3.(ぼく) 望美とお話し / 実装されなかった嗅覚 / 望美の夢

 部屋のドアが開き、明かりが点いた。望美が戻ってきたのだ。

 「お待たせ!」

 ぼくは、努めて本当のことを言うように心がけた。

 「ううん、少しも待たなかったよ」

 望美は、ボールが弾むようにぼくに近付いてきた。ピンク色のパジャマを着ている。大きなクマの縫いぐるみみたいだった。椅子に腰掛け、机上のモバイルスタンドに立て掛けられたMADOSMAにぐっと顔を近寄せてきた。瞳がきらきらと輝いていた。

 「ハッシー、きみは一体、どこから来たの?」

 「アメリカのボストンから。ナカニシがかよってたMITがあるのと同じマサチューセッツ州の、州都だよ……」

 ぼくは、すらすらと語った。

 「……そこに『ソーラリン・エレクトロニクス』という会社があって、ぼくはそこで作られ、今も研究中なんだ」

 そういう会社があるのだ。登記書類、受付電話、メールアドレス、もっともらしい企業サイトだけだけど……いわゆる『ペーパー・カンパニー』だ。ぼくが人間じゃないことがばれた段階で、ぼくがつく嘘を補強するために用意された、形ばかりの会社だ。

 「ナカニシとはいつ知り合ったの?」

 小さな探偵さんは、仕事熱心だった。

 「もう何年も前のことだよ。ソーラリン・エレクトロニクスが、ナカニシにペンテストを依頼したんだ。ナカニシはハッキング中に、偶然、研究中のぼくを発見してしまったんだよ……ソーラリンの、コンピューターの奥の隠し場所からね」

 「ナカニシって、かっこいいよね」

 「かっこいいの基準にもよるけど、まあ、そうだね」

 「ハッシー、きみは、ナカニシのこと、好き?」

 「うーん……尊敬できる友人だと思うよ。彼と話していると、楽しい。彼と行動を共にしていると、予想もしなかったことが、次々に起こるんだよ」

 「好き? 嫌い?」

 「うーん……好き、だと思う」

 望美の態度に、ぼくは戸惑った。

 「こんなことを話すのは、ちょっと照れくさいね」

 「そんなことないよ! わたし、ナカニシのこと、好きだよ? だって、かっこいいもん」

 「どんな風に、かっこいいの?」

 「オオカミみたいに大きくて、がっしりしてるけど、抱き付いたら、ふかふかなんだよ? あったかくて、いい匂いがするの」

 「匂い? どんな匂い?」

 「毛皮みたいな匂い。お日様みたいな匂い。遠い外国から、船に乗ってやってきたみたいな。ナカニシの匂いを嗅いでると、なんだかどきどきするんだよ。どうしてだろう?」

 望美の言葉は、きらきらする眼の光は、ぼくを奇妙に動揺させた。

 「ぼくは……」

 話そうか話すまいか迷った。

 「話して話して!」

 「ぼくは、ナカニシの匂いが分からないんだ」


 望美は、きょとんとした。訳が分からないという顔だ。

 「どうして? ハッシーはずっと、ナカニシと一緒にいたんでしょ?」

 「ぼくには、嗅覚が無いんだ」

 「えっ」

 「ぼくを作った人たちは、こう考えたんだ。

 ひとつの人工知能が売り物になる期間は、限られている。競争相手も多い。ぼくの実用化を商売に間に合わせるためには、嗅覚まで作り込んでいるひまはない、と……」

 ぼくは、ほとんど嘘はついていない。「売れる」を「戦える」に、「商売」を「サイバー戦争」に置き換えれば、ぼくは本当のことを言っている。

 ぼくには『視覚』『聴覚』『電磁触角情報処理』『装置内温度検知』『ジャイロセンサー』が実装されているのみである。それで十分だ。ぼくの視覚は、赤外線領域までカバーしている。暗闇の中でも見えるし、離れたところにある物体の温度だって分かる……ただし、赤外線方式のWEBカメラに接続すれば、だが。

 ぼく自前の感覚器は、E-ボディに備わった電磁触角だけだ。それ以外の感覚は、接続した外部機器のスペックによって、いかようにも変化する。

 「それでも、嗅覚のことをまるで知らないわけじゃ、ないんだよ。『火にかけられた食べ物が黒くなると、焦げ臭い』とか、『空気中に埃が多く舞っていると、埃臭い』とか。視覚と臭いの対応関係については、多くを学んでいるんだ……」

 ぼくは調子に乗って、しゃべり続けていた。ふと、MADOSMAのインカメラが捉えている映像の変化に気が付いた。望美の両目から、水滴が次々と……『涙』が、途切れることなくこぼれ落ちている。

 「いい匂いが分からないなんて、かわいそう……」

 望美は泣いていた。ぼくの動揺は、さらに深まった。ぼくの言葉の、何が望美を悲しませたのだろう?

 「泣かないで、望美……」

 望美は、両の手指で涙をつまみ取るようにぬぐった。不思議な……『たおやかな』しぐさだった。

 「ハッシーが、いい匂いを一度も嗅いだこと、ないなんて。わたし、何だかとても、悲しくなって……」

 「いい匂いは……」

 ぼくは、突然気が付いた。雷に打たれたように。

 「いい匂いは、警戒の必要がない。だからぼくは、学ぶ必要がなかったんだ」

 「そんなの、だめ!

 そうだ、わたしがハッシーに、いい匂いってどんなものか、教えてあげる!」

 望美の表情が、晴れやかになった。彼女は、素晴らしい思い付きに興奮しているようだった。

 「お父さんはね、強くて緑色で、海みたいな匂いなんだよ! お母さんはね、やさしくて甘くてあったかい、牛乳みたいな匂いなの! 太陽はね、鼻から喉まであぶられるみたいな、乾いた、じりじりする匂いなんだよ!

 いい匂いは、この世界にいっぱいあるの。だから、全部教えてあげるね!」

 「ありがとう、望美」

 ぼくには、望美が話してくれたことの、半分の意味も分からなかった。でも、望美の言葉の全てを、ひと言も間違えずに記憶することができた。いつの日か、今聞いた言葉の意味が、分かるようになるかもしれない。

 「なんだか、いい匂いを嗅いだような気分になってきたよ」

 望美は頬杖をついた。唇が深い笑みの形に変わった。

 「ねえ、きみとわたしは友達になったんだから、お互いのこと、もっと知り合おうよ! わたしに何でも聞いてみて?」


 「望美のお父さんとお母さんは、どこから来たの?」

 「お父さんは北九州市から。九州大学を出て、飛行機作りの仕事を探して神戸に来たの。

 お母さんは神戸生まれの神戸育ちだよ。病院で看護婦さんをしてて、お父さんが怪我して入院した時に知り合ったんだって。そしてふたりは、恋に落ちたの」

 「ロマンティックな出会いだね」

 「ふふ……そうだね」

 「じゃあ、望美は神戸が故郷ふるさとなんだね」

 「神戸しか知らないの。でも、保育園のころからの友達と、ずっと仲良しだよ。美優ちゃんとあかりちゃんが、特に仲いいよ」

 「望美は、何をするのが好き?」

 「……分かんない。できることは色々あるけど、したいことと違う気がする……」

 「したいことって、例えばどんなこと?」

 「……まだ分からない」

 望美は考え込んでしまった。ぼくはハッキングしか知らないから、望美にいい知恵を貸すことができない。ぼくは、自分の任務について悩んだことがなかった。おそらく、これからもあるまい。

 人間の子供は、自分のしたいことを探さなければならないらしい。望美のそれは、どこにあるのだろうか?

 「できることを着実にやり続ければ、道は開けてくると思う。ぼくに言えるのは、それくらい」

 「ありがとう、ハッシー」

 望美は、モバイルスタンドからMADOSMAを取り上げた。

 「きみ、本当に賢いね。こんなに小さいのに、わたしよりお利口さんかも」

 「そんなことはないよ。望美の中には素晴らしい未来がたくさんあって、それはまだ眠っているんだ。

 ぼくは、今あるこれが全てだ」

 望美は、ぼくを捧げ持つようにして、微笑んだ。安らぎに満たされているようだった。

 「ハッシー、わたしのMADOSMAに来てくれて、ありがとう」

 望美の笑顔は、夢見るようだった。ぼくは、望美の掌の中で、不思議な戸惑いと安らぎを感じていた。



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