(5)



 バスから降りると、空は曇っていた。

 太陽はまだ出ている時間だけれど、その姿は見えない。


「何かさ、おかしくね?」


 バスから降りて、いくつかの通りを抜けてからしばらくして、友人が言った。

 私も周囲を見て、理由を理解する。


 人の流れが忙しない。縦横斜めに人が通る通る。

 でも、一つ気がついた点があった。誰もが行かない方向があり、誰もがそっちから流れてくる。


 そのとき、日常聞かない音がした。


「……今の、大きい音何。大砲?」

「大砲とか生で見たことねーけど、確かに……。でもさ、何で?」


 ひとまず周りの人々の行く方向に走りながら、友人たちが一気に不安そうになる。他の人々のように。

 恐怖は伝染する。


「とりあえず……逃げよう」


 私のわずかな経験から言うと、何でかって知るのはそれが見えたときだ。おまけに、見えたときにはもう遅い。

 どんどん多くなる人の波に乗って、私は二人の背を押し、後を走る。

 よくないものが、見えないくらい後ろにはある。確信した。


「逃げろー!!」

「早く進んでよ!」

「痛っ」


 混乱は大きくなっていく。

 道一杯に人が満ちて、思うように進めない。

 こういうとき、人間は不利だ。力が弱くて、押し退けられる。


「うわ」


 急に後ろから、一際大きな力がかかった。


「くそっ押し退けて行きやがった……!」

「獣人だ」


 叫び声と時々悲鳴。近くのざわめきの中に、悪態をつく声がいくつもした。

 どうやら、獣人が通って行った衝撃らしい。

 こういうのが何度か繰り返されて、力ずくで進めない人々の焦りと恐怖と苛立ちはますます積もっていく。

 何が混乱の原因かは未だ分からないが、この騒ぎが収まったら、種族間の溝が深まったりしないかな。

 倒れることは避けた私は、また体勢を戻して足を進め出す。


「はぐれた……」


 私って、人混みで友人とはぐれるの早いな。

 さっきまでは辛うじて見えていた友人たちの姿がない。元々、少しずつ間に人が入ったりしていたし、人の数に加えてこの混乱だ、仕方がない。

 あの二人ははぐれなかったらいいのだけれど。こういうときの一人の心細さって、すごいから。


 今日これから落ち着いて合流出来るとは思えないので、後で連絡をとることに決める。

 それより私もこの混乱から逃れることをまず考えなくては。出来ることはそれしかない。

 だが、直後、足をつけた地面が揺れたと感じたのは私だけか。


「きゃああああああ!?」

「出たぞおおおお!」


 後方で似たような悲鳴と叫び声が上がった。

 恐怖がより濃密になる。

 私も、尋常ではない叫び声に顔を強ばらせる。

 何が怖いかって、今までで言うと目の前に吸血鬼とかが見えてるっていうのも怖かったけど、今は見えないのが怖い。


 少しだけ後ろに目をやる。

 で、後悔する。

 見なかった方が良かったものなんて、山ほどある。けれども今ほどではない。


 遠く。

 まだ遠くにいた『それ』は、一瞬目を向けただけですぐ分かった。

 あれだ、と。

 人々が逃げているのはあれからだと。大砲を撃ったような大きな音は、あれに向けられたものだと。

 後ろの方に、建物三階建て分くらいの巨大な人型の何かがいた。それだけは認識できた。

 私の中の恐怖が増すのには、十分だった。


「早く、早く通して!」

「何か来る!?」

「どいてえええ!」


 まずい。まずい。混乱が倍以上になる。

 きっと私みたいに、後ろを見てしまった人がいるんだろう。酷くパニック状態の人がいる。一人や二人ではない。ほとんどの人がだ。

 だけど、おそらくこのままでは駄目だ。

 前に進めないなら横の通りに逃れようと、流れに逆らう人なんかがいっぱいいることも加わって、こんなときになって、もっと流れは悪くなる。

 横の通りに繋がる道なんて、ここより細くて混雑していて、入れっこないのに。

 それも重度のパニック状態で、判断が鈍っていて、思ったことに飛び付いてそれしか考えられないからだろう。


「……もうちょっと尾行しとけば良かったな」


 人との間隔なんてほぼゼロのまま、必死こいて目の前を無理に横切る人を避けて走る。

 私がぼやくのは現実逃避の一環だ。

 もしもあのとき……なんてこういうときには考えてしまうものだ。今どこかで同じように逃げている友人たちも思っている可能性が高い。あともう少し……なんて。


「まずい……!」


 地面の揺れが強くなっている。

 現実逃避を頭からすっ飛ばした私は自分の顔が固まっているのが分かった。

 現実逃避を止めたところで、頭の中は真っ白になるか、悪いことが過るかどちらかしかない。

 私の頭の中は、どちらかというと真っ白。

 目の前の人々の背中と、ちらりと見える横顔の蒼白さが視界を占拠し、それしか考えられない。


 ズシン

 重い音を感じた。

 振動が足の動きを妨げる。前の人が転ぶ。前の人だけではない。周りの何名かが足をもつれさせる。


「……ったあ」


 道連れとうとう来た。

 後ろからのし掛かってくる重みに耐えきれず、前へ倒れる。気がつけば、一部だけ転倒の連鎖が起こり、その一人として私も倒れていた。

 打った箇所をさすりながら身を起こすと、周りを人が駆け抜けていく。が、振動は一定のリズムで襲ってきて、回数を重ねる度に大きくなって、倒れる人が続出する。それでも必死に起き上がって、立ち上がって足を動かし出す。

 私も踏まれそうになりつつ、実際に何回か蹴られながらも立ち上がって……。


「ぎゃあああああ!!」

「たっ助け」


 声が耳に満ちる中、一際悲痛な叫び声を聞いた。

 他の人とぶつかりながらも、吸い込まれるようにしてそちらを見てしまう。


 暗い緑色をしたものがあった。

 あった、ではない。立っていた。

 巨大さは置いておくが、足があって腕もある、人型の何か。頭には二本の角。

 巨大な身体には、腰辺りに黒い布のようなものが巻き付いている。その他は肌が剥き出しで、筋骨隆々の体つき。太い長い腕の先、身体に比例して巨大な手には──人が捕まれていた。


 私が見上げた先で、鋭い歯が並ぶ大きな口に運ばれた彼らは……無情にもその中に消えた。

 巨大な生き物の目が、ぎらりと光った。


「人を喰った──」

「喰われる!?」


 目撃者は、私だけではなかった。

 私はすぐに目を前に戻した。けれど、すぐに思い出す。さっき見たばかりの光景を。その近さを。


 ふっ、と、曇りのときよりも暗い影が私の、私たちの周りに落ちた。

 地面を踏みしめる重すぎる音と一緒に、表現し難い音がした。違う、表現したくない、だ。それは、、何かを潰したようなものだったから。


「……っ」


 耳にひどい音を捉えながら、浮遊感と、痛みを感じた。背中から。

 そっと目を開けると、私は曇った空を目に映していた。


 これは……どういう……。


 影が落ちたそのとき、私は確かに察した。踏み潰される、と。

 けれども、無事だ。相変わらず周りは叫び声で満ちているけど、少し離れたところが一番大きいようだった。

 さっきまで、私はその渦中にいたはずなのに。


 ゆっくりと身を起こすと、道の端にいるようだと分かった。

 周りには同じように吹っ飛ばされたらしい人たちがいて、呻き声が聞こえる。

 ……影は落ちたものの、奇跡的にその範囲からは逃れられたらしい。身体は痛めど、生きている。

 危機を脱したと認識して、ため息を深くつきかけた。そのとき。


 痛みに叫ぶ声。泣き叫ぶ声。


 吐きかけた息を吸って、身体に落としていた目を上げる。

 声の根源を、騒ぎの中から探す。すーっと流していった目が止まった。

 一番酷い場所だった。

 大きな範囲の地面が、周りより少し沈んでいた。まるで、足跡のように。そう、それは、足跡だった。


 ……酷い光景があった。

 ぱっと見ただけで、その場は派手に赤に染まっていた。陥没した場の端では、血だらけの人がどうにか動いて、這い出そうとしていた。手を、手を、懸命に伸ばして。

 

 それ以上は見なかった。


 しかしながら一度見てしまった光景は、目にこびりついていた。

 今まで仕事先柄、死体というものは見てきた。けれども、あれだけ原形を留めないものがあっただろうか。あんなにたくさん。

 行われたことを知らなければ、中心を見たら何だか分からないだろう。

 巨大な生き物に踏み潰され、原型のなくなった人々の残骸。骨は砕け、粉々で、肉は弾け、千切れ、血と共に飛び散る。


 私もああなっていたかもしれない。

 私はまだ感じる地響きの元が行った方向を見る。まだあそこにいる。

 建物と同じ大きさをしたものは、ゆっくりと、しかし確実に進む。

 

 あれは、何なんだ。何だったんだ。

 私は、とりあえず、とりあえず、これからどうするべきだ。

 近くに散らばった荷物をぼんやり見る。

 ──そこで、目を見張った。

 目に入ったものは、私が持つようなものではない可愛らしいピンクの……今日、尾行先でもらったおまけ。


 友人……! 


 目を前方に向ける。あっちにまだ友人がいるかもしれない。

 かもしれないじゃない。最初は私の前にいたのだから、いる。

 そして、その方向には怪物が今も進んでいる。

 思い至った私は、手をついて身体を起こしかける。しかし、一つの考えが過ってきた。


 だからって私に何が出来る。


 膝をついたまま、同じく地面についた手を見つめる。今は小さな銃さえない、何も持たないその手を。

 そういえば最初に聞こえた大砲のような音は? そもそもあの怪物を止めようとするものは? ないのか? 

 いいや。対処していないはずがない。

 でもその音は消えて、怪物は進み続けている。理由は一つ、止められなかった。


 じゃあなおさら、私に何が出来る。ここで立ち上がって、何をする。

 追いかける? 追い付くか。

 追い付いたとしてどうする。

 止める。どうやって。踏み潰されるのが落ちじゃないのか。

 今度こそ。

 本当に。

 瞼の裏にこびりついているあれのように。


 目に浮かぶ、赤まみれのもの。耳に浮かぶ、悲痛な声。

 悲惨な光景が作られていくばかりの、その先にいるかもしれない友人。「バイト」ばっかりで付き合い悪い私を、いつまでも誘ってくれる彼ら。今日だって。


 ──今日は最近のような命の危機ではない。だって私は気を失うことなく、ぴんぴんして生きているのだ。危機を脱して、生きている。

 なのに、大切なものは今にも奪われようとしているかもしれなくて、私はここで何もできない。


「何も、」


 本当に? 

 本当に?




 


「……待って」


 止まって。こっちを向いて。

 そうすれば、どうにか出来るかもしれないんだ。そんな気がした。私の中の無意識が、そう判断したのだ。

 だから、


「待ってよ!!」


 喉が痛くなるくらいの声の限りの叫びは、驚くほど、よく通り、響いた。

 『力』を含み響いた声は、怪物に届けられ、怪物の歩みが、止まった。地響きが失せたばかりではなく、私の世界からは音が消えた。

 わけが分からない静寂の中、

 ――「ハルカ、心を強く持たねばならないよ」

 何でか、おじいちゃんの死ぬ前日の言葉が甦った。頭が痛む。頭が痛む。頭が





 いつも私の中にあった子守唄は、完全に聞こえなくなっていた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る