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「あの、本当に申し訳ないんですけれど」
カウンターに腰かけてキャップと眼鏡を外してそう言った彼女は両手を顔の前で合わせて小さく首を傾げた。
「今日は一杯だけ、飲みに来たんです」
うん? 何を申し訳がることがある? バーってのは一杯を美味しく飲むための場所だろう? 数なんて関係ないさ。
「実はさっきまで飲み会で。でもどうしてもマスターのお酒が飲みたくなったから」
「おや、嬉しいことを言って下さいますね。世界の桜小路さんが私なんかに」
「わ、そんなこと言わないでくださいっ」
ちょっと照れたようにして彼女は笑う。テレビの向こうで見る桜小路ありあはとても堂々としていて強い女性に見えるけど、ここにいる時の彼女はとても可愛くて少女らしさがある。ちょっと本人には言えないけれど。
「業界の飲み会ってだけでとても華々しくて仰々しいのを想像しませんか?」
うーん、確かに。凄くお金が掛かっていて凄い料理とか凄い酒とか出てきそうな感じはする。
「実際そこまでは行かないまでも、それなりの店に連れて行ってもらったりはするんです。料理だって美味しいけど」
けど?
「若い頃はこれも仕事だって思えば大丈夫だったんですけれど、ダメですね。もう疲れちゃって、歳かな」
歳だなんて悲しい事を言わないで。まだまだステージ上を動き回れる元気があるじゃないの。
「そう言うのじゃなくて、なんて言うのかな。もっとゆっくり静かに、自分のペースで飲んだり食べたりしたいなって。そっちの方が楽しいって気づいてしまったからかもしれません」
そう言われるとなんとなく分かる気がする。二十四時間ずっと仕事しているようなものだもの。
「だからここに来たのもリフレッシュ、みたいな感じで」
「ふふ、とても光栄です」
「光栄だなんて。私もただのいち人間ですから」
外じゃそういう訳には行かないだろう。だって人気歌姫の桜小路ありあなんだから。でも、うちの店では大切なお客様のひとりである桜小路ありあさんになってもらえたらいいなと、いちバーテンダーである俺も思うわけで。
「今日は何にします?」
「甘いのが良いです」
お望みとあらばいつでも腕によりをかけて。
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