(3)




 長く暗い廊下には、壁に光を灯すためのものがついているにも関わらず、活用されず、結果として光が一筋としてなかった。

 真っ暗な廊下を、レイジは歩いていた。

 完全な暗闇であろうと、吸血鬼の目を持つ彼には関係ない。慣れている場所ということもあり、迷いない足取りであった。


 その彼の右手の方から歩いて来た者が、通り過ぎずに止まる。

 周りに頓着せずに歩いていたレイジだったが、


「あれ、君、見たことがあるな」

「お前は……」


 立ち止まった気配と、かけられた声に、立ち止まった。


「やあ」


 すれ違おうとしていた男はダークブラウンの髪に、吸血鬼である証の真っ赤な一対の目をしていた。

 吸血鬼であることは、気にするようなことではない。

 どうせこの建物に出入りする者など、吸血鬼以外にありはしない。

 しかし、「同族」であるという前に、レイジはその男を知っていた。


「どうして生きてる」

「君のお父さんの使い走りにされてしまって」


 以前、街中で吸血騒動を起こし、特別班が作られるまでに至り、まさにレイジも追いかけたことのある吸血鬼だった。

 父親によって回収された吸血鬼だが、最後見たときには──。


「あの親父……」


 処分せず、生かしておいたのだ。

 同族同情とかいうものをあの父親が持っているとは考えられないので、ただの気まぐれか。


 平素ならいざ知らず、レイジは、その吸血鬼に関しては素通りすることは出来なかった。


「そんな目で見ないで欲しい。怖いな……怒っているのかなぁ、君のところの子の血を吸ってしまったから」


 わざとらしく腕を擦り、吸血鬼は笑う。


「誰を指しているか、分からない?」


 分からないはずがない。

 あの現場で、貫かれた手のひらを真っ赤に染めたハルカを見たことを、忘れられるはずもないのだ。


「てめえ――黙るなら今の内だ」


 レイジは低く、言った。


「おお怖。少し、味見しただけだろう。そんなにかりかりしなくとも。……それに、手を出されたくないなら、きちんと見ておかなければ」


 吸血鬼はわざとらしく怯えた動作をしながらも、笑い、口が減らない。


「君のことは、もちろん元々知っている。レイジ・シルヴィオ・バーゼルト。真祖の息子。混血でありながらも並の吸血鬼よりも力がある……って聞いていたはずなのに、僕があのとき君のこと退けられたのはどうしてか。君が怠けていたのか?

 ――それとも、あの子の血のおかげかなぁ?」

「一つ、言っておく」


 荒げられることのなかったレイジの声には、先ほどまでの怒気に近いものは表れず、静かだった。ただ、彼は、目に烈火のごとき怒りをちらつかせている。

 通常であればこうまでは行かなかったかもしれないが、何しろ最近、彼の虫の居所はすこぶる悪い。

 鈍い音がしたかと思えば、ダークブラウンの髪をもつ吸血鬼の顔の横の壁に、幾筋もの大きな亀裂が入る。

 中心には、レイジの足がめり込んでいた。


 レイジの目は、鮮明に色をあらわしていた。心なしか、前にいる吸血鬼より、よほど鮮やかに。血のように赤く、色味の深さが、増したような。


「あの親父が生かしても、俺の前に現れて、生きておけると思ってんのか」


 漂う、殺気。


「それに俺はそんな肩書き持った覚えはねぇ」


 パラリと破片が落ち、足が壁から離れる。

 一連の流れの中、動いたのは、常人では目に追えない速さで動いた脚と、それにより起こった風でなびいた互いの髪の端くらいか。

 反応出来なかった吸血鬼は、ようやく一度瞬き、固まっていた表情を動かす。


「……何だ、本当に分からない。まあ、僕も手、出したときは知らなかったし、もうしないとも。あの女の子に関しては、特に君のお父さんに釘を刺された。下手をすると、今度こそ殺される」

「親父が……?」


 レイジの怪訝さは、声だけでなく表情にも出た。


 レイジの父親の思考は、息子であるレイジにも全く読めない。レイジ自身、読もうとも思わない。

 しかし、つい一週間ほど前、レイジの父である吸血鬼はハルカをさらうような真似をした。何を考えているのか。

 その父がハルカのことに関して釘を刺した、と。何を考えているのか。

 今日とて、呼び出されてレイジには思い当たる用事はなく、訝しげに来ているのだ。


「君さぁ」

「レイジ、来ているなら入れ」


 廊下の奥の方から、声が響いた。

 突き当たりの部屋から、今しがた話題にのぼった吸血鬼が体を半分ほど出していた。

 レイジは壁際の男を一瞥し、足を元々の進行方向へ出した。



 *





「なんであいつが生きてる」

「使い走りにしている」

「んなもん足りてるだろ」


 入った部屋は、書斎のように見える。

 入って右手に本棚、左手にも本棚。つまりは壁際が本棚になっていて、奥に机がある。

 奥の壁は一面ガラスの窓になってはいるが、引かれている薄い布の向こうは、真っ暗だ。

 夜なのではない。

 ここでは一日中暗くある。陽の光が届くことがない。

 しかし電気はあって、部屋の中を、眩しいほどに明るくではないが十分には照らしていた。


「あれは元々人間だった吸血鬼でな。どうもそれらにとって、人間の血は中毒のようになるらしい。この前のお嬢ちゃんは特殊能力保持者だったろう、何か特殊なものが分泌されていて、それが増幅させられるのやもしれないな」


 机の向こうの革張りの椅子にゆったりと腰かけ、吸血鬼は話しはじめた。

 つまりは、正気ではなかったからあれで許している、ということ。その代わりに一生使い走り。

 レイジは机から一メートル離れて立ち止まりながら、正確に理解した。

 加えて、そのときのことを思い出し、先ほどは確かに、以前目にしたときの目の異常さはなかったと、そういうことかとも納得はする。


「そんな吸血鬼ものを生み出すことを考えれば、実に俺たちは共に暮らすには不向きな存在だ」


 神はなぜ世界を交ぜたのだろうな、という呟きがなされた。

 ――「神」、そんな存在がいるという


 それはさておき、しみじみとした呟きに、レイジは眉を寄せる。どうも、話運びがいつもとは異なる。

 それに、先ほどから引き継がれてきた話の内容上出てくる存在に、苛立ちが湧く。それゆえに、レイジはさっさと話を切ることにする。


「そんなこと聞いてんじゃねぇよ。……で、用は何だ」

「急くな、と言いたいが、これに関してはお前が正しいのかもしれん」


 レイジが見る前で、机の上に紙束が放り出された。

 結構な分厚さがある。これが用事か。

 面倒なことでなければいいが――


「レイジ、あのお嬢ちゃんは死ぬだろう」


 放たれた言葉が不意討ちすぎて、紙を取ろうとしていた手が止まった。

 それは、瞬く間だけ。

 まさか、と、紙束を手に取るや、ばらばらとかなりの早さで捲る。中はぎっしりと文字が詰まっているが、構わない。

 


「どうやって手に入れやがった」


 つい数日前、リュウイチが持ち出してきたものとほぼ変わらない内容が記されていると把握し、レイジは紙から目を離す。

 見る必要はもうない。放るというよりは、軽く叩きつけるように紙束を机に戻す。


「入手することは実に簡単だ。そしてそれは今言うべきことではない」

「なら、何が言いたい」

「可哀想だなあ、あの子は。か弱き人間にしてみれば貴重な情報源であり、実験体一号だ。貴重であるからこそ、閉じ込められ研究対象にされるだろう。そうして、死んでゆくのやもしれん」

「だから、」

「組織は、あの子を助けられないぞ。情報を優先させている。人間が強くあるために、もはや実践では使い物にならないと判断したあの子が死ぬ前に、とな」


 機密であるはずの情報を持ち出しぺらぺら喋る男を前に「冷静」であれたのは、奇跡だ。


 考えれば考えるほど、続く。苛立ちが。死ぬ、と聞いたのに何も出来ないことによるそれが。


「だから、何が言いてぇ」


 押し殺した声だった。同じ事を二度突きつけられることによる、声音。


「あの子を守ってはやりたくないか」

「――――どうやって」

「簡単だ、お嬢ちゃんを吸血鬼にすればいい」


 何でもないことのように、話された。


「分かっているだろう。元々お前の血の割合は明らかに、俺から継いだ吸血鬼の血の割合が高かった。時が経った今、人間のひ弱な遺伝子など飲み込まれて、お前がその血をどれだけ受け入れていようといまいと、――お前は完全な吸血鬼だ。対象を吸血鬼にできるかどうかの素質に関しては問題ない」

「ふざけんな!!」


 レイジは机を叩いた。拳を打ち付けられた机は、不吉な音を立てた。

 打撃が終わった今も、みしみしと音を立てている。レイジが力をそこに込めているからだ。握った拳を押しつけているから。


 レイジは、自分が吸血鬼であり、人を吸血鬼にすることが可能かどうかなどどうでも良かった。

 その話題自体が――禁句である。


 二年前、なぜ少女から離れたのか。なぜ。何をしかけたがために。

 それを言うつもりはなかった。いつも先回りに先回りを重ねる、父である吸血鬼が知っているかどうかなど知らない。

 だが、そうでなくとも、


「あんた昔――俺の母親を死なせただろ。そのくせに何言ってやがる」


 レイジは思い出した、何年か前からいつも頭の片隅にこびりついて離れないことを押し込め、代わりのことを口に出し、相手に叩きつけた。


 その吸血鬼は、かつて息子の母親を吸血鬼にし損ねた。


 机に拳を打ち付けたまま、普段では中々見られない息子の激昂を目にする男は、驚く様子も笑う様子もなく、静かに息子を見返していた。

 ただ、単に、静かに。

 息子を、見る。


「レイジ、お前にとってあの子は何だ」


 唐突な問いだった。

 その問いが、以前は少女にかけられたものとは知らないレイジは、眉間の皺をより深く刻む。


 吸血鬼は、答えを待つつもりはないのか、言葉を重ねる。


「俺にとって、お前の母親は人間であろうと……人間であったからこそ、永く共にありたいと愛した女だった」


 息子の前で、彼の母親であり人間であり、男が吸血鬼の永い生の中で一人愛した女への想いを語る。


「しかし、あれに吸血鬼となる素質はないに等しいものだった。だが、そうだとしてもとあれは望んだ。俺と――自分の子と同じ時間を生きるために、数パーセントにも満たない確率に賭けようと。自分の身と命を賭けた。……本当に良い女だったよ」


 彼女の想いと、死を語る。


 父親の血をより濃く継いでいることにより、何十年も経っているのに外見年齢を中々重ねなくなっている息子は、瞠目する。

 はじめてだったのだ、この男からこのような話を聞くこと自体が。

 けれども、その話に終わらず、息子を待たずして男は話を戻す。本題へ戻る。息子を今日ここへ呼んだ所以である話へ。


「特殊能力は能力だ。我々は人間を吸血鬼に変えるほどの、つまりは上書き出来るある種の能力を持っている。言っている意味は分かるな?

 幸いお嬢ちゃんには吸血鬼になる素質はある。この可能性は、たった一つの方法を視界に入れるだけの高さがある」

「……親、」

「もう一度問おうか。お前にとって、あのお嬢ちゃんは何だ」


 何だ、とは何だ。



 ――一度手放したものに基本的に未練はない。だが、それが戻ってきたとき、何とも形容しがたい感情が湧く



 二年前、手を離した。背を向けた。

 離れることが、互いにとっての最善であると信じて疑わなかった。

 巨大な建物とはいえ同じ建物内にいることは知っていたが、一度も会いに行かなかった。行くつもりがなかった。

 噛みそうになった。その事実は、鎖となっていた。

 それにも関わらず半年前、ハルカが飛び込んできた。レイジから見れば、戦う術などまるで持たないとしか見えない少女からすれば危険しかない場所へ。

 そして数ヶ月前、死んでもいいのだとかいうふざけた発言がされた。危険に紛れて死んでも、生きるならば近くで生きたいのだと言われた。近くがいいと。

 驚いた。そう言われることに、心の隙間を突かれたような気分に陥った。

 そうして、彼の傍に彼女は、戻ってきた。


 しかし一週間前、ハルカは姿を消し、数日前、長くは生きられないとの宣告を文字と共に同僚からも告げられた。

 一週間、その宣告をされたはずの当の少女には会っていない。


 予想もしていなかったとは、間抜けな話だ。

 危険な仕事。

 血を吐く異常状態。

 前者は死なせはしないと思った。そればかりはなんとかなる、どれだけ離れたところにいても駆けつけてやる。

 後者は――まさかという、これこそ間抜けなことしか言いようがない。甘く見ていた。

 それでも――組織に絶対的な信頼があるわけでもないが――あのまま班に所属し、危険な場所に出て無理をすることなくなれば悪化しない。少しくらいどうにかする手立ては、あるのではないかと。

 自分に何か出来るわけでもないのだから。

 生まれた苛立ちは、自分に対してのものだった。


 ようやく手元に戻ってきた。きっとこれがあるべき距離なのだと、少しばかりかつての心地よささえ思い出した。

 それを今、失いそうにあるのだと。

 このときになって思い知ったのだ。

 それが。




 ――耐え難いことであるのだと




 まるで自分勝手な、探り当ててしまったそれに、いつしか、レイジは言い返す言葉を失っていた。


「吸血鬼にすれば、同時に我々の保護下にも入れられる。組織に手出しはさせない。だがな、お前が何かしようが何もしなかろうがどちらも間違いではないだろう。しかしこれだけは言っておこうか息子よ。後悔は、するな」


 吸血鬼にすること、人間でなくすることが、考えられる唯一の方法であると言う。



 時間は、待ってはくれない。

 刻々と時を刻み続け、進み続け、――少女の時間を削っていってゆき、彼女は囲われはじめているのだから。


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