演奏は後回しになった。そのままになるかと思いきや、ジョエルがどうしても聴きたいというものだから、パオロが招いてくれたのである。
「明日、僕の家にきてよ。そこで演奏するよ」
そういうわけで三人は朝から集まり、小舟にのって、教えられたパオロの家にむかっているのであった。
木漏れ日が気持ちよく、ジョエルなどはチェロのケースを抱きながら目を閉じ、鼻唄をうたっている。
「才能のないものが奏でる音が一番美しい。そういう解釈もあるんですね」
ヨキはパオロの顔を思い浮かべながらいう。皆からは才能がないと烙印を押され、しかし天才少女からは評価された男の子。そして、人によってみえかたが違うのはエヴァも同じだ。
「学院長からみたエヴァ、学生からみたエヴァ、パオロからみたエヴァ、様々でしたね」
「他人の目に映る自分は万華鏡みたいなものさ。自分で感じる自分だって、それが本当なのかはわからない」
シュカはいう。他者が認識する自分。自分が認識する自分。そしてそれがあるのかはわからないが、他者の認識でもない、自分の認識する自分でもない、絶対的な本当の自分。
「その絶対的な自分というやつが、魂みたいなものなのかもしれないね。それが死後も残る」
「科学的じゃないですけど、悪くないですよ、その考え方」
この街は青春を先鋭化させたような場所だったね、とシュカはいう。
「才能の明暗と苦悩、自分がどうあるべきなのか。おそろしく息苦しくて、つらくて、でも、繊細で美しい」
「先輩も十代のころは悩んだりしました?」
「忘れてしまったよ。他人に映る自分も、自分で認識する自分も、どれも小さなことさ。この広すぎる世界の前ではね。雷の鳴る大平原の真ん中で、そんなことを考えるのは無意味だよ」
「繊細な心をなくした大人っていわれちゃいますよ」
「時がきたら、なくなるべきだよ。青春時代の思い出はつらくて美しくみえるからこそ、そこにとどまりつづけちゃいけないのさ。私たちは調査官で、新しいところに歩いていく。感性も同じさ。変わることを恐れたり、気に入ったところをずっと反芻してちゃいけない。青い感性は過ぎ去った一つの風景に過ぎないよ。新しい景色のなか、新しい感性さ」
晴れやかな日差しのなか、パオロにいわれた住所に小舟が到着する。しかしそこは廃墟だった。家はなく、土台となっていた石垣だけがある。最近になって取り壊されたようだ。
周囲に生えた植木の緑が鮮やかで、どこか遺跡めいている。石で組まれた土台と、陽光をうけて輝く緑の木々、そして水の音。
ヨキとシュカは首をかしげながら船をとめ、あがってゆく。ジョエルもそれにつづく。
人がいるが、パオロではない。
老人が、清掃していた。
「やあ、君たちか。今回はお手柄だったね」
エンリコという名の、街の墓守と清掃を担当している老人だった。エヴァの遺体も彼が埋葬するということで、昨日、役所で軽く挨拶をかわした。
「ありがとう、礼をいうよ」
エンリコ老人はいう。
「パオロの墓のとなりに、エヴァを埋葬してやることができた。みんな知らないけれど、二人は仲良しだったからね」
とても自然に語る老人。そうですか、よかったですねと思わずいいそうになるが、ヨキは「パオロの墓」という言葉を聞き逃しはしなかった。
「あの、パオロは?」
ヨキの質問の意図を測りかねたようで、老人は少し考えてから、パオロについて語った。音感のない子供で、底抜けに性格がよく、老人の仕事を手伝うようになり、エヴァの唯一の理解者だった、と。ヨキたちがパオロのことを知らないと思ったのだろう。
「それで、そのパオロは今どこに?」
ヨキがきくと、老人は風化しそうな思い出を語るように遠い目でつづけた。
「大水の日に、多くの人々が流された。パオロとエヴァもそうだ。エヴァの死体だけはなかなかみつからなくてね。ああいう子だったから、この街に戻ってきたくないんじゃないかと思ったよ。私としては、パオロが寂しいだろうから隣に墓をつくってやりたかったんだ。でも、エヴァもこうして戻ってきてくれたから、同じ気持ちだったんだろう」
「一応おききするんですけど、パオロの死体がみつかったのは?」
ヨキがたずねるとエンリコ老人は、「大水の翌日にはみつかったよ。よく働くいい子だったのに」と哀しそうに目をふせた。
ズボンをサスペンダーで吊った少年、パオロはヨキたちがグランナーレを訪れるよりも遥か前に、すでに死んでいたのだった。
思わずヨキは背後を振り返る。
「君が望んだんだよ」
ジョエルが微笑んでいる。
「死者は望むものの前にあらわれる。僕のハープティカのルールは絶対だ」
ヨキは死者と語らう音楽会でのことを思い出す。死者の存在を肯定するには、記憶の再構築という仮説を覆すことが必要だった。そのために、記憶にない死者と出会い、そしてそれを複数人が同時に認識できる状態を求めた。
ヨキはパオロという少年を知らなかった。
パオロのことを、シュカもジョエルも認識していた。
死者は記憶が欠落していることが多いとジョエルは語った。パオロはエヴァを忘れていた。
「ヨキ、君が望む死者に会えたのなら、僕は嬉しいよ」
どういたしまして、とでもいうようにジョエルは帽子をとった。
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